2019年9月27日金曜日

因島文学散歩⑤ 椋浦廻船燈籠(因島椋浦町)


亀五郎は、芸州椋之浦(広島県因島市椋浦町)の生れで、十年ほど前、船乗りとして江戸から帰航中、熊野灘で遭難、破船漂流してアメリカ商船に救けられ、サンフランシスコに上陸した。一同十七人であったが、清国に送られる途中、ハワイで船頭が病死。亀五郎は、治作、彦蔵とともにサ ンフランシスコにもどり、船の炊に雇われてすごしていた。

 椋浦廻船燈籠は椋浦と船との関係をよく示している。千石船で栄えていた頃、その持ち主たちによって建てられたものである。地元に船主がたくさんいるのだから船乗りも増える。中には他国の船に乗るものも出る。そのような中の一人亀蔵(改名して亀五郎)は、播磨国(兵庫県)の永力丸で遭難した。嘉永4年(一八五一年)10月29日のことであった。幸いアメリカ船に救出された。永力丸には後にアメリカ彦蔵(浜田彦蔵)と呼ばれた男が乗っていたので、多くの記録に記されることになった。
 吉村昭『アメリカ彦蔵』(読売新聞社)では、次のように続く。

その船で長い航海をしてサンフランシスコにもどると、すでに彦蔵は神奈川に、治作は箱館にそ れぞれ帰国したことを耳にした。
ただ一人になったことを知った亀五郎は、狼狽して日本へ行く船を狂ったように探しまわり、商船「ロッジル号」が商用で香港へ行くことを知って船長のノルデネルに乗せて行ってくれるよう懇願した。船長は承諾し、亀五郎は水夫に雇われて乗船し、五十日間の航海をへて香港についた。


 鎖国時代に国外へ出た人の運命は、開国を前にした幕末では、時とともに大きく変わる。入国を拒否された天保8年(一八三七)のモリソン号事件を聞いた亀蔵ら3人は帰国を諦めてサンフランシスコへ戻り、そこで3人は別れ別れになった。その後、香港へ行き、遣米使節団の乗った「ナイアガラ号」に乗って帰国できた。