本館 白滝山 いんのしまみち
ふるさとの史跡をたずねて(201)
因島戸長の墓(因島重井町善興寺)
江戸時代は奇妙な時代であったが、明治時代は不可解な時代であった。それは、普通江戸時代が近世で明治時代が近代と呼ばれるのも原因の一つだと思う。近世という言葉に価値観を感じる人はいないと思う。しかし近代という言葉には斬新性と合理性が同居している。その明治時代は合理的で新しい社会であったかというと、必ずしもそうでなかった。それは明治維新が大政奉還・王政復古と呼ばれるように、極めて非近代的な体制をつくろうとしたのだから、当然といえば当然であった。
さて、宗教学者の末木文美士氏は、江戸時代以前からの伝統を「大伝統」、明治時代から敗戦までにできた伝統を「中伝統」、戦後の伝統を「小伝統」と分け、大伝統が変貌されて中伝統となった、すなわち、大伝統が、中伝統の時代に別の解釈をされるようになったものがあると指摘されている。(『日本の思想をよむ』、角川ソフィア文庫)そのことも明治時代をわかりにくいものにしている理由の一つである。
奇妙な江戸時代の幕藩体制を捨てるのだから紆余曲折があったのは当然であるが、明治初期には混乱を極めたものであろう。その混乱の跡を留めるのが地域の呼び名である。昭和28年に因島市が誕生する前は、島内の各町村は御調郡〇〇町、〇〇村であり、それはまた『芸藩通志』の分類にあるように、御調郡〇〇村で江戸時代を通してそのようであったと理解してよい。
明治5年正月にそれまでの郡村制が廃止され、割庄屋もなくなり、それに替わる大区小区制となり因島は第十大区十六小区となり戸長として明治7年4月柏原啓三郎が任命される。
柏原啓三郎の墓が重井町善興寺墓地登り口の歴代住職墓のすぐ上にある。(写真中)
写真の右は啓三郎の父の墓で、その碑文は啓三郎が明治9年に書いており長男(自分のこと)が明治7年に因島戸長となったことが記されている。
因島戸長も明治11年3月に廃止され村ごとの戸長だけになる。戸長がいるところが戸長役場である。因島戸長役場は現在重井郵便局のある辺りに置かれ、重井村戸長役場を兼ねたが、因島戸長が廃され村の戸長だけになると、重井村の戸長役場だけとなった。
ふるさとの史跡をたずねて(202)
常夜灯(因島中庄町寺迫)
明治元年になったからと言っても、今日は昨日の続きだし、明日は今日の続きであることには変わりはない。
そして、明日からは令和元年になる、と言って日本全国が同時に暦を書き換えたこの前と違って、改元が全国津々浦々まで浸透するのに、江戸時代では時差があった。それは明治元年でも同じであっただろう。
金蓮寺の資料館前にある灯明台(常夜灯)はJAの辺りにあったものだと聞くが、隣にある重井町一本松にあった岩と同様、まじないのために掘られた穴、すなわち盃状穴を保存するためにここに置かれている。(写真1)
重井町の一本松にあったという盃状穴は111回で記したが、今回はこちらの灯明台について考えてみよう。実はこちらの製作が明治元年だからである。明治元年の年号が刻まれた常夜灯だと喜んでも、それは明治の世相を反映したものではありえない。やはり、江戸時代の延長と考えるべきであろう。だから形などをことさら問題にしようというのではない。そこの盃状穴が問題なのだ。(写真2)
一本松の盃状穴はいつ穿たれたものかはわからないが、こちらは明治元年に作られた灯明台である。それ以前に穴が穿たれた岩を使ったとか、あるいは作られてすぐに穴が穿たれたなどということは普通には考えられないことだから、こちらの盃状穴は明らかに明治時代以降のものと考えてよいだろう。
盃状穴には陰陽石信仰と重なるものが見られることがある。それを合体して考えれば古代からの信仰ということになるが、ここのように盃状穴だけのものもまた多い。そのことに注目してみれば盃状穴信仰は意外と新しいのではなかろうか?
そして前にも書いたが、石に穴を穿つというのは産道を広げるという象徴的行為で、安産祈願のおまじないから派生発展して子授け、病気平癒、果ては女性の願いごとまで祈願するようになったのではなかろうか。三庄町地蔵鼻の鼻地蔵をはじめ、妙泰神社、淡島神社などはそれぞれ由来は異なるのに、共通して女性の願いごとなら何でも叶うというご利益が付加しているのだから、盃状穴がそう考えられても不思議はない。
そしてまた、このような派生的な考え方は江戸時代、あるいはそれ以前からあったと我々は漠然と考えているが、むしろ明治時代以降に生じた考え方であるかもしれない。
ふるさとの史跡をたずねて(203)
明治橋(因島重井町新開)
明治橋という名前がついた橋は方々にあるが、重井川の最下流に架かる明治橋はすぐ隣にある東西橋が主役になって、影の薄い存在である。
現在では、その名前はその周辺地域を字(字)のような形で呼ぶことで使われて用いられているに過ぎないだろうが、そのような地域の呼び名も若い人には通用しなくなったし、第一住所に書き添える習慣が消えて久しい。かつては郵便配達員のエリアが限られてていたせいか番地のない郵便物でも届いていたが、現在では字よりも番地の方が必須である。
そういうご時世ではあるが「明治橋」と書いた石碑が残っていて、確かに明治時代に作られた橋だと確認できることはうれしい。
私は想像するのであるが、初めは丸太を渡した橋を作る。その後その上に土が盛られれば土橋になる。それが明治時代になって石橋に変わった。その時に明治橋という名をつける。ただし、この石碑が橋の完成と同時に建てられたものかどうかはわからない。
それまでは神社仏閣の鳥居、狛犬、灯籠、灯籠の延長としての常夜灯、墓石、仏像などに腕をふるっていた石工の仕事が、村ぐるみで行われる社会的インフラへと拡大していったのではないかと思う。
橋が架かり道路が広くなれば人が動く。人が動けば荷物も動き、交通機関にも変化が起こる。そのような変化の動きは、やがて地方にも伝わり、因島でも各地で橋や堤防の改築が行われる。そしてその主役は石であった。それに鋳物としての鉄が加わり、セメントや鉄筋コンクリートの時代にになるのは、もっと後のことだ。
そしてもう一つの変化といえば、お願い・嘆願から、自分たちで作ろうという主体性が発揮され始めたのは、明治になってからの特徴であったのではなかろうか。しかし、それは町村制の時代での話であって、昭和28年に因島市になってから、再び「お願い」に戻ったことは記憶しておこう。
だから、この「明治橋」という石碑に「行政へのお願い」が当たり前になっている現代と違い、自分たちで作ろうという庶民の熱気に満ちていた時代の面影を、私は見るのである。
ふるさとの史跡をたずねて(204)
百枚田跡(因島中庄町奥山)
中庄町の奥山ダムは因島最大の溜め池である、と書いたら笑われるだろうが、江戸時代の溜め池と、農業用水を溜めるという機能においては変わるところはない。掘ったものと谷川を堰とめたという構造上の違いはあるが。また、江戸時代の多くの溜め池が水田用であったのに、奥山ダムは畑地の灌漑を主な目的とするのも異なる。
その奥山ダムの上流へ遡ってみよう。草が生え、倒木が散乱して壊れかけた農道の横は低くなって水が流れているが、その近くに杉が整然と植えられているのは壮観である。よく見ると段差ごとに石垣が丁寧に組まれており、独特の景観をなしている。田んぼの跡に植林されたものだと聞けば納得する。
さらに登ると岩石で巧みに造られた橋がある。
そこを越えても、田んぼの跡らしき段差と石組みがあり、田んぼがかつて存在したことを想像しながら進むと奥山林道に出る。その舗装された林道を横切ってそのまま上へと登っていくと、傾斜は徐々に急になる。しかし、段差ごとに石垣が積まれ、ごくわずかの平地が続く。かなり上に行っても、意外に広いところが何箇所かある。おそらく田んぼとして使われていた頃には、いたるところに伸びて、日光を遮る潅木も切られていただろうし、それぞれの棚田には水が張られ、今では想像できないような光景が広がっていたのだろう。
数えてみたら99枚あったので、さらに努力して百枚にした。だから百枚田というのだと聞いた。それが江戸時代の話か明治以降の話かは知らない。考えてみれば、これだけの田んぼが一朝一夕にできるものではなかろうから、何年もかかって出来たものだろう。大雨の降った年には整備や修復に追われて、新しく作る余裕などなかったに違いない。
普通、稲作といえば、高緯度の寒冷地への進展は記録に残されているが、高度はあまり問題にならない。海抜を競ったところで元々集落が高いところにあったというだけで数値以上のものではない。しかし、集落からの高さを考えた時、ここの田んぼは驚異である。
白滝山の中腹にも田んぼはあったというし、他の山でも古い砂防ダムのような石積みはその名残だと思われるが、この奥山の百枚田跡は高さと規模において特筆に値する。そして耕して山頂に至るといわれた段々畑にも増して過酷な労働条件を思えば、全く先人の努力には頭がさがるばかりである。
ふるさとの史跡をたずねて(205)
力行之碑(因島中庄町大山)
因島の南北を結ぶ大山トンネルは幹線道路だが、便利なのは車を利用する大人だけで、自転車の高校生には楽しくないだろう。それはもともと人が住み始めたとき隣村との往来のことは考える必要がなかったし、あっても海上輸送に頼っていた時代が長かったのだから、当然の歪みだと言える。すなわち住居は固定されたままで社会生活が変化したのだから移動にかかる時間と費用は仕方がない。
さて、大山トンネルが出来るまで、主に徒歩で往来した峠道がその東側にある。あおかげ苑、ほたるの里の隣を南へ登る道だ。やがて道はため池の右側に出る。大山大池である。池の向こうに民家が数軒ある。
反対側の山側に石碑があり、「力行之碑」と書いてある。
ここでこの言葉と出会うのは驚きであった。その時より10年以上も前だろうか。ふとしたことから海外移住史に興味を抱き、ほどなく関心が豪州から中南米へと移ったとき出会った言葉だ。原野を開墾して農業をする場面で使われていたように思う。また、キリスト教系の移住協力団体の名称として「力行会」というのがあったように、微かに覚えている。
碑文には中庄村釜田の人、松浦作太郎氏が明治26年にこの地に移って開墾し、柑橘を栽培すること37年間で一町歩(約1ha)に達したということが記されている。
今なら釜田からここまで軽トラで10分もあれば来れるだろうが、当時は歩くしかなかった。麓まで買い物に行くのは半日仕事であったであろうから、時に農機具や食料などを買いに行くことはあったにしても、たいていは自給自足の生活を送ったことであろう。まことに辛苦勉励の日々であったに違いない。
だから「力行の碑」という文字はそのような生活を見事に表すのに最適の言葉であったと思う。ただ、海外移住が国策だった時代を生きた人でなかったら、力を入れて何事かを行ったという普通の意味しか伝わらないのは仕方がない。それはちょうど「三密」という言葉を、これから生まれて来る人たちが10年後20年後にどのように理解するかわからないのと同じである。
昭和戊辰は昭和3年(1928年)で11月10日天皇京都御所紫宸殿で即位礼挙行。碑文の「昭和戊辰大礼之歳」というのはそのことを指す。
ふるさとの史跡をたずねて(206)
大浜埼灯台(因島大浜町)
大浜の灯台と言えば、かつては因島でもユニークな名所であったが、最近では海水浴場と因島大橋に挟まれて、訪れる人も少ない。やはり、せっかちな現代人は車がすぐ近くまで行くところでないと、なかなか訪ねないようだ。
青い海を背景に聳える白亜の灯台は美しい。
正式には大浜埼灯台と言って珍しい字で書かれているが、これは大浜の人や因島の人が命名したのではなく、明治27年に当時の海軍水路部が設置した時、そう命名したのだから仕方がない。そして現在管理している海上保安庁でもそれを踏襲しているのだ。なお国土地理院地図では、やはりその前身の陸軍陸地測量部が使っていた崎の字を岬に使っているので、そのように書かれた地図もある。
なお、大浜埼灯台と一言で言っているが、ここは灯台、検潮所、船舶通航潮流信号所の複合施設であった。
中でも、信号所は小さな塔が3個付いた独特の建物で、明治43年から昭和29年まで使われた。その後因島市が買い取り、昭和61年から灯台資料館となっている。現在は尾道市が管理。
通航信号所の仕組みは複雑である。表示塔は海側から第一種、第二種、第三種と呼び、それぞれが対航する航行船の場所を示し、昼間は順に丸、三角、四角の記号が表示され、夜間はそれぞれ白色点灯、赤色点滅、赤色点灯で知らせた。例えば第一種は、高根島と小佐木島間、第二種は小佐木島と細島間、第三種は細島以東に東行きの船舶があることを西行船に知らせ、逆に東行船に対しては、それぞれ梶の鼻以東、以西、布刈の瀬戸に西行船がいることを知らせた。
すなわち3つの塔で場所が決まっているのだから、それぞれがONかOFFかを表示すればよいのだが、そのONの表示が海側から順に丸、三角、四角と決まっていて二重に誤認を防いでいるわけである。夜間のライトも同様である。特に夜間はどの塔のライトかわからなくても、上記の点灯の色と点滅の有無だけでも確認できるわけである。
また丘の上に今もある5.7mの鉄骨塔や旗で潮流を知らせた。
灯台には4世帯の職員がいたが昭和34年より無人となっている。私はそれ以前に尋ねたことはなく、いわゆる灯台守の人と会った記憶はない。
ふるさとの史跡をたずねて(207)
東浜波止建設寄附碑(因島重井町東浜)
大浜埼灯台が明治27年に作られたということは、それより数年前から船舶の往来が激しくなり、また海難事故も多発していたと考えて差し支えないであろう。重井町東浜の波止(写真1)が作られ、建設寄附碑(写真2)が明治23年秋に竣工と同時に建てられていることは、そういう時代を象徴する。
南面には波止寄附録と大きく書かれていて、本村共有が百円、表面
記入外個人寄附が72円で、以下寄附者名と金額が続く。裏面は発企、頭取、世話人の名がある。西面には「石工 三庄村光法佐太郎 中庄村田頭岡左ヱ門 田熊村岡野綱次」とある。この人たちは工事に関わった石工であろう。東面には「三庄村 石工 篠塚音松」と、村名と肩書きが逆である。この石碑の製作者だと思う。
さて南面の寄附者名について考えてみたい。「細島中」とあるのは細島からの連絡船の寄港地がこの頃には東浜と決まっていたことを意味する。「向シマ吉原大作」とあるのは、『向島岩子島史』によると明治19年に重井村戸長を勤められた向島西村村長の吉原大作氏のことである。
しかし、「椋浦藤田蜜弥 椋浦平沢歓三」「タタノウミ(忠海のことか)豊太春平 オノミチ上弥代蔵」の重井村以外の方についてはわからない。紙に書かれた寄附録の原本があれば、詳しいことがわかるかもしれないが、それが出てくる可能性は少ない。
現在重井郵便局のある東浜は当時、近くに村役場もありまた白滝山表参道の起点であったから多くの船舶が入港し農産物も積み出されたことであろうから、頻繁に入港する船の持ち主や、商売人であったかもしれない。
あるいは家船で移動する漁業者が一時的に基地にしていたのかもしれない。水や野菜と漁獲物を交換する。地元の人は親切で住みやすそうなところではあるが、しばらくいると古い血縁関係の濃い純農村だと気づく。こんなところには住めないな、と思ったら程なく別の土地へ移動する。そういう瀬戸内海史の一コマがあったのではないかと想像する。
明治23年といえば江戸時代を知らない人たちが社会の中心になっていく頃である。変革の進歩は加速される。天保の老人たちが表舞台から去っていく時期が始まろうとしていた。
ふるさとの史跡をたずねて(208)
備後ドック記念碑(因島三庄町町七区)
因島四国88箇所は明治45年の創設であり、場所が移動したものも多い。三庄町の40番観自在寺も、無量寺の隣を通って山側から行ってみたが廃寺になっていた。この道が初期の遍路道だと思われるが、最近は、七区の崖下から登っていた。その道も荒れていて、雑草を掻き分けてかろうじて降りた。
この辺りはかつて、因島高校のマラソン大会の折り返し地点だった。スタンプ台を持った先生方が待機されていて、手にスタンプインキをつけて折り返した。当時は社宅が軒を接しており、私にとっては珍しい光景であった。
崖側の路肩はセメントで覆われ、閉鎖された防空壕の跡や古いお地蔵さんがあって、土地の歴史がうかがわれる。道の反対側にもお地蔵さんがあるのだが、その隣に備後船渠史蹟がある。
船渠(せんきょ)とはドックのことである。若い人たちのために敢えて書けば、工場内の大きなプールだと思えばよい。修理の時は船を入れてから海水を抜く。浮かべる時には海水を入れる。
余談ながら戦艦大和と戦艦武蔵は基本は同じ設計図で、大和は呉の海軍工廠のドックで作られ、武蔵は三菱の長崎造船所で船台で作られた。完成品は海に浮かべるのだから、船台では進水に余分の労力がかかるし、また重量制限もかかる。いかにドックが重要かということが想像できるだろう。
そのドックのある造船所を作ったのである。上の左側の石版には、備後船渠株式会社の工場が明治34年6月に起工したと記してある。前年に三庄船渠株式会社として発足したが頓挫し、この年社名を変えてスタートしたわけである。
これより前、明治30年には土生村長崎に土生船渠株式会社ができており、36年に因島船渠株式会社と改名した。大阪鉄工所因島工場は明治44年頃、因島船渠株式会社を買収し、大正8年には備後船渠株式会社を買収した。そして備後船渠株式会社は大正11年には、大阪鉄工所因島三庄分工場と改名された。大阪鉄工所は昭和18年に日立造船となった。
ふるさとの史跡をたずねて(209)
溝梁完成記念碑(因島土生町町荒神区)
以前にも書いたが海を陸地に変えるのに二つの方法がある。一つは埋め立てで、もう一つは干拓である。前者には大量の土が必要だから近くに大きな山がないといけない。後者では満潮時には海水面より低くなるので一時的に水を貯めておかなければならない。そのための池を因島では塩待ちとかタンポと呼んでいるが、一般的には潮廻しという。そして干拓地にとって邪魔な水を、清濁に関係なく悪水と呼び、海水面が下がったら樋門から排水する。また、干拓をすることを開発と呼んだ。だから干拓地が新開と呼ばれる。
さて、ナティーク城山から、荒神社へ行くルートは村上水軍の史跡巡りで避けて通れないところである。その荒神社への長い石段の手前、右側に立派な石碑がある。
余談ながら、この辺りに林芙美子が住んでいたと書いてあるものもあるが、確証が得られないので、今回は断定はしないことにしよう。
いつもは、麻生イトさんの名前がある、という程度で済ますのであるが、今回は内容に立ち入ってみよう。碑文はまことに興味深い。
土生地区は開拓(干拓のことだろう)して日が浅いのに人家が急増したが流水溝梁ができておらず、村井清松村長、佐々部優巡査部長、それに麻生以登さんが憂えて相談していたところ、大阪鐵工所初代因島工場長の専務取締役木村鐐之助氏が千円を寄付して下さり事業が遂行できた。また平木和太郎衛生組長が労を厭わず工事監督に挺身して完成できた。それらの人々の名を記して住民と共にその徳に感謝したい。およそこのようなことが記された石碑が、大正5年夏に設置された。
石段を登って荒神社の境内から町並みを眺めてみよう。大正5年以降も陸地は広げられたことであろうから、海側の一部分は当時はなかったと思えばいっそうよくわかるだろうが、傾斜地が終わる部分と海との間が狭いことに気づく。海に近い方では潮廻しの水かさが上がると多くの家の近くまで上がってきたことであろう。これを避けるためには深くて幹線となる大きな溝と、数軒分の排水を集める浅い小さな溝の二段構えにしたらよいことは、土木に関しては全くの素人である私でもわかる。
大正3年の土生村人口4146名が大正7年には11864名になり、土生町になっている。都市基盤の整備が追いつかない時代であったことが想像できる。なお、物価は変動するが、理髪代金、大工工賃では約2万倍になっている。
ふるさとの史跡をたずねて(210)
ハワイ移民頌徳碑(因島中庄町大江)
一般的には鎖国と言われ、海外渡航が禁じられていた時代が長かったので、明治になってからの海外移住が特別なことになる。鎖国以前の日本人の海外進出の状況を考えれば、もし鎖国政策さえなければ、明治以降の移民も特別なことではなかったであろう。だから、明治以降の移民史は特筆に値するが、なにしろ海外のことであるから本稿には向かない。
そのような中で、中庄公民館の駐車場北側にある石碑は、興味深い。
この石碑は大正12(1923)年の1月に建てられているので、およそ百年前のものである。文字が鮮明で光沢の鮮やかなのは、設置場所が良いだけでなく素材が立派なものだからではないかと思う。
中庄の人、小林栄之助氏は明治35年12月に布哇(ハワイ)に渡り、土木事業を興し、百余人の従業員を抱える事業家となった。大正5年9月に帰郷した時は、学校・神社・お寺に多大な寄付をし、大正8年1月の時は村人の修養所となる公会堂を建設した。村人はこぞって小林氏の両親と郷里を思う孝徳心を讃え、また事業の益々盛んなることを願って頌徳碑を公会堂の傍に作る。おおよそこんな意味のことが書いてある。
公会堂は敷地101坪、建坪48坪強で当時の金額で1万円であったから、村民の感謝の気持ちはいかばかりであったか。また、海外で一旗揚げて故郷に錦を飾る人の勇姿は、「移民は移民を呼ぶ」と言われたように後続者を鼓舞するものだが、後に続く者が多くなかったということは、もともとが温暖で豊かな土地であったせいであろう。
ハワイの歴史を大雑把に記すと、ハワイ王国、共和国、アメリカ領、ハワイ州と変遷するが、明治35年はアメリカ合衆国の領土になっているが、まだハワイ州にはなっていない。
明治元年組と呼ばれるように海外移住史はハワイから始まり、南米・北米へと拡大していく。
(写真・文 柏原林造)