2015年7月7日火曜日

因島村上水軍 第二家老 稲井氏

村上水軍研究目次

稲井勘解由家治
稲井勘解由左衛門尉源家治
因島村上水軍第二家老
土生小丸城主

稲井氏は脇屋義助(新田義貞の弟)を祖とする。清和源氏。



屋敷跡 現在対潮院
屋敷跡 江戸時代:庄屋大土生宮地家 ⇒ (現在)宝地家。稲井家居宅跡
宝持寺 宝地谷にある。
関ヶ原合戦後、伊予佐方へ移り。やがて宝持寺は廃寺となった。
須佐神社 宝地谷、宝持寺跡にある。

(伊予佐方に移る前にに広島に身を寄せた。)

田中稔「因島史考」p.14、p.83



宝持寺跡の稲井氏の子孫の方が建てられたら石碑に、脇屋義助子孫とあった。

このことに関して、田中稔「因島史考」p.108に、以下のようにある。
おなじく天授四年に新田党の面々(義貞と弟の脇屋義助の子孫たち)が来島して因島村上家の中核となった。


その脇屋義助のことが「後太平記」のp.173に載っている。

また義俊の子孫は稲井姓をなのり、勘解由藩判官家治は、千三百貫(約一万三千石)を領して、ともにその末孫は村上家の家老職を努めた。(村上由来記)。
村上公一「村上海賊史」p.142

しかし四月二十三日着任したばかりの義助は、五月七日、急に病にかかり、同十一日、この地で死去した。
村上公一「村上海賊史」p.118

「太平記二」(岩波書店、日本古典文学大系35)p.379に「◯義助豫州ヘ下向ノ事」、p.381に「義助朝臣病死ノ事付鞆軍ノ事」がある。