2015年4月30日木曜日

因島重井町 峰松山鐘楼線・春

しげいみち
2015.4.29.今日は重井町の観音参りですから、峰松山鐘楼線をメンテナンスしながら登ることにしました。
10:17。潮騒荘を出発です。写真は前の写真と区別するためマーキングのために写したものです。深い意味はありません。
10:18。散りはじめている。
10:18。今朝の白滝山。伝六ロードから。
10:18。歩きながらの村四国。失礼。
10:18。伝六ロード。一本松方向。左右に交差する道が大浜往還(古道)で左が大浜側。
10:19。大浜往還(古道)の西側。
10:19。大浜往還(古道)の大浜側。こちらへ進みます。
10:19。村四国。ここが大脇田。伝六さんの奥さんの里。近くは伝六研究の故・柏原舒延先生のお宅。ここを右へ道なりに進みます。
10:19。以下道なりに進みます。
10:20。峰松山への登山口です。アンテナの左の竹の間を入って行きます。現在通行不可能です。ここは「トウスヤ」といって京都でシンポ工業を設立した柏原学さん兄弟の生家です。

10:20。峰松山登山口。石垣の下から入ります。(2015.5.6.開通しました。峯松山登山道)。右の家は元「久四郎屋」。大阪へ転住されました。これは、それ以前のものですので、暫定的なルートを元に書いてあります。

10:21。道なりに登ります。白滝山に三年三ヶ月滞在して五百羅漢築造の指揮をした柏原林蔵の宇根家の分家。
10:22。キングコングVS.イノシシ?
10:22 。村四国はここでVターンして右へ降りて行きますが、大浜往還(古道)は左へ登ります。
10:23。最高位の家は「ひこし」といいます。大浜へあるいは重井へここを越していたということが屋号に残っているわけです。大浜往還(古道)は屋根の下のV字に見えるところを越えて行きます。
10:23。ここで白滝山を仰ぐと。朝から鐘がよく鳴っています。麓の人は、白滝山の鐘の音を聞くと、今日もまたお参りして下さっていると、心がなごむということです。鐘楼のところには賽銭を入れる箱が置いてありますが、入れなくてもよいからお参りされた方は、、遠慮なく鐘を撞きましょう。
10:23。左を見上げます。急斜面の八朔畑と山の境目を右から左へ歩くのが、これから進む「峰松山鐘楼線」の通路です。
10:26。三叉路は明と暗との分かれ道。Y字形の三叉路へ来ました。ここが「灰の奥口」です。大浜往還(古道)は右へ行きます。「灰の奥鐘楼線」と「峰松山鐘楼線」は左へ行きます。
10:26。野棘もトゲを磨いて春来たり。「灰の奥口」で左へ入りました。緑が目にまぶしい。まるで「緑の海」です。今日は、かつて「みどりの日」とか「昭和の日」とか呼んでました。今はどう呼ぶのか? ころころ変わるのでどちらでもいいと思います。
まっすぐ行くのが「灰の奥鐘楼線」。左へ行くのが「峰松山鐘楼線」。途中で合流します。今日は左へ行きます。
10:26 。春草や冬枯れの跡今いずこ。左へ曲って、ここが「峰松山鐘楼線」の起点です。もし私が牛だったら、目の前をもー見ただけで腹一杯。ままんなかをまっすぐ進みます。
10:27。すかんぽの目になつかしき緑かな。スイバ(すかんぽ)とギシギシはちょっと区別しにくい。小柄なものがギシギシか。一人で来たことを少し後悔。
10:27。ハトムギの陰から蛇の出ぬように。
10:30。雑草の向うに見える竹赤し。右側のフェンス沿いを進みます。
10:32 。ふるさとを見下ろす春のくさいきれ。先ほど見上げたところを見下ろす。
10:34。草越えて行く手に見えるおなごだけ。孟宗竹でも大魚は釣れないから、釣り竿とか吹き矢を作るのはたいてい女竹だった。いや、釣り竿はしならなければならないから女竹ではなかったかも。
10:35。壁となり下りを阻むおなごだけ。本来の下り道は、正面を左から回っていった。少し刈っておこう。
10:43。今日は午後の予定もあるので、この程度で諦め先を目指す。今後、ここから登山口めがけて少しずつ刈っていく。旧峯松山登山道はここに出ます。峯松山登山道2015.5.6.開通しました。
10:44。標柱石通過。
10:44。石段の上に燈籠があります。以前はこの写真の手前で右へ上がり鐘楼へと向かったのですが、途中道がよくないので、それは考えないことにして、このまままっすぐに進み、峰松神社を突き抜けてから右折するコースを峯松山鐘楼線とします。
10:45。これが峯松神社のご神体の磨崖です。この前を(写真の左へ)直進し、岩が切れたところで右折して山を登っていきます。
10:46。女竹の間を越えると上り坂です。岩の間を登って行きます。
10:47。まもなく尾根に出ます。
10:48。尾根筋を山頂(鐘楼下)を目指して登ります。
10:51。この岩の前が「灰の奥鐘楼線」との合流点です。右から登ってきた道と合流します。その後は、正面の岩の左を通ります。
10:51。ここで右を見ておきましょう。竹薮の端を登ってくるのが「灰の奥鐘楼線」です。
続きは、合流点鐘楼線
しげいみち

因島中庄町 大江城跡探訪

なかのしょうみち いんのしまみち
2015.4.29.午後、中庄公民館に車を停め、中郷神社の隣りから山に入り反時計回りに登り、山頂から西に向かって下りました。

15:52。中郷神社の南の斜面を登ります。
15:56。南のほうを見る。
16:01石垣があって少し高くなっている。
16:07。頂上。東側が見える。
16:08。北西。公民館の駐車場が眼下に見える。
16:08。頂上には拡声器とアンテナがあります。
16:13。下りながら北東の丘の続きを見る。
16:16。かなり降りてきた。目指すは金網の切れ目。
16:23。大江投錨。金網を抜けて、最後に木立の中に発見。少し周囲をかたずけていたので、時間がたった。




なかのしょうみち いんのしまみち

尾道市因島 村上水軍史

いんのしまみち 村上水軍研究目次
本ページでは因島村上水軍史を扱う。
まず、田中稔、「因島史考」の記述による。(p.XX)は同書の頁数を示す。

1333元弘3年 六波羅探題攻めに、因島本主上原祐彦も参加し、子息以下多くの郎党が戦死して絶家。因島を北朝方今岡通任が横領。(「因島史考」p.6)
1343興国4年 南朝方の広沢五郎、大館右馬亮が伊予から北上し堂崎山へ立てこもる。(p.40)

1377天授3年 信州から伊予能島に下向。霜月15日。釣島箱崎浦で村上師清、今岡勢を破る。(「因島史考」p.10)(これを天授5年とする説もある。森本繁「村上水軍全紀行」、新人物往来社、2009、p.110)

                            師清の三男吉豊、因島本主家を継承して長崎城に住む。(「因島史考」p.61)
       三男吉豊因島本主上原家を継ぐ。田中稔「因島史考」p.121
1392元中9年 南北朝統一。
1378天授4年 新田党の面々、因島に来る。(「因島史考」p.61)
1392元中9年 南北朝統一。
1423応永30年 宮地大炊助明光が尾道鳴滝山城から落ちのび天神山に居城した。(「因島史考」p.18) 
1427応永34年12月11日 村上吉豊、足利義持から感状を受ける。(「因島史考」p.121)
1428正長元年10月28日備後守護山名時𤋮、村上備中入道に備後田島の地頭職を与える。
    森本繁「因島の歴史」p.14
1449文安6年(宝徳元年)8月。宮地大炊助明光・資弘が金蓮寺を外浦から中庄に御堂を引き再建。(p.88)
       宮地大炊助明光、成願寺を創建する。(p.89) 
1549天文18年 竹島城主兼岩城亀山城主の村上四郎左衛門尉直吉が田熊八幡神社を創建。(p.12)




1567永禄10年 村上新蔵人吉充が余崎城から青木城へ移る。(p.30)
1569永禄12年 6代村上吉充、因島全土を掌握し青木城(本城)を築城。本城の控えの要害として白滝観音堂(堂主、常楽院静金)建立。

1569永禄12年 宮地大蔵助忠明が毘沙門天を善興寺に祭祀。(p.93)
1577天正5年 土生長源寺焼失。(中庄に移り長福寺となる。(p.10)
       秋以降。金蓮寺、村上家の菩提所となる。それ以前は土生島前の長源寺。(p.88)

1600慶長5年 村上新蔵人吉充、青木城を去る。(p.30)
1625寛永2年 金蓮寺覚祐房が長福寺に長源寺の堂宇を引き修復。












いんのしまみち 村上水軍研究目次

2015年4月29日水曜日

因島中庄町 茶臼山城跡探訪

なかのしょうみち
2015.4.29.午後、中庄町・茶臼山城跡を探訪しました。
西浦峠から北上し、そこへ戻ってきます。
国土地理院地図写真を改編。 A地点の辺りに降り、Bまで登り、Cを経てDで道路に降ります。
田中稔「因島史考」の略図をYahoo地図と対応させていただきました。作製: tombosou様。

13:29。いつものようにここから出発です。
13:29。みつばち牧場のとなりを通らせていただきます。まっすぐに進みます。

13:40。本丸跡到着。
13:52。三ノ丸跡らしきところ到着。
14:30。東側に下り、竹薮を出て、A地点に出ます。Bを見上げる。
14:37。Bに到着。休憩。
14:47。一息入れて竹薮の中を覗く。低くなっている。
14:56。下山を開始する。北東に道があるので、これを降りる前に、右の丘に登ることにする。(結局そのまま進んだ。)
14:57。東に向かう尾根道。
15:09。菅原神社から大山峠のほうを見る。

なかのしょうみち