2026年10月6日
毛利和美先生の著書
④「鳳山*斧」*=金+出 ほうざんとっふ 天保14年 1843年 30歳
鳳山*斧 ほうざんとっふ *=金+出=トツ、ドチ(鈍い、小刀) 斧おの、フ
天保十四年癸卯三月。余、承檀越武田氏之請、住加
州鳳皇山祗陀寺。上堂曰、覿(てき)面呈露直絕対待。柳綠 覿あ(う)テキ
花紅、皆随聞見。庖丁解牛者也。養生者取之。輪扁断
輪者也。読書者与之。山衲今日拈鈍斧、与大家商量。
兎起鹘落、使先聖瞠乎後。見之不取、思之千里。
鹿門曰、夫子、釈鳶飛魚躍、曰天地也、亦此意。
学海曰、本色語、不得使門外漢着一語。
天宝14年癸卯3月、私は後援者である武田氏の招きにより、加賀の鳳皇山にある祗陀寺に滞在しました。説法の中で、私は次のように述べました。「面と向かって出会うことは、自らを率直に、そして分け隔てなく明らかにすることです。柳の緑、花の赤、すべてが心に浮かびます。牛を巧みに解体する屠殺師の包丁は、生命を養おうとする者の模範です。車輪を壊す車大工の下は、書物を学ぶ者の模範です。今日、この謙虚な僧侶は鈍い斧を手に取り、誰とでも議論を交わします。先師は兎が走り上がり、鷹が舞い落ちる、賢者さえも驚嘆する光景です。それを見て、それをつかまず、千里も遠くから思索するのです。」
鹿門は言った。「師匠、飛ぶ鳶と跳ねる魚は天と地を表しています。これは同じ考えです。」
学海は言った。「真の言葉は部外者が口にすべきではない。」
頭注
鉄心曰柳緑花紅皆
随聞見是吾道所謂
左右逢源者耶
鉄心曰く:緑の柳と赤い花々、聞こえてくるもの、見えるものすべて、これこそが私の流儀で言うところの「あらゆる方向で機転を利かせる」ということなのだろうか?
⑤「白獄跋歩」 天保14年 1843年 30歳
「白獄跋歩」はくごくばっぽ
天保14年(1843年)の年の秋、私は加賀にある大乗庵(だいじょうあん)に滞在し、師である無底(むてい)和尚の教えを奉じておりました。そこへ、弘厳(こうごん)という名の在家信者が訪ねてきて、「共に白山(はくさん)に登りませんか」と提案しました。かねてより抱いていた念願でもありましたので、私たちは連れ立って出発することにしました。六里ほど進むと、かつて大智禅師が坐禅修行に励まれた地である吉野の村に到着しました。山々に囲まれ、渓流が流れるその地は、断崖や奇岩が連なる絶景で、ある岩は鷹が空へ舞い上がるようにそびえ立ち、またある岩は虎がうずくまるような姿を見せていました。禅師は元(げん)の国から帰国後、この山を開き、大いに仏道を広められました。その後、肥後(ひご)の国へ戻られた禅師は、菊池武重(きくち たけしげ)の深い帰依を受けました。菊池氏の威光は武重の代に高まりましたが、その輝かしい功績は禅師の精神的な導きによるものだと言われています。正午にはある農家に立ち寄り、軽い食事をとりました。さらに山道や水辺を数里ほど進み、夕暮れ時に白山の麓(ふもと)にたどり着いた私たちは、木こりの小屋で夜を明かしました。
暁裏糧而発。自麓至頂九里強。山路崎嶇。排草而跋、
褰衣而涉、溪尽而山、山尽而溪。羊腸百折。至険処、則
附厳石魚貫而攀。笠擔、覆背、前者之脚、与後者之肩
相摩。昏達嶽頂、宿厳室。室倚崖架柱、穿石引泉。登攀
者皆齎塩米。余就巌竃炊飯。峭寒、如厳冬。火薪取煖
終夜不寝。待曉出巌戸。旭日未昇。下界清澄。目之所
極不知幾百里。而富嶽立山、歷歷可指点。嶽頂置白
山権現祠。宗祖道元禅師、在宋之日、感助筆之霊云。
乃上天壇、膜拝而過。稍降有池。曰天池。周囲一里強。
翌日、夜明けとともに食料を摂った。山の麓から山頂までは九里以上あった。山道は険しく、私たちは草むらをかき分け、
服をまくり上げて水の中を歩いた。小川は山に流れ込み、山はまた小川に流れ込む。道は曲がりくねり、曲がり角ごとに、私たちは一列になって険しい岩を登った。帽子をかぶり、荷物を背負い、背中を覆い、前の者の足が後ろの者の肩に擦れるほどだった。夕暮れ時に山頂にたどり着き、人里離れた部屋で一夜を過ごした。部屋は崖に柱で支えられ、岩の間から泉が流れていた。登ってきた者は皆、塩米を携えていた。私は崖の斜面にある小さな岩穴で炊いた。厳しい冬のように身を切るような寒さだった。薪で暖を取り、一晩中眠れなかった。夜明けに岩穴から出た。太陽はまだ昇っていなかった。眼下の世界は澄み渡り、明るく輝いていた。見渡す限り、その広がりはどれほど遠くまで続くのか、私たちには分からなかった。富士山と立山がはっきりと見えた。山頂には白山権現の祠が建っていた。禅宗の祖である道元禅師は、宋の時代に、霊的な啓示を受け、執筆に励んだ。そして彼は天壇へと登り、拝礼した。少し下ると、周囲約一里の天池と呼ばれる池にたどり着いた。
頭注
秋琴曰山壑危險之
状写出無遺何等健
筆
秋琴は言った。「山谷の危険が生き生きと描写されている。なんと力強い文章だろう!」
古香曰聞登富士山
者之語大率類此
古香は言った。「富士山に登った人の話を聞いたことがあるが、彼らの話は概ね似ている。」
水は極めて深く冷たかった。そこには霊蛇が潜んでいた。崖は水面から数十丈(1丈=3m)も高く、見下ろすと肌が青ざめるほどだった。カタツムリのように這って降り、水たまりから水を汲んでお茶を淹れた。すると突然、角の上に立つ鎧をまとった人影が現れた。天狗と見間違える者もいた。よく見ると、それは旧知の金沢藩の家臣、河野久太だった。理由を尋ねると、久仁は軍務をとうに終え、鎧はしばらく着ていないと答えた。今はその鎧の使い心地を試しているのだという。他の場所では人々に軽蔑されるだろうから、深い山の中で試しているのだと。この男の軍務への献身は称賛に値する。やがて太陽が昇り、雲と霧が晴れ、視界は広大で澄み渡った。雲を踏みしめながら山を下り、家路についた。
頭注
古香曰当今学校生
徒往往 弱無往昔
武士気象余常為国
家慨之
古香が言った、現代の学生たちが以前よりも弱くなっていると告げる
しかし、武士の精神は今もなお生き続け、国のために気概を持っている。
鹿門は言った。「非凡な風景について長々と語る上に、鎧をまとった者を書いて畏敬の念を抱かせる。禅宗の開祖である道元もこの原理を理解していた。殺す剣と救う刀は本質的に同じである。」
錦山は言った。「大智大師の話から菊池氏の武功を語り、また鎧をまとった武士を描く。始まりと終わりは一致しており、武勇の精神を称えている。しかし、当時、民衆は平和で満足しており、平穏な状態を維持することに専念していたため、すでにここに混沌の種が蒔かれていたことに気づいていなかった。学公は在家者でありながら軍事に関心を寄せ、後に国に身を捧げ、その責務を果たした(したがって、この記述がある)。この一節は極めて重要な意味を持つ。」