2026年6月6日土曜日

重井小学校史 白滝市活動

昭和29年(1954年) 5月 白滝市子ども会発足 


昭和28年に因島市制発足。御調郡重井村は因島市重井町となった。市とはどんなものかを児童に理解させるために児童会を白滝市と名付けた児童会活動で、当時の登里豊校長の発案によるものだった。資料は『子供の町 白滝市の歩み (白滝市10周年記念)』(因島市立重井小学校、1965年2月)による。


創設当時の学校経営  登里豊 校長

 昭和29年4月1日、御調郡重井村立重井小学校は、因島市立重井小学校に校名が変更されました。 

 このことは、子供達にとつて大きな意味をもつことはいうまでもありません。 

 目に見える校舎も、校庭の樹木も、友達も町のようすも、何等の変化も受けないですむもので しょうか。 

 目に見えない力は動きつつあります。国替えともいうべき政治の在り方が変化したことによって、動き出した生活に、敏感であるべき子どもが、とり残されるはずはなく、亦とりのこさせては、いけない大事なことであります。 

 民主政治は、住民の、住民による、住民のための政治でありますから、昔のように、為政者の交替によつて、急転する政治ではありませんが、政治機構、経済構造に大きな変革をもたらすことは当然であります。 

 町づくり、村づくりの根本である教育がこの社会変革を見逃してはなりません。動いている生活の波をとらえ、しっかりした課題を、築いていくことが、重井教育の課題であったのです。 

 柏原伝六、村上長右衛門の先人を出し、新開、だんだん畑へと生活を開拓したことなど伝統ある重井人のよさを、しつかり身につけた自主的な子どもと動きつつある社会に適切な順応しつつ、 力強く社会を建設していく力をもつた社会性、豊かな子どもをどのようにして教育していくかが、 当時の私の念頭にあつたことであり、全職員の共通した目標でありました。 

 一つの世界の開托は、次の世界の発見を求めてやまないものであります。人間は永遠に新しい世界と生活を、求めてとどまるところを知りません。 

 教育の道も亦 、天国に通じる階段のようなもので、一段一段とふみしめながら、永遠に続いているのであります。一段一段が永遠に続いているのでありますから、当然この一段、この一瞬の生活を見のがさない努力が必要になってきます。  

 ふみしめた現実生活の中にころがっている小さな抵抗を、何とか除去しようと意識し、努力するところに、子どもは子どもなりに、社会の一員として自分の位置づけを自覚し、子どもらしい行動を表現し、子ども自身のものとして、何かを学びとろうと構えるのだと思います。この構えがあつて、はじめて教育活動は真のものとなると信じます。 

 己れの足で立ち、課題に立ち向う素質としての学力は、全教科の学習の中で培われ、生活指導の場で身について参ります。そこに教育構造があり、一致点に白滝市教育の発生を見ました。 

 その構造は、又学校教育としての、歴史性と、伝統性の上に立ちます。重井小学校は、終戦後歴代の校長を中心に実験学校や研究校としての成果を挙げた学校であります。 

 歴史のある学校としての誇りをもち、自分たちの学校として、限りなく愛する活動の中に、新しい学校を生み、他の多くの学校を尊重しつつ、そのよさを学んで、より立派な自校にしていく力が表われると考えた私たちは学校生活の一挙手一動作を、自分のものとする教育のしくみにする方法として、白湾市教育に着手しました。                   

 どこまでも、これは方法手段でありますから、年が変わり、子どもが変わるにつれて工夫改善される性格をもつていることを念願しつ、当時の同志は、互いに励ましつつ、精いつぱいの努 力をしたのです。(p.4)




巻末のあとがきを載せる。著者は不明。 

後記

 子どもの町として白滝市が誕生した頃は、町民というか市民というか在籍の児童数が800を超えており、学級数が18、職員の数も20人に余っていた。あれから十年、昭和四十年度には、12学級400の児童数になってしまう。町は淋しくなるだろうか。栄枯は世の常とはいえ、十年にして半減はきびしい。もつともこれは大人の世界でのことで、子どもの町には、数による消沈は考えられない。いつそう意気さかんである。 (中略)

 十年たてば、苔もだいぶたまる。伝統のはくはつくかも知れないが、みずみずしさは失 われてくる。何よりもおそろしいことは、惰性に流されることである。去年のまま、来年 の通りにやつておれば間違いなしと、安易な浅瀬のみを捨おうとする。生気の見られぬ教育ほどうら淋しいものはない。白滝市は十年の歴史を重ねたのだが子どもたちは年々に新 しいのである。私たちは自重しなければならない。 

 白滝市十年の歩みをふりかえつて、生かすものを生かし、新しいものを生みだす勇気を もっことが必要であろう。生かすものの第一、それは白滝市創設の精神、つまり、創造へ の勇気、ということである。 1965.2  (p.114)



白滝市年譜(p.12)

昭和29年度 

 5月 白滝市創設、 

 6月 広島大学三原分校教授池田勝人先生を迎え、生活指導校内研究会を開く 

昭和30年度 

 5月 白流市制記念祭 

 6月 特別教育活動研究会 

 6月 安松因島市長白滝市議会見学のため来校 

 11月 中国新聞社より白滝市探訪のため来校 

 11月 促進学校第一回研究会 

 11月 白滝市子供貯蓄組合大蔵大臣より全国表彰を受く 

 1月 優良子供会全国表彰受賞 

 1月 子供貯蓄組合因島市長より表彰を受く 

 1月 促進学校第二回研究会 

昭和31年度 

 5月 白瀧市制記念祭

 1月 甲立小学校より学校参観のため、職員児童来校 

 1月 白滝市子供会毎日新聞社より表彰を受く 

昭和32年度 

 5月 白滝市制記念祭 

 9月 白滝市子供会活動を朝日放送が全国向け放送紹介 

 11月 倉沢視学官視察のため来校 

昭和33年度 

 10月 白滝市郵便局大蔵大臣より優良子供銀行として全国表彰を受く  

 11月 白滝市郵便局因島市長より優良子供銀行として表彰を受く 

 12月 豊田郡大長農協郵便局活動見学のため来校

 2月 山陽テレビ取材のため来校 

昭和34年度 

 4月 佐伯郡大古小学校PTA子供会見学のため来校 

 12月 大浜小学校児童会参観のため来校 

 1月 学習研究社より白滝市子供会活動取材のため来校 

昭和35年度 

 4月 校歌指導のため作曲者来校 

 6月 白滝市子供会活動取材のため、中国新聞社より来校

 11月 白滝市文化祭 

 2月 特別教育活萄研究発表会 

昭和36年度 

 5月 白滝市制記念祭 

 11月 白滝市文化祭 

 11月 学習研究社より取材のため来校 

昭和37年度 

 5月 白滝市制記念祭 

 5月「家の光」より白滝市子供会活動取材のため来校 

 5月 高田郡向原小学校より職員児童来校交歓会(児童各家庭に宿泊) 

昭和38年度 

 5月 土生小学校児童会役員交歓会のため来校

 9月 NHKテレビ局より取材のため来校 

 9月 関西テレビ局より取材のため来校 

 1月 NHKより取材のため来校

 1月 ラジオ中国より取材のため来校 

 3月 学習研究社より教育賞を受ける 

昭和39年度 

 9月 広島テレビより取材のため来校 

 11月 白滝市郵便局優良子供銀行として県知事賞を受ける

白滝市創年譜(p.12)


昭和30年度 

 5月 白流市制記念祭 


 6月 安松因島市長白滝市議会見学のため来校 

 11月 中国新聞社より白滝市探訪のため来校 


 11月 白滝市子供貯蓄組合大蔵大臣より全国表彰 

 1月 優良子供会全国表彰受賞 

 1月 子供貯蓄組合因島市長より表彰 

 昭和31年度 

   5月 白瀧市制記念祭

 1月 白滝市子供会毎日新聞社より表彰 

昭和32年度 

 5月 白滝市制記念祭 

 9月 白滝市子供会活動を朝日放送が全国向け放送紹介 

昭和33年度 

 10月 白滝市郵便局大蔵大臣より優良子供銀行として全国表彰

     昭和31年1月

 11月 白滝市郵便局因島市長より優良子供銀行として表彰を受く 

 12月 豊田郡大長農協郵便局活動見学のため来校

 2月 山陽テレビ取材のため来校 

昭和34年度 

 4月 佐伯郡大古小学校PTA子供会見学のため来校 

 12月 大浜小学校児童会参観のため来校 

 1月 学習研究社より白滝市子供会活動取材のため来校 

昭和35年度 

 4月 校歌指導のため作曲者来校 

 6月 白滝市子供会活動取材のため、中国新聞社より来校

 11月 白滝市文化祭 

 2月 特別教育活萄研究発表会 

昭和36年度 

 5月 白滝市制記念祭 

 11月 白滝市文化祭 

 11月 学習研究社より取材のため来校 

昭和37年度 

 5月 白滝市制記念祭 

 5月「家の光」より白滝市子供会活動取材のため来校 

 5月 高田郡向原小学校より職員児童来校交歓会(児童各家庭に宿泊) 

昭和38年度 

 5月 土生小学校児童会役員交歓会のため来校

 9月 NHKテレビ局より取材のため来校 

 9月 関西テレビ局より取材のため来校 

 1月 NHKより取材のため来校

 1月 ラジオ中国より取材のため来校 

 3月 学習研究社より教育賞を受ける 

昭和39年度 

 9月 広島テレビより取材のため来校 

 11月 白滝市郵便局優良子供銀行として県知事賞を受ける 


『子供の町 白滝市の歩み (白滝市10周年記念)』(因島市立重井小学校、1965年2月)による。

学校・児童の活動に合わせて年度ごとに示してある。



                        昭和31年1月




機構図




記録





昭和40年(1965年)2月

   白滝市制10周年記念「特別教育活動研究協議会」を開催す。

            2月24日、白滝市子ども会十周年記念式典行う。因島市長麓新助氏来賓として来校。




昭和42年4月NHK〝白滝市活動〟を録画する。

             5月“明日は君たちのもの"全国放送をする

昭和43年2月特別教育活動研究会

            10月優良子ども銀行として文部大臣賞を授与される

 






校舎の変遷 木造校舎以前

校舎の変遷 鉄筋校舎

 小学校史(戦前編) 小学校史(戦後編)  木造校舎以前 校舎の変遷木造校舎1 木造校舎2 鉄筋校舎



校舎の変遷 木造校舎2

1922大正11年壬戌 5月校舎大改築。 
1923大正12年癸亥 2月重井尋常高等小学校校旗制定。3月校舎新築落成式。講堂新築。



 

                   昭和14年2月



昭和16、年講堂の前。左端に奉安殿が見える。
登校時、教員も児童も奉安殿にお辞儀をした。左端は門中と扉。



二宮金次郎像。校長室隣の玄関前。




校舎の変遷 木造校舎1

2026年6月3日水曜日

増補版451〜460回

ふるさとの史跡をたずねて(451)

平山画伯スケッチポイント39(今治市大三島上浦町)

 島の生活というものはおもしろいもので、いつも目にしている近くの島々でも、何かの理由がなければめったに訪ねることがない。そして一生訪ねない島の方が多いのである。

 生口島の西北部で育った平山郁夫画伯にとって大三島は対岸の島で夕日の沈む島であった。だから対岸の地は幼い頃から多くの想像をかきたてたことであろう。

 そういう意味では大三島でのスケッチは多いが、このスケッチポイント39「大三島上浦町 盛漁港」には特別の思いが込められたものだと思う。

 しかし、海岸は遠くから見ると多くの夢を誘うが、実際にその場所に行くのは意外に難しい。幸いここまでくると、大久野島経由忠海行きのフェリー桟橋があって海辺に出られる。

 残念ながら貨物船も漁船も停泊していなかったが、かすかに大久野島が見える。その向こうは画伯がかつて戦後通っていた旧制忠海中学校のあったところだから、こちらの方向を描く必然性があったのだろう。




ふるさとの史跡をたずねて(452)

二番札所極楽寺(尾道市因島大浜町一区)

       


 因島八十八ヶ所の二番札所極楽寺は大浜公民館の前にある。一番霊山寺からは海岸道路を南へ歩くのが景色も良いし間違えることもなくて良いと思う。

 この道も所々岬の先端を回った名残の旧道があったりして、島の破壊の歴史を知ることができる。いたるところでこのように自動車道が拡張されるたびに海に面した美しい光景が壊されたことがわかる。

 それはさておき因島大橋の真下を通り速い潮流や遠近の島々をゆっくり眺めるのも楽しい。

 ただ、これが初期の遍路道かというとそうではなく、山道があって、その途中には遺跡やお堂があったようであるが残念ながら現在は通れない。

 さて半島の付け根の大きな堤防が近づいたら右手に二番札所が見えるだろう。公民館の前よりやや東に寄ったところである。

 周辺には235回(『暑往秋収』p.40)で書いた「倉谷新開竣工記念碑」の他、「第弐番大師堂新築寄付者」を記した石碑もある。

 時間があれば、ゴミステーションの横を通って立派な堤防の上を少し歩いてみるのも良いだろう。




ふるさとの史跡をたずねて(453)

三番札所金泉寺(尾道市因島大浜町三区)

       


 因島八十八ヶ所の番札所金泉寺へ向かうには国道まで出て左折する。要するに広い道まで出て南へ向かうのである。少し行くと川があり第三久保田橋がかかっている。さらに南へ行くと、保育所の跡に「週末カフェC0G0」(大浜地域未来交流館)がある。その手前に第二久保田橋がある。橋と言っても川はほとんど見えないので注意が必要だ。元幼稚園の建物が目立つのでその手前だと思えばよい。そこで直角に右折して、まっすぐ進めば間違いなく金泉寺へ着く。ここまでは車を利用しようと歩き遍路をしようと、初心者でも簡単に行けて、島遍路の楽しさを味わうことができるだろう。

 境内には現在のお堂とそれ以前のお堂の建設寄付碑がある。それには大出氏の姓が書かれてあり、重井町に通じる道路に近いから重井村から移住してきた最初の大出氏がこの辺に住んだと想像するのは容易だ。そのせいか、ある案内書に旧姓大出の久保田権四郎氏の生家があると書いてあったが、そうではなかった。久保田記念公園なら近くにある。

 さてその寄付碑の隣の3体の石仏に注目したい。金泉寺のご本尊の釈迦如来が中央にある。右が大日如来、左が薬師如来である。釈迦三尊像としては異例であるが、横一列ではないので釈迦三尊像だと思わない方が良いのではなかろうか。








ふるさとの史跡をたずねて(454)

四番札所大日寺(尾道市因島大浜町七区)

         

 四番札所大日寺については、65回福泉寺(『温故逍遥』65)、181回不動明王(『空手還郷』81)と同じ場所を目指せば良いのであるが、前回の3番金泉寺からの順路を記したいと思う。

 車の場合は、駐車場がないので見性寺に駐めてから戻るのが良いだろう。歩き遍路の場合は地図の通り細い道を南下する。



斎島神社の前を過ぎて右折し、旧久保田邸の前で左折するとゴミステーションの前に細い路地がある。ここを右折して登れば良い。正面が福泉寺、左奥が大日寺である。








 狭い登り道の左下の畑地が旧大浜小学校のあったところである。平地だけでは狭く見えるが、今は民有地になっているこの辺りに校舎、講堂、校庭などがあった。大浜町文化財協会発行『ふるさと』の昭和2年ごろの写真では、左上の三角形の屋根が福泉寺である。





久保田権四郎氏の生家は左中央付近。電柱の真上に大出先祖碑。

ふるさとの史跡をたずねて(455)

               

旧大浜小学校跡(尾道市因島大浜町八区)

 前回地図を載せたため、古い大浜小学校の写真を載せられなかったので、再度書いておきたい。

 旧久保田邸の前で左折する。その後旧久保田邸に沿ってそのまま右折して狭い狭い路地を登るのである。その左手は畑地で小さな段はついているが平地で、だんだんとその畑地から高い位置へ登っていくのである。その畑地のところに旧大浜小学校があった。旧と言っても元と言っても良いのであるが、どちらにしても紛らわしい。

 大浜小学校はこの位置からさらに3番札所金泉寺の西に移転するのであるが、そこもすでになく今は尾道特別支援学校しまなみ分校となっている。だから、そちらも元大浜小学校跡とか旧大浜小学校跡とか呼んでも誤りではない。

 さて大浜小学校の校舎の変遷は、明治6年の酒井氏宅から8年に見性寺に移り、15年に酒井氏の宅地を購入して移り、さらに明治28年に移転し、昭和2年に本稿で言及している地に旧校舎2棟を移転するとともに、新築校舎と講堂ができた。その後昭和60年に、後にしまなみ分校となる所へ新築移転した。そして平成19年に因北小学校へ統合された。

 昭和2年頃の写真には左奥の丘の上に三角屋根の福泉寺が見える。手前の右2棟が旧校舎を移築したもので、左の山側にあるのが新校舎とその向こうが講堂であろう。現在の畑地は講堂のあったあたりであろうか。

 



            写真は大浜町文化財協会発行『ふるさと』による。


ふるさとの史跡をたずねて(456)

 五番札所地蔵寺(尾道市因島大浜町五区)

                


 大日寺の次は五番札所地蔵寺である。車を見性寺に駐めておられる方は、見性寺の方へ帰って行くのではあるが、もう一つ寄り道をして帰る。来た道を少し後帰って、東の方へ寄って帰るのである。と言っても路地の間を縫うように歩くので、やはり地図を見ながら歩くのが良いと思う。



 4番大日寺から元の登り口まで出たら、南下し、楢原家先祖碑のある四角(よつかど)で左折して海の方へ向かう。郵便局を過ぎたら最初の路地を右折する。2軒目の個人宅の一部である。

 あるいは海側から説明すると、海岸通りの国道317号線の、民宿布刈と天理教教会との中間あたりの路地を入ったところ、と言うことになろうか。

 時間があれば海岸通りに出て備後灘を眺めるのも良いだろう。




ふるさとの史跡をたずねて(457)

 六番札所安楽寺(尾道市因島大浜町六区)



 六番札所安楽寺は見性寺の境内にある。だから誰に尋ねても、お寺の場所は教えてもらえる。そうしなくても南西の方角の山の方を見れば墓地の墓石かあるいは山門などが目に飛び込むだろうから、そちらの方向を目指せばよい。具体的に言えば、五番地蔵寺から南へ歩き、突き当たれば右へ、という動作を繰り返す。その時右を向いた時西の方を注意すれば、ほどなく見性寺を見つけることができるだろう。

 それでも見性寺にたどり着くことができなければ、もはや島遍路は断念するか、適当な先達を頼むほかはあるまい。

 見性寺、正確に書けば見性禅寺の山門をくぐれば、左折して突き当たりまで進めば、境内というよりも境内の外に近いところに六番安楽寺がある。隣に無縁墓地があるので、やはり境内と書くのが良いのだろう。

 すぐに安楽寺を目指すのも良いが、ここは山門をはじめ久保田権四郎さんの多大な寄進の跡を留める寄付石がたくさんあるので、それらを探しながら散策するのも良いだろう。そのいくつかについては以前にも書いたことがあるので、今回は触れない。

 安楽寺の堂内には立派な阿弥陀如来像がある。彩色木像である。





ふるさとの史跡をたずねて(458)

 七番札所十楽寺(尾道市因島大浜町十区)

           



 大浜町最後となる七番十楽寺は、遍路道がかつて峠道を越えていたために、かなり高いところにあった。最近では、その峠道が通れなくなったので、わざわざ高いところを遠回りすることになっていた。そのことを考慮して低いところに移して新築された。令和七年四月のことである。そのことは本紙でも報じられた。(四月十二日号)

 本堂前の石柱に書いてあるように地元出身の大黒信治さんが寄進され、地元の大工木本日出夫さんが建てた。

 六番札所安楽寺からは地図を頼りに路地を進むのも良いが、国道へ出て、少し南下して、集会所の手前にある大楠山の登山口から舗装された車道をまっすぐ上ると正面に見えてくる。なお、このお堂の前を左のほうへ入ると土井城跡(連載63回)へ至るので、土井城跡入口の格好の目印にもなった。








ふるさとの史跡をたずねて(459)

 旧七番札所十楽寺(尾道市因島大浜町十区)

              

 せっかくなので、かつての七番札所十楽寺について書いておきたい。耕作する人がいなくなった畑は草に覆われ、いつの間にか樹木も生えて自然に戻ってしまう。平地の耕作放棄地ですらそうであるのだから、かつて耕して山頂に至ると言われた段々畑においても、山林・竹藪に戻ってしまう。

 以前の七番札所十楽寺も、元は竹藪の中ではなかったと思われるのだが、私の記憶にある札所は周囲を竹藪で覆われ、かろうじて入口のところが残っているような雰囲気であった。

 さらに歩き遍路道であった大楠山へ至る農道もイノシシが掘り返した土や小石の間に草が生えていて、消失寸前であった。大楠山へ登る人以外が通らなくなったら大浜側の峠道も無くなる。

 そして今後はこの旧札所も竹藪に覆われてしまうことだろう。入口近くにあった遍路道標も。

 これまで管理されてきた方々への、感謝の気持ちを込めて古い写真を載せておく。










ふるさとの史跡をたずねて(460)

 十番札所熊谷寺(尾道市因島中庄町新開)

            

 いよいよ中庄町に入る。場所は簡単だ。丸池の隣の集会所の隣と書けばわかりやすい。丸池についても、その隣にある道路改修碑についても以前書いたので場所は説明するまでもないと思うが、丸池と言っても広いので、そのどの辺りかと言うと、北東である。

 因島八十八箇所霊場が出来た時には、海沿いの道は無かったので、船でお参りするか、峠超えの山道を通るしかなかった。でも、現在と違い峠道の周囲は畑で、遍路道といっても畑道であったので心配する必要はなかった。そして降りたところもまだ大浜町で、一面干拓地であった。  我々がその当時のことを想像できないように、初期の参拝者には現在のような舗装道など想像の埒外であっただろう。

 ただ、我々は注意して見れば、まだまだ至る所に干拓地の痕跡があり、初期の干拓地は想像できなくても、その面影を感じることはできる。













( 写真・文 柏原林造)

2026年6月1日月曜日

夕凪亭閑話2026年6月

2026年6月1日。月曜日。晴れ。2371歩。70.7kg。朝1時間草取り。来客。午後閉校記念誌。夕方藤井医院。

2026年6月2日。火曜日。雨。822歩。69.7kg。台風による雨。外作業はできない。夜になって雨風ともに強くなる。閉校記念誌。

2026年6月3日。水曜日。晴れ。2459歩。70kg。

朝買い物。散髪。午後、閉校記念誌。明治大正昭和初期の卒業写真の整理終わる。夕方、大師堂。トルストイ、中村白葉訳、『戦争と平和』(河出書房)終わる。

2026年6月4日。木曜日。曇り時々雨。1773歩。70.3kg。閉校記念誌。

『アンナカレーニナ』読み始める。厳密に言えば再開。

2026年6月5日。金曜日。曇り。4615歩。71.1kg。

朝から閉校記念誌。午後、大師堂。タイムズ配る。夜も閉校記念誌。

2026年6月6日。土曜日。晴れ。2591歩。71kg。

朝から閉校記念誌。一町田、広道へ除草剤。午後、大師堂。

2026年6月7日。日曜日。雨。2122歩。71kg。

朝買い物。来客。後、閉校記念誌。

2026年6月8日。月曜日。晴れのち雨。7529歩。69.9kg。

因島遍路三回目。11人。47番から71番まで。帰って閉校記念誌。

2026年6月9日。火曜日。晴れ。4921歩。70.9kg。

朝、ゴミ捨て。一町田。フェンス外の草取り。夕方、大師堂。閉校記念誌。

2026年6月10日。水曜日。晴れ。7529歩。70.1kg。

朝、買い物。大師堂。一町田。午後、論語の会。4人。夜、閉校記念誌。

2026年6月11日。木曜日。晴れ。2993歩。70.2kg。

朝、大師堂。一町田。庭木の選定。閉校記念誌。

2026年6月12日。金曜日。晴れ。4658歩。69.95kg。

大師堂。一町田。庭木の選定。閉校記念誌。

2026年6月13日。土曜日。晴れ。5088歩。69.35kg。

大師堂。一町田。庭木の選定。閉校記念誌。まるで浦島太郎。

2026年6月14日。日曜日。晴れ。5394歩。69.3kg。

朝、買い物。大師堂。一町田、除草剤。昼寝。夕方剪定。家の周囲を乾燥させるべく植木を切る。これだけ温暖化が進めばおそらく因島全体がヤマトシロアリの生息域になっていると思う。できるだけ用心したい。漢文でもなんでもとにかく写すことである。意味がわからなくても構わない。リンデル、スコットのLexiconを少し写す。

2026年6月15日。月曜日。晴れ。5144歩。70.1kg。

7時前に出て尾道JA病院。高齢者補助券を使う。11時25分のバスで帰る。午後、昼寝。大師堂。夕方庭木の選定。

2026年6月16日。月曜日。晴れ。3711歩。69.5kg。

朝、公民館で定例会。11人。第1火曜日に定例会第2部をすることを決定。第2部は鴻雪爪を読むことにする。午後昼寝。夕方、大師堂。夕食後庭の剪定。夜、タイムズ原稿送る。

2026年6月17日。水曜日。晴れ。3596歩。69.3kg。

朝剪定。10時過ぎから因島図書館。文学散歩。7人。午後昼寝。ジュンテンドー。鋸の歯を交換。大師堂。夜、閉校記念実行委員会。

2026年6月18日。木曜日。晴れ。4606歩。69.5kg。

朝から庭木の剪定。畑に除草剤。大師堂。閉校記念誌。明治卒業写真完了。

2026年6月19日。金曜日。晴れ。6866歩。69.3kg。

庭木の剪定。大師堂。閉校記念誌。大正卒業写真完了。昭和途中まで。

2026年6月20日。土曜日。晴れ。3161歩。69.9kg。

買い物。大師堂。庭木の剪定。記念誌。昭和卒業写真完了。

2026年6月21日。日曜日。曇り。5134歩。69.5kg。

大師堂。庭木の剪定。校記念誌。沿革。

2026年6月22日。月曜日。曇り時々小雨。のち雨。6337歩。69.8kg。

因島遍路四回目。13名。重井。結願昼食会。重井「大笑」にて1300円。

2026年6月23日。火曜日。曇りのち小雨。4634歩。69.8kg。

朝から庭木の剪定。大師堂。夜タイムズ原稿送る。

2026年6月24日。水曜日。雨。1501歩。69.8kg。

朝から雨。朝、買い物。午後論語の会4人。

2026年6月25日。木曜日。雨。2041歩。68.7kg。

朝から雨。閉校記念誌。

2026年6月26日。金曜日。雨。4497歩。68.3kg。

朝から雨。午後タイムズ配る。校記念誌。

2026年6月27日。土曜日。雨。5398歩。68.5kg。

一日中雨。校記念誌。庭木の伐採。

2026年6月28日。日曜日。曇り時々微雨。4895歩。68.5kg。

朝、買い物。校記念誌。庭木の伐採。今日から語学のCD再開。

2026年6月29日。月曜日。晴れ。4966歩。69.1kg。

朝から校記念誌。庭木の伐採。ゴミ捨て。午後、来客。ロシア語、中国語、CD聞く。

2026年6月30日。火曜日。晴れ。4683歩。69.6kg。

朝から校記念誌。庭木の伐採。ゴミ捨て。ここまで昨日と同じ。朝、公民館へ印刷依頼。