2026年8月2日日曜日

第一火曜会 第3回

 2026年9月1日 11人               第4回

「淀江泛月」    天保13年 1842年 29歳









篠崎 小竹(しのざき しょうちく、天明元年4月14日〈1781年5月7日〉 - 嘉永4年5月8日〈1851年6月7日〉)は、江戸時代後期の日本の儒学者・書家。

本姓は加藤氏。幼名は金吾、名は弼(たすく)、字は承弼、小竹は号で別号に畏堂・南豊・聶江・退庵・些翁などがある。通称は長左衛門。
生涯
天明元年(1781年) 、豊後国の医師・加藤周貞の次男として大坂に生まれる。
9歳で篠崎三島の私塾梅花社に入門し、古文辞学を受ける。三島に後継ぎがなく13歳の時に望まれて養子となる。しかし、江戸幕府による寛政の改革が進む中、頼山陽に感化されると養家を抜け出し、江戸に遊学。尾藤二洲に学び古賀精里の門をくぐって朱子学者に転向する。その後、養父・三島に詫びて和解がなり、梅花社を継いでいる。三島にも勝って塾は栄え、多くの門弟を育てた。
詩・書に優れ、書籍を刊行しようとする者のほとんどが小竹に序・題・跋などの文章を求めるほど人気があった。篆刻も得意とし稲毛屋山の『江霞印影』にその印が掲載されている。温厚で社交好きな性格だったこともあり、関西学芸界の名士となった。頼山陽とは、養父・三島が菅茶山と悶着のあった春水の長子・山陽を預かることとなり、小竹はすぐさま山陽の才能を見抜き、茶山との間柄を取り持ち常に山陽を擁護した。その友情は山陽の死後も続き、遺児の面倒までみている。また、大塩平八郎とも養父・三島に初読を習った弟子である関係で交流があったが、平八郎は陽明学者で朱子学者とは犬猿の仲であり、兄弟子である小竹とも学説上の対立があった。
嘉永4年(1851年)、死去。享年71。大坂天満天徳寺に葬られた。

淀江泛月


天保壬寅秋九月某夜、乗月下淀江。柳湾葭汀、恍在   葭あし、カ    天保13年1842年

画中。比至枚方夜参半。舟客皆睡、唯聞艪声*軋。有   *車+伊 

         夜参半而不寐兮、悵盤桓以反側。

詩、曰、百里秋江、不起濤、芦花煙水、緩移篙、薩言越語 濤=涛なみ、トウ 篙さお、コウ

人都睡、独占篷間山月高、既而余亦睡矣。忽有一偉  篷とま、ホウ ①とま。竹や茅(かや)などで編んだ、舟や車のおおい。 ②ふね。とま舟。小舟。

丈夫。謂余曰、禅侶一鉢万里。腹、雲煙。是可与語者。

入摂、宜訪我梅花社。余問、其名、曰、篠崎小竹。暁鴉、掠

蓬、遽然驚覚、舟已達浪華。乃叩小竹翁門、談舟中事。

 翁咲曰、吾与師夢紘宇縁者欤。余交翁、自是始。翁


頭注

秋琴曰清景高調    :綺麗な景色の調子は良い  


秋月古香曰夢結文

字縁妙        :夢のテキストは素晴らしい



浦上秋琴

1785天明5年~1871明治4

秋琴は玉堂の次男として備前岡山城下に生まれた。本姓は紀、名は遜、字は仲謙、通称は紀二郎、号は秋琴。10歳で父の脱藩に伴い岡山を出奔したが、父が会津藩の招聘に応じて土津神社神楽を再興した功により11歳で同藩士となる。兄同様、早くから詩画や七絃琴に親しんだが、とりわけ音楽の才に恵まれた。23歳で同藩雅楽方頭取となり、藩内では詩画をたしなむものの音楽面での活動が中心となる。明治21869)年、会津戦争終戦に際し、85歳の彼は備前藩の兵士とともに岡山へ帰って宗尚らと住み、山水や竹を好んで描くも87歳で没した。

秋月古香・秋月 種樹(あきづき たねたつ)は、幕末・明治期の政治家。日向国高鍋藩の世嗣。貴族院議員、参与、明治天皇侍読。詩文に優れ、書家としても知られた。

経歴編集


幕末時代の秋月種樹。

9代高鍋藩主・秋月種任の三男として生まれる[1]。安井息軒、塩谷宕陰らに師事する。若年より英明で知られ、秋月楽山は小笠原明山(長行)、本多静山(正訥)と並んで学問界の三公子[2]”と称された。文久2年(1862年)1114日、部屋住みの身でありながら幕府学問所奉行に登用される。文久3年(1863年)626日、兄種殷の養子となる。同年928日、若年寄格との兼任を命じられた。秋月家は27000石の外様大名であり、異例の抜擢であった。元治元年(1864年)528日、学問所奉行を解任されて、将軍徳川家茂の侍読に任じられた。

慶応3年(1867年)621日、若年寄に任ぜられるものの、幕府は長州征伐に失敗し既にその威信は失われており、種樹は病と称して拝命にも出仕にも応じなかった[3]。これに幕府側は医師を遣わすとまで言いだし、高鍋藩士の水筑小一郎(秋月種節)・黒木鷲郎兄弟は薩摩藩と謀り、品川湊に停泊中であった薩摩の翔凰丸に種樹を乗せ脱出させた[3]。翔凰丸は幕府の戦艦の砲撃により大破しながらもどうにか兵庫に辿り着いたのであるが、江戸では翔凰丸が撃沈されたとの風聞が立ち、種樹も運命を共にしたのではないかとされた[3]。それより然る後に大政奉還が成り、種樹は改めて江戸城へ出仕し同年1225日に若年寄の辞意が認められた[3]

慶応4年(1868年)210日、上洛し、新政府支持の姿勢を示した。同年2月、新政府の参与に就任した。内国事務局に配属された。その後、公議所議長・左院少議官などを歴任した。明治5年(1872年)、海外遊学。明治7年(1874年)513日、種殷の死去により家督を相続した。明治8年(1875年)72日から明治13年(1880年)819日まで元老院議官を務めた[4]。元老院議官在任中の明治10年(1877年)に西南戦争が勃発すると、三好退蔵とともに旧高鍋藩士に西郷隆盛率いる私学校軍へくみしないように尽力するも、坂田諸潔や石井習吉、弟の秋月種事らが高鍋隊または福島隊として私学校側についてしまい、弟の種事は鹿児島の城山にて戦死する。

明治14年(1881年)42日、隠居し、息子の種繁に家督を譲った。明治23年(1890年)612日、元老院議官に再任され、同年1020日、元老院が廃止され非職となり[4]錦鶏間祗候を仰せ付けられた[5]。明治27年(1894年)123日、貴族院勅選議員になった[6]

明治37年(1904年)10月、病のため没する。享年71。従二位勲二等に叙せられる。




夜下淀江 竹雲生 (竹東)

山本 竹雲 (やまもと ちくうん、男性、文政2年(1819年) – 明治21年(1888年)4月27日)は、明治期の日本の篆刻家・茶人である。
名は戈または勇、字は中立、竹雲は号で堂号に深竹軒、夢硯堂などがある。備前児島郡味野地区(現・倉敷市児島)の人。
略伝編集
備前児島郡の裕福な家に生まれ、煎茶が盛んだった高松に遊ぶ。その後に京都に出て御池柳馬場に住んだ。篠崎小竹の門下で儒学を学ぶ。花卉画をよくし、煎茶に通じた。篆刻は高松にいるとき細川林谷に学び、各地で売印して生計を立てている。文房趣味に詳しく煎茶器の鑑定もした。
江馬天江、谷如意、山中静逸、浅井柳塘、熊谷鳩居堂、山中箺皇堂らと交友した。また三条梨堂、松方海東、杉聴雨、長三洲など当時の名流の印章を多く刻している。
福井には度々遊歴し吉川帰峰・片山桃州・五十嵐香圃・岡崎鷺州・久津見晴嵐などの門弟がいる。足羽山にはその流派「文房流」の記念碑がある。
東山清水稚児ヶ池で入水。池の畔には羽織がたたまれ丁寧に下駄が揃えてあり、一煎点てたらしく煎茶道具が並べられていた。京都南禅寺天授庵に墓所がある。










門生臼井亀太、有神童之称。翁規曰、汝早慧、読書五    慧エ、ケイ

行並下。而未及躬行実践。  躬行きゅうこう「躬()に行なう」の意   口で言う通りに自分から実行すること。実践。


吾聞、芸有奇童、曰周策。天       

禀、善碁。齢僅十歲、優入高品。京老手皆逡巡。奕固   

小技、与文学不可同日而語。唯以其造詣、則子遠不

逮周策矣。俚諺云、十歳神童二十而才子、二十五

乃庸人耳。早慧不可恃如此。吾所望於子有在焉。又     庸、平凡たること 慧エ、ケイ    、

聞、阿州有孝童。曰一太。丁酉歳、其父、与村民嘯聚、 1837天保8年 嘯聚(ショウシュ)多人数をさそい出して寄せ集めること。また、呼び合って集まること。嘯集。

掠奪富豪、賑施貧窮。捕吏勾束致于獄、法処斬。一太日

至獄側号泣請代父死。獄吏憐之、与銭物去。一太為


父祈生象頭山。距居数里、跣詣一百日。藩侯感其至

孝、特宥死処流。一太、現待父于中。可称昭代麟児

矣。子宜倣之。亀太感愧、遂作一太伝。余、傍聴乃知翁

之学、根于道義也。凡侯伯過摂、枉礼其盧、士子執贄      贄にえ、シ

其門、目為儒林巨擘。余過従数月、受益不少。及発浪       擘さく、ハク、ヘキ

華、翁送至女婿後藤松陰家。*明永覚禅師真蹟日、     *=貝+示:しめす、シ、ジ

吾家重貴、不敢*人、唯師与永覚同流。故供一覧。余、

諦観移刻。翁、偵余意、急呼筆臨摸一本、以贈。其詩曰、

何年浮出碧峰頭、吐月吞雲事事幽、受得霊山蔵六


私はその碑文を注意深く調べた。老人は私の意図を察し、慌てて筆を取り出し、それを書き写して私に差し出した。詩はこうだ。「いつになったら、青き峰から現れ、月を吐き出し、雲を飲み込み、静寂と隔絶に満ちた万物を包み込み、聖なる山の六つの秘儀を受け継ぎ、世俗の栄枯盛衰を東へと流すのだろうか。




1862文久2年   本因坊秀策病没す 享年三十四才

秀策は桑原、幼名を虎次郎という、栄 寛 の称あり 三浦村外浦に生る 父を和三という 才智群を抜き 五歳の時囲碁の法を母より学ぶ 六才にして近郷に敵なし 七才にして竹原宝泉寺 真に教えを受く 四句にして其の技頗る上達す 人其の巧に驚き神童と称す 九才三原城主浅野氏に謁す 同藩士寺西右膳に従い江戸に出で官賜碁所本因坊丈和の弟子となる 十一才初段の免許を得 翌年帰国浅野家より五人扶持を賜る 

天保十二年八月十三才江戸に再遊し技大に進む 翌年十四才にして四段の免許を得 名を秀策と改む 帰国して増給の恩命あり 十六才江戸に出つ 丈和・丈策の両師共に没し秀和十四世本因坊たり秀策をして跡目たてしめんんと欲す 然れども浅野家に対する義ありて之を辞す 依て浅野家へ交渉の上遂に跡目とす 而後技術大に進み天下に遍しその四方に周遊するや従い学ぶもの多し 毎歳ご殿試合に未だかつてぐ

一輪をとらず 人称して古今無雙となせり 天保十六年極月十五日鑑の間にて将軍より謁を賜わり 翌年一時服を拝領せり 又華頂宮より木剣、長州藩主より茶器を賜り その他貴人より拝受せるもの少からず

文久二年八月十日三十四才にして病没し  江戸丸山本妙寺に葬らる

 石谷広策相議して碑を糸崎に建つ (0303「中庄村史」)


後藤松陰 ごとう-しょういん1797-1864 江戸時代後期の儒者。

寛政9年1月8日生まれ。生地の美濃(みの)(岐阜県)大垣で菱田毅斎(ひしだ-きさい),ついで頼山陽(らい-さんよう)にまなぶ。文政3年大坂で塾をひらく。詩文をよくした。妻は篠崎小竹の娘,町(麻池)。元治(げんじ)元年10月19日死去。68歳。名は機。字(あざな)は世張。通称は春蔵,俊蔵。別号に春草,兼山。著作に「春草詩抄」「松陰詩稿」など。


頭注

鹿門曰先輩度概皆

如斯不覚恢然嗟乎

令則亡矣     

:古代の人々は皆この原則に従っていたが、その深い意味を理解していなかった。残念ながら、彼らの教えは失われてしまった。


古香曰余訓高鍋学

校生徒年少俊才者

必年年退下少慧不

可恃実名言也

:于承高の学校の生徒たち、つまり若くて才能のある者たちは、年々衰退していくのは避けられない。彼らの知恵は当てにならない。これは真実だ。



又曰余聞小竹以文

章鳴旁善筆札其為

人好射利今読此記

知其言不是也

:蕭珠は文才と書道の腕前で有名だが、弓道と金儲けにも熱心だったと聞いていた。しかし、この記録を読んで、彼の言葉は真実ではないことが分かった。


小原鉄心曰永覚明

末碩儒而有所感於

時事遂遁入仏者小

可趙璧視此幅亦宜

:明代末期の著名な学者である永玦は、当時の情勢に心を動かされ、仏教に帰依した。趙必はこの絵画をきっと高く評価したであろう。


岡 鹿門(おか ろくもん、天保4年11月2日1833年12月12日)- 大正3年(1914年2月28日)は、幕末期の仙台藩士、明治時代の漢学者は千仭(せんじん)、は振衣、初名は敬助、鹿門は。幕末から明治を代表する漢学者の一人で、多くの門人を数える。

嵩古香(かさみこかう)漢詩人 1837~1919

天保8年11月3日武蔵国生れ、大正8年3月10日歿。諱俊海、字啓要、通称啓海。別号五軒、古香情史、古香情士、古香海、古香迂人、古香道人、大懶、天香、天香山史、抹谷齋、春桂、杏園、杏園精人、翠字等。初め松林了英に漢学、仏教学を学び、安政3年江戸に出て大沼枕山に師事した。のち春桂塾を聞き子弟を教授。


小原 鉄心(おはら てっしん)は、江戸時代後期(幕末)の美濃大垣藩城代である。鉄心は号で、忠寛(ただひろ)。







訣世間休咎付東流。余、与翁夢訂文字縁、而今有此

贈。豈偶然哉。

 錦山曰、以詩起、以詩結。文心極精。中幅、併敘孝子

 才童性行処、自有斤量。此等実落語、最難著筆。楊

 雄、吐白鳳、李白、筆、生花、文境更進。夢中、訂文字縁、

 無乃此類

私と老人は夢の中で誓いを立てた。そして今、私はこの贈り物を受け取った。これは本当に偶然なのだろうか?」


錦山曰、

詩で始まり、詩で終わる。その文才は極めて洗練されている。中盤、孝行息子の幼少期の才能と行いを描写する部分は、かなりの技巧を示している。このような写実的な描写は、書くのが最も難しい。楊雄は「白鳳」と李白の筆致で花を咲かせ、文学の領域をさらに発展させた。夢の中で私たちは書面で約束を交わしたが、これはそれと似ていないだろうか?


助字については


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