波濤萬里 -沼隈町海外移住史序説- CRYSTAL Home 波濤萬里(目次)
沼隈町のパラグアイ移住史については夕凪亭閑話で断続的に書いてきたが,このあたりで稿を改めて,まとまりのあるものになおしてみようと思う。
沼隈町のパラグアイ移住史について考えるとき,私はいつも,阿部謹也さんの「ハーメルンの笛吹き男 伝説とその世界」(ちくま文庫)を思い出します。
現在では童話風に語れる,ちょっと暗くて,怖いような笛吹男の話は,今でも不思議な印象をのこしております。約束を守らないと復讐されるという,勧善懲悪的な教えだけではなく,不思議な能力をもった人さらいのような者が,よその町からやって来る,だから知らない人と親しくしてはいけない,というような排他的な,あるいは日本の古い農村を支配していたようなメンタリティーも感じました。それに,困るほどネズミがいるという,貧しさ,不衛生,さらに約束を守れない町の貧しさ,よそ者に対して約束を反故にしてもいいという町の有力者の蔑視観など。寓意に富んだどこかもの哀しい,それでいて怖いようなお話です。世界中で読み継がれるだけの内容のある,童話としても第一級の話しです。さらに言えば,ネズミのみならず子供たちまでも,笛でおびき寄せるという理解不可能な能力についても,どんな力だろうかと,いつまでもその疑問は消えません。また,ハーメルンという具体的な町の名前が出てくるのですから,ありそうにないけれども,本当にあったかも知れないし,あるいは何かあって,このような形の話しができたのかもしれない,それは何だろうか,といいうような未解決の物足りなさも残ります。阿部さんは,「あの話は単なるメルヘンとしてはあまりに生々しくユニークであり,単なる事実としてはあまりに幻想豊かな詩と現実との交錯した彩りをもっていた」と書かれております。まさにその通りです。
こういうふうに,歴史は風化し,人々の記憶から去り,一部の記憶が変形しながら伝わっていくものではないかと思います。その風化しつつある歴史の断面を留めておきたいというのが,この頁の目的です。
2005年9月24日の中国新聞には 「沼隈移住団パラグアイ・ラパス入植50年」 として大きくとりあげられておりますが,沼隈移住団としては49年です。別に記事が間違っているわけではありません。見出しが少しおかしいだけです。本文にはそのことは正しく書かれております。すなわち49年前に沼隈移住団が入植したラパスは,その1年前から開拓されていたところで,入植50年の式典があったということです。そのラパスは,沼隈移住団と高知県大正町の町ぐるみの集団移住団が中心となって開拓したところですから,ラパス入植50年というのは,沼隈移住団にとっても意義深いことだと思います。
しかし,しかしながら不思議なことに,沼隈町とラパス市が,あるいは沼隈町が合併編入された福山市とラパス市が姉妹都市になったとか,訪問団があったとかいう話しは,寡聞にして聞きません。いろんなことを調べてみますと,不思議でも何でもないのですが,でも表面上は不思議です。
昭和30年代に「町ぐるみ移住」で全国にその名を知られた沼隈町は昭和の大合併で誕生した。
町村合併促進法が1952年すなわち,昭和27年の10月1日に施行されたとき,広島県福山市の南西部にある沼隈郡については,21町村を6か町村にしようという合併構想を,広島県福山地方事務所はもっていた。この案を,昭和31年3月31日までに,3期に分けて実現するというのが広島県が示した目標だった。
昭和29年11月3日を目標に定めた第1期の合併構想では,千年村,山南村,熊野村,浦崎村が合併して,人口22,179人,面積56.11平方キロメートルの町が沼隈郡の南部に誕生する予定であった。しかし,浦崎村は尾道市への合併を希望し,また福山市に近い熊野村では福山市との合併を考え,広島県側が示した合併構想からはずれた。残った千年(ちとせ)村と山南村は,当初から県の構想を支持しており,結局,両村が合併して昭和30年3月31日,広島県沼隈郡沼隈町が誕生した。人口11,861人,世帯数2,164,面積30.93平方キロメートルである。(以上,福山市史による)
千年村と山南村は,1889(明治22)年の市制・町村制でそれぞれ,常石村,草深村,能登原村,および上山南村,中山南村,下山南村が合併してできた。千年というのは,平家物語(巻四 還御)に出てくる,敷名の千年藤の伝承に基づく由緒ある名である。
パラグアイ移住計画は,初代町長神原秀夫氏(故人)によって発案されたものである。
これまで,沼隈町のパラグアイ移住史は,「広島県移住史」に,沼隈町の広報と町役場に保存された文書に基づいてまとめられたものがあり,これが最も詳しく記録したもので,沼隈町による,公式な記録集や記念誌はなかった。それは,福山市との合併を前にして編集発行された「沼隈町誌 民俗編」においても同様で,パラグアイ移住史のことは記されていなかった。
しかるに,その「沼隈町誌 民俗編」の追補版ともいうべき「沼隈町誌 写真・資料編」(沼隈町教育委員会編集発行,平成16年12月)に,少しではあるが,記載されている。したがって,これが沼隈町によって初めて総括された公式見解だと私自身は理解している。教育委員会の編集になるものだから,沼隈町の公式見解というほどの大げさなものではない,と編者の方が思われるのであれば,「地元から発表された見解」と解釈してもよい,かとも思う。
この沼隈町のパラグアイ移住計画というのは,まず町内の過剰人口と失業対策として海外移住の振興という形で,スタートした。はじめは,パラグアイに限定されていなかった。
沼隈町広報第6号には,「わが沼隈町では人口に比して耕地面積があまりに狭小なため,過剰労働力吸収対策として海外協会を結成して移民を奨励し,開墾,傾斜地利用或は増産技術の普及等に相當の力瘤を入れているのであるが・・・」(昭和30年11月5日発行)とある。
また,「海外移民は吾が沼隈町重要施策の一つであり曩(さき)に町内有志各位多数の御理解により沼隈町海外協会を設立し鋭意本事業振興の為腐心して居ります。 此の度ブラジル移民につき県に於て募集中でありますから,左記御参照の上・・・・」(昭和30年11月5日発行)とあることからわかるように,国県の海外移住政策に協力して勧めるというものであった。
しかるに,神原新町長はさらに押し進めて町ぐるみの移住の構想を立てるとともに,その候補地を求めて南米視察の旅に出た。昭和31年4月のことである。昭和30年に誕生したばかりの新しい町の町長が2年目の年度はじめに2ヶ月の予定で外国へ出張するのは異例のことであり,神原町長にとっては移民計画は猶予のできないものに思われたいたことが伺われる。移民監督官という職務を得てでの出張であるから,ある程度の自分の構想と目的を外務省関係者に通していたのであろう。またそれには,地元選出の国会議員の協力などがあったかもしれない。やはり,当初の考えではブラジルだということになろうか。しかし,神原町長は,ブラジルを良しとしなかった。パラグアイのフラム地区を最適地と選出された。
このパラグアイ国フラム地区への集団移住が世にいう「町ぐるみ移住」のことである。ここで,移住団出航日と渡航船名をまとめておく。
渡航日(神戸出航) |
渡航船名
|
渡航者数
| |
第一陣
| 1956年10月15日 | チャチャレンガ号 | 6家族36名 |
第二陣
| 1956年11月2日 | あめりか丸 | 39家族110名 |
第三陣
| 1956年12月5日 | ぶらじる丸 | 7家族23名 |
第四陣
| 1957年1月15日 | テゲルベルグ号 | 26家族51名 |
第五陣
| 1957年4月2日 | あめりか丸 | 15家族64名 |
第六陣
| 1957年7月15日 | ルイス号 | 8家族26名 |
第七陣
| 1957年10月2日 | あふりか丸 | 6家族17名 |
第八陣
| 1957年12月30日 | ぶらじる丸 | 5家族11名 |
第九陣
| 1958年4月17日 | ルイス号 | 9家族40名 |
第十陣
| 1958年5月17日 | テゲルベルグ号 | 2家族19名 |
第十一陣
| 1958年7月4日 | あふりか丸 | 2家族8名 |
第十二陣
| 1958年12月28日 | 不明 | 1家族3名 |
「沼隈町誌 写真・資料編」(沼隈町教育委員会編集発行,平成16年12月)には,「第十二陣(同33年12月28日出発)までに130家族・415人」が移住したとある。
その他の話題
2005.9.24 沼隈移住団パラグアイ・ラパス入植50年
沼隈移住団が入植したラパスが入植50年を迎えたという特集記事。沼隈移住団はその1年後に入植を開始するので,49年になる。
2005.12.13 中国新聞 「移民県広島」教科書に
中学校社会科教科書(歴史)(東京書籍)に広島県海外移住史が記載されるという紹介。
「沼隈町誌 写真・資料編」(沼隈町教育委員会編集発行,平成16年12月)には,92-93,218-219頁に記録されている。p.92に以下のように記されている。
移民の第一陣は,昭和31年(1956)10月15日,神戸港からパラグァイに向かって出発した。その後,第十二陣(同33年12月28日出発)までに130家族・415人。そのうち沼隈町出身者は,わずか24家族・83人で,約八割は町外から一時的に籍を移した人々で,当初の目的であった人口問題の解決には,ほど遠いものであった。
移住関係の資料はブラジルほど多くはありませんが,記念誌として次のようなものがあります。
「パラグアイ日本人移住五十年誌」(1987.4) 「未来への挑戦 パラグアイ日本人移住60年誌」(1997?) 「パラグアイ日本人移住70年誌」(2007.6.18)
「未来への挑戦 パラグアイ日本人移住60年誌」は日本語とスペイン語で書かれております。「パラグアイ日本人移住60年誌」という日本語は印刷されておりませんが,“60 ANOS DE LA INMIGRACION JAPONESA EN EL PALAGUAY ”とありますますので,このように書いておきます。 p.138には,Colonos en Fram - La Paz という説明のある写真が載っております。沼隈移住団が入植したところは,現在はラパス市になっておりますが,入植当時は「フラム移住地」と呼ばれておりました。あのノルウェーの探検船「フラム号」に因む名です。
文献
パラグアイ移住五十年史
パラグアイ移住七十年史
みどりの大地 フラム移住30年史
パラグアイと日本
ラ・コルメナ移住四十年史
高知県大正町の集団移住の実態(外務省)
*
広島県移住史(通史編,資料編)
神原秀夫伝
神原勝太郎伝
移民(中国新聞社)
島根県南米移住史
香川県南米移住史
宮崎県南米移住史
*
沼隈郡誌
沼隈町誌
沼隈町広報
内海町誌
探訪沼隈半島の歴史と文化(福山市文化財協会)
斉藤倉男「沼隈郡沼隈町地名誌」(沼隈町文化財協会)
斉藤倉男「沼隈郡内海町地名誌」
福山市史
*
上田靖史「備南の風土記」
*
羽根田義雄「南米のオアシス パラグアイ」(海外移住助成会)
「パラグアイの生活と労働」(日本海外協会連合会)
毎日新聞社人口問題調査会「パラグアイにおける集団移民」
杉野忠夫「海外拓殖秘史」(文教書院)
篁暢児「新南米移住読本」(東京書房)
白石健次「中南米移住事業遍歴」(文芸社)
国枝益二・吉崎千秋共編「海外農業実習記」(文教書院)
ウィルヘルミー,大野盛雄訳「南アメリカ原始林における植民」(農林水産業生産性向上会議)
山田迪生「船にみる日本人移民史」(中央公論社)
佐々木直「新天地パラグアイに生かされて」(金光教徒社)
若槻泰雄「外務省が消した日本人」(毎日新聞社)