2016年12月22日木曜日

大三島 岩田健母と子のミュージアム


*****地図*****
http://map.goo.ne.jp/map/latlon/E132.57.27.298N34.11.27.763/zoom/10/

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 2016.11.16.

〒794-1309
愛媛県今治市大三島町宗方5208-2






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2016年12月20日火曜日

向島 岩屋巨石

尾道市のみち
*****地図*****

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2016.11.29.

2016.11.29.

2016.11.29.

2016.11.29.



2016.11.29.




2016.11.29.
2016.11.29.


2016.11.29.


2016.11.29.


2016.11.29.

2016.11.29.






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尾道市のみち

2016年12月19日月曜日

三躰妙見宮

むかいしまみち
*****地図*****

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2015.9.25.地図の参道とは異なる東側のお寺の南から登った。

2015.9.25.振り返れば余崎城跡が見える。

2015.9.25.まもなく鳥居が出現。

2015.9.25.

2015.9.25.




2015.9.25.


2015.9.25.


 2015.9.25.


 2015.9.25.


2015.9.25.



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むかいしまみち

p.47

第3回20160719
レジメ [p.27-28][p.48-50]
    レジメの部分は以下の各ページの冒頭に再録しております。
1。白滝山の現状について 因島白滝公園保勝会 会長 柏原広雄  [p.27-28] 
2。白滝山について  その3 [p.29-36]
 柏原舒延著「霊峰白滝山の沿革」[p.29-32]
 宇根家文書「五百大羅漢寄進」 [p.33-36]
3。柏原伝六と一観教    今井 豊      [p.37-40]
4。村上水軍について その3 「予陽盛衰記」から [p.41-42] 
5。細島 [p.43-45]
6。道元禅師へのアプローチ その3「正法眼蔵」〈現成公案〉より [p.48-50]
7。弘法大師空海へのアプローチ その3 入唐のこと [p.46] 
8。重井村四国八十八か所札所について  その2 [p.48-50]
9。因島と周辺の霊場   住原俊治   [p.47]

p.46

7。弘法大師空海へのアプローチ その3 入唐のこと 
渡辺照宏宮坂宥勝「沙門空海」(ちくま学芸文庫)、のp.79は空海の入唐時のことを記す。延暦23年(804)、第16次遣唐使として空海らの乗った第一船は目的地から大きく外れ福州に漂着した。そのため入唐が許されなかった。嘆願書を空海が代筆し、解決されたという有名な逸話を入唐早々に残すことになった。語学の天才ぶりを示すものとして有名な話である。その文章は引用しなかったが、他に「三教指帰 性霊集」(岩波書店日本古典文学大系71)p.266に漢文、訓読文ともに記載されている。

p.43-45

5。細島 
 因島重井町文化財協会によって平成28年1月31日に発行された「重井昔話し」から2話を選んだ。本書には17話が紹介されている。幾つかのソースを辿れば、重井学校文化部編「伝説の郷土」(藤井藤萬蔵)というのがあって、因島高校郷土史研究部、そして因島ジャーナル社によって再録刊行されてきた。因島高校郷土史研究部「因島の民話」のあとがきから想像するに、重井学校文化部編「伝説の郷土」というのは、戦前の重井小学校の子供たちによって集めれられたものではないかと思われる。だから、今回の「重井昔話し」の刊行は、まさに重井の昔話の里帰りであって、まことに慶賀すべきことであるので、まずそのことを記しておく。
 細島ハウスの東の松の木の下が「細観音」のタヌキの埋められたところである。観音さまは出てこないが、細島には西国三十三観音があり、穏やかな自然とよく調和している。
「弓瀬曽十郎」は細島茶臼山城主が弓瀬氏であることから、その由来を考えるために掲載した。足利尊氏が三原沖を通過するのは1336年のことであるから、村上吉充が青木築城する1569年まで約230年ある。また、弓瀬家の「元祖弓瀬宗三郎」と書かれた墓には、「道西禅定門」、「士 慶安元子六月十二日」とある。慶安元年は1648年であるから、この人が細島茶臼山城主であることは考えられない。その先祖を考えなくてはならない。箱式石棺(細1号)は昭和36年7月6日指定の因島市(現在尾道市)史跡である。粗製箱式石棺で古墳時代のものと推定されている。内径は高さ30cm、長さ、1.75m、幅、28cm、22cmである。(「因島市文化財」による。)荒神社は重井四廃寺の1つ長福寺の跡である。細島茶臼山城跡。標高43.5mで細島ではあまり高くない山である。浜田神社あるところが海だったとすると三方を海に囲まれ、西側に小島を擁しており、立地的には恵まれている。共同墓地から北に登る登山道があるが、今回は勾配の小さい東側の竹やぶから登る。山頂には灯籠と小祠があり、周辺に三十三観音がある。共同墓地。菅菊太郎「愛媛県農業史」(中巻)、愛媛県農会、昭和18年、p.96に大三島の人、下見(アサミ)吉十郎と甘藷の播布についての記述中、甘藷地蔵尊として崇め、祀られるものとして、地元の光雲寺境内のものなど愛媛県内の他、広島県内では生口の生善寺(洲之江)と重井村では「善孝(興?)寺境内」と「部落内」の二カ所が記されている。後者が細島共同墓地内のものではないかと思われる。浜田神社。桟橋からまっすぐ北側に向かうとすぐにある。浜本屋という家の先祖は島根県の浜田から来たという言い伝えがある。浜本屋が埋め立てた一帯が字・浜田である。浜田にあるので浜田神社である。[付記]重井西港から船が出ると馬神から離れた沖合を干満とは関係なく進む。近寄りすぎると危険であり、2つの浮き灯台「うしくそ」と「中もす」の間を通る。その奇妙な名前に多くの人は首をかしげる。前者は先の尖った岩礁の名前だということである。重井流に言うなら「うしぐそ」と濁らなければならないが・・。「踏むな!」という意味が込められているのかもしれない。その岩礁は大潮の干潮時に見える。二年連続でテレビドラマのロケ地にもなった名勝、新波止(しんばと)の北側である。ぜひ自分の目で確認してもらいたい。(この項、住原俊治氏の示唆による。)




p.41-42

4。村上水軍について その3 「予陽盛衰記」から 
「予陽盛衰記」は「予陽河野盛衰記(河野軍記)」と呼ばれる、河野氏の盛衰を描いた16巻の軍記物語の流布本の一書である。村上和馬氏が元文5年京都書房版を訓読したものである。その第十二巻、第二章に因島村上氏のことが出てくる。北畠山城守師清(もろきよ)が信濃国から紀州雑賀(ざいが)、讃州塩飽、備中神島(こうのしま)を経て大島へ来て、河野通治へ礼を尽くしてから村上義弘の後を相続することが認められることが書いてある。また今岡左衛門尉通任が村上義弘の姉婿であること、南彦四郎通泰が河野通継の三男であることなどが記されている。北畠師清は村上義弘を継いで村上師清と改め、今岡通任と争ったのが、釣島箱崎浦の戦いである。勝った師清が子息3人をそれぞれ能島、来島、因島に配したというのが三島村上水軍の起源伝説であるが、本書ではその間に1代入る。なお、釣島箱崎浦の戦いが、村上義弘の跡目争いによるものの他、南北朝の戦いの局地戦であるとする説もある。因島村上氏の第一家老救井氏が新田義貞の子孫、第二家老稲井氏が新田義貞の弟、脇屋義助の子孫であることから、後者の可能性は高い。あるいは単なる因島の領有権争いだったのかも知れない。また、師清の子息3人を三島村上氏の起源とする話が史実でないとする見方もある。


p.37-40

3。柏原伝六と一観教    今井 豊     
 2016年度芸備地方史研究会大会(2016年7月3日、広島大学)において、今井豊氏が「柏原伝六と一観教」と題して研究発表を行った。伝六さんが歴史の学会で取り扱われたのはおそらく初めてである。その要旨を載せる。





p.33-36

また併せて、宇根家文書「五百大羅漢寄進」(文政十年 亥正月吉日 重井村 観音山」(1827年)のうち、五百大羅漢佛の外之浦、鏡、椋之浦、三ツ之庄村、土生村、尾道町、吉和村、三原、和田、細嶋、本鷺、須之江、向田浦村、高根嶋を見る。 原本にはページ数はないが、順次打っておく。
 寄進額は銀である。目は文目の略で匁のこと。磯田道史武士の家計簿」(新潮新書)、2003、p.55の「表2 江戸時代の貨幣と価値」によると、銀1匁(もんめ)は現代感覚4000円、米価から換算した現在価値は666円である。




2016年12月16日金曜日

因島土生町 長源寺跡

2015.5.21.






2016.6.16.


2016.6.16.


ここには、因島開発名主の上原祐信が住み、持仏堂と守護神は、後に長源寺(因島村上氏の菩提寺)と耳明神社になった。長源寺は天正五年(一五七七)に焼失し、江戸時代に移転して中庄の長福寺となる。
長源寺の跡には地蔵堂があり島四国の番外札所となっていた。村四国の札所もあったのではないかと言われている。

2017.1.14.

 2017.1.14.

2017.1.14.

 2017.1.14.

2017.1.14.