ふるさとの史跡をたずねて(461)
九番札所法輪寺(尾道市因島中庄町鹿穴)
次は西に進んで、県道を越えるとやはりため池がある。「鹿穴池」である。因島に鹿がいたのではない「ししあな」と読むからイノシシのことであろう。
その鹿穴池の南西であるから前回と池に対して反対の位置になる。ただ、池から少し離れているが、道路から西の方を見ればお堂があるのがわかる。
さて、丸池から県道を越えるルートは3本ある。どれを通っても鹿穴池のところで接近するので心配はいらない。
南の山側へ少し歩いたところにもお堂がある。番外札所ということで、これが有名な、あるいはかつて有名だった鹿穴の掘り出し大師さんである。島四国設立より少し前に畑から大師像が掘り出され、お堂を作り大師講として信仰されていた。そこに島四国の話が起こり、そのお堂を島四国九番とした。その後近くの現在地に拡張移転された。祭壇の中央が掘り出し大師さんである。その後もお籠りしたりする人も増えたので掘り出されたところに奥の院が設けられた。それが現在の番外札所である。
ふるさとの史跡をたずねて(462)
文・写真 柏原林造
十番札所切幡寺(尾道市因島中庄町寺迫長福寺内)
次の十番切幡寺は長福寺の境内にあるから、道案内は不要だろう。
かつての歩き遍路は山越えであった。
さてその峠道を目指すには九番法輪寺からどう行けば良いか。
歩き遍路道を復元しようと思ったら、
さて、この長福寺から峠の間で、
長福寺では、
ふるさとの史跡をたずねて(463)
十一番札所藤井寺(尾道市因島中庄町寺迫金蓮寺内)
さらに寺院内札所が続く。次は金蓮寺内である。長福寺、金蓮寺、成願寺と曹洞宗のお寺が続くのである。中庄町に住んでいる人にとっては何ともないのであろうが、他所の人から見れば同じ宗派のお寺が近くに3つもあることに驚く。それは我々が長い寺院の歴史を考えずに、お寺と墓地と宗教を一体のものと考える最近のことしか思考が及ばないからであろう。
お寺が地域の公共建造物でなく、個人のものであったことを考えればわかりやすい。単純な割り算をすれば、金蓮寺が因島村上家のもの、成願寺が宮地氏のものとして創建された。そして現代のお寺と墓地のセットという制度がそんなに古くないということは墓地に行ってみればわかる。多くの墓が江戸時代の中期以降のものである。現代のようなやり方がもっと以前から始まっていたら町中が墓地になっていただろう。
要するに墓地よりもお寺の歴史が我々の想像するよりも古いのである。
さて金蓮寺の大旦那であった村上本家は戦国時代の終焉とともに因島を去った。結果として金蓮寺は廃寺となった。その後再興されたものが現在の金蓮寺である。要するに古さと新しさの両方を備えていると思えばよい。
長い歴史から見れば十一番札所は新しい。そして少し離れたところに古さを伝える村上水軍の墓がある。
ふるさとの史跡をたずねて(464)
村上水軍の墓地(尾道市因島中庄町寺迫金蓮寺内)
せっかくなので、村上水軍の墓にお参りしておこう。「因島村上氏一族及びその家臣を含めた墓石群」と説明板にはある。
ここに来ていつも思うのは、あの有名な句、夏草やつわものどもが夢の跡、というのがぴったりなのだ。つわものと言うのは兵士だから、多くの人が戦で亡くなり、面倒を見る人がいなくなって夏草に覆われているよ、という意味ではないのかもしれないが。
誤解のないように書いておくが、因島村上氏は関ヶ原の戦いの後、毛利氏に従って山口県に行っており、その後子孫は毛利氏藩士として明治維新を迎え、現在も存続している。
このことは重要なことである。すなわち、因島最後の時代、因島村上水軍は毛利氏の家臣であったと言うことである。
墓地の所有ということは、一般の土地と違ってわかりにくい。近頃よく耳にする「墓じまい」ということは、借りていた墓地を返すということらしい。ということは各墓地はそれぞれの借主が世話をしているということだろう。
それでは、この広大な村上水軍の墓のあるところの借主は誰なのだろうか。
そんなことよりも誰の墓があるのか? どれが誰の墓なのか?ということの方がこの稿としては重要なことはわかるが、因島村上家7代吉亮の墓があるということだけで、その他のことはわからない。
維持するためには拝観料を徴収すれば良いのだが、これでは拝観料を取るのは難しい。推定でも良いから、説明が欲しい。
ふるさとの史跡をたずねて(465)
岡田大雲和尚顕彰碑(尾道市因島中庄町寺迫金蓮寺内)
かつて金蓮寺の入り口、寺名を彫った石柱の近く、
顕彰碑
岡田大雲正寛大和尚傳
金蓮寺重中興の大雲正寛大和尚は、尾道市の天寧寺第二十六世岡田大豊師・スエ夫妻の長男として、大正元年九月大豊師特派布教先のハワイオアフ島にて出生。
二歳のとき帰国すると間もなく母堂を失い人生の辛酸をなめる。幼にして出家得度、利発な性行はつとに人心をして畏敬せしむること多し。 一切衆生を度さんと発願して以後は菩提の心に従い、世の名利に惑うことなく、只管一介の墨染の生涯を貫きとおす。
昭和十一年十月因島市の宝鏡山金蓮寺に招聘されるや、廃屋寸前の堂塔伽藍を旧寺に復興し、あまつさえ霊廟に埋もれし村上水軍の偉業を世に広宣する。
今日世間に船の島、水軍の島と称される所以はこの禅僧の私利私欲を超越して因島観光事業にひたすら情熱をかたむけた功業の賜てある。
国島市民は海ありて島、歴史ありて家名、と古里の栄光を顧みるときつねに大雲正寛和尚に誠の心を捧げるであろう。
昭和五十六年九月因島水軍城の英姿を夢みながら逝去された大和尚の遺徳を偲びここに謹んで功績を顕彰する。
昭和五十九年八月二十三日
能島村上十七代 村上 公ㄧ 撰
光明寺観傅 書
ふるさとの史跡をたずねて(466)
十二番札所焼山寺(尾道市因島中庄町寺迫成願寺内)
次は成願寺であるから道案内は不要であろう。ただし村上水軍の墓地よりやや南をまっすぐ登り南へ山を越えると、少し下ったところに番外札所12番の奥の院と呼ばれているお堂があって、そのまま墓地に向かって降りると12番札所に着くから、かつての歩き遍路道はこの山越えだったのではないかと思われる。
物騒な名前のせいか火を吹く毒蛇伝説などを書いたものもあるが、宮島の弥山のような終日火を絶やさない山岳信仰の道場で、夜遠くから見ると山が燃えているように見えたということだろう。海上から見えれば燈台のような役割をしたことであろう。
山越えで墓地から降りてくれば最初の建物、山門から入れば本堂の左に無縁墓と宮地氏の先祖碑があり、さらに左の少し高くなったところにお堂がある。
ふるさとの史跡をたずねて(467)
十三番札所大日寺(尾道市因島中庄町寺黒松区若八幡神社境内)
成願寺を出ると右に進む。国道317号線と平行する川沿いの道を西に向かう。JAの前に橋があり、近くに遍路道標があるのでそれに従い右折するのがわかりやすい。あるいは右にカーブする道を進んでもよい。右手奥の小高い神社を目指す。
地図には若八幡神社と書いてあるが地元では祇園さんと呼ばれている。また磐猛(いわたけ)神社とも呼ばれる。厳密に言えば、それぞれの御神体を祀っているところがそれぞれの神社であろうが、若八幡神社境内と書いておく。
若八幡神社というのは若宮八幡神社のことで、対岸にある八幡神社のご利益に預かりたいということで、出張所を出してもらったものだろう。(かつてはもっと奥まで中庄湾だった。)
祇園祭といえば京都の八阪神社の夏祭りが有名である。農村の虫追いの行事が祭典化するとともに、疫病退散にご利益のある祇園社(八阪神社)が勧請された。直接京都からではなく鞆の沼名前神社(明治以前の鞆祇園宮)から勧請された。これは中庄村に限らず近辺の農村でもよくあることだった。
磐猛神社は祇園社と同じようなご利益の神社であるが、祇園社の評判が高くなったので、こちらにも同居してもらっているという感じである。
そのような神域の左奥に大日寺はある。祭壇の正面2体は中庄村四国の36番と57番である。
ふるさとの史跡をたずねて(468)
十四番札所常楽寺(尾道市因島中庄町天神区天神社境内)
恐い童謡の一つ「通りゃんせ」を小さい頃から聴き慣れている子供は天神様と言えば恐いものだと思っている。確かに「菅公さん」の祟りは日本史の中ではベスト3の中には入るのではなかろうか。しかし、受験生ともなるとそんなことは忘れて、学問の神様であるから合格祈願所として近くにあるのはありがたい。
中庄町の天神様は南斜面の日当たりの良い小高い丘の上にあるので「天神様への細道」も恐くはない。恐いのはむしろ山の反対側にある権現様への細道ではないかと思う。
天神社の境内に上がったら、ゆっくりと東の方から視野を南へ回してみよう。東へ延びる低地が中庄湾の跡である。その両岸から因島の歴史は始まった。いや、最初は陽当たりのよい北岸であったかもしれない。しかし塩の荘園であったので、製塩の最終段階で必要とされる膨大な火力の供給源として、山谷は荒れ入江は次第に狭まっていったことであろう。
さて、その天神社の東の端にあるのが十四番札所常楽寺である。
文・写真 柏原林造