「伊号第三三潜水艦」は、赤錆びた艦体を御手洗海岸近くに浮べている。又場にとって海底に沈められていた巨大な棺ではなく、会社経営の利益の対象になったのだ。 艦体の腐蝕も少く、殊に浸水していなかった魚雷発射管室は貴重で、艦を視察した商社との引取り価格の調整がおこなわれた。その結果約三千五百万円で取引きが成立、又場は艦の解体工事をおこなう広島県因島市の日立造船ドックまで曳航することになった。かれは引揚げ作業によって予期通りの利益を手中にする ことができたのだ。吉村昭『総員起シ(おこし)』(文春文庫)
昭和19年6月13日伊予灘由利島付近で沈没した伊号第三三潜水艦は、昭和28年に引き揚げられ、因島で解体されることになった。全長108.7メートルというから壮観だったと思われる。
「伊号第三三潜水艦」は原型をとどめていたので、造船業界の注目を集めた。韓国海軍から買受け希望があるというニュースなどもあって、浦賀ドック、川崎重工、三菱電機、日立製作所、播磨造船などから商社に注文が殺到した。
まさに海底から引き揚げられた「お宝」であった。しかし解体前に不幸な事故が起こった。浦賀ドックの潜水艦設計の専門家3名が8月12日に調査にやってきた。
魚雷発射管室に入って調査することを申し出たが、現場主任はガスが内部にたまっているかも知れぬという理由で同意しなかった。
しかし、危険はないと判断した3人は中に入り、次々と倒れた。
いつの間にか炎熱につつまれたその区劃内には 濃厚なメタンガスが発生していて、三名の技師の生命を瞬間的に奪ってしまったのである。
収容されたかれらの遺体は、その夜日立病院から因島市土生町の善行寺に移され安置された。ハッチは、再びかたく閉鎖された。
死者にムチ打つことは慎まなければならないが、やはり、現場主任が同意しなかった、ということは重ねて書いておきたい。
(写真は瀬戸内タイムズ2007年7月7日より転載 文 因島文学散歩の会・柏原林造)