2019年9月27日金曜日

因島文学散歩⑦ 青影山(因島中庄町・因島田熊町)



瀬戸内海の諸水軍を大統一したのは伊予の村上義弘である。かれは戦法に長じ、その戦法はやがて村上流といわれるようになった。やがて村上氏は、因島村上氏、来島村上氏、能島村上氏などにわかれた。司馬遼太郎『坂の上の雲』(全集24)

  伊予出身の秋山真之(さねゆき)は海軍の参謀で戦術研究家であった。秋山が日露戦争で用いた作戦は水軍戦法を元に考え出されたものだと言われている。それは「能島流海賊古法」という写本が元だった。上記の記述では同じものが因島村上氏に伝わっていてもよさそうである。しかし、そうではない。

能島は伊予大島に付帯する島で、全島が城塞化され、能島村上氏の根拠島になっている。ここで、能島流戦法が生まれた。

 私はその「能島流海賊古法」の大部分は、江戸時代に実戦経験のない兵法家が書いた想像の産物だと思う。秋山真之は戦略家であって歴史家ではなかったから資料の真偽には関心はなかった。戦史を猟歩し、あとは自分の置かれた状況での戦略を練る。だから能島の狭い海域で生まれた戦法ではなく、空想の産物だからこそ、日本海で役立つ戦略が生まれたのであろう。能島水軍時代の原本はこれまで発見されていないだろうし、おそらく今後も発見されることはあるまい。
 司馬遼太郎さんのこの本で懐かしい村上義弘の名に出会うとは意外だった。私たちが子供の頃、村上水軍といえば青影山の村上義弘だった。だから村上元三原作の映画「海賊八幡船(ばはんせん)」も当然義弘が主人公だと思ってみた。その義弘さんは水軍城におられなく、青影山へ登ると立派な石碑があって「村上義弘公青影城址登山路改修碑」と書いてある。

 正五位の追贈問題は、とんびに油揚げをさらわれたような形で伊予の大島へ行ってしまったが、亀老山中腹の村上義弘の墓のあるところには因島にも居たことが記されている。

 また宮窪小学校の近くには幸賀屋敷跡というものがある。因島村上文書に法橋幸賀館が出てくるので、義弘が因島で幸賀館になり、大島へ移っても幸賀館と名乗っていたということであろうか。(文・写真 因島文学散歩の会・柏原林造