2019年6月29日土曜日

芋地蔵(大三島)

日本のみち 愛媛県の道 おおみしまみち 
 2016.4.12. 上浦町 向雲寺 1673-1775.8.1.(9月6日) 1711年サツマイモと出会う。






2019年6月28日金曜日

ふるさとの史跡をたずねて 第137回 土地寄附碑(因島重井町宮の上)

 深浦新開が陸軍の軍用地として撤収された時、そこにあった因島四国八十八ケ所のうち87番長尾寺と88大窪寺が現在地に強制的に移転させられたと書いたが、元の場所どころか、そのことを知っている方に、未だにお目にかかっていない。だから、何か確実な証拠がほしい。前に書いた、86番志度寺と長尾寺が近すぎるというのでは、証拠にならない。また、結願寺大窪寺が海岸近くにあるべきだというのも、私の個人的な見解に過ぎず、現に本四国では山奥にあるのだから、それに倣えば悪くはない、と言える。だからこの件は半信半疑のまま棚上げしておこうと思っていた。
 ところが、ふと目に入った石柱には、まことに興味深いことが書かれていた。それは重井町宮の上の88番大窪寺のお堂の前の石柱である。そこには「昭和十六年三月吉日 土地寄附大出半七」と彫られていた。よく知られているように因島四国八十八ケ所は明治45年に作られた。場所によっては多少の相違はあろうが、ほぼ同じ頃に作られたと考えてよい。また、大窪寺の土地はそれまで借りており、昭和十六年になって土地所有者からにわかに寄贈されたと考えるのも不自然であろうから、昭和16年に移転したと考えるのが自然である。
 よって、軍用地がらみの移転の話は事実と考えられる。

 さて、伝統行事と呼ばれるものには次のふたつのパターンがあるように思う。一つは聴衆の多寡など気にせずに、古式ゆかしく続けることを最大の意義として、延々と続けているもの。もう一つは時代の流れを機敏に取り入れて、絶えず変貌しつつ長く存続しているものである。(写真・文 柏原林造)

➡️増補版index

ふるさとの史跡をたずねて 第136 ゆるぎ岩(因島大浜町)

 陸軍境界石はゆるぎ岩を探しに山に入った時、たまたま出現したものであった。そして確かにその延長線の北側が軍用地であることに思い至り納得した次第である。
 しかし、ゆるぎ岩の方は、時すでに遅し、であった。ゆるぎ岩はゆるぎ岩でなくなっていたのである。
 ゆるぎ岩というのは、揺さぶれば、ゴトゴトという音はともかくとして揺れる大岩のことである。巨大な岩が揺れるからおもしろいのであって、これが動くのか、と驚くほど大きくなくてはならない。
 そのゆるぎ岩が白滝山の近くにあるということを知ったのは、子供の頃のことではなく、老境に達してからである。それは、くぐり岩の話をしている時、その岩と混同して話し出されたのであった。くぐり岩というのは巨岩の下に通路があり、その岩の一端がわずかな部分で地上に接している奇岩である。白滝山表参道の六地蔵の上で右にそれ、島四国85番八栗寺の手前にあるが、この「くんぐり道」はその前後がよく通行止になる。
 くぐり岩ではなく、ゆるぎ岩について年配の方に尋ねると、白滝フラワーラインの上の方から深浦の方へ降りて行く道の途中にあったということがわかった。ということは白滝フラワーラインの三叉路で白滝山八合目駐車場の方へは行かず、大浜側へ向かい、左下へ下る山道のありそうなところから、山へ入るということになる。
 確かに山道はあった。そしてそれらしき大きな岩も見つかった。しかし、残念なことにその岩と山肌の間にくさび状の岩が押し込まれており、動かなかった。そのくさび状の岩を取り除く術はなかった。

 実はこのゆるぎ岩には弘法大師にまつわる話がある。伝説にはほど遠く、単なる創作民話に過ぎないので、興味はないが、こんなものまで弘法大師に結びつける精神風土は、単なる大師信仰を超えた何かがあるようで、そちらの方が私には興味ぶかい。( 写真・文 柏原林造)

ふるさとの史跡をたずねて 第135回 陸軍境界石(因島大浜町) 

ふるさとの史跡をたずねて(135)
         
陸軍境界石(因島大浜町)

 軍用地と民有地を隔てるものが陸軍境界石である。大日本帝國陸軍は法的にはしばらく後のことであろうが、昭和20年の敗戦とともに実質解体したのであるから、境界石はその存在価値を失った。あるものは撤去され、あるいは単なる石材として利用されたりして、目にすることはなくなったのではないか。ところが、山の中では撤去する理由がなかったのか、そのまま放置されていた。別の目的で山へ入った時、たまたま目につき、これが以前聞いたことのある陸軍境界石かと納得しただけである。
 民有地側には「陸軍」と彫られていた。そしてその反対側、すなわち軍用地側には漢数字で番号が書かれている。また頂部には、境界に沿った線が彫られており、曲がるところでは、そのように線が折れている。
 さて、軍用地という言葉は最近では聞くことはないが、かつてそこに畑を持っている家ではよく使っていた。今でも使われているのだろうか。
 畑にはその家独自の名前が付いていることは、湊かなえさんの『望郷』中の最初の短編にあったことを覚えておられる方もおられるだろう。おそらく多くの農家は複数の場所に畑を持っている。一カ所だけであれば名前はいらない。「畑」で済む。
しかし、作業予定を伝えるにしてもそれぞれの畑が区別されてなければ会話が成り立たない。だから、個々の畑に名前がついているのである。その土地の字名が伝統的によく使われたようである。しかし家族内でわかればよいのであるから簡略されたものもあったであろう。例えば干拓地が一カ所だけであれば「新開」と言えば、その家では十分に通用する。
 その軍用地は戦後、農事試験所の農地や、中学校になっていた。農事試験所の方は土地交換等で現在のフラワセンターの方へ集約された。その他の民間への払い下げや、あるいは軍用地としての民有地の接収または購入がどのようなものであったのかを知る資料は現在のところ知らない。(  写真・文 柏原林造)



2019年6月22日土曜日

中国地方地域づくり等助成事業報告会

▶️因島重井町文化財協会
一般社団法人 中国建設弘済会主催。

p.56に掲載されております。紙上発表のみで、口頭発表ははしておりません。
▶️因島重井町文化財協会

2019年6月20日木曜日

因島文学散歩②  白滝山(因島重井町)

白瀧の石の羅漢の尖(とが)りたる頭のうへの山藤の花 
 吉井勇は土生で3首の歌を残した翌日か、さらに次の日にか重井の白滝山へ登った。おそらく船で移動したのだろう。歌集には6首が採られている。そのうち羅漢についてが3首あり、どれを冒頭に置こうかと迷った。他の2首も素晴らしい。どれを冒頭に置いてもよい。また、6首の配列もよく、そのまま6首を並べてもよかった。結局4首目を冒頭に置き、他の5首をそのまま並べるので、全体の構成についても見てほしい。奇岩1首、羅漢3首、そして海を含む景色についての2首である。
旅ごころやうやく倦みぬこの山に吾(あ)をおどろかす奇し岩もがな 
おほどかに海見はるかし今日もゐる白瀧山(しらたきやま)の石羅漢かも 
石ながら螫(さ)されやすらむ道の邊(べ)の羅漢の鼻に虻(あぶ)のとまれる 
山の上(へ)ゆ眸(ひとみ)はなてば瀬戸の海の汽船小さく煙吐く見ゆ 
白瀧の山にのぼれば眼路(めじ)ひろし島あれば海海あれば島 
 山頂には十六羅漢が釈迦三尊像を取り巻いてあるが、白滝山五百羅漢というのはたくさんの羅漢の意だから、他の石仏も全て羅漢だと思ってもよい。羅漢以上に高位の文殊菩薩、観音菩薩、あるいは釈迦如来も含めて羅漢像と呼んでもよいのだが、この3首の羅漢はそんな大物ではなく、素人の製作に違いないありふれた石仏を詠んでいるように思われる。・・ならば650体以上の石仏のどの一体の写真を選ぶかということは6首のうちからどの一首を選ぶよりも、はるかに難しいことになる。まして山藤だの虻などを添えるのは、はじめから諦めておく。また尖がった頭の羅漢というのも、そんな視点で見たことがなかったので、基準がわからない。ということで、早くも2回目にして題材と写真との問題に直面した。

 それはともかくとして、これらの歌の安定感はどうであろうか。いずれも田舎の山の景観が染み出しているようである。おそらく、三流観光地まがいの珍談奇説がまだなかった頃の、素朴な白滝山を想像すれば、これらの歌のもつ雰囲気がよりよく理解されるのであろう。(文・写真 因島文学散歩の会・柏原林造)

➡️ブーメランのように

重井中学校卒業式

20190310




 黒崎明神

2019.6.11.


2019年6月19日水曜日

重井村四国 8番熊谷寺、9番法輪寺の移設

▶️因島重井町文化財協会
2019.3.16.(有)マルサン設備の清水さんの協力を得て、8番熊谷寺、9番法輪寺を移設し、新しくお堂を作りました。特に9番法輪寺は畑の中に埋もれており、清水さんが重機で探し出してくれました。お礼申し上げます。























▶️因島重井町文化財協会

重井村四国石板設置完成記念碑

2019.3.31.


▶️因島重井町文化財協会