第5家老南彦四郎
また、海賊方の随一たるは、河野通継の嫡男は対島守通有、二男をば七浪通氏と云い、三男をば南彦四郎通泰とて、これ南氏の祖なり。
与陽盛衰記―予章」 (1969年) p.248
南三河守泰統(ヤスムネ)は海関方として、三庄の字南の寺奥に住んでいて、円妙寺(廃寺)をその菩提所としている伊予河野氏族である。地蔵鼻の土岐の城主金山亦兵衛康時と共に帆別銭や駄別料の徴収をつかさどっていた。中島忠由、「因島地方一万年史」、p.155
南彦四郎等一族五十余名のものをひきつれてこの混乱の伊予を出て、
松岡進「瀬戸内水軍史」p.589「河野家の竹原移動とその終焉」
2015.7.5. 南彦四郎の墓と伝えられていた墓碑。
五輪塔を彫った石と数体の五輪塔は、南彦四郎の墓と伝えられている。「南」という字名が残り、「南池」下の崖下に「南道路改修記念碑」がある。その右手奥に墓はある。さらにその奥には薬師堂があって因島では珍しい彩色十二神将像がある。
なお、これは間違いで、墓碑銘によれば僧侶の墓に過ぎないと今井先生に教わった。
なお、これは間違いで、墓碑銘によれば僧侶の墓に過ぎないと今井先生に教わった。