2019年6月11日火曜日

ふるさとの史跡をたずねて 第128回 鼠屋新開 (因島中庄町新開)


 中庄村史によると土生谷新開が完成したのが天正元年(一五七三)年で、鼠屋新開ができたのが貞享2年(一六八五)年であるから、およそ1世紀ののちであり、土生新開が特別に早かったということである。だから、土生新開が鹿穴の土生神社から下の谷が平地になったあたりから、仮に丸池あたりまでが、出来上がっていたとしても、それから先は海で、村界碑がなくても、中庄湾の北側は依然中庄村と大浜村が海で隔てられていたということになる。それが江戸時代になって鼠屋新開によって大浜村と続いたということであろう。
 村界碑の近くに道路改修碑のほか、古い石仏があり、おそらく中庄村四国八十八ケ所の一部だと思われる。その後ろがゴミステーションである。
 そしてその道路改修碑の反対の電柱の傍に「ねずみや新開 貞享二年」と書かれた、剥げかけた看板があり、ここが鼠屋新開であることがわかる(写真)。
 それにしても、土生新開の名前の由来も面白かったが、こちらもなかなか面白くて、いろいろ想像してみたくなる。小学生に自由に考えさせたら、笛を吹いてねずみをおびき寄せて・・という有名な話に似た作り話をしてくれるであろう。
 今の子供たちはネズミは見たことがなくても、ハーメルンの笛吹き男の話はよく知っている。どこか怖いようで、一方ではもの哀しく、なおかつ民衆の貧しい生活も透けて見えるようなエキゾチックな話で、こども向けの童話として読まれているが奥が深いようである。
 多くの子供たちが不幸な事故にあったということと、他郷から来た旅芸人に町の執政者が冷淡で、おまけに約束を反故にするという非人間的扱いをしたという、二点が少なくとも読み取れる。中世のドイツのことであろうが、日本の近世農村社会の風景と重ねても、そんなにかけ離れているようには思われない。

 時代はやがて元禄時代に入るが、その華やかなイメージとは裏腹に、生産者に対して消費者が多すぎる徳川時代は、そのシワ寄せが農村にのしかかったのは周知の通りである。