1832年天保3年11月 青木沖新開住吉神社建立
2021年12月25日土曜日
史料による因島史 大正時代
1915年大正4年8月中庄町鼠屋新開道路改修
鼠屋新開道路改修記念碑(尾道市因島中庄町新開)
「本村字自鼠屋新開至油屋新開唐樋道路」
左側面には「大正四年八月建之」。
1916年大正5年中庄町中須賀西浦峠道路改修
「自字中須加権防至峠道路改修記念」。右に小さく「大正五年竣成」
百五十円が本村、百円から五円までの寄付者63人の名前。加えて「十六円西浦組中」と「百四十二円七十銭外百十人」。
1922大正11年3月 中庄町水落
聖歓喜天・大師堂土地等寄付碑
「大聖歓喜天祠堂壱宇 大師堂敷地二畝廿八歩 右寄付者松浦萬吉 一、金壱百円也基本金 右寄付者中井勝太郎 大正拾壱年三月」。
1922年大正11年秋 中庄町梶田上畑道路改修(尾道市因島中庄町水落)
「字自梶田至上畑道路改修碑」、「大正十一年秋竣工」と
「一、金千五百五十五円本村」
1924年大正13年1月中庄町升浜道路改修
升浜道路改修記念碑(尾道市因島中庄町浜床)
「字(あざ)升浜道路改修記念碑」最初の二行は「大正十三年一月建」、「一、金六百五十円本村補助」。
丸池の手前あたりから浜床まで、土生新開の北端にある道路だろうか。主に江戸時代に行われた干拓地の道路が明治時代以降に改修されのは、さらに沖に干拓地ができることと、人口の増加が考えられるし、また交通機関の発達も考慮せねばならない。この時代は荷車が通れるような道路にすることが主な狙いだったと思われる。こういう状態がしばらく続き自動車が通るようになるのはもっと後の時代である。
また、道路の発達と人口増加は関連性は高いのであるが、この周辺の人口が増加するのはもっともっと後のことであるから、この道路改修の主たる狙いは今でいう農道のようなものだったのかもしれない。
土生新開は江戸時代よりも前の干拓地であるが、江戸時代にさらに東の鼠屋新開ができて、田んぼや畑が増え、最近ほどではないにしても明治時代になってから周辺人口も少しずつ増えていたであろう。そして元の海岸線と土生新開の境目が道路らしくなったのではないかと想像する。そして道路が整備されればさらに家も増えた。
2021年12月24日金曜日
史料による因島史 明治時代
1896年明治29年土生町 明治29年因島船渠創立
因島船渠碑(尾道市因島土生町平木区)
宮島さんの前の石碑(写真)。
戀(恋)田清三郎、弓場定松、橘富太郎の三氏が明治29年に因島船渠を作ったと書いてある。
この石碑の文字は大正5年9月に書かれた。
史料による重井町史 昭和時代
明治時代
大正時代
昭和時代
平成時代
令和時代
1929年昭和4年12月 ガソリンポンプ購入。警鐘台建設。
ガソリンポンプ等寄付碑(尾道市因島重井町公民館)
「ガソリン喞筒及警鐘台寄付録」と書かれている。その隣には「一、金千円村費補助」「一、金千七百五十円寄付」とあり、寄付者は百円が12名、五十円が11名で合計金額と合う。消防旗の寄付者一名と世話人6名の名前が記されている。
昭和四年十二月 ガソリン喞筒及警鐘台寄附録 一千円村費補助 一金千七百五十円寄附
2021年12月23日木曜日
温故逍遙 重井村四国とその周辺
重井村四国八十八ケ所
瀬戸内海は人や物を運ぶだけでなく、人々の考え方も伝えてきた。弘法大師信仰や四国遍路も島から島へと伝わり、1816年(文化13年)白滝山上に四国八十八ケ所御本尊が勧請された。その後、人々の思いはふたつの行動となって広がった。重井村内を巡る重井村八十八ケ所札所をつくることと、お金を積み立て毎年何人かずつ四国巡拝をする講を作ることである。これらは互いに補いあい、1847年(弘化4年)二百人講としてはじめられた講は、二百人を超え、1851年(嘉永4年)末広講と改められた。重井村八十八ケ所は一の宮から始まり重井村内を時計回りに巡り、一本松で終わる。各札所にはご本尊と弘法大師像が安置された小さな石堂が作られた。それらの中には末広講ができる弘化4年以前の年号が刻まれたものから、末広講の文字の彫られたものもある。中には再建の文字もあり、世代を超えて守り続けられたことがうかがえる。このような貴重な文化遺産を長く継承していくために因島重井町文化財協会は、(一社)中国建設弘済会の助成を受け、また因島重井町区長会の協力を得て調査研究ならびに整備事業を行った。これからも多くの人たちに親しまれ、長く保存されることを願っている。
令和3年(2021年)1月吉日 因島重井町文化財協会
裏面
事業名 重井村四国八十八ケ所整備事業
整備期間 2018年度から2020年度
助成支援 (一社)中国建設弘済会
協力 因島重井町区長会
石碑製作施工 𥸮原石材
整備事業者 因島重井町文化財協会
水軍伝説 ー因島村上氏とその時代ー
(表紙)
水軍伝説
ー因島村上氏とその周辺ー
(見返し)
(目次)
プロローグ わこう
第1章 村上義弘
第2章 もろきよ伝説
ツリー島箱崎浦ノ合戦
岡野せい氏伝説
地蔵鼻伝説
第3章 城跡伝説
ゆみせそうじゅうろう
第4章 家臣団の末裔 ー姓氏伝承を巡ってー
海光風色 因島村上氏とその周辺
左側に通史 右に注釈、資料
序章 倭寇
第1章 村上義弘と青影山
第2章 師清伝説
第3章 島前の攻防
岡野氏姓氏伝説
第4章 地蔵鼻伝説
序章 倭寇
村上水軍の伝説について書こうと思ったら村上義弘まで遡らないといけないのだがさらに和光について書いておく必要がある海賊の歴史については和光あたりから始めるのが上等であるが因島ではそこから始める必要はアルマイト最初は思っていた。 必要はあるまいと最初は思っていた。しかし因島公園にこのような席があるのを見つけた以上石碑があるのを見つけた以上和光から書いておくのが順序だと思う IMALU 海賊の本を見ていたら和光からとって話し始めている本が春野本があるのを吸っていたが知っていたが因島の歴史とは関係ないものと思っていた。 だからこれまで一切触れてないのだが今回は伝説ということであるの扱ってみよう。因島公園に倭寇の子孫われとなれの石碑がある。 釣島箱崎裏合戦700年を記念したものである。自分を倭寇の子孫だと考えている人がいるかいないかは知らないし。 果たしで和光はるばる海を越えて因島あたりから行った人がいるのだろうか。 あるいは倭寇の子孫が因島あたりへ行ってきて済んだということがあるのだろうかまあそんなことはどこにも書いてあるまいし嘘か本当か確かめようがないのだからそのように思っている人がいたとしてもおかしくはないしそれが間違いだと行ったところで仕方がない。広島公演に学校の子孫割れとなりのスイッチガール。月島箱崎村合戦700年ねんねんお記念したものである。
日本で海賊の歴史といえばワコウから話し始めるのかかつてのホウホウであった。
しかし、因島の村上翠考える時、早く全くと言っていいほど関係ないだろ。とは言え、海はどこまでも続いているのだから、中には
何かの都合で見落としたものがいたかもしれない。しかし体制としてのんちから言えば広島のなのりか
義弘
私が小学生の頃は村上水軍といえば青影山の村上義弘のことであった。 しかし現在因島の水軍のことで村上義弘をカタログとはいないだから伝説の人として取り上げてみよう。
潮音石声 白滝山私論
はじめに
中国では、宋の時代に勧善の書、すなわち善書が多く出版された。土着の儒教に加え、善行を積んで仙人になるという道教の考え方や、外来宗教である仏教の因果応報などが融合して、善行を積み重ねることによって運命が開けるとするものであり、積善の家に余慶ありと、広まった。明の時代には具体的な実践例として善悪を点数化して日々の行為を反省する功過格というものが生まれた。伯仕宋、袁了凡はそれぞれ『隠騭録』を書いたが、異なる功過格を採用していた。
江戸時代にこれらが我が国に伝わった。我が国では、袁了凡の『隠騭録』に伯仕宋の本から袾宏の「功過自知録」を合わせた翻訳本がよく売れた。
我が重井村の柏原伝六は、その一書を知り、父母から観音信仰を受けつぎ、自ら観音菩薩の生まれ変わりと信じ、情熱的に「功過自知録」を庶民に広めた。時計や新聞の普及していない時代であったから、規則正しい生活をして生産に励めば生活は豊かになった。まさに観音信仰の現生ご利益であった。
伝六はそれに留まるだけでなく、観音菩薩の使命である庶民を極楽浄土へ導くという役目を自覚し、白滝山の最上部に阿弥陀三尊像を建て西方浄土を作ることを願った。現生ご利益の観音信仰から来世往生の浄土信仰への見事な展開であった。また善行を積み尊敬されるべき羅漢として山上に登ろうと説いたとしたら、活動の継続性も保たれ、余力のある人は自らの姿を石像として刻んだであろう。
伝六は道徳的な「功過自知録」を普及させたせいか、自らは神仏習合の徳川封建制度から抜けだすことはできず、また他宗教を批判することも、曹洞宗に反旗を翻すこともしなかった。
伝六の死後、弟子たちは組織的な活動をすることなく、散発的に観音講を行い伝六の人格の称揚に努めたが、伝六の思想を発展させることはなかった。
しかし伝六の播いた「功過自知録」の種は、村民に深く浸透して勤勉な農村社会を形成し、世代を超えて継承され重井村を木綿、薩摩芋、除虫菊などの一大産地にした。またその精神は戦前の修身教育と共鳴したであろうし、戦後は修養団捧誠会活動として全国に発信された。重井小学校の白滝市活動は若き熱心な教職員の情熱なくしてはありえなかったが、それに応えた児童とそれを支える保護者の誠意により、全国的にもユニークな活動として注目され高く評価された。
潮音石声 その1
白滝山についてのエッセーである。
潮の音は既に聞こえている。生まれた時から。石の声はまだ聞こえない。彼らに、すなわち石仏たちに語ってもらおう。それが最終目標である。
はじめに白滝山に関する誤謬について指摘しておきたい。
①白滝山の語源について。
白い滝であるというのは間違いである。タキは崖を表す。白い崖山という意味だ。
②恋し岩伝説について。
伝説ではなく創作民話・説話である。白滝山の語源説話の部分は単なる子どもの創作で、話は逆である。もしそういう相撲取りがいたとしたら山の名前をもらったのである。
③千手観音の持物を十字架と解釈することについて。
全くの誤解である。無知の連鎖である。
④一観教について。
伝六の時代にも、伝六死後も、そして現代も庶民の間で、一観教という言葉が使われたこともなく、またそれを信仰する集団は存在しない。また、一観教とはこんな宗教だと、説明した人もいない。意味もわからずに書き写すのは知性の欠如である。
⑤伝六が毒殺されたということについて。
証拠もなく、全くありえないことである。
白滝山とは何であったのかということを主題にして考えていきたい。
白滝山は五百羅漢ということになっていて諸記録も皆そう書いてある。羅漢信仰とは何だろうか? この辺りから考えていきたい。
まず、宇井伯寿監修『佛教辞典』、大東出版社、昭和44年の中型第4版よりp.284「五百羅漢」。
①仏滅後第一結集の時、来界したる無学果の声聞五百人をいふ。大迦葉これが上首たり。②省略③支那・日本に五百羅漢の崇拝行はるるも根拠なし。
根拠なし、というのは例えば観音信仰なら『法華経』の25品、阿弥陀信仰なら『阿弥陀経』というような仏典がないということであろう。早くも、この問題の難しさが露呈したということである。
次に『岩波 佛教辞典』、岩波書店、1994年の第5刷より、p.15の「阿羅漢」より、要点のみ抜粋。「尊敬・施しを受けるに値する聖者を意味する。インドの宗教一般において尊敬されるべき修行者をさした。原始仏教では修行者の到達し得る最高位を示す。学道を完成し、もはやそれ以上に学ぶ要がないので阿羅漢果を無学位という。」
原始キリスト教というのはイエス没後からキリスト教が誕生するまでの間のこと。紀元後1世紀ごろ様々な宗教が起こり、その中の一つに後にキリスト教になるグループがあった。これらを原始キリスト教という。それに対して原始仏教というのは釈迦の言葉そのものを言う。釈迦入滅後、様々な解釈が行われ、大乗仏教と小乗仏教などと呼ばれた。我が国に伝わったのは大乗仏教である。
『岩波 佛教辞典』の「阿羅漢」の続きである。元は仏の別称であったが、大乗仏教では弟子(声聞しょうもん)を阿羅漢と呼び、仏と区別した。また「特に禅宗では阿羅漢である摩訶迦葉に釈尊の正法が直伝されたことを重視するので、釈尊の高弟の厳しい修行の姿が理想化され、五百羅漢の図や石像を製作して正法護持の祈願の対象とした。」(p.16)
重井村の宗派は曹洞宗であったから、ここに五百羅漢と伝六や村人の宗教との関係が明らかにされる。すなわち、五百羅漢は曹洞宗と対立するものではない。
また、五百羅漢については次のような説明もある。長崎唐寺の道教的信仰の「その風は黄檗僧・黄檗寺院によって、やや薄められながら全国へ伝搬していくことになる。(中略)さらには十八羅漢や五百羅漢像などいわゆる黄檗様式といわれる異風な仏像彫刻は、儒仏道三教の混在を見る人の視覚に強烈に訴えたに違いない。」中野三敏「都市文化の爛熟」(『岩波講座 日本通史』第14巻近世4、p.273)
白滝山の十六羅漢像や釈迦三尊像の背後(南側)にある個性的な羅漢像が異風で道教的だと言えばわかり易いだろう。しかし、言葉の上で道教と言ってもその実態を知るものは少ない。漢籍の分類では「荘子」「老子」「管子」などを道家と称するが、道家と道教は違うと幸田露伴は言っている。(『露伴全集』18巻、p.256)
「功過格」については後に記すが、そこでも道教の影響が出てくる。すなわち、仏像でも、伝六の教えでも道教の影響を否定できない、と結論を先取りするが記しておく。
なお、善興寺には「元文三戊午 月海湛玉上座 十月十四日」(元文三年は1738年)と書かれた、文字をなぞると字が上手になるとか、頭が良くなるとか言われ、墓参の時はお参りする黄檗僧の像があった。
次に観音信仰について考えてみたい。伝六は母が自分を身ごもったのは西国三十三観音にお参りしたからだと聞かされて、後年自分は観音菩薩の生まれかわりだと信じて、観音
道一観と名乗った。
このことは重要であり、伝六の宗教が観音信仰を基にしていることは間違いなかろう。また地元の呼び名として白滝山よりも観音山(かんのんさん)の方が一般的だった。
すなわち、地元では「かんのんさん」そして向かいの山は「ごんげんさん」が一般的で「白滝山」「龍王山」というのは、いわば「よそゆき言葉」であったということを強調しておきたい。
重井町は昭和28年までは重井村であった。そして村という言葉からイメージされるように村はずれには家はなく、それは隣接する大浜村、中庄村ともその村界に家などなかったのである。そういう閉じた社会では一つしかなければ「山」であり、複数あれば呼び慣れた名前で呼ばれる。それが「かんのんさん」であり「ごんげんさん」であった。
それが人の往来が頻繁になり、特に重井町になった頃から、そしてやがて交通機関の発達によってそれは加速されたわけであった。
人の往来が繁くなれば、他村(町)の人にもわかるように、方言が避けられ標準語を使かおうと努力するように、地図に書かれている「白滝山」「龍王山」が使われるようになった。すなわち、白滝山は、地元民には「五百羅漢」よりも「かんのんさん」として親しまれてきたのである。ただ「かんのんさん」という表現には「観音山」と「観音様」の両用があるが、「観音様(かんのんさん)」と言えば、「伝六さん」と観音像をさすが、おそらく「観音山(かんのんさん)」として多用されたと思う。
観音信仰についてさらに考えてみたい。観音菩薩については『法華経』の巻八の観世音菩薩普門品第二十五に詳しい。「観世音菩薩は、かくの如きの功徳を成就して、種種の形を以って、諸の国土に遊び、衆生を度脱(すくう)なり」(岩波文庫『法華経』下p.256)というように相手に応じて姿を変える。我が国で『法華経』と言えば、鳩摩羅什の漢訳のものである。また、我が国で読まれる般若心経は、唐の玄奘訳が元になっていて、その冒頭はよく知られている観自在菩薩・・である。すなわち玄奘は、種々の形に変わるということを強調して観自在菩薩と訳したわけである。
いわゆる「観音経」というのは、上記観世音菩薩普門品第二十五の最後にある偈(げ)のことで、般若心経についで人気のあるお経で、多くの宗派の法事葬式等で耳にすることがある。曹洞宗との関係については、以下のような説明が参考になる。
「また、観世音菩薩には三十三応身といって、必要に応じて三十三に変身して衆生を救済する融通無碍の性格があります。このいわば円通自在の心が、禅者にとっては必要なわけで、刻々として移りゆく事象の変化に応ずる心境が要求されるわけです。観音信仰が特に禅宗において重要視されるわけです。」(松下隆章「禅宗の美術」、小学館『原色日本の美術10禅寺と石庭』p.196)
話はそれるが同書に松下氏はまた次のようにも記している。「地蔵菩薩は一所に滞在せず、常に遊行して人びとの霊を救う役割をもっています。禅僧が修行のためあるいは布教のため常に師を求めて江湖を行脚する姿にも似ているわけです。」「この地蔵信仰に関連して禅林でとりあげられたものに十王信仰があります。」「禅宗では特に羅漢の姿を修行の範として尊崇します。五百羅漢や十六羅漢の姿が禅寺に多くみられる所以であります。」と。ここまで書けば、白滝山が一時、曹洞宗善興寺の奥の院になっていたことが不思議ではないということがわかるであろう。そして白滝山五百羅漢が伝六にとっては、曹洞宗からはみ出たものでなかったことがわかる。すなわち、伝六が「観音道一観」と名乗ったからといって、曹洞宗から飛び出したものではないことがわかる。同様に白滝山が曹洞宗に異を唱える聖地を目指そうとしたものではなかったことがわかる。
さて、伝六が自ら観音菩薩の生まれ代わりだと言ったのであるから、さらに観音菩薩とは何かと考えてみたい。それは白滝山の最頂部、展望台の東側にある阿弥陀三尊像を見ればよくわかる。中央が阿弥陀如来、阿弥陀如来の右側が勢至菩薩、左側が観音菩薩である。この位置に阿弥陀三尊像を置くというのが伝六の意志によるのであれば、その観音菩薩は伝六自身でなければならないだろう。観音菩薩の生まれ代りで「観音道一観」と名乗る以上はそうであろう。そうでなければ言行不一致になるではないか。余談ながら、そうであるならば、阿弥陀三尊像より少し下にある一観夫婦像というのは余分である。私は必要ないと思う。ではなぜ、あそこに一観夫婦像があるのか。伝六寄進にはなっているが、伝六の子息の寄進ではなかろうか。そして、親の心子知らずで、頂上の観音菩薩が伝六であるという認識に達していなかったのだと思う。
「無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経」を合わせて「浄土三部経」というのは法然がこの三経でいいと言ったからそう呼ばれるのである。死後の極楽浄土のことはこれらに描かれている。「観無量寿経」に、観世音菩薩は「この宝手をもって、衆生を、接引(しょういん)したまう」と書かれている。(『浄土三部経(下)』、岩波文庫、p.63)
同書p.104の註によると、接引とは、「親しく仏が衆生を浄土に導き迎えとること」である。このことを伝六が知らなかったとは考えにくい。
ふるさとの史跡をたずねて 増補版 251-260回
ふるさとの史跡をたずねて(251)
中須賀峠道路改修記念碑(尾道市因島中庄町峠)
因島中庄町は山で囲まれているので峠は至るところにある。今回は西浦峠について記す。とはいえ、近くに住んでいる人を除けば、青影トンネルがあるのだから、わざわざその上まで行く人は多くないだろう。そのせいかそのトンネルの上へ行く道を探すのは難しい。いつもの横着な説明を踏襲すれば、島四国15番国分寺を目指せばよい、ということになる。
青影トンネルの上に写真のような道路改修記碑がある。
それには「自字中須加権防至峠道路改修記念」と彫られている。右に小さく「大正五年竣成」とある。因島消防署があるところが中須賀池があったところだからその近くから峠に至る道路のことだろう。現在では東から来た車で青影トンネルを通るには消防署前の信号で右折して左に大きくカーブする。その直後、トンネルの少し前で、国道から外れて右へVターンしてさらに別の坂道へ上がる。すると普通車がかろうじて通れるような道が峠まで続く。西浦峠旧道である。おそらくこの道路が大正5年に拡張整備されたのだろう。ただし進入路付近はのちに青影トンネルができたとき大きく変わったと思われる。そしてまた間もなく新しいトンネルができるとこの辺りの状況は更に変貌すると思われる。
峠だから反対側、すなわち西浦側からも当然来れるのだが、実は難しい。また、光平の方へ通じる道や田熊町へと続く道があるが、これらの道は狭いので注意が必要だろう。
さて、記念碑だが、下の段に金額では百五十円が本村、百円から五円までの寄付者63人の名前が書かれている。加えて「十六円西浦組中」と「百四十二円七十銭外百十人」と左隅にある。これだけ多くの人が協力したということは、この道路が当時としては主要な道路だったことがわかる。
ふるさとの史跡をたずねて(252)
梶田上畑道路改修碑(尾道市因島中庄町水落)
因島中庄町の西浦峠から島四国15番国分寺の横を通って、小山の東側を迂回するような形で南へまわると水落・光平地区へ出る。と書いても、その境目がどこかわからないのであまり意味はないのだが、要するに消防署の上の方とその左の青影山北麓である。そのあたりには傾斜の大きい深い溝が時々見えていかにも水落という感じがするが、消防署から少し離れたところ、島四国16番観音寺近くに消防団の消防器具庫がある。正確には消防屯所というのだろうか。その前の防火用水に接して写真のような道路改修碑がある。消防署が近いのだから消防器具庫というのもおかしなことで、いずれ整理されるかもしれない。そうなったら、ここの記述も早晩古びてしまうが。
さて写真を見ていただきたい。前回の石碑とよく似ていて、左右を反対にしただけだと思う人がいてもおかしくはない。フィルムの時代は裏表を間違えればそういうこともあったかもしれないが、デジタル画像であるから意図的にしない限りそういうことはありえないのである。どちらも自然石をうまく利用していて、当時は景観ともよく合ったことだろう。同じ石工の作品かもしれない。でも、アスファルト道路には似合わない。
石碑の上の段には右から「字自梶田至上畑道路改修碑」、その上に小さく「大正十一年秋竣工」と書かれている。現在各町で残っている字(あざ)を書いた地図には、掲載されてないが、その下にさらに小さい字(あざ)があって、現在では日常的に使われない地名がある。「梶田」「上畑」というのもその類で、土地台帳、登記簿、あるいは固定資産税の明細などを見ないと、正確な場所はわからない。
下の段は寄付額と寄付者名であるが、一番上の右側は「一、金千五百五十五円本村」と読める。ここもまた一部を村費で負担し、地元民の寄付金で道路改修がなされたことがわかる。
ふるさとの史跡をたずねて(253)
聖歓喜天・大師堂土地等寄付碑(尾道市因島中庄町水落)
島四国16番観音寺へ行ってみよう。二つのお堂がある。正面は島四国の大師堂だからお堂。向かって左側の少し高くなっている方が、聖歓喜天だから、祀るというので、お社(やしろ)と書くべきかもしれないが仏教系の神様だからお堂でもよいだろう。聖歓喜天はご利益も多いが、守るべきことも多いせいか因島には少ない。
さて境内からの眺めは東の方がよく見えて素晴らしい。
境内に写真のような石碑があった。これまた自然石をうまく利用している。わずかな文字だから全文写しておく。「大聖歓喜天祠堂壱宇 大師堂敷地二畝廿八歩 右寄付者松浦萬吉 一、金壱百円也基本金 右寄付者中井勝太郎 大正拾壱年三月」。
島四国が設置されたのが明治45年。初めは仮設のお堂のようだったものが、約10年後にしかるべき所におさまったということであろうか。大正時代も遠き昔でよくは知らないが、大正11年には、前回のように道路も広くなるし、お堂も整備される。活気にあふれていたよい時代だったのだろうと思う。
ふるさとの史跡をたずねて(254)
水落西久保道路修繕碑(尾道市因島中庄町水落)
島四国16観音寺と聖歓喜天よりさらに高いところに写真のような石碑がある。
上段に「自水落至西久保道路修繕」と書いてある。右に小さく「大正七年九月」とある。
青影トンネルの上、すなわち西浦峠の島四国15番国分寺から南側の水落地区へ行く道は2つある。国分寺のすぐ横を通る道と、下を通る道がある。島四国遍路道は上の方を通る。下の方の道だったらまもなく右手に石垣のある赤雲神社に着く。ここから16観音寺と聖歓喜天は近いが道は複雑だ。もう一つの上の方、すなわち国分寺のすぐ横を通る遍路道では途中で左下へ降りる。今回は左下へ降りずに、左下へ降りる手前で右手方向へ登って行く。これは青影山と龍王山との間の峠道へ続く道である。小字(あざ)を書いた図と現在の地図を重ねるのは難しいが、小字の水落も西久保も狭い範囲だからこの辺りの道路ということになる。
下段はほとんど読めない。右端に「一、金七十五円本村」とあり、左へ金額と人名が並んでいるようだ。個人の寄付だろう。中庄村の村費と地元民の寄付によって道路の整備が行われていたことがわかる。農道のような感じがするが、田熊方面への通勤路でもあったであろう。我々は今外周の低いところを通ることが多いが、歩くだけなら峠を越える山道は想像以上に短い。
ふるさとの史跡をたずねて(255)
青木道路改修碑(尾道市因島重井町青木)
因島重井町の青木道路改修碑も干拓地に建つ道路改修碑である。
中央に書かれている「本村字青木道路改修碑」は「青木道路の改修碑」ではなく「本村字青木の道路改修碑」と解すべきで、青木道路という道路名があったわけではない。しかし、重井郵便局の隣を南東に伸びる路地を青木道路と呼んでも誤解はないと思う。その道路は青木沖新開と長右衛門新開の山側の道で、明治40年3月10日から10月10日まで6ヶ月をかけて改修された。明治30年に測量された地図によると現在の郵便局のところに村役場があり、かつては幹線道路であったと思われる。また、江戸時代初期の干拓地であるが一面が畑地であって水田ではない。
工費に関する記述が左側面にある。「改修金高壱千三百八拾八円」の内訳として六百円が村費補助、七拾三円が特別寄付、三百拾九円が関係寄付とある。関係寄付というのは周辺住民の寄付金で、特別寄付は村内有志の寄付と考えられる。
さらに金三百九拾六円が人夫壱千三百二拾人とある。人夫一人当たり0.3円すなわち30銭になる。これが当時の日当であろうか。そのように計算して加えているから、無料奉仕を工費に換算して加えたものである。収入金額に人件費を合わせたものを改修金として計上しているので、現在の感覚から考えると紛らわしいが、以上のように考えるしかない。
ふるさとの史跡をたずねて(256)
大正橋青木新道寄付碑(尾道市因島重井町小林)
因島重井町の重井駐在所の隣に「大正橋青木新道寄付碑」と書かれた石碑がある。
左(南)面に「大正十二年二月起工 同十三年三月竣工 人夫八百八十三人」とある。大正十三年に大正橋が架かるとともに、そこから前回書いた青木道路まで新らしく道路が作られた。青木沖新開のほぼ中央を東西に貫く道路である。
右面に書かれている「一、金高二千五百七十円八十銭」が総工費だと思われる。また、正面には金額と寄付者名が書かれており、本村補助が三百五十円であることもわかる。正面左下に関係寄付として7名の名前しかないのは、新道を作るのだから当然といえば当然である。しかし、南北に走る2つの道路が結ばれるのは何かと便利であり、村の発展には不可欠であった。その後干拓地の宅地化が急速に進んだことと想像される。
舗装道路になる前のこの道を知っている人は、この新道が、あたかも干拓地の堤防跡のように見えたことを思い出すだろう。異なる干拓地の境界と思った人もいたと思う。しかし、古い地図ではこの道路ができる前は一面の畑地であったから、両側は同一時期の干拓であったことがわかる。
ふるさとの史跡をたずねて(257)
山田大池道路改修記念碑(尾道市因島重井町山田口)
明治45年に創設された島四国は本四国のイメージを生かすためにさまざまな工夫がなされている。重井町の83番一宮寺を字「一ノ宮」へ設置するため、あるいは一の宮があった所に設置するために、その前で、不自然と思えるほど南北へ行きつ戻りつするようになっている。その一宮寺へは82番根香寺から県道沿いに南に進むが、一本松の手前で県道から別れて狭い道を直進する。
その分岐点に山田大池道路改修記念碑がある。南向きに建てられれおり、その中央に「本村 自字山田至字大池 道路改修紀念碑」と書かれている。記念碑でなく紀念碑と書かれているところに時代が感じられる。左側面に「維時明治廿五壬辰年仲秋」とある。その頃はまだ漢字の用い方はおおらかであった。
また、近くには「八十三ばん」(ばは者に濁点)の遍路道標や、それぞれ「中庄村行」と「はぶ たくま行」を別面に書いた道標などがある。
遍路道標の指示方向(南)の右手に丘があるだけで、周囲はかつては海だった部分であるが、左前方は、しまなみ海道の本線を作るのに削られた土で埋められ、今では干拓地だったことを想像するのは難しい。
ふるさとの史跡をたずねて(258)
脇田舟原道路改修記念碑(尾道市因島重井町川口)
重井町の青木道路の南の端である川口大師堂(島四国84番屋島寺)下には古い石碑がある。
文字は鮮明ではないが、「本村字 自脇田至舟原 道路改修記念碑」と正面に書かれている。脇田も舟原も現在はほとんど使われることのない字名である。ここから一本松までの道路改修が明治二十七年五月十日起工、十月三日落成で行われたということである。
右(西)面に、金高四百七拾七円、その内訳は村費補助が三拾五円、特別寄付三拾一円、川口中寄付百八十一円、人夫千百五十人二百三十円
と書かれている。人夫費は、一人当たり20銭として無賃奉仕を総工費に計上されたものと考えられる。また岩の寄付者四名も記録されている。
さらにまた裏面には、明治四十四年初秋再改修の記録が追加されている。
それには、金八百六十二円八十銭改修費、内訳金百四十円村費補助 、 金十五円特別寄付 、金三百三十七円七十銭川口中寄付、金三百七十円十銭人夫千四百八十人 などと記されている。最後の人夫数と金額は一人当たり25銭としても数値が合わない。半日程度の奉仕を10銭と計上したのかもしれない。
前回の山田大池間が明治25年、青木道路が明治30年と、次々と道路改修が行われていたことがわかる。
ふるさとの史跡をたずねて(259)
舟原広道道路改修記念碑(尾道市因島重井町一本松)
因島北インター入口と大浜方面へ向かう側道入口の中間辺りが重井町と中庄町との境界である。そこから一本松までの現在では県道になっている道路が明治26年に改修された。その道路改修記念碑が重井町一本松に青木城跡を背にして建っている。
中央に「本村字 自舟原至広道 道路改修紀念碑」とあり、左右に「明治廿六年一月起工 明治廿六年五月落成有志者立之」と書かれている。
右側面(東面)には「金百五十円村費補助 同三十円特別寄付 同二百七十三円関係中 人夫四百四人村内合力 同千九百人関係中」とある。関係中というのは周辺住民ならびに田畑の所有者だと思われる。また字灰ノ奥と字池ノ迫の岩の寄付者名と三庄村石工篠塚音松とある。石工として工事にかかわったということか、この石碑の製作者ということかはわからない。おそらく両方であったのだろう。
なお、右側には昭和二年に久保田権四郎翁の寄付により、再改修と大浜へ向かう旧道の整備が行われ、その記念碑がある。それについては219回で紹介した。
ふるさとの史跡をたずねて(260)
吉備津彦命の祠(尾道市因島重井町一宮)
島四国83番一宮寺のお堂の中には重井村四国1番霊山寺がある。また一宮寺のお堂の外、右側には小さな石の祠がある。祠の中には吉備津彦命と彫られている。また、左右の側面(外側)には「イ組ロ組中」「明治二十九年」と書かれている。
一の宮というのはその地域で社格が1番の神社という意味であるが、
備前国一の宮が吉備津彦神社、備中国一の宮が吉備津神社でともに吉備津彦命を祀っている。その分社は各地にあって新市町にあるのは後者の分社で備後一の宮である。また、一の宮のある所の地名が一の宮になっているところは全国的に多い。だから、ここも、もともと一の宮と呼ばれていたところへ、明治45年に島四国一宮寺をもってきたことがわかる。
重井町の字(あざ)「一宮」の近くに「友貞」がある。「友貞」は因島村上家文書の三に、放生会のため友貞名の田を1286年(弘安9年)に寄進したと記されているから、ここもかつて友貞という人の所有だったことがわかる。
これらのことから、荘園・中庄の重井浦として、この辺りから開発されたと考えてよい。なお、重井庄と記されるようになるのは1337年(建武4年)以降である。
現在の浜床を通るルートは土生新開ができてから後にできたものであるから、奥鹿穴、あるいはもっと運動公園寄りから重井浦へ通じるルートをへて、中庄の荘園が重井方面へ広がり、重井浦から重井庄となった。重井浦というからこの辺まで海水がきており、今と違って護岸壁などはなく、草の生い茂った湿地帯、すなわち繁の井であったのであろう。
写真・文 柏原林造
2021年12月10日金曜日
因島ふるさとの歴史を学ぶ会記念誌
100回記念誌にするか十周年記念誌にするかは、わからない。それはともかくとして、途中経過でもよいから、中間まとめの報告書を残しておくことは重要だ。しかし、それでも一朝一夕にできるものではない。少しずつ準備していこう。
なりたち(沿革)
活動記録
総目次
参加者名
2021年12月9日木曜日
因島からの手紙
生誕120年記念「井伏鱒二の青春」未公開書簡を展示
生誕120年「井伏鱒二の青春」展が、ふくやま文学館(TEL084-932-7010)で開催されている。3月4日まで。
会場には、福山中学校時代の同級生である高田類三宛の未公開書簡が展示されている。そのなかには、因島三庄町千守の土井医院に寄宿中の井伏が出した葉書も含まれている。
午前9時30分~午後5時▽月曜休館▽一般500円(高校生まで無料)。
因島からの手紙 2通の葉書に小さな字でびっしりと
作家井伏鱒二が因島から友人に宛てた葉書2通が展示されている。葉書といっても、小さな字でびっしりと書かれたもので、封筒による手紙と変わらない。
井伏鱒二は学生時代に三庄千守の土井医院へ半年ほど住んだ。その時の見聞を元に「因ノ島」や「岬の風景」が書かれた。また他の作品でも度々因島のことが出てくる。
井伏が住んだ頃の土井医院は、まだ東側に道路はなく、窓のすぐ外に三庄湾が見えた。岬というのは鼻の地蔵さんで有名な地蔵鼻、すなわち三ケ崎のことである。日の出も満月も百貫島とともに見えたであろう。また、土井医院のすぐ近くに地元では城山(じょうやま)と呼ばれている千守城跡があり、「海賊だから八方睨みのきくところに城をかまえたのであろう」と書いている。
みかんのことがよく出てくる。持って帰るのはいけないが、そこで食べるのなら畑になっているみかんを誰が取って食べてもよいと書いてあるので、何かの間違いだろうと思ったが、近くで育った人によるとそうであったらしい。
井伏の舞台は、三庄だけではない。北端の重井まで行っている。
「私がこの島にいた六箇月間に、重井村には病人が一人も出なかった。長寿村であった」とも書いてある。大正10年(1921)。
今から百年ほど前のことである。かつて重井では亡くなる前日まで草取りをしていたという老婆がたくさんいた。家の周りは畑だらけ。ちょっと歩けば草取りをしている老婆を何人も見かけたであろう。統計をみなくても、長寿村であった。
因島で読むせいか、因島のところを選んで読むせいか、井伏作品は明るい。因島で、雨の日が少ないのと同じだ。手紙を読んでいて太宰治が井伏の弟子だったということを思い出した。通じあうものは多くあったのだろうが、作品への表現の仕方が異なっていたということだろうか。
因島図書館には井伏鱒二の全作品が揃っている。膨大な作品群から因島のところを探し出すのは大変なことである。ところが幸い、兵庫教育大学の前田貞昭教授が作成された目録で、すぐに探し出せるのだ。また因島図書館では井伏作品を中心に因島関連作品を読んでいるグループもある。
百年前の因島を井伏鱒二がどう書いているか、多くの人に見てもらいたいと思う。また今回展示されている未公開の手紙も。
(因島文学散歩の会代表・柏原林造) 2018年1月20日