2020年11月30日月曜日

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史記

武田泰淳氏の『司馬遷史記の世界』は早くから持っていたが、なかなか終わらない。そのうち終わったのだが、内容がするりと抜け落ちてしまった。そこでやはり、原典に当たらなければならないと気づいた。

いろいろ紆余曲折はあったが、「世界の名著11」の「史記列伝」から入ってから続きだした。確かに面白いと感じたのは俠客列伝ではなかったかと思う。

有名な荊軻列伝であっただろうか。始皇帝を殺しに行く。その別れの席で風瀟々として易水寒し勇者一度去ってまた帰らずと歌うところは圧巻であった。

天皇の世紀

これも忘れがたい作品である。巻頭の明治天皇の誕生のところは暗いイメージに満ち溢れていて、徳川幕藩体制下で、公家がいかに貧しかったかということが想像された。その暗さに思わず、この本を閉じてしまおうかと思ったが、ここをクリアーすると、知らない世界のオンパレードなのである。幕末のことはだいたいわかっているという自信が見事に打ち砕かれたのは、第一巻が終わった頃ではなかろうか。

ローマ人の物語

 

ローマ帝国衰亡史

辻邦生さんの『背教者ユリアヌス』を読んだ時から、一度は読まないといけないと思っていたが、いざ読み始めたのは、ずっと後年である。

 

シェイクスピア

 

 

 

 

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2020年11月20日金曜日

ふるさとの史跡を訪ねて(増補版)161-170回

本館 白滝山 いんのしまみち

ふるさとの史跡をたずねて(161)

  四国八十八ケ所御本尊(因島重井町白滝山)

  八十八け所ではなく、八十八か所と読んでほしい。なぜなら八十八ケ所のケは箇の字の竹        冠の左側だけを記して、八十八箇所を略して書いたものが、カタカナのケで表記されているにすぎないからである。すなわちケはカタカナではなく漢字の箇の略字なのである。

 さて、前書きが長くなったが、四国八十八ケ所御本尊というのも奇妙なものである。私も四国は二度お参りしたが、どこにも四国八十八ケ所御本尊というのはなかった。四国の場合には、初めか最後に、例の「大師はいまもおはします」の高野山奥の院にお参りする。しかし、奥の院はあくまでも奥の院であり、八十八ケ寺全札所の代わりをするものではなかろう。

 四国巡拝においては本堂と大師堂の前で般若心経を唱えるのが流儀であり、本堂の前というが、各札所の御本尊の前ということである。そして各札所の御本尊は同じものもあるが、それぞれ異なるのであるから、ある特定の御本尊を四国八十八ケ所御本尊ということはできない。

 その理解できない四国八十八ケ所御本尊が白滝山山頂の、弘法大師立像の隣にある。これは何を意味するのだろうか。

 弘法大師立像の前で88回般若心経を唱えたつもりで、一回読めば、やはり各札所の御本尊の前で・・ということになるので、それを代表するものとして、奉納しているのだとは思うが、実態は何なのかわからない。

 重井町史年表によると「文化13年(一八一六)白滝山上に四国八十八ケ所本尊分霊を祀る」と書いてある。神仏習合の時代であったのだからいいのかも知れないが、今風に言うとお寺とお宮は違うのだから、分霊という言葉はそぐわない。それはさておき、分霊という文字に注目すれば、やはり四国に御本尊の本体がありそうなのである。しかしそんなものは聞いたことはない。

 繰り返しになるので、詮索はやめて、私の想像を書く。全札所の御朱印を頂いた納経帳とか、あるいは全札所の砂を奉納してあるのなら四国八十八ケ所御本尊と言ってもよいだろう。そのようなものは見えないから、埋めてあるのかもしれない。 


ふるさとの史跡をたずねて(162)

山四国八十八ケ所(因島三庄町)

 何かいいことをすると、それを見た人が真似をする。このようにして漁業や農業の技術は広まり、近代になって工業も広まった。同じようなことが精神的な分野でも起こり、お宮が勧請されて祭りが真似られ、地域の実情に応じて変わってきた。かくして文明・文化は発展し、物心両面で人びとの暮らしを豊かにしてきた。島内の各地に四国八十八ケ所があるのも、この流れから考えれば特別珍しいことではない。

 しかし、八十八個も札所を作るということは、簡単なことではない。周到な計画と熱意がなければできない。いや熱意だけではなく経費もかかることである。そして、できたらできたで守っていかないと、いつしか忘れられれたり、壊れたりする。

 土生町と三庄町の境界をなす山稜は、これまでに何度か取り上げた。北よりの西側が因島村上氏第二家老の稲井氏の居住地であった。江戸時代土生村の庄屋を勤めた大土生宮地家の屋敷跡が本宅、對潮院が別邸だった。山頂を小丸城跡と呼んでいる。本宅と小丸城跡の間に宝地谷があって、多数の一石五輪塔などが往時の繁栄を偲ばせる。そこから山頂を目指して登ると、途中に論師石(どんじいし)があった。さらに三庄町へ下るように峠道は続く。

 その峠道の一つに沿って、立派な石堂がいくつかあり、四国八十八ケ所のミニチュア版だと一目でわかる。これらは三庄町明徳寺前の寺谷公園から始まる、山四国八十八ケ所である。一部番号順でないものもあるが、これは長い歴史の中で何度か崩れたりしたせいであろう。それにしても、これだけ揃っているのは、設置した場所が良かったという面も忘れてはなるまい。山の高さも適当であった。例えば、観音山とも呼ばれる因島最高峰の奥山には、複数の西国三十三観音があるが、維持するのにも大変だったと思う。信仰心、生活習慣が変わったのであるから設置場所のことまで現代の感覚で議論しても意味はなく、結果論に過ぎないが・・。

 現在では自然災害に加えて、イノシシの被害も考えなければならない。妙案とてないが、かなりの重量のある石であるだけに、一度壊れると修理するのが大変である。


ふるさとの史跡をたずねて(163)

田熊村四国八十八ケ所(因島田熊町)

 前回の三庄町の山四国八十八ケ所は限られた地域に集中していたが、町内の幅広い地域に分布している場合がある。これらの多くは江戸時代後期にそれぞれの地域が村と呼ばれていた頃建立されたと考えられ、村四国八十八ケ所と呼ばれている。  

 ここまでくると、因島全体のものもあり紛らわしいので、慣例により、四国四県を巡るものを本四国、因島全体を巡るものを島四国、町内で完結するものを村四国と略称することにしよう。因島の場合は島四国も村四国もほんのわずかの例外を除いて、本四国と同じ名称であるが、生口島や大島では、島四国のある元の建物、例えば薬師堂とか、お寺の名前を番号の次に記し、本四国の寺名を小さく書いてある。また、佐木島の場合は番号の次にご本尊の○○観音菩薩などと書いており、戸惑う。

 ということで因島に限って話を進めれば、同じ寺名ということは、その手続きや流儀はともかく、本四国の各寺を勧請したということである。私事を記せば、本四国を巡拝している時には本堂前で般若心経を奉納するだけで、ご本尊のことは意識したことはなかった。しかし、因島でその亜流を考える時は、何を勧請するかといえば、言うまでもなくご本尊で、それが無ければ勧請したことにならない。そして、本四国では大師堂でも般若心経を奉納するという流儀に従えば、弘法大師様は不可欠ということになる。だから、島四国でも村四国でも、ご本尊と弘法大師像がセットで一札所ができるのである。このことが忘れられて、片方だけが移されたり、ご本尊が二体あるお堂があったりするから、これらの大師信仰は多くの人たちから忘れられていたということであろうか。

 そのような不揃いのお堂もあるが、壁や塀の中などに作られたお堂が町内に多くあるのは田熊町も例外ではない。そしてその多くが田熊村四国八十八ケ所であろう。写真は浄土寺の鐘楼の近くから上へ出て、岡野明神の方へ進んでいく道の、すぐのところのもので、1番霊山寺であると思われるが、証拠がないものは、他との関係で変わることもある。



ふるさとの史跡をたずねて(164)

中庄村四国八十八ケ所(因島中庄町)

 中庄町にある中庄村四国八十八ケ所は入川橋のところに1番と88番がある。65年ほど前に何度か祖母に連れられて、そこにあった宮地医院へ行ったことがあるが、見てはいない。重井の一本松から浜床まで家は一軒もなく、ため池が点々とあったのを覚えている。そのため池は、因島北インターの入り口とひだまりの下には今も残っている。鴨が泳いでいたひょうたん池はゲートボール場などになった。片刈池と表示されているが古い地図ではひょうたん形に描かれているので、ひょうたん池とも呼ばれていたのだろう。狭い道を時々ボンネットバスが砂埃をあげて走っていた。すなわちアスファルトで舗装されていない道路は道路と呼ばない時代が来るのは、その頃よりもずっとずっと後の時代なのだ。村四国もそんな道端に雑草に取り囲まれてあった。蛇やムカデはもちろん、ヤモリが棲んでいたお堂もあっただろう。我々が知っているセメントで囲まれたり、固定されるようになるのは、村四国の歴史の中では長くはない。

 島四国が作られた明治45年の頃も、もちろんセメントで固定などされていなかっただろう。だから新しく建てられた島四国のお堂に、近くの村四国が取り込まれるのは容易なことだった。もちろんそれは村四国の存在そのものが忘れられていた証拠でもあろう。とにかくお堂だけでも建てて、内部のことは追々・・と考えるのが自然だ。そういう状況に村四国は、誠に好都合だった。また、雨ざらしのものをお堂の中に納めてあげたという善意もあったことだろう。かくして、村四国は島四国によって破壊された。反面、時代とともに道路改修等で行き場を失った村四国にとっては、島四国の中に置いておけば保存されるという気運も生じた。かくして島四国は村四国に対して破壊と保存という両方の役割を果たした。同時に大師信仰は村四国から島四国へ変わった。これは中庄町に限らず他の地域でも同じだった。

 中庄町黒松の若八幡社(祇園さん)の境内にある島四国13番大日寺には村四国の56番泰山寺と57番栄福寺が保存されている。(写真)






ふるさとの史跡をたずねて(165)

重井村四国八十八ケ所(因島重井町)

 重井町の重井村四国八十八ケ所のうち特別に立派なのが55番南光坊である。その立派さから、私は重井町の人たちが南光坊へお参りしていた講を思い出した。

 別宮山南光坊は四国の人たちがわざわざ大山祇神社へ船でお参りするのは大変だから、四国の地に勧請したことに始まる。だから重井町から毎年別宮山参りの船を仕立てお参りしていた理由がわからない。何も来島海峡の急流を横切って今治までお参りしなくても、本家本元の大三島の大山祇神社にお参りすればよいではないか、と思っていた。ところが最近南光坊にお参りして、寄付石に重井の人のみならず、因島の多くの人の名前があることを知った。大阪の住吉神社や讃岐の金比羅さんには、因島の人たちの寄付名がたくさんあるというのは有名な話であるが、本四国55番別宮山南光坊もそれに加えておきたい。

 大三島の大山祇神社は古くから山、海さらに戦の神を祀っており日本の総鎮守と呼ばれたこともある、そのようなご利益に、弘法大師信仰も加わって、特別な権威が生じたのかもしれない。

 そのひときわ立派な重井村四国55番別宮山南光坊は重井川沿いの、長右衛門新開の北西の隅に、青木城跡を背景にして鎮座している。その石堂は立派なだけでなく、多くの文字が彫られているのも特色で、石工の名前は読み取れないが、尾道石工の製作によることがわかる。また嘉永三年の文字と「再建願主二百人講連中」の表記は、嘉永四年に末広講と名称を変えていることから、それまでは「二百人講」と呼び、「末広講」の文字がある他の札所は嘉永四年以降のものだということもわかる。

 外浦町の村四国は全貌がわからない。八十八の全札所が完成しており、その後行方不明になったのか、あるいは完成していないのか、私にはわからない。土生町の村四国については、さらに未解明で、時々村四国の跡か、というような記述に出会うだけである。大師信仰は現在まで続くのであるが、村四国の製作と前後するような形で白滝山の石仏工事が行われており、庶民信仰はまさに百花繚乱であった。




ふるさとの史跡をたずねて(166)

誤伝・十字架観音像(因島重井町白滝山)

 青木茂氏の『因島市史』(昭和43年)は渾身の大作で、デジカメもワープロも無かった時代に、孤軍奮闘されたようすがいたるところに現れており、頭が下がる。しかし、気になる表現もある。白滝山には「全国的に珍しい十字架観音像があり・・」(897頁)と記されている。 

 青木茂氏が山陽日日新聞の記者の時代であれば、こういう表現も許されたかもしれない。だが、『因島市史』執筆時は歴史学者になられており、青木氏自身も歴史学者として、『尾道市史』『新修尾道市史』同様、全力で執筆に当たられたものである。ならば、真偽を確かめ、真に全国的に珍しいものであるなら、もっと頁を割いて、その歴史的意義などを考察すべきであった、と私は思う。

 実は、これまでにも何度か書いたが、写真のような石仏を十字架観音像と呼ぶことは、常識的にも、また学問的にも間違っている。周辺の石仏と比べても江戸時代の後期に作られたことは間違いなかろう。そうすると隠れキリシタンが、人目につくところに十字架など彫ることは考えられない。また、文字は消えて読めないが右下に枠があって作者の尾道石工の銘があったと思われる。作者名を書いて、十字架を彫るということは自殺行為以上の愚行である。まずあり得ないことであろう。

 次に学問的には、キリシタン灯籠をはじめとして、隠れキリシタンの遺物は、周辺にキリスト教信仰に関する聖書、クロス等の物品が発見されてはじめて隠れキリシタンの遺物だと認定されるというのが、キリスト教文化史家の常識である。そうであろう。今でも古い農家の蔵にはいろいろなものが保存されている。その中のホコリをかぶった建具などの格子が、ネズミのオシッコか何かで左右が短く見えると十字架のように見える。このような物を隠れキリシタンの十字架だと喜んでいてはキリがないではないか。

 写真のような武具を持った観音像はよくあるもので、決して珍しいものではない。それを十字架だという珍説が50年以上も語り継がれてきたことの方が、よっぽど珍しい。




ふるさとの史跡をたずねて(167)

西国三十三札所(因島重井町白滝山)

 しまなみ海道の各地や白滝山から見る景色は確かに素晴らしい。それらを世界的に見て一流の観光地だと思うのは勝手であるが、しょせん井蛙(せいあ)の夢に過ぎない。我々は、せめて二流の観光地を目指して、三流にならないように努力すべきであろう。

 さて、白滝山の巨大な釈迦三尊像の南側にはぐるりと丸く、それも螺旋状に石仏を配置した西国三十三観音がある。写真うつりも良くなく、設計ミスだと思う。四国八十八ケ所御本尊などがあって、そちらの聖地になっては伝六さんゆかりの三十三札所がかすんでしまうと思って慌ててはめ込んだのかどうかは知らないが、良くない配置だと思う。

 慈悲深い観音菩薩さまはなぜだか様々な武器を持っておられる。中には槍の先に刀を受ける鈎形の水平に伸びるものが付いていたりする。それを簡素に十字状に彫ったものもある。これがまた、ある人たちの目には十字架に見えたらしい。さらにそれに反発したのか、わざわざその部分を削った痕跡があるのには、複雑な気持ちになる。私はキリスト教徒ではないから、クリスチャンの気持ちはわからないが、こんなものまで十字架と呼ばれたら不愉快だと思うだろう。ところが、白滝山を隠れキリシタンの遺跡だと思い、時を隔てて同じ信仰の仲間を見つけたと思ったのか、喜んだ人がいたのには驚いた。白滝山の石仏群は作られた当時から多くの人に見てもらうのが目的だった。また、江戸時代のキリシタン禁制というのは、一部の地方の法律などというものではなく、徳川幕府そのものと言っていいほどの、最も厳しい法律であったことも忘れてはなるまい。

 それでは白滝山の十字架というのは、何だったのだろうか。それは、戦前の鬼畜米英から一転して国際親善を教え始めた青い山脈の新制中学校教師、不勉強の新聞記者、二流と三流の区別のつかない観光推進者たちの、無知の連鎖が生み出した共同幻想だった、と私は思う。

 ここが舞台と考えられる湊かなえさんの小説「石の十字架」は、タイトル通り愚史の記念碑として、長く読み継がれるであろう。




ふるさとの史跡をたずねて(168)

一観夫婦像(因島重井町白滝山)

 白滝山上の石造物の中でも正面の釈迦三尊像についで目を引くのが、頂上近くにある伝六夫婦像である。(写真)白滝山上に五百羅漢像を作ろうと提案した柏原伝六は観音道一観と自ら名のったので、一観夫婦像と呼ばれている。

 伝六は、仏教、神道、儒教に当時ご禁制のキリスト教を加えて一観教という新しい宗教を作った、と多くのところに書かれている。今回はこの文章の妥当性について考える。結論から記すとこれは全く間違っている。それは神道やキリスト教がいいとか悪いとかいう倫理の問題ではなく、思考の論理の問題である。

 私が調べた限りでは、伝六生存中も、死後も、そして現在も

一観教を名のる宗教集団は存在しない。

 それでは、簡潔に言って一観教とはどんな宗教なのか、と調べてみても、これまたどこにも書いていない。もちろん詳しく、具体的に一観教について書いたものもない。

 新しい宗教という以上、他の宗教と異なる独自の概念があるであろう。それが何であり、ここにいう四つの宗教とどのように違うのかということも説明されなければならない。例えば、伝六の言う愛は仏教の慈悲、キリスト教のいう愛(アガペー)、儒教の仁などと、どのように違うのか。

 そして何よりも大切なことは、儒教的道徳が禁制のキリスト教を取り入れることの矛盾、それを伝六がいかに解決したのかということも、解明しておかなければならない問題である。

 また、現代の多くの人が感じているように、宗教と葬式との関係も不可分である。伝六の百回忌は因北各寺の曹洞宗の僧侶を呼んで盛大に行われた。すなわち誰もが曹洞宗から伝六が抜け出ていないことを認めていた、ということであろう。

 以上のことから想像するに、宗教というものが小学生の足し算や割り算のようにしてできると考えた人が言ったことが、無反省に書き写されてきたということであろうか。

 このような実体のない言説を意味もわからずに書き写す行為は、知性の欠如以外の何物でもない。書いた本人がわからないようなことを書いて観光客を愚弄するのは、そろそろ辞めようではないか。


 



ふるさとの史跡をたずねて(169)

八栗寺(因島重井町白滝山中腹)

 因島四国八十八ケ所85番八栗寺は白滝山中腹の岩の上にある。垂直に近いその岩は、お堂の前からは見えないが、下から見るとかなり険しい崖となっている。(写真・左端)さらにそこから前方を見るともっと大きな岩が垂直に立っている。修験者、すなわち山伏にとっては格好の修行場であっただろう。

 そのような大岩が白滝山には至るところある。だから白滝山というのはそれらの岩の上を、雨が降ったら滝のように白い水が流れたから、そのような名前になったのだろうと想像することはたやすい。そしてまた、いろいろなところに名前の由来として、そのように書かれている。

 ならば、そのような現象を見たことのある人はどれくらいいるのであろうか。私の想像では恐らく一人もいないと思う。すなわち、この白滝山の名前の由来が、「十字架」や「一観教」とともに怪しいのだ。これまた誰かがもっともらしく書くと、あとは雪崩のように書き写され、あたかも定説のようになる。

 今は白滝山と呼ばれているが、字(あざ)は滝山である。タキザンと読むのであろう。滝山というのなら、水の流れる滝が一つや二つではなく、何個もあるような印象を受ける。そして、そんなことはあるまいと、ますます疑問に思う。

 谷川健一さんの『日本の地名』(岩波新書)に、「中国地方より西ではタキの地名は断崖をさす」とあった。これなら、納得ができる。『日本国語大辞典』(小学館)にも「たき」(方言)として、絶壁、崖が中国、四国、九州地方などで使われているこが示されている。

 また、人によっては嶽、岳の字を当てたり、水の流れを表す滝も、もともとは崖のような地形を表す言葉が次第に水の方へ意味が移ったと考える人もいる。

 以上のことから因島の白滝山に関しては、水の流れる滝とは関係はなく、崖山(ガケヤマ)、あるいは白いガケヤマの意味だと考えたほうがより合理的である。





ふるさとの史跡をたずねて(170)

石観音(因島重井町白滝山)

 子供の頃読んだ本で、いつまでも不思議な印象が残っている話に「ハーメルンの笛吹き男」というのある。ネズミ退治をした笛吹き男に約束の報酬を払わなかったので、男がネズミを退治した笛で子供たちを連れ去ったという、ありえないことだろうと思いながらも、妙に現実感のある話であった。阿部謹也さんの『ハーメルンの笛吹き男』(ちくま文庫)はその謎解きをした本であるが、童話にも色々な歴史の痕跡をとどめているものがあるという例である。

 白滝山には「白滝伝説・恋し岩」という創作民話があり、その岩もある。『芸藩通志』に記載されている「石観音」とは、これのことだと思われる。それでは、白滝山の観音信仰の原点ともいうべき石観音がどのような訳で恋し岩伝説になったのだろうか、考えてみたい。

 白滝伝説・恋し岩は白滝という名の相撲取の話と、さわれば恋が叶うという話をつなぐ悲恋物語からできている。前半は、よくある地名語源説話で民話の「重の井」「弓瀬宗十郎」などと同様の構造をしている。すなわち、既にある地名なり人名の由来を説明する知的遊戯で「聖書」の中にもあるように、どこにでも見られるパターンである。力士白滝はその岩を麓から持ち上げるほどの怪力の持ち主だから、相撲史に名を留めていてもよさそうであるが、この話以外の記録はなさそうである。岩そのものは石仏等と色が違っているが、屋内に置かれていたため風化されていないだけで、山門下の石垣工事で出てきた露頭と同じ地肌で、山上のものと考えてよい。だから、前半は伝説とは言い難い。

 さて、白滝山の古いパンフレットには本堂前に陰陽石があると書いてあるが、それらしきものはない。敢えて探せば、ハート形の水鉢が陰石で、この石観音が陽石ということになる。そう考えれば、塀の下の裏参道に、子授けのご利益のある塩竈(釜)大神が祀られていることと話が合う。このようなことを下敷にして作られた話であれば「白滝伝説・恋し岩」と呼ぶ価値がある。そうでなく当今流行りの三流観光地を真似て作られた話なら「創作民話・恋し岩」とすべきであろう。




  写真・文 柏原林造

➡️ブーメランのように(文学散歩)

ふるさとの史跡を訪ねて(増補版)171-180回

本館 白滝山 いんのしまみち 

ふるさとの史跡をたずねて(171)

釈迦三尊像(因島重井町白滝山)

 猿に玉ねぎをやると目をこすりながら皮を剥いでいき、最後に食べるところがなくなり怒るという話がある。白滝山の四大誤謬を書いてきたのだが、こんなことばかりやっていると、ラッキョウの皮を剥いている猿だと笑われそうだから、そろそろ食べるところを残しておく。

 だから柏原伝六は何をしたのか、そしてそもそも白滝山とは何かということを考えてみたい。

 しかし、白滝山に650以上の石仏群を作るパワーはどう考えてもわからない。例えば、650枚の写真なり絵画なり、粘土細工のようなものを白滝山に置くと考えてみれば、大変なことがすぐにわかるだろう。人一人では持ち上げれないような石仏が大部分であるのだが、それを我々が日々目にする重機など無かった時代に、作り並べるということは、企画力、経費、マンパワー、どれをとっても想像を絶するとしかないと、はじめに表明しておく。すなわち、どうやって(単なる方法だけでなく、あらゆる面で)作ったのか、ということは私にはわからないし、今後もわかることはないと思う。だから、わかることを少しずつ書くことにする。

 まづ、白滝山の石仏群の中心は釈迦三尊像であろうから、これを見ても、あるいは周辺のものを見ても、白滝山が仏教遺跡の模倣であることは確かだろう。そしてどこにも新しい宗教を伺わせるものは感じられない。むしろ逆に、宗派にとらわれない古い形での仏教そのものを信仰するのだという強烈な意志が感じられないであろうか。

 ただ釈迦三尊像はよくあるパターンであるが、その周辺に十大弟子、羅漢像を配するのは、禅宗の例を踏襲していると言える。





ふるさとの史跡をたずねて(172)

白衣観音像(因島重井町白滝山)

 伝六の著作の中に功過自知録というのがあった。他の人の名前もあったが、他の著作と一緒に綴られていたので、他の人の著作を参考に伝六が考えたものだと思っていた。類似のものが翻訳されて出版されていたということがわかったので、古書を求めて比較してみると、その人の著作を写したものだったということがわかった。

 その内容は一言で言うと、道徳の点数化である。多数の善い行為、悪い行為が点数化されており、毎日記録して集計する。月ごとに集計し、また1年でも集計する。その古書には集計表まで付いていた。

 今でも生徒に家庭での学習時間を記録させている中学校があると思う。テレビ、読書、勉強などと分けて日々の時間数を記録し、週ごとに集計する。はじめのうちは、学習時間が増えるので、効果があるかも知れない。

 伝六は観音菩薩の生まれ変わりと称し、観音道一観と名乗ったのだが、難しいことを言ったわけではない。二百年も前の、各家庭には時計もなかった時代の農村である。善い行為を多くするように心がければ、規則正しい生活になり生産性も上がる。熱心に実践すればするほど生活は豊かになり、家は富む。

 伝六はどこかで、その功過自知録を知り、わかりやすく説明して広めた。このことだけでも、時代と地域を考えれば凄いことである。社会教育化としての伝六を、まず評価してよいだろう。

 おそらく伝六とその弟子たちは、宗教的情熱をもって説明したのであろう。生活が豊かになった人たちから送られたのが白衣観音像である。これは伝六の姿を表現していると言われている。

 宗教家としての伝六を考えたとき、白衣観音像は何を意味するのであろうか。伝六自身が観音菩薩だと言っているのだから伝六崇拝と観音崇拝が重なる。すなわち現世御利益祈願の観音信仰(伝六信仰)が成立したと言える。

 と同時に、伝六の道徳家的一面がここに起因することにも注意したい。この面は戦前の修身教育によく合い、伝六と白滝山は大いに持てはやされたことが容易に想像できる。




ふるさとの史跡をたずねて(173)

平和一神碑(因島重井町白滝山)

 私の宗教は、葬式仏教としての曹洞宗である。従って座禅はしない。それはさておき、だから他のいかなる宗教にも、文化史的な関心はもっても、信仰心からの関心はもたない。

 さて、伝六の普及の功績として大きいのが、道徳の点数化である功過自知録である。これは明代の中国で生まれた。土着宗教の儒教、外来宗教の仏教、新興宗教の道教などが混ざっている。「陰騭録」という本がある。隣の一人暮らしのお婆さんが怪我をしたので毎日食事を運んだら、孫の代になって地方の長官になって金持ちになった、というような話が延々と続く。「積善の家には必ず余慶あり」という。善いことをしたら仙人になれるというような話から来ているのだろう。その積善の具体的処方が功過自知録で、各種できた。我が国では袁了凡の「陰騭録」と袾宏の功過自知録を組み合わせたものの翻訳本がよく売れた。伝六が見たのはそれだった。

 だから伝六の道徳を儒教的だと思うのは正しくない。論語や孟子のどこにも道徳の点数化は書いていない。

 あえて書けば、功過自知録はわかり安いが、不完全な理論だと思う。例えば、殺人(実際入っている)がマイナス百点だとすると、プラス十の善行を10回すれば帳消しになるではないか。すなわち、「してはいけないこと」と「しない方がよいこと」は明確に区別されなければならないと思う。

 それにもかかわらず、功過自知録の普及は伝六の活動の中でもわかりやすく、それがあったからこそ白滝山の石仏群ができたと思う。

 今では宗教法人として登録されている修養団俸誠会の平和一神和石は全国に何箇所かあるが、ここ白滝山頂のものが最初にできたもので、昭和34年に建てられた。創始者の出居清太郎氏が伝六の話を聞き、観音道一観から「平和一神」(へいわいっかん)と命名されたものである。毎年年祭が行われている。伝六の人格に共鳴されたものだと思う。

 昭和27年に重井町へ俸誠会と生長の家が伝わった。伝六の功過自知録の普及活動によって重井村民の道徳性が向上した。その地盤で修養団俸誠会が多いに栄えた。出居総裁を伝六の再来と思った人がいたかどうかは、私は知らないが、伝六の教えと俸誠会活動には通じるものがあるのだろう。それを象徴するものが平和一神和石である。




ふるさとの史跡をたずねて(174)

阿弥陀三尊像(因島重井町白滝山)

 白滝山は地元では観音山(かんのんさん)と呼ばれ、それはまた観音様の「かんのんさん」で、伝六さんのことに通じている。しかし、白滝山の大石仏群が単なる観音信仰の表現でないことは誰の目にも明らかだろう。では五百羅漢と呼ばれるように羅漢信仰かというと、そうでもない。では、白滝山とは一体なんだろうか。

 功過自知録の普及の効果は絶大であった。しかし、いつまでも功過自知録の普及だけを続けていくわけには行くまい。成功が大きかっただけに、民衆は伝六に更なる御利益を期待したことであろう。伝六にとっては、引っ張っているつもりが、いつの間にか民衆に押されていたという感じではなかったか。

 その熱気に押されて建設されたのが、白滝山の大石仏群である。ここで四国16番観音寺の御詠歌を思い出していただきたい。「忘れずも導きたまえ観音寺 西方世界弥陀の浄土へ」。庶民を弥陀の浄土へ導くのが観音さまの役割だという意味である。聡明な伝六がこのことを知らなかったとは思われない。

 白滝山の最高部に阿弥陀三尊像があることから伺えるように、白滝山は極楽浄土の具現であった。ではなぜ五百羅漢と呼ばれるのか。それは、庶民一人ひとりが羅漢となって極楽浄土(白滝山)に行こうという考え方である。また、観音信仰・五百羅漢であれば、地元の曹洞宗の範囲内であり、体制順応の伝六が曹洞宗に反旗を翻したのではないことをよく表している。

 これは、白衣観音像に象徴される現世御利益の観音信仰(伝六信仰)から、来世往生の阿弥陀信仰への見事な展開である。

 ただ、「あなたの極楽浄土を作ろう」と言ったのでは、お金は集まらない。「あなたと共に家族や周りの人たちの行く」極楽浄土であったはずである。なぜなら「積善の家に余慶あり」と教えられているのだから、お金を出したり石仏をみずから彫る行為が、「善」にならなければならないからである。

 かくして、信じられないほどの多くの人の寄付と協力によって白滝山の大石仏群が完成したのであった。これを伝六の人徳と呼ぶか、あるいは今風に「洗脳」と呼ぶかは、紙一重の差もない。




ふるさとの史跡をたずねて(175)

伝六墓(因島重井町白滝山中腹)

 白滝山中腹にある伝六墓所のある小広場は地元では「伝六さん」と呼ばれていた。だから、ここの地名は「通称墓所」ではなく、正式名称「墓所」で「通称伝六さん」なのである。

 ここには、かつては小さな建物があった。墓守の風習について私は知らないので、井上靖さんの小説『孔子』で想像するだけであるが、偉人には弟子の何人かが死後何年か墓の管理をしたのであろうか。数年はここで、その後頂上に住み、堂守と呼ばれていた。何代も続き、その堂守の何人かの墓もここにある。(写真後方)

 伝六の死については次のような曖昧な話がつきまとう。①百姓一揆の疑いで広島藩に呼びだされた。②無罪放免されたが、毒を盛られて帰された。(あるいは帰郷後毒を盛られた)。

 百姓一揆と宗教活動の区別がつかないような役人(武士)を抱えていたら、浅野広島藩が幕末までもたなかっただろう。伊予大島では島四国八十八箇所を作っただけで罰せられた時代である。処罰し白滝山石仏工事を中止させることは、その気があれば簡単にできたことであろう。

 一流のガイドは、こういう話はしない。そうでないガイドは時間を持て余すのか、こういう話をしたがる。(私は一流になれないので、ガイドなど極力お断りしている)。

 こういう噂話などを書く場合はそれを信じているのか、信じてないのか一言付け加えておくべきであろう。それの書けない、無署名のパンフレットや看板にはそのような噂話など書かないことだ。

 思うに、ドラマや映画を見ていると、一部の英雄と多くの悪人が主役で、また遅れた時代だから、殺された人の方が偉いと思いがちである。しかし、主役になることのない、その時代の法律を守り、日々営々と生活している普通の人たちによって歴史は作られきたことを忘れてはならない。

 虚心になって考えればよいことである。『碧巌録』に一盲引衆盲(一盲衆盲を引く)と戒めてあるが、難しいことである。





ふるさとの史跡をたずねて(176)

奥之院(因島重井町白滝山中腹)

 白滝山へ登る人の大部分は八合目の駐車場から歩くが、表参道は東の浜の重井郵便局のところから始まる。青木道を通って川口大師堂(島四国屋島寺)下の変形四つ辻で左に曲がって東へ方向を転じる。道なりに進んで重井村四国80番国分寺のところで伝六ロードを横切って進む。次に因島ペンション白滝山荘の赤煉瓦の塀沿いの石段を登る。竹藪を迂回すると、百華園からの道が合流してくる。前回の墓所(通称伝六さん)の手前で、自動車道からの登山道と合流する。墓所のすぐ上に白滝山の石造物中最大にして最高傑作である仁王像があり、その上に六地蔵が両側にある。だらだらと登ってくるような調子で、だらだらと書いてきたが、ここからが今回の主題である。

 六地蔵の上で参道は二つに分かれる。左へ大きく曲がるのが表参道。やや右へ進む道は無粋にも「遊歩道」などと書かれているが、「くんぐり道」と呼ぶ。大きな岩の下をくぐるからである。阿蘇山なら噴火の状況に応じて通行止にしないといけないだろうが、因島は火山地帯ではないので、この「くぐり岩」が落ちるような地震はまず起こらないと思う。だが別の理由によってしばしば通行止めになる。その時は八合目駐車場からの登山道の表参道との合流点近くから降りてこれるので、そちらを迂回すればよい。目指すのは島四国八栗寺である。

 八栗寺のお堂の左側、すなわち山頂側を南に伸びる小径がある。この突き当たりが奥之院と呼ばれているところである。

 さて、奥之院としては次の3つが考えられる。①島四国八栗寺の奥之院、②白滝山の奥之院、③善興寺の奥之院。このうちのどれであろうか。一時、白滝山そのものが善興寺の奥之院となったことがある。だから、ここは③ではない。島四国は田熊町に、例の彩色摩崖仏のあるところがが三角寺の奥の院になっているだけでで、他は聞かない。ということで、白滝山の奥ではなく手前という感じであるが、②白滝山の奥之院なのである。

 五来重さんの『四国遍路の寺』(角川ソフィア文庫)によると各札所の奥の院の多くは、修業の場だったところだそうである。そのことと、かつて不動明王が安置されていたというから、修験道者たちの修業がここで行われたのではないかと思っても間違いはなかろう。




ふるさとの史跡をたずねて(177)

天狗三態(因島重井町白滝山)

 白滝山の観音堂前にある、例の「誤伝・十字架観音像」を彫ってある大岩の最上部に、天狗像が三体ある。表情が異なるので「天狗三種」などと呼ばれるが、ここでは「天狗三体」と紛らわしいけれど「天狗三態」と呼んでおこう。ではこの三体は白滝山の石仏群の個数の中に入っているのだろうか。石造物の数になら入れてもよいが、石造仏ではないだろう。しかし、石造物となると花台やら香炉台が入るのでますます混乱するであろう。石仏の数などをいう時は、注意が必要である。

 余談ながら、これだけ多数の石造物があると誤解や俗説が生まれるのも当然かもしれない。古い資料を見ていると「二八尊者」というのはどれかと、かなり無理をして28体の石仏名を書いたものもあるが、「三五夜」の月の形は、29を引いて想像する必要は全くなく、まん丸なのである。「二八尊者」とは十六羅漢の別名であって、特別意味のある石仏が28体あるのではない。

 かくのごとく、多くの石仏の中に混ざって天狗像が三体あるのは異様なのである。また、いつ、誰が、どういう目的で天狗像を奉納したのか、わからない。裏に回ってみれば、どこかに年号や名前が彫ってあるかも知れないが、怖いのでしていない。ただ、言えることは、天狗は修験者を示すので、白滝山が修験道と関係があったことを示すものだということである。

 因島村上氏6代吉充が観音堂を建て、常楽院靜金を堂主にしたという伝承が本当なら、細島や白滝山などに居た修験者に配慮したことが伺われる。ただ、この三体があることで、江戸時代になっても修験者がいたことが考えられる。

 修験者が僧侶よりも社会的に偉かった時代に、修験者について僧侶も修行をした。修行を終え、修験者なみになったことを「天狗になる」と言ったのではなかろうか。修行を十分に積まず、実力もないのに修験者の真似をする僧侶を「得意になる」という意味で言ったのが、現在では僧侶以外でも使われている。当然のことながら「鼻高々になる」ともいうのは、天狗の鼻は長いというイメージから付加されたものであろう。





ふるさとの史跡をたずねて(178)

秋葉社・愛宕社(因島重井町白滝山中腹)

 またまた白滝山中腹の島四国八栗寺のところに話を戻す。八栗寺のお堂の前には石でできた小祠が3基あり、下から「愛宕地蔵菩薩」「道了大権現」「秋葉大権現」(写真)が祀られている。

 京都の愛宕神社は、話題にするには時期として少し早いが、麒麟さんが本能寺を攻めたとき、吉凶を占ったところだし、「時は今天が下しる五月哉」という連歌(愛宕百韻)を詠んだところでもある。しかし、忘れてはならないのは、ここは火の用心の神様が祀られている。

 また、東京の秋葉原は、最近ではAKB48、ちょっと前は爆買い、その前はつくばエクスプレスと、話題にこと欠かないところだが、かつてラジオ少年であった私にとっては眷恋の地であった。さらにそれよりも古くは、明治2年に火除地という空き地に江戸城から鎮火社が勧請された。鎮火社には秋葉大権現を祀っていたので、この火除地を「秋葉の原」、「秋葉っ原」と呼んだことから秋葉原の地名ができた。だから、ここを重井の秋葉原、あるいは因島の秋葉原と呼んでもおかしくはない。

 すなわち、愛宕神社も秋葉神社も防火、火除けの神様なのである。それで、ここが椋浦町だったら、「大火伝説」は本当で、大火の後建てられたのでしょう、と書けばいい。しかし、ここは重井町で、重井町には大火伝説は存在しない。

 ここで、我々の遠い先祖に思いを巡らしてみよう。あるサルの集団で、一匹のサルが後ろ足で立った。「サルまね」というように真似をするのが本能だから、同じことをする仲間が増えた。やがて、手持ち無沙汰になった前足で、石ころや木の枝を使うようになる。すなわち道具の利用だ。でもまだサルである。やがて、勇気があるというか、風変わりというか、火を恐れないものが出てきて、使うようになった。もうこうなると、サルというよりもヒトと呼ぶべきであろう。

 以来、人類は火とともにあった。特に我が国では年間を通して湿度が高く、住居は木造住宅だ。その中での火の使用であったから、常に火災の危険はあった。守り神が必要だ。「火の用心」の護符は、修験者によって配れることが多かったのではないかと思う。




ふるさとの史跡をたずねて(179)

道了大権現(因島重井町白滝山中腹)

 前回、愛宕さん、秋葉さんについて書いたので、高さから言えば、まん中になる道了大権現について記す。正面中央に「道了大権現」、その左右に「奉海珊海演台守夜神 詩寂静◻︎海守夜神」と書かれている。(◻︎は判読不能)また外壁には「己酉九月吉日」とある。これは嘉永2年(1849)ではなかろうか。

 妙覚道了は室町時代の曹洞宗の僧侶にして著名な修験者でもあった。小田原最乗寺の開基に協力し、師の入定(死亡)後は天狗になって守護神になろうとしたという話が伝わる。

 曹洞宗といえば重井の善興寺は曹洞宗だから何か関係がありそうだし、天狗は山頂の天狗三態との関係が気になる。しかし、善興寺ができるのは江戸時代以降だし、直接の関係はなさそうである。天狗三態と直接の関係があるのなら、離れたところに置く理由がわからない。だからこれらは、無視してよいだろう。

 そこで祠に刻まれた文字について考える。岩の上にあって詳しくは読めない。各行の冒頭の一字は右から読んで、「奉詩」(詩を奉る)と考える。しかし、各行の末尾3文字は同じで、こういう漢詩か何か呪文のようなものだろう。「しゅやじん、しゅやじん」と繰り返し言ってみよう。「守夜神」(夜を守る神)である。夜を守る神というのは、夜に泥棒や火災から守ってくれる神である。ここまで書いてきて、やっと前回の「愛宕社」「秋葉社」との関係が明らかになった。すなわち、ここが村民の火の用心の祈願所だったということである。これはあくまでも私の想像に過ぎない。そして、火の用心を拝むのは、お寺の御釈迦さまや観音さまでもなく、また八幡神社の神さまでもなく、やはり修験道者が最適だと思う。




ふるさとの史跡をたずねて(180)

真界山(因島重井町細島)

 重井町の細島は因島の属島のうちの唯一の有人島である。三原市木原町の鉢ヶ峰が修験道の道場になった時、修験者が住みだしたのが、この島に人が住むようになった始まりだという。だから、古くは山伏島と呼ばれたが、今はそう呼ぶ人はいない。三和ドックとの間の海には今も山伏瀬戸と地図に書かれており、その名残をとどめている。

 細島大明神の石碑は方々探したり、地元の方に尋ねたりしたが見つからず諦めていた。ところがある年の早春に茶臼山に登った時、畑の縁の通れなくなった山道の冬枯れの中に石のようなものが見えたので入って行くと、一石五輪塔などの墓石とともに「松の古跡」と「南無妙法蓮華経 細島大明神」の2つの石碑があった。(写真)やがてまた樹木の中に埋もれてしまうであろうから、詳しく記しておく。共同墓地の入口の反対側から茶臼山に登る。畑の右端がかつての登山道であろうが、樹木が茂って通れないので畑の草の生えていないところを選んで登ることになる。その、かつての登山道の段差のあるところ、と書いておけば僅かの距離なので探せると思う。

 この石碑のあるところが真界山と呼ばれるのは、真界坊という山伏の修行地だったことによる。そしてそこには、天狗が飛来したという松の古木があり、神木として崇められていたとうことである。「松の古跡」というのだから、その松は枯死したということであろう。

 一般には日蓮上人供養碑と呼ばれる「南無妙法蓮華経」の石碑は、重井町には3基ある。他の2つは播磨のバス停と、島四国甲山寺の近くである。南無は南無阿弥陀仏のナムでサンスクリット語(梵語)。敬意を表し帰依するという意味であり宗派によって様々な意義付けが行われているのであろうが、門外漢の私流に解釈すると「阿弥陀如来さま万歳!」というような感じだろうか。(阿弥陀如来は万歳どころか無限の寿命をもつので賛美したことにはならないが・・)南無妙法蓮華経は日蓮宗の専売特許のように思っている人が多い。しかし、法華経は日蓮宗はもとより、それから派生した各宗派で重んぜられるのは当然であるが、宗派を問わず重要なお経である。特に天台宗は天台山の智顗(ちぎ)が法華経を再解釈しそれを元に仏教を再構成したものである。その日本における総本山延暦寺で学んだ法然、栄西、親鸞、道元、日蓮などにより、のちに鎌倉仏教と呼ばれる新仏教が誕生するのであるから、法華経がいかに重要なお経であるかわかる。

 一方、細島大明神の明神というのは神仏習合時代の仏教側からの神社の呼び方である。

 修験道は山岳信仰に仏教、道教、儒教、神道などを取り入れてできたものであるが、以上のことから細島の修験者たちが、法華経を読み、神社を敬っていたことがうかがえる。



 



           写真・文 柏原林造








➡️ブーメランのように(文学散歩)

2020年11月19日木曜日

ふるさとの史跡を訪ねて(増補版)201-210回

本館 白滝山 いんのしまみち

ふるさとの史跡をたずねて(201)

      

因島戸長の墓(因島重井町善興寺)


 江戸時代は奇妙な時代であったが、明治時代は不可解な時代であった。それは、普通江戸時代が近世で明治時代が近代と呼ばれるのも原因の一つだと思う。近世という言葉に価値観を感じる人はいないと思う。しかし近代という言葉には斬新性と合理性が同居している。その明治時代は合理的で新しい社会であったかというと、必ずしもそうでなかった。それは明治維新が大政奉還・王政復古と呼ばれるように、極めて非近代的な体制をつくろうとしたのだから、当然といえば当然であった。

 さて、宗教学者の末木文美士氏は、江戸時代以前からの伝統を「大伝統」、明治時代から敗戦までにできた伝統を「中伝統」、戦後の伝統を「小伝統」と分け、大伝統が変貌されて中伝統となった、すなわち、大伝統が、中伝統の時代に別の解釈をされるようになったものがあると指摘されている。(『日本の思想をよむ』、角川ソフィア文庫)そのことも明治時代をわかりにくいものにしている理由の一つである。

 奇妙な江戸時代の幕藩体制を捨てるのだから紆余曲折があったのは当然であるが、明治初期には混乱を極めたものであろう。その混乱の跡を留めるのが地域の呼び名である。昭和28年に因島市が誕生する前は、島内の各町村は御調郡〇〇町、〇〇村であり、それはまた『芸藩通志』の分類にあるように、御調郡〇〇村で江戸時代を通してそのようであったと理解してよい。

 明治5年正月にそれまでの郡村制が廃止され、割庄屋もなくなり、それに替わる大区小区制となり因島は第十大区十六小区となり戸長として明治7年4月柏原啓三郎が任命される。

 柏原啓三郎の墓が重井町善興寺墓地登り口の歴代住職墓のすぐ上にある。(写真中)



写真の右は啓三郎の父の墓で、その碑文は啓三郎が明治9年に書いており長男(自分のこと)が明治7年に因島戸長となったことが記されている。

 因島戸長も明治11年3月に廃止され村ごとの戸長だけになる。戸長がいるところが戸長役場である。因島戸長役場は現在重井郵便局のある辺りに置かれ、重井村戸長役場を兼ねたが、因島戸長が廃され村の戸長だけになると、重井村の戸長役場だけとなった。


ふるさとの史跡をたずねて(202)

          

常夜灯(因島中庄町寺迫)


 明治元年になったからと言っても、今日は昨日の続きだし、明日は今日の続きであることには変わりはない。

 そして、明日からは令和元年になる、と言って日本全国が同時に暦を書き換えたこの前と違って、改元が全国津々浦々まで浸透するのに、江戸時代では時差があった。それは明治元年でも同じであっただろう。

 金蓮寺の資料館前にある灯明台(常夜灯)はJAの辺りにあったものだと聞くが、隣にある重井町一本松にあった岩と同様、まじないのために掘られた穴、すなわち盃状穴を保存するためにここに置かれている。(写真1)


 重井町の一本松にあったという盃状穴は111回で記したが、今回はこちらの灯明台について考えてみよう。実はこちらの製作が明治元年だからである。明治元年の年号が刻まれた常夜灯だと喜んでも、それは明治の世相を反映したものではありえない。やはり、江戸時代の延長と考えるべきであろう。だから形などをことさら問題にしようというのではない。そこの盃状穴が問題なのだ。(写真2)


一本松の盃状穴はいつ穿たれたものかはわからないが、こちらは明治元年に作られた灯明台である。それ以前に穴が穿たれた岩を使ったとか、あるいは作られてすぐに穴が穿たれたなどということは普通には考えられないことだから、こちらの盃状穴は明らかに明治時代以降のものと考えてよいだろう。

 盃状穴には陰陽石信仰と重なるものが見られることがある。それを合体して考えれば古代からの信仰ということになるが、ここのように盃状穴だけのものもまた多い。そのことに注目してみれば盃状穴信仰は意外と新しいのではなかろうか?

 そして前にも書いたが、石に穴を穿つというのは産道を広げるという象徴的行為で、安産祈願のおまじないから派生発展して子授け、病気平癒、果ては女性の願いごとまで祈願するようになったのではなかろうか。三庄町地蔵鼻の鼻地蔵をはじめ、妙泰神社、淡島神社などはそれぞれ由来は異なるのに、共通して女性の願いごとなら何でも叶うというご利益が付加しているのだから、盃状穴がそう考えられても不思議はない。

 そしてまた、このような派生的な考え方は江戸時代、あるいはそれ以前からあったと我々は漠然と考えているが、むしろ明治時代以降に生じた考え方であるかもしれない。



ふるさとの史跡をたずねて(203)

         

明治橋(因島重井町新開)


 明治橋という名前がついた橋は方々にあるが、重井川の最下流に架かる明治橋はすぐ隣にある東西橋が主役になって、影の薄い存在である。


現在では、その名前はその周辺地域を字(字)のような形で呼ぶことで使われて用いられているに過ぎないだろうが、そのような地域の呼び名も若い人には通用しなくなったし、第一住所に書き添える習慣が消えて久しい。かつては郵便配達員のエリアが限られてていたせいか番地のない郵便物でも届いていたが、現在では字よりも番地の方が必須である。

 そういうご時世ではあるが「明治橋」と書いた石碑が残っていて、確かに明治時代に作られた橋だと確認できることはうれしい。


 私は想像するのであるが、初めは丸太を渡した橋を作る。その後その上に土が盛られれば土橋になる。それが明治時代になって石橋に変わった。その時に明治橋という名をつける。ただし、この石碑が橋の完成と同時に建てられたものかどうかはわからない。

 それまでは神社仏閣の鳥居、狛犬、灯籠、灯籠の延長としての常夜灯、墓石、仏像などに腕をふるっていた石工の仕事が、村ぐるみで行われる社会的インフラへと拡大していったのではないかと思う。

 橋が架かり道路が広くなれば人が動く。人が動けば荷物も動き、交通機関にも変化が起こる。そのような変化の動きは、やがて地方にも伝わり、因島でも各地で橋や堤防の改築が行われる。そしてその主役は石であった。それに鋳物としての鉄が加わり、セメントや鉄筋コンクリートの時代にになるのは、もっと後のことだ。

 そしてもう一つの変化といえば、お願い・嘆願から、自分たちで作ろうという主体性が発揮され始めたのは、明治になってからの特徴であったのではなかろうか。しかし、それは町村制の時代での話であって、昭和28年に因島市になってから、再び「お願い」に戻ったことは記憶しておこう。

 だから、この「明治橋」という石碑に「行政へのお願い」が当たり前になっている現代と違い、自分たちで作ろうという庶民の熱気に満ちていた時代の面影を、私は見るのである。



ふるさとの史跡をたずねて(204)

           

百枚田跡(因島中庄町奥山)


 中庄町の奥山ダムは因島最大の溜め池である、と書いたら笑われるだろうが、江戸時代の溜め池と、農業用水を溜めるという機能においては変わるところはない。掘ったものと谷川を堰とめたという構造上の違いはあるが。また、江戸時代の多くの溜め池が水田用であったのに、奥山ダムは畑地の灌漑を主な目的とするのも異なる。

 その奥山ダムの上流へ遡ってみよう。草が生え、倒木が散乱して壊れかけた農道の横は低くなって水が流れているが、その近くに杉が整然と植えられているのは壮観である。よく見ると段差ごとに石垣が丁寧に組まれており、独特の景観をなしている。田んぼの跡に植林されたものだと聞けば納得する。



 さらに登ると岩石で巧みに造られた橋がある。


そこを越えても、田んぼの跡らしき段差と石組みがあり、田んぼがかつて存在したことを想像しながら進むと奥山林道に出る。その舗装された林道を横切ってそのまま上へと登っていくと、傾斜は徐々に急になる。しかし、段差ごとに石垣が積まれ、ごくわずかの平地が続く。かなり上に行っても、意外に広いところが何箇所かある。

おそらく田んぼとして使われていた頃には、いたるところに伸びて、日光を遮る潅木も切られていただろうし、それぞれの棚田には水が張られ、今では想像できないような光景が広がっていたのだろう。

 数えてみたら99枚あったので、さらに努力して百枚にした。だから百枚田というのだと聞いた。それが江戸時代の話か明治以降の話かは知らない。考えてみれば、これだけの田んぼが一朝一夕にできるものではなかろうから、何年もかかって出来たものだろう。大雨の降った年には整備や修復に追われて、新しく作る余裕などなかったに違いない。

 普通、稲作といえば、高緯度の寒冷地への進展は記録に残されているが、高度はあまり問題にならない。海抜を競ったところで元々集落が高いところにあったというだけで数値以上のものではない。しかし、集落からの高さを考えた時、ここの田んぼは驚異である。

 白滝山の中腹にも田んぼはあったというし、他の山でも古い砂防ダムのような石積みはその名残だと思われるが、この奥山の百枚田跡は高さと規模において特筆に値する。そして耕して山頂に至るといわれた段々畑にも増して過酷な労働条件を思えば、全く先人の努力には頭がさがるばかりである。



ふるさとの史跡をたずねて(205)

          

力行之碑(因島中庄町大山)


 因島の南北を結ぶ大山トンネルは幹線道路だが、便利なのは車を利用する大人だけで、自転車の高校生には楽しくないだろう。それはもともと人が住み始めたとき隣村との往来のことは考える必要がなかったし、あっても海上輸送に頼っていた時代が長かったのだから、当然の歪みだと言える。すなわち住居は固定されたままで社会生活が変化したのだから移動にかかる時間と費用は仕方がない。

 さて、大山トンネルが出来るまで、主に徒歩で往来した峠道がその東側にある。あおかげ苑、ほたるの里の隣を南へ登る道だ。やがて道はため池の右側に出る。大山大池である。池の向こうに民家が数軒ある。




反対側の山側に石碑があり、「力行之碑」と書いてある。



 ここでこの言葉と出会うのは驚きであった。その時より10年以上も前だろうか。ふとしたことから海外移住史に興味を抱き、ほどなく関心が豪州から中南米へと移ったとき出会った言葉だ。原野を開墾して農業をする場面で使われていたように思う。また、キリスト教系の移住協力団体の名称として「力行会」というのがあったように、微かに覚えている。

 碑文には中庄村釜田の人、松浦作太郎氏が明治26年にこの地に移って開墾し、柑橘を栽培すること37年間で一町歩(約1ha)に達したということが記されている。

 今なら田からここまで軽トラで10分もあれば来れるだろうが、当時は歩くしかなかった。麓まで買い物に行くのは半日仕事であったであろうから、時に農機具や食料などを買いに行くことはあったにしても、たいていは自給自足の生活を送ったことであろう。まことに辛苦勉励の日々であったに違いない。

 だから「力行の碑」という文字はそのような生活を見事に表すのに最適の言葉であったと思う。ただ、海外移住が国策だった時代を生きた人でなかったら、力を入れて何事かを行ったという普通の意味しか伝わらないのは仕方がない。それはちょうど「三密」という言葉を、これから生まれて来る人たちが10年後20年後にどのように理解するかわからないのと同じである。


 昭和戊辰は昭和3年(1928年)で11月10日天皇京都御所紫宸殿で即位礼挙行。碑文の「昭和戊辰大礼之歳」というのはそのことを指す。



ふるさとの史跡をたずねて(206)

         

大浜埼灯台(因島大浜町)


 大浜の灯台と言えば、かつては因島でもユニークな名所であったが、最近では海水浴場と因島大橋に挟まれて、訪れる人も少ない。やはり、せっかちな現代人は車がすぐ近くまで行くところでないと、なかなか訪ねないようだ。

 青い海を背景に聳える白亜の灯台は美しい。



 正式には大浜埼灯台と言って珍しい字で書かれているが、これは大浜の人や因島の人が命名したのではなく、明治27年に当時の海軍水路部が設置した時、そう命名したのだから仕方がない。そして現在管理している海上保安庁でもそれを踏襲しているのだ。なお国土地理院地図では、やはりその前身の陸軍陸地測量部が使っていた崎の字を岬に使っているので、そのように書かれた地図もある。

 なお、大浜埼灯台と一言で言っているが、ここは灯台、検潮所、船舶通航潮流信号所の複合施設であった。

 中でも、信号所は小さな塔が3個付いた独特の建物で、明治43年から昭和29年まで使われた。その後因島市が買い取り、昭和61年から灯台資料館となっている。現在は尾道市が管理。



 通航信号所の仕組みは複雑である。表示塔は海側から第一種、第二種、第三種と呼び、それぞれが対航する航行船の場所を示し、昼間は順に丸、三角、四角の記号が表示され、夜間はそれぞれ白色点灯、赤色点滅、赤色点灯で知らせた。例えば第一種は、高根島と小佐木島間、第二種は小佐木島と細島間、第三種は細島以東に東行きの船舶があることを西行船に知らせ、逆に東行船に対しては、それぞれ梶の鼻以東、以西、布刈の瀬戸に西行船がいることを知らせた。

 すなわち3つの塔で場所が決まっているのだから、それぞれがONかOFFかを表示すればよいのだが、そのONの表示が海側から順に丸、三角、四角と決まっていて二重に誤認を防いでいるわけである。夜間のライトも同様である。特に夜間はどの塔のライトかわからなくても、上記の点灯の色と点滅の有無だけでも確認できるわけである。

 また丘の上に今もある5.7mの鉄骨塔や旗で潮流を知らせた。


 

 灯台には4世帯の職員がいたが昭和34年より無人となっている。私はそれ以前に尋ねたことはなく、いわゆる灯台守の人と会った記憶はない。



ふるさとの史跡をたずねて(207)

         

東浜波止建設寄附碑(因島重井町東浜)


 大浜埼灯台が明治27年に作られたということは、それより数年前から船舶の往来が激しくなり、また海難事故も多発していたと考えて差し支えないであろう。重井町東浜の波止(写真1)が作られ、建設寄附碑(写真2)が明治23年秋に竣工と同時に建てられていることは、そういう時代を象徴する。





 南面には波止寄附録と大きく書かれていて、本村共有が百円、表面

記入外個人寄附が72円で、以下寄附者名と金額が続く。裏面は発企、頭取、世話人の名がある。西面には「石工 三庄村光法佐太郎 中庄村田頭岡左ヱ門 田熊村岡野綱次」とある。この人たちは工事に関わった石工であろう。東面には「三庄村 石工 篠塚音松」と、村名と肩書きが逆である。この石碑の製作者だと思う。

 さて南面の寄附者名について考えてみたい。「細島中」とあるのは細島からの連絡船の寄港地がこの頃には東浜と決まっていたことを意味する。「向シマ吉原大作」とあるのは、『向島岩子島史』によると明治19年に重井村戸長を勤められた向島西村村長の吉原大作氏のことである。

 しかし、「椋浦藤田蜜弥 椋浦平沢歓三」「タタノウミ(忠海のことか)豊太春平 オノミチ上弥代蔵」の重井村以外の方についてはわからない。紙に書かれた寄附録の原本があれば、詳しいことがわかるかもしれないが、それが出てくる可能性は少ない。

 現在重井郵便局のある東浜は当時、近くに村役場もありまた白滝山表参道の起点であったから多くの船舶が入港し農産物も積み出されたことであろうから、頻繁に入港する船の持ち主や、商売人であったかもしれない。

 あるいは家船で移動する漁業者が一時的に基地にしていたのかもしれない。水や野菜と漁獲物を交換する。地元の人は親切で住みやすそうなところではあるが、しばらくいると古い血縁関係の濃い純農村だと気づく。こんなところには住めないな、と思ったら程なく別の土地へ移動する。そういう瀬戸内海史の一コマがあったのではないかと想像する。  

 明治23年といえば江戸時代を知らない人たちが社会の中心になっていく頃である。変革の進歩は加速される。天保の老人たちが表舞台から去っていく時期が始まろうとしていた。 


ふるさとの史跡をたずねて(208)

         

備後ドック記念碑(因島三庄町町七区)


 因島四国88箇所は明治45年の創設であり、場所が移動したものも多い。三庄町の40番観自在寺も、無量寺の隣を通って山側から行ってみたが廃寺になっていた。この道が初期の遍路道だと思われるが、最近は、七区の崖下から登っていた。その道も荒れていて、雑草を掻き分けてかろうじて降りた。

 この辺りはかつて、因島高校のマラソン大会の折り返し地点だった。スタンプ台を持った先生方が待機されていて、手にスタンプインキをつけて折り返した。当時は社宅が軒を接しており、私にとっては珍しい光景であった。

 崖側の路肩はセメントで覆われ、閉鎖された防空壕の跡や古いお地蔵さんがあって、土地の歴史がうかがわれる。道の反対側にもお地蔵さんがあるのだが、その隣に備後船渠史蹟がある。


 船渠(せんきょ)とはドックのことである。若い人たちのために敢えて書けば、工場内の大きなプールだと思えばよい。修理の時は船を入れてから海水を抜く。浮かべる時には海水を入れる。  

 余談ながら戦艦大和と戦艦武蔵は基本は同じ設計図で、大和は呉の海軍工廠のドックで作られ、武蔵は三菱の長崎造船所で船台で作られた。完成品は海に浮かべるのだから、船台では進水に余分の労力がかかるし、また重量制限もかかる。いかにドックが重要かということが想像できるだろう。

 そのドックのある造船所を作ったのである。上の左側の石版には、備後船渠株式会社の工場が明治34年6月に起工したと記してある。前年に三庄船渠株式会社として発足したが頓挫し、この年社名を変えてスタートしたわけである。

 これより前、明治30年には土生村長崎に土生船渠株式会社ができており、36年に因島船渠株式会社と改名した。大阪鉄工所因島工場は明治44年頃、因島船渠株式会社を買収し、大正8年には備後船渠株式会社を買収した。そして備後船渠株式会社は大正11年には、大阪鉄工所因島三庄分工場と改名された。大阪鉄工所は昭和18年に日立造船となった。


ふるさとの史跡をたずねて(209)

   

溝梁完成記念碑(因島土生町町荒神区)


 以前にも書いたが海を陸地に変えるのに二つの方法がある。一つは埋め立てで、もう一つは干拓である。前者には大量の土が必要だから近くに大きな山がないといけない。後者では満潮時には海水面より低くなるので一時的に水を貯めておかなければならない。そのための池を因島では塩待ちとかタンポと呼んでいるが、一般的には潮廻しという。そして干拓地にとって邪魔な水を、清濁に関係なく悪水と呼び、海水面が下がったら樋門から排水する。また、干拓をすることを開発と呼んだ。だから干拓地が新開と呼ばれる。

 さて、ナティーク城山から、荒神社へ行くルートは村上水軍の史跡巡りで避けて通れないところである。その荒神社への長い石段の手前、右側に立派な石碑がある。



余談ながら、この辺りに林芙美子が住んでいたと書いてあるものもあるが、確証が得られないので、今回は断定はしないことにしよう。

 いつもは、麻生イトさんの名前がある、という程度で済ますのであるが、今回は内容に立ち入ってみよう。碑文はまことに興味深い。

 土生地区は開拓(干拓のことだろう)して日が浅いのに人家が急増したが流水溝梁ができておらず、村井清松村長、佐々部優巡査部長、それに麻生以登さんが憂えて相談していたところ、大阪鐵工所初代因島工場長の専務取締役木村鐐之助氏が千円を寄付して下さり事業が遂行できた。また平木和太郎衛生組長が労を厭わず工事監督に挺身して完成できた。それらの人々の名を記して住民と共にその徳に感謝したい。およそこのようなことが記された石碑が、大正5年夏に設置された。

 石段を登って荒神社の境内から町並みを眺めてみよう。大正5年以降も陸地は広げられたことであろうから、海側の一部分は当時はなかったと思えばいっそうよくわかるだろうが、傾斜地が終わる部分と海との間が狭いことに気づく。海に近い方では潮廻しの水かさが上がると多くの家の近くまで上がってきたことであろう。これを避けるためには深くて幹線となる大きな溝と、数軒分の排水を集める浅い小さな溝の二段構えにしたらよいことは、土木に関しては全くの素人である私でもわかる。

 大正3年の土生村人口4146名が大正7年には11864名になり、土生町になっている。都市基盤の整備が追いつかない時代であったことが想像できる。なお、物価は変動するが、理髪代金、大工工賃では約2万倍になっている。



ふるさとの史跡をたずねて(210)

         

ハワイ移民頌徳碑(因島中庄町大江)

 

 一般的には鎖国と言われ、海外渡航が禁じられていた時代が長かったので、明治になってからの海外移住が特別なことになる。鎖国以前の日本人の海外進出の状況を考えれば、もし鎖国政策さえなければ、明治以降の移民も特別なことではなかったであろう。だから、明治以降の移民史は特筆に値するが、なにしろ海外のことであるから本稿には向かない。

 そのような中で、中庄公民館の駐車場北側にある石碑は、興味深い。



 この石碑は大正12(1923)年の1月に建てられているので、およそ百年前のものである。文字が鮮明で光沢の鮮やかなのは、設置場所が良いだけでなく素材が立派なものだからではないかと思う。

 中庄の人、小林栄之助氏は明治35年12月に布哇(ハワイ)に渡り、土木事業を興し、百余人の従業員を抱える事業家となった。大正5年9月に帰郷した時は、学校・神社・お寺に多大な寄付をし、大正8年1月の時は村人の修養所となる公会堂を建設した。村人はこぞって小林氏の両親と郷里を思う孝徳心を讃え、また事業の益々盛んなることを願って頌徳碑を公会堂の傍に作る。おおよそこんな意味のことが書いてある。

 公会堂は敷地101坪、建坪48坪強で当時の金額で1万円であったから、村民の感謝の気持ちはいかばかりであったか。また、海外で一旗揚げて故郷に錦を飾る人の勇姿は、「移民は移民を呼ぶ」と言われたように後続者を鼓舞するものだが、後に続く者が多くなかったということは、もともとが温暖で豊かな土地であったせいであろう。

 ハワイの歴史を大雑把に記すと、ハワイ王国、共和国、アメリカ領、ハワイ州と変遷するが、明治35年はアメリカ合衆国の領土になっているが、まだハワイ州にはなっていない。

 明治元年組と呼ばれるように海外移住史はハワイから始まり、南米・北米へと拡大していく。



  (写真・文 柏原林造)

➡️ブーメランのように(文学散歩)