2026年7月7日 リンク 第2回
鴻雪爪著 山高水長図記
巻上
雲遊三絶 天保6年 1835年 22歳
「原文」と「書き下し文」があります。原文の行に合わせて漢字で書きます。
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点(、)丸(。)は書き下し文に合わせる。
原文のページが変わるところは1行開ける。
巻上三 (右) 巻上二 (左)
江馬 天江(えま てんこう、文政8年11月3日〈1825年12月12日〉 - 1901年〈明治34年〉3月8日)は書家・漢詩人・医師。幕末から明治期の京都を代表する文人。
松秋琴曰好問答
(スケッチの讃)
瓊浦昔游
地回頭半已
忘為君写
鴻爪旧夢
墜蒼茫
三洲居士
ちょう‐さんしゅう〔チヤウサンシウ〕【長三洲】
ぶんごの人。名は炗ひかる。字あざなは世章。奇兵隊に参加。維新後は文部大丞・文部省学務局長・東宮侍書などを歴任。漢詩・南画にもすぐれた。著「三洲遺稿」など。
岡 鹿門(おか ろくもん、天保4年11月2日(1833年12月12日)- 大正3年(1914年)2月28日)は、幕末期の仙台藩士、明治時代の漢学者。名は千仭(せんじん)、字は振衣、初名は敬助、鹿門は号。幕末から明治を代表する漢学者の一人で、多くの門人を数える。
仙台藩の番士として将来を嘱望され、江戸に出て昌平黌に学び、のち舎長となる。同窓の重野成齋、松本奎堂、松林飯山、南摩羽峰と深く交わり、大坂で私塾「雙松岡塾」を開いて尊王攘夷論を唱えた。清川八郎、本間精一郎などを教育した。慶応2年(1866年)に藩校・養賢堂指南役。
戊辰戦争に際して、奥羽越列藩同盟に反対した[1]ことから仙台藩主及び藩士の怒りを買い、投獄された。
明治維新後は太政官修史局、東京府等に務めたがほどなく辞任し、芝愛宕下の旧仙台藩邸を利用して私塾「綏猷堂」を開き、門弟の教育活動に当たり、福本日南、尾崎紅葉、片山潜、国分青崖など多くの偉人が門を叩き、福沢諭吉の薦めで啓蒙活動を開始した。
晩年には、大陸経論の志を抱き始め、李鴻章を尋ねて支那改革論を説き、大陸浪人として活躍。初期の興亜会にも関与した。
矢土 勝之(やづち[1] / やつち[2] かずゆき、1849年3月30日(嘉永2年3月7日[1][注釈 1])- 1920年(大正9年)11月28日[1][2][3][4][5])は、明治から大正期の漢詩人・官僚・政治家。衆議院議員。字・実夫[1]、号・錦山[1][6]。
太政官に出仕[2][3][5]。東京で岩倉具視、伊藤博文の知遇を得た[1]。1898年(明治31年)3月、第5回衆議院議員総選挙(三重県第4区、自由党)で当選した[1][7]。1902年(明治35年)8月の第7回総選挙(三重県郡部、立憲政友会)では落選し[8]、衆議院議員に1期在任した[2][3][5]。
森春濤の高弟で[4]、その子森槐南らと交友した[1]。伊藤博文没後は故郷に隠棲し[4][6]、1920年11月、尿毒症併発により山田赤十字病院で死去した[4]。