2026年7月5日日曜日

第一火曜会 第1回

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鴻雪爪著 山高水長図記

巻上

雲遊三絶  天保6年 1835年 22歳


「原文」と「書き下し文」があります。原文の行に合わせて漢字で書きます。 

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                 巻上一 (右)





        巻上二 (右)            巻上一 (左)

        巻上三 (右)               巻上二 (左)





                 巻上三 (左)


頭注、画讃






























江馬 天江(えま てんこう、文政8年11月3日〈1825年12月12日〉 - 1901年〈明治34年〉3月8日)は書家・漢詩人・医師。幕末から明治期の京都を代表する文人。


松秋琴曰好問答

(スケッチの讃)

瓊浦昔游

地回頭半已

忘為君写

鴻爪旧夢

墜蒼茫

洲居士

ちょう‐さんしゅう〔チヤウサンシウ〕【長三洲】

[1833~1895]幕末明治漢学者書家豊後

ぶんごの人。名は炗ひかる。字あざなは世章。奇兵隊参加。維新後は文部大丞・文部省学務局長・東宮侍書などを歴任漢詩南画にもすぐれた。著「三洲遺稿」など



依田 学海は、日本の漢学者、文芸評論家、小説家、劇作家。幼名は幸造、信造。通称は七郎、右衛門次郎。諱は朝宗。初め字を百川といったが後にこれを本名とした。学海は雅号で、柳蔭とも号した。 『学海日録』の著者。漢文の作文、特に記事文に優れ、その著作『譚海』は、菊池三渓の『本朝虞初新誌』と並び称される。 
生まれ1834年1月3日
死去1909年12月27日

岡 鹿門(おか ろくもん、天保4年11月2日1833年12月12日)- 大正3年(1914年2月28日)は、幕末期の仙台藩士、明治時代の漢学者は千仭(せんじん)、は振衣、初名は敬助、鹿門は。幕末から明治を代表する漢学者の一人で、多くの門人を数える。

仙台藩の番士として将来を嘱望され、江戸に出て昌平黌に学び、のち舎長となる。同窓の重野成齋松本奎堂松林飯山南摩羽峰と深く交わり、大坂で私塾「雙松岡塾」を開いて尊王攘夷論を唱えた。清川八郎本間精一郎などを教育した。慶応2年(1866年)に藩校・養賢堂指南役。

戊辰戦争に際して、奥羽越列藩同盟に反対した[1]ことから仙台藩主及び藩士の怒りを買い、投獄された。

明治維新後は太政官修史局、東京府等に務めたがほどなく辞任し、芝愛宕下の旧仙台藩邸を利用して私塾「綏猷堂」を開き、門弟の教育活動に当たり、福本日南尾崎紅葉片山潜国分青崖など多くの偉人が門を叩き、福沢諭吉の薦めで啓蒙活動を開始した。

晩年には、大陸経論の志を抱き始め、李鴻章を尋ねて支那改革論を説き、大陸浪人として活躍。初期の興亜会にも関与した。


矢土 勝之(やづち[1] / やつち[2] かずゆき、1849年3月30日(嘉永2年3月7日[1][注釈 1])- 1920年大正9年)11月28日[1][2][3][4][5])は、明治から大正期の漢詩人・官僚政治家衆議院議員。字・実夫[1]、号・錦山[1][6]

伊勢国飯野郡阿波曽村(三重県[2]飯野郡射和村大字阿波曽[6]飯南郡射和村を経て現松阪市阿波曽町)[注釈 2]で生まれる。土井聱牙に師事し漢学を修めた[1][2][3][5]

太政官に出仕[2][3][5]東京岩倉具視伊藤博文の知遇を得た[1]。1898年(明治31年)3月、第5回衆議院議員総選挙(三重県第4区、自由党)で当選した[1][7]。1902年(明治35年)8月の第7回総選挙(三重県郡部、立憲政友会)では落選し[8]、衆議院議員に1期在任した[2][3][5]

森春濤の高弟で[4]、その子森槐南らと交友した[1]。伊藤博文没後は故郷に隠棲し[4][6]、1920年11月、尿毒症併発により山田赤十字病院で死去した[4]


高島 秋帆は、江戸時代後期から末期にかけての砲術家。高島流砲術の創始者。「火技之中興洋兵之開祖」と号することを認められた。 
生まれ1798年9月24日, 長崎県 長崎市
死去1866年2月28日

黄泉無著(こうせんむぢゃく、生没年未詳)は、江戸時代後期の臨済宗の僧。字は、黄泉。尾張国愛知郡山崎村生まれ。