ふるさとの史跡をたずねて(421)
小学校史①学制
有名な「邑(むら)に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん事を期す」と言う宣言は、まさに近代教育のスタートを象徴する言葉であった。
これは「明治五年壬申七月太政官」の名で公布されたもので、終わりから4行目の所に「右之通被仰出候」とあることから「仰出書」(おおせいでられがき)と呼ばれる文書中の言葉とされる。また「学制」の前書きとか、「学制」に先立って公布された、などと書かれていて、甚だ紛らわしい。
私は、これらは皆正しいと思う。詳しく見ると次のようになっているからだ。
まず「学制」本文の方を見てみると巻末の表の前に、「明治五年壬申七月文部省」と記してある。そして冒頭には表題のない前書が2ページあって本文に入る。そしてそれは「仰出書」を踏まえて、「今般被仰出候旨も・・」と始まる。
またこれらは明治5年8月3日に「仰出書」が公布され、同日「学制」が公布された。
そして今、我々は文部科学省のホームページで「学制」と言うタイトルの元に、この二書が続けて記された冊子の画像を見ることができる。
かくして、明治5年に法律的に公立学校が作られることが決まったわけである。明治5年という国家の大部分が未完成な時に教育に踏み出した意義は大きい。幾多の改良を経て近代教育は形をなしていく。やがてそれが国家の力となった・・・。
出典:文部科学省のホームページ(https://www.mext.go.jp/)。引用、並びに加工。
ふるさとの史跡をたずねて(422)
小学校史②振徳舎
明治5年の学制により、いわゆる公教育が始まる訳であるが、それ以前に教育機関がなかった訳ではない。寺小屋という言葉は誰もが知っているように全国的にお寺で庶民教育はなされていた。ただ僧侶だけでなく、地域によっては神主、医師、修験道者などの知識人が私塾を開いていた場合もあった。それらに変わるものとして小学舎を設置したのであるが、しばらくはこれらの私塾も許可されていた。
第16小区の因島では申請により、明治6年4月に重井、田熊の2箇所に小学舎を設置することが広島県により許可された。同時に舎号(学校名)として「振徳舎」(重井村善興寺)、「研幾舎」(田熊村浄土寺)が定められたが、「研幾舎」は「尚純舎」に変わった。教師は、「振徳舎」が沼田良蔵、「尚純舎」は村上万之助であった。どちらもお寺が使われているので、以前から寺子屋があったことが想像される。と同時に、財政的な面からもお寺をとりあえず教場としたのであろう。
明治6年10月より10年2月まで使用された「振徳舎」の間取り図では教員室4坪、教室32坪、便所2坪である。
10月が開校でその間は準備期間だったと考えられる。また10月に川口大師堂に「信誠舎」(分教場)を設置した。
ふるさとの史跡をたずねて(423)
小学校史③尚純舎
田熊村では、広島県によって許可された「研幾舎」(
かくしてもう一つの私塾「尚純舎」が小学舎として設置された。
さて「尚純舎」の教師、村上万(萬)之助(介)
この複雑な事情について、『田熊の文化財』
以上のことから田熊小学校初代の校長村上萬之介氏の在任期間を慶
これら一連の歴史をどう捉えるかによって「尚純舎」
*前回の「村上万之助」は『因島市史』p.
ふるさとの史跡をたずねて(424)
小学校史④その他の村々
明治5年8月に公布された「学制」は、明治12年9月に「教育令」が発布されて改正される。それまでに因島内各村でも次第に小学舎が設置される。しかし、『因島市史』では重井村と田熊村のことだけで、その後のことは書かれていない。書けなかったのではなかろうか。それぞれの学校には学校史があるのだが、それを見てもどこで寺小屋・私塾から「学制」による公教育になったのかわからない。
その公教育の学校の一般的な名前も、私は小学舎と書いたがいつまで一般的であったかわからない。公立学校という概念もなかったはずである。だから学校名だけから私塾と区別できない。その私塾を前身として学校の歴史に入れる所も入れない所もある。さらにまた、多くの学校が「学校沿革史」を典拠に記してあるのだが、その沿革史も、しばらく後に書かれているだろうし、用語も変わる。そんな状況で場所・名前・教師も同じままで私塾から公教育に変わった場合もある。また、それを記録する人はおそらく江戸時代に生まれ育った人である。学制公布以降も私塾ができたところもあるだろう。
その混乱の様子を示すのが椋浦村の場合である。小学校になるのが学制公布より5か月早く「不可解である」と『椋浦学校史』p.18に記されているが、今風に解釈すればたとえ形が揃っていても法律施行前は私塾とすべきで、最初に記録した人の誤りであろう。
・・だから『因島市史』がそれ以上書かなかったのは賢明であった。参考までに、各村の状況を示す。
大浜村。 明治6年酒井教蔵宅に「養生舎」設置。明治8年見性寺に小学校を置く。
中庄村。明治6年1月6日小林敬哉宅に「久敬舎」創設。3月19日成願寺に「温和舎」創設。
外浦村。明治7年3月15日小学校設置。
鏡浦村。明治5年鏡浦学校が設置され「開郷舎」と称す。
椋浦村。明治5年3月15日「明分舎」が小学校になる。
三庄村。明治8年8月1日創立、「六行舎」と称す。(明治11年12月まで)。
土生村。明治6年3月1日対潮院に創立、土生学校と称す。
*参考にした文献を略記する。
『大浜小学校閉校記念誌』、『中庄村史(昭和40年)』、『椋浦学校史』、『ふるさと三庄』』、『土生小学校創立120周年記念誌』
写真・文 柏原林造