2019年9月1日日曜日

幻影

幻影
                  
 1
「ちょっとー」
 由紀の声に早野香は顔を上げた。もう少し先まで読んでからにしたかった。でも、由紀の声は、それを許さなかった。
「うん」
 早野香と由紀の眼があった。激しく火花が散った。
 由紀は、さすが早野香だと思った。
 図書館の正面から出ると、由紀はさっとあたりを見回した。早野香も、今ならどちらの方角も安全だと思った。
 二号館の傍のベンチを由紀が目で示した。早野香が歩きはじめた。
「サンキュー」
 由紀が笑顔を見せたので緊張が解けた。
 早野香も、微笑んだ。   
「どういたしまして」
 由紀が周囲を見回した。早野香も同じように見回した。誰もいない。
 二人の目があった。再び、火花が散った。
「何か変よ」
 由紀が小声で言った。
「亜可祢のことでしょ?」
「早野香も、そう思う?」
「ええ、でも、何となくだけどね」
「すごいパワーよ。これまでの相手の比ではないわ。早野香、油断大敵よ!」
「ええ」
 早野香はうなずいた。早野香よりも由紀のほうが、いつも強力というわけではない。しかし、今回は由紀の感度のほうがはるかに強いようだ。早野香は、由紀の言う通りだと思った。
 早野香は由紀に指摘されてやっと気づいた。指摘されれば、そうかと思う。その程度しか、今回のことに対して早野香の感度はよくなかった。
 その分、早野香と亜可祢は相性が悪いともいえた。
「早野香、今度だけはどんなに用心しても、しすぎることはないわ。携帯もいけないわ」
「えっ? そんな・・・。うん、わかったわ」
 今までも、何人という闇の国の使者が送り込まれてきた。その都度、早野香と由紀が追い払った。由紀だけで相手したことも、早野香だけで闘ったこともあった。もちろん二人がともに協力してあたったことのほうがはるかに多い。
「わかったわ。あなたの言うことにしたがうわ」
 二人はそこで別れた。
 
2 
「あなた一人で大丈夫かしら」
「もちよ」
「でも、何か変な胸騒ぎがするわ。心配だわ」 
「大丈夫よ。慎重にやるわ」
 亜可祢はどう言えば母が納得するだろうか、と思った。
「ええ、無理はなさらないで。後は他の者がやるから・・・」
「それじゃ、私は?」 
 亜可祢は、母を食い入るように見た。
「地ならしよ。後から入っていく人たちが仕事がしやすいように」
「でも」
「いろいろと思いはあるでしょうよ。でもね、敵もただ者じゃないわ」
「敵?・・・ 」
 亜可祢には、誰のことかわからない。
「そう、あなたが今相手にしている敵よ」
「生徒全員? それとも先生の中に・・・」
「そうでしょう。あなたにまだわかってないわ。だから、気をつけなさいと」
「ええ、わかったわ・・・・」
 亜可祢にはわからなかった。しかし、ここは引き下がるしかない。母の方が一枚上手なのだ。
 
 夕食後、早野香は一人になると目を暝って精神を集中した。
 電話もいけないという。なぜ? 早野香は由紀の指摘が間違っているとは思わなかった。それでも細部のことになると理解できなかった。電話をどうしようというのだろうか。単なる盗聴とは考えにくい。携帯や電話回線から漏れる微弱な電磁波をキャッチする能力を備えているのだろうか。あるいは・・・。考えても結論がでるものではない。
 亜可祢が転校してきた日のことを思い出した。
「港が丘中学から来ました、朝霧亜可祢です」
 そう言って、亜可祢はみんなの方を静かに見てから、ガラス窓を通して、遠くの雲を見つめた。決して長い時間ではなかった。早野香も同じように窓の外に目を向けた。その瞬間、青空がにわかに曇った。あの、雨が降る直前のような、黒みを帯びた、煤色をした雲だ。でも、あのときは何も感じなかった。ただ、亜可祢につられて窓の外を見たことが、やはり何か感じることがあったのかも知れない。あの黒い雲。でも、それだけで、早野香には亜可祢の能力をキャッチできなかった。変だな、変だなと思っていただけで、今日由紀に指摘されてから、やはり、と思ったのだ。うかつだった。もっと注意しておくべきだった。しかし、感じることができなかったのだから、仕方がない。
 
 翌日学校に行って早野香は驚いた。  
「な、な、何よ? これっ! は、早く片付けて!」
 教室の黒板に猫の死骸が掛かっていたのだ。
 早野香は、体の底から突き上げてくる嫌悪感にかろうじて耐えた。膝を折って床の上にわなわなとしゃがみこんでしまいそうな自分を想像した。しっかりするのよ! 早野香は自分に言い聞かせた。
 頭がくらくらした。肩で何度も大きな息をした。
 倒れそうになる自分を、一番前の机に手をついて支えた。
「早野香。今取り乱しちゃだめよ! さあ、しっかり目を開けて!」
 由紀の声だった。
 早野香は目を開けた。由紀はいない。
「さあ、平静を装って!」
 またしても由紀の声だ。
 ええ、だいじょうぶ。うなだれたままで頭を二度激しく振って顔を上げた。背筋を伸ばした。だいじょうぶよ。もう一度つぶやいた。猛烈な疲労感が全身をおおっている。
 教室にはクラスメイトが半分くらいいたが、誰もその死骸を取り払おうともせずに、ただ卑劣な悪戯に怒っているだけだった。あまりのショックにどう行動してよいか、はかりかねていたのだろう。
 早野香は目を上げた。生徒の数は、教室に入るときにわかっている。
 でも、この教室にいる生徒たちの表情はどうだろうか。みんなが入ってくるなり、驚愕の声を上げるので、もう誰がどんなに驚いても、誰も興味を感じなくなった、そういう目付きだと、早野香は思った。しかし、そうだろうか。それにしては、何か妙だった。
 いつものみんなとどこかが違う。それは、黒板に猫の頭がかかっていたという異常事態のための緊張だけではない。
 早野香は亜可祢の席を見た。亜可祢はまだ来ていない。教室の他の席にもいないのは明かだ。
 なぜ亜可祢のことを考えたのだろうか。亜可祢がこんなことをするとは信じがたい。 
「何よ? これっ!」
 由紀の声だった。先程の、早野香の心の中に囁いた声ではなく、実際のほんとうの由紀の声だった。
 早野香が振り返った。由紀は青ざめて、一言も発しない。
 由紀と目があった。二人はしばらく見つめあったままだった。早野香はどう説明してよいかわからなかった。単なる悪戯には違いない。だが、そう言っていいものか、迷った。 由紀の目はいつものおだやかな目だ。昨日のような鋭い目ではない。青く澄みきった目だ。早野香は由紀の目を見つめていると、その中に吸いこまれてしまいそうだ。・・そのとき由紀の目がしだいに厳しくなった。澄みきった池の底が上昇してきて、焦点をあわせることができるようになった。
 二人の目から、パチンと音がして火花が散った。
「悪い冗談だわ。さあ片付けましょう」
 由紀の表情が明るくなった。早野香は由紀の意図が理解できた。二人の間に走った一瞬の緊張。その直後の他人行儀な快活さ。それは、心を乱してはいけないというメッセージなのだ。悪戯の背景を今詮索すべきではない。ただ、ここは、いつものごく普通のアクシンデントとして処理しようという意図なのだ。    
「そうね。そうしよう。・・事務室で新聞紙もらってくるわ」
 早野香は歩き始めた。黒板の猫は見たくはなかった。でも、これがこれから起こるトラブルの第一弾だとしたら・・、と思うといやでも凝視せざるをえない。
 こんな気持ちの悪いことしたの、誰よ? 怒りに似た感情が沸き上がってきた。
 じっと見た。
 首から切断されて、ちょうど黒板の隅に打ちつけられた釘にでも掛けてあるのだろう。首のつけ根のところには血が固まって黒くなっている。
 殺されているはずなのに、見開かれた双眸は、まるで生きている猫さながらに、正面を睨みつけている。きっと殺されたときに、相手に対して抱いた恐怖と敵意をそのまま保っているのだろう。
 早野香が新聞紙を持って帰ってくると、由紀は空のバケツと雑巾を数枚準備していた。
 由紀は平静を装っていても、いつもの由紀には珍しく高ぶっていた。早野香にもその気配はびんびんと伝わった。これではいけないわ、もっとお互いにリラックスしなければ、と思うがなかなか行動に表れない。
「やだな、やだな・・
 由紀は、わざとオーバーに言いながら、新聞紙を開いて猫に近づいた。
「こんなの乙女には目の毒よね」
 早野香も無理をして言った。ここは由紀にあわせた。新聞紙をバケツの上にのせた。
「もちよ。でも、だからさっさと片付けちゃおうよ、ね」
 一瞬のことだった。由紀の手際はあまりに見事だった。机からただ眺めている生徒から見れば、まさに一瞬の間であった。
 新聞紙で猫の頭をくるむようにして釘から離すとすぐにその上から別の新聞紙で何重かに覆い、早野香の受けたバケツに入れた。由紀はすぐに、黒板の縁を雑巾で素早く擦ると、その雑巾を残った新聞紙で包み、猫の頭を包んで、すでに嵩張っているバケツの中に押し込んだ。
 どちらから言うともなく、二人はバケツを持って、教室から出ていった。桜の木の下に新聞紙ごと埋めて再び、教室に戻った。
 二人が手をハンケチでぬぐいながら、先ほど出ていった前の入り口から入ると、拍手が起こった。一人の生徒の拍手に続いて、そのとき教室にいた全員が拍手し始めた。
 二人は驚いて立ち止まり、怪訝な顔でみんなのほうを見た。そのとき、浅川毅が立ち上がった。
「ありがとう」拍手は少し少なくなった。拍手が完全になくなってはいなかったが、浅川は続けた。「ぼく達は、ただ気持ち悪がるだけで、何もできなかった。それを、由紀と早野香の二人が、あっという間に処理して、もとの教室にしてくれた。知らんふりをしたぼく達が情けないよ。・・でも、それよりもすぐに行動に移したきみたち二人に感謝するよ。由紀、早野香、ありがとう」
「ありがとう」「ありがとう」
 銘々に「ありがとう」の声を連打し、拍手が再び起こった。
 由紀と早野香は自分たちの席に着いた。拍手は次第に少なくなった。
「気持ち悪かったっー。でも、みんなに認めてもらえて、うれしー」
 由紀は勢いよく言った。
 早野香は由紀に感謝して続けた。
「わ・た・し・も」
 早野香の声にどっと歓声が起こった。   
 二人のややおどけた調子で、内面の緊張は隠すことができた。しかし、いつまで、この調子でやれるかわからない。早野香も、由紀も互いに相手の緊張がピークに達していることがわかる。
 
 救われた、と早野香は思った。駆け込みセーフ組の連中がどっと大挙して教室になだれ込んだ。いつものことで、たいして珍しいことではない。しかし、それでも今日のこのときほどこの瞬間に感激したことはない。
 教室の中で生じた二人の緊張を、これ以上隠しきれいないと、やや観念しかけていたのだ。それが、いつもと同じ光景であるのに、変なことのあった直後だっただけに、見事に教室の雰囲気を一変させた。これで、もうこれ以上へたな演技をする必要がなくなった。 早野香は由紀へサインを送った。由紀も大きく息を吸い込んで両肩を開いて安堵のようすを示した。
 駆け込んできた一団の中に、亜可祢もいた。これもいつものことだ。たいてい亜可祢はぎりぎりに来る。しかし、そのタイミングのよさは一流で、決して遅刻をしない。だから、今日その一団の中に亜可祢がいたからといって、驚くことでも何でもないが、早野香は、ちらっと亜可祢の姿を認めて安堵した。
 亜可祢は今入って来たのだから、この事件とは関係ないわ。でも、なぜ、最初に亜可祢のことを考えたのかしら。それに、あの由紀の緊張ぶり……、解らないことだらけだ。
 仮にこの事件と亜可祢がまったく関係ないとしても、自分たちは今まで以上に、亜可祢に気をつけていなければいけない。それはわかっている。今、何かたいへんなことが起ころうとしているのではないか。いや、すでにたいへんなことが起こっているのだ。猫の死骸が、それも死んだ猫の頭だけが教室の前に置かれるということ自体が、もうすでに異常なのだ。
 ふと気づくと、早野香は、頭の周囲にさっきから異常な波がたっているのを感じた。敵意? いや、それほど明確なものではないにしても、ある種の警戒信号だと思わざるを得ない。
 由紀から送られてくるメッセージとは思えない。亜可祢が出すパワーと自分のはりつめた感覚が共鳴して生じた波動だろうか? もし似たようなことを亜可祢が感じていたら、亜可祢はとっくにわたしたちが、意識していることに気づいてしまうだろう。
 できることなら、由紀と早野香の関係は亜可祢には知られたくはなかった。二人でこっそりと相談したのも、あるいは先程来の平静を装うことにあれほど神経を使ったのも、同じ理由からだ。
 もし亜可祢が、由紀と早野香の動きを察知したら、早野香らが恐れていることが起こりそうな気がした。
 
「亜可祢がアクションに入ったの?」
 頭上に広がる楠木の入り組んだ枝葉のそよぎを見回しながら早野香が言った。
「まだわからないわ。でも、そんな匂いがするわね」
 由紀がそう言うのだから、間違いないと早野香は思った。
「亜可祢は始業前に駆け込んだわ。だからと言ってあのいたずらが、亜可祢とは関係ないと言えるものでもない」
 由紀と目があった。早野香は、由紀と落ち着いて話がしたかった。昨日、由紀から警告されたとき、由紀の言葉を信じなかったわけではない。早野香はいつも由紀の言うことなら間違いはないと信じている。しかし、今日の事件が起きてみて、早野香は自分のうかつさに腹がたった。どうして昨日のうちに、由紀ともっと話しあっておかなかったのだろう。起こり得るすべての可能性を検討して、それぞれの対処の仕方を相談していてもよかった。それなのに、由紀の鋭敏なレーダーにキャッチされた事象から発した由紀の警告を、ただの警告として聞いた自分の愚かさ加減に腹がたった。
 由紀の後から続いた。階段を降りきったところで、誰もいないのを見計らって、由紀が口を開いた。早野香だけに聞こえる小声だった。
「掃除が終わったら、すぐに家に帰るのよ。いつものコースで。少しあとから付いていくわ。何か起こるかもしれない。でも、後を振り返ったりしないで。どんどん歩いて、とにかくお家に帰って。十分くらいしてから行くわ。そこでお話しましょ」
「ええ、わかったわ」
 由紀が階段を上がった。少し離れて早野香も戻った。階段にも、廊下にも誰もいなかった。早野香が教室に戻ったときには、由紀はいなかった。階段を上がってからそれぞれ別の方向に進んだに違いない。教室では、当番の生徒がうしろの方の掃除をしている。大部分が終わったようなものだ。
「ごめんなさい」
 早野香は、終わりかけた掃除を申し訳程度に手伝ってから、下校した。
 いつもと変わったことはなかった。クラブに行くもの。帰宅するもの。塾に急ぐもの。教室にいるものもやがてどこかへと去り、大きな口がぽかーんと開いているように、無人の教室が放課後の学校の中で静かに時を刻む。
早野香が教室を出るときには、いつもの常連のような連中が数人いるだけで、外は明るいというのに、閑散とした雰囲気になっていた。
 校門を出るときにクラスの友人と出くわしたが、二人の方角が違っていたために、二人はすぐに別れた。
 桜並木が土手沿いに続いており、国道に出るにはこちらが速い。
 
 早野香の前にも後にも同じ方向へ下校する生徒はいるが、知っている生徒はいない。
「何が起こっても……」と由紀が言ったことを思い出した。
 家に着くまで、何事もなければいいが……、いや何か起こるからこそ、後から着いてくると言ったのだ。何が起こるのだろうか。今朝の猫騒動のような奇怪なことだけは願い下げにしてほしいわ、と早野香は考えながら歩いた。
 早野香は自宅をめざして急いだ。あまり急ぐようすが、不自然ではいけないと思った。ここはできるだけ、普通に歩かないと由紀の意図していることにならないではないかと思った。多分、由紀はここで何かを期待している。それはきっと、由紀にとっては相手の胸のうちを探るチャンスになるに違いない。
 それは、亜可祢だろうか。たしかに一番気になるのは亜可祢である。思えば亜可祢が転校してきてから、不思議なことばかりが起きた。
 そして、ついに起こった今日の事件。これは考えようによっては、亜可祢の宣戦布告なのかも知れない。宣戦布告だとしたら、どう戦うのか? 
 早野香は掃除時間中に由紀の言った言葉を思い出しては、その意味を考えた。
 ……宣戦布告! それに応戦するのだ!
 夢から醒めたように、あたりを見回した。風もないのに、落葉がゆれている。
 
  早野香が自分のマンションに帰って,しばらくして由紀が来た。
「大丈夫だったわ。モニターしてみたの。ずっと貴方の脳波を妨害しようとしている,異常葉が飛び交っているから,どこまで付いてくるのかモニターしていたの。学校から離れると急激に減ったわ。ここでなら,何ら妨害されることはない」
「そんなに学校では異常波が検出されるの?」
「そう,だからおかしいと思っていたの。それがどこまで影響を与えているか知りたくて,早野香の跡をつけてきたの」
「ということは,私たちというよりも,学校に仕掛けがあると考えたほうがいいのね」
「当たり! でも,次はそうはいかないわよ」
「というと?」
「今度は直撃,ってとこかな。油断大敵ね」
 早野香は由紀の自信が頼もしかった。と同時に一抹の不安もあった。というのは,由紀が考えていることに瞬時についていけないからである。何か一言示唆があってはじめて,由紀の言っていることがわかる。もし,由紀の助けがなければどうなるの? 早野香は自分の力の限界を今ひしひしと感じた。
 
「早野香、来て!」
 由紀の目が光った。早野香も由紀の目を見た。パチンと火花が飛んだ。
 二人で猫の頭を埋めたところを掘り返す。新聞紙と雑巾があるだけで、猫の骨も頭も出てこない。
「これ、一体どういうことなの?」早野香は呆然として自失の態である。何が起こったのかわからない。あるいは、なぜ由紀はここに早野香を誘ったのか? 自分にはわからなくても、早野香にはこのことがわかっていたのだろか。
「教えて! 一体何が起こったの? そして、由紀はなぜこのことがわかったの?」
 早野香は、じっと由紀を見た。由紀も、早野香を見た。
「・・・ええ。でも、説明できないわ。何となくこんな感じがしたの」 
「感じ?」早野香には何のことやらわからない。
「ほら、あの時・・・猫の死骸を処理したとき、全くと言っていいほど気持ち悪くなかったでしょう。それに、臭いも何もなかった。だから、あれは夢を見ていたような気持ちだと、後で気づいたの」
 早野香は、自分の頭を金槌で殴ってやろうかと思った。どうして、自分はこんなに血のめぐりが悪いのだろう。同じように感じていながら、それを今由紀に言ってもらって、やっと気が付くとは・・・・。自分に腹が立った。硝子があれば割ってしまうだろう。自分の気持ちを抑えることができなかった。
「だから・・・」由紀は続けた。「だから、私たち催眠術にかかってたも同然よ。ええ、催眠術よ」
 そう幻覚だったのだ。
 そう言えばあのとき、臭いがしなかった。早野香は、はじめは気持ち悪いと思った。しかし、事務室から新聞紙をもらってきて、教室に戻ったときは、猫の死骸ではあったが、まるで今から考えれば、プラスチックのおもちゃを捨てたような気持ちだ。
 次の日、亜可祢がいない。
 そして、次の日も亜可祢は来なかった。このようなことが一週間続いた。そのとき、早野香は、亜可祢の机が消えていることに気づいた。突然! いや、突然ではない。そしたら、いつから? 早野香には思い出せないのだ。こんなことがかつてあっただろうか。たった一週間の出来事なのだ。亜可祢は一週間前から来なくなっている。しかし、机はそのときはあった。それが一週間で、少しずつ消えたのだ。
 なぜ,亜可祢は早野香と由紀の前に現れて、そして忽然と消えたのだろうか。早野香には理解できなかった。由紀は、少しは手がかりを掴んでいるのだろうか。由紀の解答が与えられるまで、早野香は自分で考えてみようと思った。今度こそは、自分で考えてみようと思った。crystalrabbit