2019年2月28日木曜日

夕凪亭閑話 2009年1月 

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2009年1月1日。木曜日。晴れ。 旧暦12.6  ひのえ うま 一白 大安 元旦
 謹賀新年 明けましておめでとうございます。
 今年の目標は,昨秋から読んでいる,シェイクスピアの全作品を読み終えることです。その次の目標は決まっておりません。(候補はいろいろあるのですが・・・)
 
 またまた新しい年が始まりました。少し寒いですが,凧揚げにはよいでしょう。時折雲間から柔らかい日が洩れております。
 寺田寅彦「津田青楓君の絵と南画の芸術的価値」(全集1)は,長い画論ですが,ややアクセントに欠けます。でもこんなに書くことがありますね,と感心するぐらいです。寅彦という人がほんとうに絵が好きだったということがよくわかります。これで,新書版のこの全集の第1巻が終わりです。因みに1997年7月発行の第9刷です。昭和52年12月20日に購入しております。
 ついでに青空文庫から。
 太宰治「陰火」(青空文庫)。よくわからない作品である。よいできとは思えませんね。習作でしょうね。
 
2009年1月2日。金曜日。晴れ。 旧暦12.7    ひのと ひつじ 二黒 赤口
  年賀状の返事を投函しに行ったついでに公園を散歩してきた。風が吹いてやや寒かったが,その分凧揚げには最適で,今まで見たこともないほどの数の家族が,凧揚げに励んでいた。それに風が強いでの高く揚がって壮観だった。昔,奴凧を遠くまで揚げ,結局取りにいかなったことがある。高く(長く)揚げるのは楽しい。
 寺田寅彦「科学上の骨董趣味と温故知新」(全集2)
科学の世界にも骨董趣味のようなものがある。古い科学者の遺品を集めるとか,不必要な過去の論文の引用などである。しかし,この世界も温故知新で,骨董趣味必ずしも卑しむべからずということになる。科学上の概念は多くが過去の説の変形されたリバイバルである。古いことも大いに勉強しようという訳だ。
 年賀状の返事を書いて,冬空の街へ投函しに行ってきたので,青空文庫を読んだ。 
 太宰治「嘘」(青空文庫)。これはいい作品である。そして,作者名を伏せておいて,誰の作品ということを言わなくても,まずまずの評価は受ける作品ではなかろうか。ということは,太宰らしさが無くて,変にいじけたことがない佳作だということである。モーパッサンの短編集にあるような田舎のスケッチとしてよく書けている。ただ,最後の二行は余分なように思うが。
 
2009年1月3日。土曜日。晴れ。 旧暦12.8   つちのえ さる 三碧 先勝ち
  いわゆる正月の三が日が終わりました。何もしないでいいからいいのですが,昨日の午後くらいから,不快になってまいります。別に何が気にいらないという訳でもないのですが,あの8月の後半の小学校のときの気持ちと言ったら分かっていただけますでしょうか。日一日と夏休みが少なくなっていく悲しさ。お菓子なら,食べないで我慢すれば減ることはないのですが,夏休みだけは,何をしようと,日に日に減っていきます。あの,気持ちが大人になっても執拗に甦ってきます。だから,正月休みはある意味では嫌いです。
 寺田寅彦「病中記」(全集2)。大学の自室で血を吐いて,入院したときの記録である。勿論,ある程度回復してから,記憶を辿りながら書いたものであろうが,天性の観察家が書くと,どうしても,その場で観察しているような雰囲気が自ずと出るものである。或いは寅彦にとっては,物理の実験観察も,日常生活も同じように観察の対象だったのかも知れない。
 太宰治「鬱屈禍」(青空文庫)。「鬱屈禍」という三文字を二分ほどじっと見つめていると,「太宰治」という字になってしまった。それほど,この小文のタイトルは内容以上に作者の心模様をよく表している。
 
 
2009年1月4日。日曜日。晴れ。 旧暦12.9. つちのと とり 四緑 友引
 日曜日であるので,正月とはまた違った感じで休日を送る。風が無く,三が日よりももっと暖かい,穏やかな日であった。
 寺田寅彦「病室の夜明けの物音」(全集2)。病気になって寝ていると,することがないせいか,普段全くといっていいほど気にならない音が気になるものである。いつも暮らしている家においてもそうだから,まして病院のようなところに行くと,耳慣れない音が気にならないはずはない。そして,人一倍観察欲の強い寅彦であってみれば,病院の音に関するエッセーがあっても一向に不思議では無かろう。そしてまた,その考察も期待に違わない。
 
2009年1月5日。月曜日。晴れ。 旧暦12.10. かのえ いぬ 五黄 先負 小寒
 工藤昭雄訳「コリオレーナス」(集英社,世界文学全集5)。と,書いても,誰の作品かわからない人も多いと思う。閑話子も,今回はじめて,シェイクスピアにこのような作品があることを知った。実は,この文学全集も,閑話子が高校の頃出版されたもので,これを読んでいないので知らなかったという訳だ。当時,集英社が,廉価版の日本文学全集と世界文学全集をひっさげて文芸分野に進出した。その宣伝のひとつだろうが,文学振興会のようなものを作って,毎年全国の高校で文芸講演会を行った。勿論,集英社がスポンサーだから講演料は無料である。そして,その文学全集まで寄贈するという熱の入れ方だった。雑誌出版で相当儲かっていたのではないかと思う。その講演会が高校であり,近辺の他の二校でも,同じような講演会がもたれた。その時の,講師が新進気鋭の評論家・江藤淳氏であったことは,以前にも書いた。当時の閑話子は,へんなブランド嗜好があって,集英社の文学全集ではなくて新潮社のほうばかり読んでいたというわけだ。だが,今そのラインナッププを見ても,その豪華さには驚く。今回読んだものは,その頃の廉価版ではなくて,同じシリーズの装幀の立派なほうであるが,今から思うとよき時代であった。
 さて,このシェイクスピアの作品について書こう。主人公ケーアス・マーシャスは武人である。ヴォルサイ人と戦って勝利し,コリオレーナスという称号を受け,さらに執政官になる。しかし根から貴族主義者で庶民の心情もわからねば理解しようともしない。その性格から,追放され宿敵,タイタス・ラーシャスの旗下でローマに攻める。(何と馬鹿な,と思う。ここで,マーシャスの運命は決まっている)。しかし母と妻に説得されて途中で引き返す。当然のことながらラーシャスは許さない。他の作品同様に愚かな主人公と言ってしまえば,身も蓋もないが,しかし,この作品は素晴らしい。愚かではないのだ。性格なのだ。そして変わらないのだ。だから,見事な性格悲劇になるわけだ。この作品は好きである。
 
2009年1月6日。火曜日。晴れ。 旧暦12.11. かのと い 六白 仏滅
 日中の気持ちのよい暖かさは,この頃にしては異常でしょうね。夜は,それなりに寒いですが。
 寺田寅彦「鸚鵡のイズム」(全集2)。 psitacismすなわち,「反省的自覚なき心の機会的状態」「鸚鵡のような心的状態」について,書かれたものである。何度も言っていればわかったような気持ちになる。これは学習の初期の段階では役に立つことである。ただ,そこからいかに深化させるかか問題であって,深化しないものをこそpsitacismと言うべきであろう。だから,psitacismが悪いのではなく,そこから深化しない,鸚鵡のような心的状態,があるということで,これは善悪の問題ではない。
 
2009年1月7日。水曜日。晴れ。 旧暦12.12. 壬子(つちのえ ね) 七赤 大安
   寺田寅彦「丸善と三越」(全集2)。美術についてながながと書く人だから,書物について書き出したら,終わるということがないのではないかと予想される。丸善についても然りである。長々と書いてある。後半の三越のことは後回しにして,まずは丸善のことだけについて。寅彦の,自分の行為から一般論を引き出したりする性癖は何に由来するのだろうか。おそらく身の回りの物理現象にするどい観察眼をむけて何らかの法則めいたものを求めようようとした,根っから物理好きの,そしてそれを普遍的なものへもっていくという,本物の物理学者の態度が,そうさせるのだと思うが,自分の丸善を一回りする行為から,客の行動を観察すればおもしろい結果がでるかも知れないなどと思うところは,まさに寅彦主義である。このようなおもしろい観察と感想に溢れたエッセーであるが,一番感心したのは,次のような件りである。「正面をはいった右側に西洋小間物を売る区画があが,自分はついぞここをのぞいて見たことがない。どういうものか自分はここだけ,よその商人が店借(たなが)りして入り込んでいる気がする。」(p.39)。店借り,今で言えば,テナントであろうか。どうだろう。この表現の妙は。寅彦に限らず,丸善の名は白樺派の小説家をはじめ多くの文人の作品にでてきていたので,一種の憧れをもっていた。かつて,広島や岡山の地方店へ行ったとき,あの1階の客のほとんどいないネクタイやらソックスやら,万年筆を並べたコーナーを横切ったときの違和感を思い出した。同じような思いを感じた人は多いと思う。今はどうか知らないが,昭和の終わり頃でもそうであったから,これはオーナーの趣味を超えた,願望かメッセージの何かであったのに違いない,と当時を懐かしく思い出した。 
 
2009年1月8日。木曜日。晴れ。 旧暦12.13. 癸丑(つちのと うし) 八白 赤口
 小津次郎訳「冬物語」(集英社・世界文学全集5)。これは,時々上演されたりして新聞等でタイトルだけは,よく目にしたものである。いい作品である。舞台を見ても面白いだろう。それぞれの人物の性格も鮮やかに書き分けられているし,台詞も見事である。前半と後半に大きく別れる。前半は,シシリア王・レオンティーズが,友人のボヘミア王・ポリクシニーズに嫉妬して,美貌の王妃・ハーマイオニーの不貞を妄想し,狂ってしまう。その結果王妃,王子は死に,生まれたばかりの王女は捨て子にされる。(エディプス王の物語の捨て子を思い出せばよい。やはり,羊飼いに育てられる)。ただ,王の妄想による厳命に,家臣が盲従するというのではなく,それぞれが,立派に抵抗するところが,この劇をさわやかなものにしている。特に王妃お付きのパーライナの見事さは,王妃の抗弁の弁舌とともに特筆に値する。後半は,捨て子のシシリアの王女がボヘミアの羊飼いの娘として成長し,これまた類い希なる優れた女性として登場する。それに惚れたのがボヘミアの王子だから,ハッピーエンドで終わるかと思いきや,ボヘミア王は,羊飼いの娘を嫁にすることに断固反対する。二人は,シシリア王の保護を求めてシシリアまで逃亡するが,ボヘミア王の追っ手が迫る。間一髪で,羊飼いが王女の身元を証明する物を明かすことによって,事なきを得る。簡単に書けば,こういうことだが,これがまた複雑な(多少混乱した)筋書きですすめられたり,身元を証明するところは,間接話法で語られたり,となかなか技巧に富んだ劇である。さらに,後日譚もあるのだが,未読の方の興を殺ぐといけないので,このへんでやめておこう。ということで,マイナーな作品(私が勝手にそう思っていただけかもしれない)にも,こんな傑作があるのだから,改めてシェイクスピアの偉大さを実感した。
 
 
2009年1月9日。金曜日。晴れ。夜小雨。 旧暦12.14. 甲寅(きのえ とら) 九紫先勝
 寒くなった。雪が降るかもしれない。
 寺田寅彦の「丸善と三越」(全集2)の後半は三越の話である。大正八年の頃と現在では三越の商品構成も随分と変わっただろうが,それ以上に変わったのは,人々の気持ちのほうである。現在のようにものが溢れている時代ではないときは,消費は欲望の対象と成りうる。そして,欲望であるが故に浪費と倹約という二つの価値観に支配される。しかし,物が余ると,今度はそこに別の価値観を賦与せざるを得ない現在とは,大きく異なる。その差異を見ることができる。
 
2009年1月10日。土曜日。晴れ時々小雨。 旧暦12.15. 乙卯(きのと う) 一白友引
  成人の日というのは,物心ついたときから1月15日で,三学期がはじまって,退屈している頃にちょうどよい具合に連休となり,一息ついていたのが,長い間の過ごし方であった。それが,少し前から,成人の日が惑星のように動き回るので,何とも言えないアンバランスを感じている。とはいえ,3日間自由になるのは,有り難い。このうち1日は他者のために使い(他者本位),2日間を自分のために使いたい(自己本位)。この割合は人によって異なるだろう。すべて,他者のために使っておられる人がいる。尊敬に値するが,逆立ちをしても真似できないので,見習おうとも思わない。傍観のみ。時間は自分のためにあるというのが,今も昔も変わらぬ信念である。もっと詮索すれば,1969年11月23日から始まる。その日は,今は別の会社になった中央公論社から出ていた世界の名著シリーズの「46 ニーチェ」を買った日である。おそらくそれまでに図書館の本で読んでいて,ある程度(以上に)共感して,この日買ったのである。ニーチェの思想を一言で言えば,「超人への意志」である。わかりやすく言えば,自らの意志で現在の自分を乗り越えよ,ということで,極めて人間的な思想である。自分を乗り越えるということは,批判的に,あるいは否定的に現状を突破するということであるから,まさに哲学的な生き方ということでもある。意志というのは,即物的に言えば,時間の使い方を自分で選ぶということである。だらだらとテレビを見るというのとは違う。本もまた自分で選んで読むということである。こういう考えかたで曲がりなりにも,39年間生きてきたわけであるから,随分他人から嫌われたであろうことは憶測に難くないが,自分としてはこれが,ささやかなる「持続する志」に他ならない。意志して他者のために生き,自らを高めるというのもありますけど・・・。
 寺田寅彦「電車と風呂」(全集2)。これも極めて寅彦的なエッセーである。これを読むと,寅彦の文章の妙味がその分析癖にあることがわかる。観察癖も寅彦にはつきものであるが,今回は,観察は電車の中の日本人の顔の,ごく一面に限定され,そこから延々と,そのよってきたる原因を推理し,銭湯と比較したり,外国の例を挙げて分析したりする。そのさまがまことに面白い。それでは,その結論というと,今のわれわれの世界と比べればおのずと明らかであろう。半分当たっていて,半分は却下される。衣食足りて礼節を知る,というように,衣食が足りれば,ひとりでに人は寛容になるものである。そしてまた,過剰になれば,逆に退行するものである。
 
2009年1月11日。日曜日。晴れ時々雪。 旧暦12.16. 丙辰(ひのえ たつ) 二黒先負
   雪といっても少し舞った程度で,地面を濡らすほどのことはありませんでした。でも,少々寒うございました。2時頃散歩に行き,早々に帰ってきました。夜になって益々寒くなりました。ストーヴの設定温度を少し上げました。それでもまだ寒い。
 寺田寅彦「病室の花」(全集2)。今度は観察の話である。少し前に読んだのが,胃潰瘍で倒れ緊急入院したわけであるが,その入院中のことである。次々に届けられる家族や知人からのお見舞いの花に対して,いつものように執拗な観察が続く。最近ではホームセンター経由の花で溢れ,その美しさを当たり前のように感じて,愛でることが少なくなったが,それぞれの造化の妙をもっと楽しまないといけない。
 
2009年1月12日。月曜日。晴れ時々雪。 旧暦12.17. 丁巳(ひのと み) 三碧仏滅 成人の日
  今日も小雪がちらついて寒い日でした。寒いので散歩はお休みです。風もありましたしね。夜になって,今年最初の満月が明るく出ております。寒いから,外へ出るのが嫌ですから,窓を開けて眺めました。今年では最も明るく,いつもの満月よりおよそ14%大きくて、30%明るいのだそうです。去年の12月12日には少し負けますが。今後は2016年まで,こんなに明るい満月はないようです。あと7年ですね。それまで生きていたとしても,老年期に入ると自覚すべき頃ですね。体力の衰えが出はじめる頃でしょうね。
 夏目漱石「それから」(全集4)。青空文庫と全集を読み継いで,今日終わりました。全集は昭和41年版で,50年の2刷版です。活字も大きいし,紙質も最高で,老後も楽しめます。ただし,重たいので寝そっべって読むわけにはいかないのが欠点です。
 さて,「それから」は名作です。恋愛小説の傑作です。「野菊の墓」とか,あの類とは少し異なりますが。「こころ」の先生が友人と下宿先のお嬢さんを争うというのも迫力がありましたが,こちらはいったん友人に斡旋した三千代という女を奪い返すというか,取るというか,なかなか凄まじいものがあります。恋愛に関しては,漱石の最高傑作と呼んでもいいのではないでしょうか。「明暗」が一応漱石の最高作品ということになっておりますが,観点が違いますからね。「明暗」の迫力は,認めるにしても,「それから」も見事な小説という他ありませんね。そのクライマックより後ですが,少し引用しておきましょう。
「彼(かれ)は彼(かれ)の頭(あたま)の中(うち)に、彼自身に正当な道を歩(あゆ)んだといふ自信があつた。彼は夫で満足であつた。その満足を理解して呉れるものは三千代丈であつた。三千代以外には、父(ちゝ)も兄(あに)も社会も人間も悉く敵(てき)であつた。彼等は赫々(かく/\)たる炎火(えんくわ)の裡(うち)に、二人(ふたり)を包(つゝ)んで焼(や)き殺(ころ)さうとしてゐる。代助は無言の儘、三千代と抱き合つて、此焔(ほのほ)の風に早く己れを焼(や)き尽(つく)すのを、此上(うへ)もない本望とした。」(p.620)
 「赫々たる炎火」ですから,凄いですね。漱石から名文句を引用していたらキリがありませんから,やめておきましょう。「それから」のそれからは「門」で,三千代さんは,お米さんに変わって,役所に勤める主人公と坂の下の家でひっそりと暮らすという,これまた史上稀なる夫婦小説となる訳ですから,二人は精神的にはともかく焼き尽くされずに済んだわけです。
 
 
2009年1月13日。火曜日。晴れたり曇ったり時々雪。 旧暦12.18. 戊午(つちのえ うま) 四緑大安
 朝厚い氷がはっていました。新聞によると最低気温の予想は-2℃でした。日中も,少し寒かった。
 寺田彦「浅草紙」(全集2)。浅草紙というのは,千代紙のことで,浅草の土産に売られている物だろうというような気持ちで,読み始め,だんだんと,今でいうリサイクル紙でトイレットペーパーのことだろうと思い始めた。読み終わって,一応確かめてみようとネットで調べたら,古い歴史のある産物で,リサイクル品でトイレットペーパーであるということには間違いはなかった。鼻紙にもなったらしい。この再生紙は粗悪で,灰色をしているのだが,寅彦が観察しているように,紙は完全に砕かれてなくて,マッチ箱とか広告紙というように元の形を想像できるものがあったり,あるいは動物の毛や髪の毛までも入っており,その来歴がかなり怪しいものだし,現在の感覚からすれば相当不衛生なようなものであったようだ。寅彦の観察の素晴らしいのはいつもの通りなのだが,ここから文学作品や,絵画の来歴の話に飛ぶ。すなわち,先行作品の吸収と消化。そしてまた,浅草紙も改良の余地があろう,ということになる。
 
 
2009年1月14日。水曜日。曇り時々晴れ。一時小雨。 旧暦12.19. 己未(つちのと ひつじ) 五黄赤口
  今日も寒かった。冬ですね。
 シェイクスピア,西脇順三郎「ソネット詩集」(筑摩書房・世界文学全集66)。集英社の文学全集で読んでいたのですけれど,返却日が近づいたので返しました。そして,以前某古書店で100円か150円で買った「世界名詩集」というのがあり,はじめのほうにソネットがあったというのを思いだし,結局,後半はこちらで読みました。さて,このソネットはよくわからないものだらけです。同性愛の対象者が誰かもわからないので,ここに謳われていることがフィクションかなんらかの事実かもわからないのだそうです。では,作品としてつまらないかというと,ストーリーらしきものは,たいしたことはないのですが,さすがにシェイクスピアと思わせる比喩やトーンがたびたび出てきますから,一流の詩には違いありません。ただ,違和感もありますが。それでは,この作品は何なのかと考えてみるのですが,これも他の芝居と同じようなフィクションではないかと思います。そして,何らかの種本のようなものがあって,想像を膨らませてこの詩形式で書いてみたのではないでしょうか。そしてその時,ドラマほど内容を明確にしなかったし,また複数の内容を統一せずに使ったのではないかと思います。これは,あくまでも翻訳を読んだ印象ですので,原文を読むとまた別の印象をもつかもしれません。
 
2009年1月15日。木曜日。晴れ。 旧暦12.20. 庚申(かのえ さる) 六白先勝 
 雪こそ降らないが,寒い一日でございました。冬といえばこんなものなのでしょうが,寒がりの小生には嫌ですね。  
 寺田寅彦「春寒」(全集2)。病床の春まだ浅き日,英語版のHeimskringlaを娘のピアノ練習をBGMとして読んだことを記したもので,寅彦の読書の広さに驚いた。ということは,寅彦の,観察癖も分析癖も天性のものと思っていたのだが,幅広い読書に支えられた後天的な磨きも多いにあったのだと,思わざるを得ない。
 ヘイムスクリングラ(heimskringla)というのは,ノルウェーの王のサガのことであって,英語も原語のものもweb上にあるようであるが,今はそちらに興味がいかない。読み出したらおもしろいかも知れない。
 
2009年1月16日。金曜日。晴れ。 旧暦12.21. 辛酉(かのと とり) 七赤友引
  早くも1年の24分の1が終わった。朝はまだなかなか明けなくて,7時でも薄暗いが,夜は随分遅くまで明るくなった。梅の蕾を見ていると,既に春の息吹も感じられるが,気温はずっと低くて,まだまだ,冬は去りそうにもない。
  Anaïs NinのLittle Birds(A PENGUIN BOOK)を読んだ。これは,同名の短編集の中の最初の1編である。この1作品でも彼女の並々ならぬ才能が伺える。エマニュエルという小男の夢と現実の話で,小学校の見えるテラスで鳥を飼って,少女たちを誘う。少女たちは,またlittle birdsであり,作者の夢に驚いて,like little birds, and ran away.となる。
 
2009年1月17日。土曜日。晴れ。 旧暦12.22. 壬戌(みずのえ いぬ) 八白先負
 少し寒波が遠ざかったのか,あるいは単なる気象の気まぐれか,はたまた三寒四温と,古来より言い習わされた,よくあるパターンか。まずは,ともあれありがたい。
 寺田寅彦「文学の中の科学的要素」(全集2)。いつものように寅彦の得意とするところのエッセーである。主眼点は3つある。まず,自然現象の記述が入るとき。これは間違っていてはおかしいので,ある程度(程度問題ではある)正しくないといけない。火事でも植物でも,動物の動作でも。2つ目は,心理的描写である。これは自由度が大きくなるが,あまり不自然なものではいけない。最後に簡単に触れられている,ファンタジーの類である。異境に舞台を設定するとか,文体を変えることによって自然科学的事実に反することも記述しうると示す。
 
 
2009年1月18日。日曜日。曇り一時雨。 旧暦12.23. 癸亥(みずのと い) 九紫仏滅
 あまり寒くはないのですが,朝からどんより雲ってせっかくの日曜日が,もったいないように思いました。家の中でもいろいろとすることはあるのですが,でも,こういう時期だからこそ,太陽に照ってほしいと思いました。夜になってかなり雨が降っていたのですが,いつのまにやら止んでおります。雨もそろそろまとめて降ってほしいところですね。
 シェイクスピア作,小田島雄志訳「間違いの喜劇」(筑摩・世界古典文学全集42)。残りの作品は,筑摩書房の世界古典文学全集所収の6巻本のシェイクスピア全集を読むことにします。これは「シェイククスピアⅡ」の巻頭を飾る作品です。
 さしずめ,現代で言えば,幽体離脱かクローン人間の登場ということになろうか。それを双子の兄弟,双子の召使いという設定で行うのだから,どうしても作者の才能というものを考えてしまう。トラブルが起こるには何個かの事件も必用である。しかし,多すぎると煩雑になって観客のほうも混乱してくる。そのあたりのバランスのよさには,いつもながら感心する。少し気になるのは演出方法である。双子の兄弟は一人二役でやって,最後のところだけ代役を立てるのだろうか,それとも背格好のよく似た訳者を似たような化粧で双子にしたててやるのだろうか。どちらにせよ,見るほうは大変だ。他の訳を見てないのだが,この小田島氏の訳は素晴らしい。ただ,観客があまり笑うと台詞が聞き難くなるということも起こるかも知れない。
 
 
 
2009年1月19日。月曜日。晴れ。 旧暦12.24. 甲子(きのえ ね) 一白大安
 寒波が去って,穏やかな冬の日が戻りました。氷も張っておりません。北風は少し吹いておりました。でも,これくらいは当然のことです。窓から入る太陽の光線に思わず感謝したくなります。昨日がうらめしい。ところで,太陽はどうして燃え尽きないのでしょうか。不思議ですね。勿論,燃え尽きたら困るのですが・・・。
 ギボン著,中野好夫訳「ローマ帝国衰亡史」(筑摩書房)のうち,「第八章 アルダシル一世による王国再興後のペルシア情勢 226-240年」を読んだ。私が持っている第Ⅰ卷は1976年10月30日発行の初版第4刷である。これを1980年1月24日に求め,1月27日に読み始めている。そして,同じ年の12月8日に第七章を終えたところで長い中断の期間に入った。そして,今日までのあいだに,塩野七生さんの「ローマ人の物語」を読んでいる。いつか続きを読みたいと思っていたのだが,実に三十年近くたって,今年の1月12日から,再読を開始した。何故にローマにこだわるのか,と問われても答えることなどない。辻邦生さんの「背教者ユリアヌス」,ユルスナール女史の「ハドリアヌス帝の回想」,弓削達さんの「永遠のローマ」と,思いつくままに昔読んだものを思い出すと,必ず更に読みたくなるということのくり返しなのだ。シェイクスピアも峠を越したようだし,この本に少しつきあってみるのも一考だと思う。この章は,これまた不思議の国ペルシアのことで,ゾロアスター教などが出てくる。それに負け戦も。謙信,信玄,家康,信長,秀吉,誰でもよい。後から見れば,傍目八目で,何とでも言える。しかし渦中に立ってみれば,暗黙の未来に向けて飛翔するようなもので,先のことはわからない,というのが,大部分だったのではないかと思う。負けたからと言って,あるいは不甲斐ない戦い振りだと書かれてあるのを見ても,笑う気にはならないし,まして侮る気にもならない。ただ,不向きな戦いに出ていかなければならなかったその人の宿命に同情するだけである。
 
2009年1月20日。火曜日。晴れ。 旧暦12.25. 乙丑(きのと うし) 二黒赤口 大寒 
 さらに暖かくなった。灯油の減りようが違う。寒くなった,暖かくなった,と言いながら,一月もやがて終わり,そして二月も,そのうち終わる。それはそれでいいのだし,今は今でいいのだ。
寺田寅彦「凍雨と雨氷」(全集2),何とも奇妙な言葉である。日本語の場合は普通は前が形容詞で後が名詞となる。だから,凍雨と書けば,凍った雨だし,雨氷なら雨の氷ということになる。とは言え,水は液体,固体,気体の3つの状態を普通はとる。他の物質でもそうだが,水の場合には,われわれの日常的な温度での話であるところが,違う。鉄の液体を日常的に見られるかというと,それはまずない。灯油の固体を見たことがあるか?と子供に尋ねてみるとよい。鉛なら,鍋に入れて熱すれば融けるだろうが,では,鉛の蒸気をどれだけ,あると感じることができるか。ヨウ素を熱すれば,気体を見ることはできる。ならば液体のヨウ素を長い間見ることができるか? 
 というように,水は日常的に三態を見ることができる。勿論,気体である水蒸気は見えないが,冷やされて湯気や霧になった状態から,それまでそこにあったことが容易に想像できる。だから,見えない水蒸気は考えないことにすると,見える水は液体と固体しかない。雨は水であり,当然液体である。液体以外の水が空から降ってきたら,それは固体の水であるから,とにかく氷である。その氷の形やら堅さで,雪と呼んだり,雹(ひょう)と呼んだり,霰(あられ)と呼んだりする。雨と霰が混ざったものが霙(みぞれ)であろう。ここまでは,いつも考えていることを漠然と書いただけだから,違っているかも知れないが,雪,雹,霰が水が氷った状態に間違いはないだろう。固体でなかったら,液体であるから雨になる。
 雪やこんこん,あられやこんこん,と歌うが,霰はぱらぱらと降っている感じがするので,こんこんというのもわからないわけではない。しかし,雪がなぜ,こんこんなのか,私にはわからない。「雪がしんしんと降る」というのなら,まずわかるが・・・。それはさておき,雪はやわらかい。あられは雪が丸まった感じで,中に隙間があって軽そうである。だから,落ちて跳ねる。だが,こんこんと跳ねる動物はいない。昏という字が,よく似合う。雹は氷である。はねることははねるけど,雪が丸くなったり,四角になったようには見えない。透明な氷である。時に大きなものが降ってくることがある。直接頭に当たったことはないので,痛いかどうかわからない。雪,と雹と霰の違いは,気象条件で,どの位置で氷るのかによるのだろう。兎に角,われわれが見るときには,氷っているのだ。霜は気体から直接氷っているので,別だ。
 さて,寅彦さんに戻すと,さらにあるというのだから,驚きである。それを寅彦さんが一流の観察力で見て書いたのなら,さらに驚くのだが,今回は気象学の解説である。(目的は別だが)。雨氷というのは,地面でも植物でもいいが,何かに触れて氷るのを言うのだそうである。これはひょっとしたら,自動車の窓ガラスに当たった直後にそうなっているのを何回か見たように思うが,いかんせん,窓ガラスに当たる前が見えないから,厳密なことが言えない。しかし,氷の飛び散る様は,水が散りながら氷っているように見える。こういうのが雨氷である。要するに過冷却水だ。凍雨というのは,一見言葉の矛盾だが,霰でも雹でもなく,雨が氷って丸い球になり中が空洞だったりする。こう書けば,雹でも霰でもないことがわかるだろう。丸い雹は見たことがない。透明な霰も見たことがない。なるほど,と思って読むと楽しい。観察できればさらに楽しい。しかし,写真に写すことはなかなかできない。やはり,読んで考えるのがいい。
 
2009年1月21日。水曜日。曇り後雨。 旧暦12.26. 丙寅(ひのえ とら) 三碧先勝
 夕方からかなりの雨で,久しぶりのまとまった雨である。とはいえ,大雨というほどではないから,降水量はわずかか。雨の夜は寒い。
 Anaïs NinのThe  Woman  on the Dunes (A PENGUIN BOOK)という短編は,男女の関係を書いたものでストーリーというほどのものはないのだが,不思議な魅力を湛えた作品である。その魅力がどこにあるのかというと,ちょっと漠然として掴みようがないのだが,通俗小説を超えたものを作品化したということは事実であろう。
 
2009年1月22日。木曜日。曇り後雨。 旧暦12.27. 丁卯(ひのと う) 四緑友引
  今日も夕方から雨が降り出した。深夜になってもまだ降っている。昨日は意外に早く止んだようだ。今日の方が多いのかも知れない。
 寺田寅彦「漫画と科学」(全集2)は比較文学的に漫画を論じているように見えて,実はそうではなくて,漫画における方法序説を科学の方法と対比しながら述べているのが,このエッセーである。しかし,一言で漫画といっても,寅彦の時代の,寅彦が思う漫画と,21世紀のはじめに我々がもっている漫画との間には大きな逕庭がある。そこのところが明確でないせいか,いくら読んでも,隔靴掻痒の感を拭い去ることはできないであろう。
 
2009年1月23日。金曜日。晴れ時々曇り。 旧暦12.28. 戊辰(つちのえ たつ) 五黄先負。
今日も,夕方から雲って,また雨になるのかと思われたが,そうはならなかった。またまた寒波が来ているのか,戸外は寒い。
 寺田寅彦「球根」(全集2)は,心境小説の趣で書かれたものである。病気療養中の主人公のもとへ球根が送られて来る。差出人が誰かわからない。いろいろと想像をめぐらす。一方,病中の生活は読書三昧で,冴え渡る日々が多い。そんな中時々,倦怠の時も周期的に訪れる,と記す。これは病中でなくても,誰にもあることである。後日,予想外の遠戚からの葉書で,送り主が判明する。そして「外の世界とちょっとでも接触する所には,もう無際限な永遠の闇が始まる」と認識する。そうなのだ,自己と他者の関係は,無際限な永遠の闇との境界なのだ。
 
2009年1月24日。土曜日。晴れ一時小雪。 旧暦12.29. 己巳(つちのと み) 六白仏滅。
 予想通り寒波到来。昨夜,かなり吹いていた。猫の往来を妨害する目的で,溝の中に立てている水を入れたペットボトルの何本かが倒れていた。明日も寒そう。炬燵で,「元祖ボール」プラス「小粒やねん」を食べながら,本を読むことにしよう。
 シェイクスピア作,北川悌二訳「ヴェロナの二紳士」(筑摩・世界古典文学全集42)。残念ながら紳士ではない。友情を裏切って恋のライバルになる。そしてそのやり口がよろしくない。だが,不思議な劇である。会話はそれぞれが面白い。原文の洒落がわかれば,もっとおもしろくなろう。さらにその上に舞台で見れば,さらに面白くなると思う。ただ,ストーリー展開は,意に添わなくても我慢しなくてはならない。現代小説に慣れた我々には主たるストーリーの展開には,敏感になっているものである。だから,主人公の友情が裏切られるのも不自然だし,また簡単に最後は改心してハッピーエンドに終わるのは納得がいかない。一夜の喜劇だから,と言われてしまえば,それだけである。

 
2009年1月25日。日曜日。晴れ。 旧暦12.30. 庚午(かのえ うま) 七赤大安。さんりんぼう。
 庭のメダカ池に厚い氷が張っておりました。気温は低いようでしたが,よく晴れて,風もなく穏やかな日曜日でした。でも,寒いので,山茶花の花びらを掃除した程度で,冷気にあたって風邪など引かぬよう,用心に勤めました。
 ギボン著,中野好夫訳「ローマ帝国衰亡史Ⅰ」(筑摩書房)のうち「第九章 デキウス帝時代,蛮族による入寇が開始されるまでのゲルマニア情勢 249-252年」を読んだ。ローマ帝国衰亡史なのだから,滅びの歌であるのは言うまでもない。その一番の原因は北方のゲルマン民族である。あの高校の世界史で「ゲルマン民族み3な7うご5く」などと言って覚えた,ゲルマン民族が大移動はしないまでも,ローマと境を接して絶えず脅かすわけだから,蛮族などと呼んで軽視してはいけない。孫子の兵法ではないが,敵を知らずして戦うわけにいかない。ここ,第九章は,戦いにではなく,この蛮族と呼ばれるゲルマン人についての,解説である。375年頃のゲルマン民族に対して,この大入寇の頃のゲルマン民族を古代ゲルマン人などと呼ぶようである。
 そのゲルマン諸族との長い戦いは,塩野さんの「ローマ人の物語」の後半に夥しくでてくるのだが,ギボンはここで,その特質をまず書いておく。おもしろいのは,中世騎士道とか,封建制などに古代ゲルマン人の習慣がすでにあったという歴史家の見解の紹介などである。ほとんどが,タキトゥスなどの試料によるものであるが,それでもなかなかにおもしろい章で,ここだけ読んでも,ヨーロッパの前史として意義深い。 
 
 
 
2009年1月26日。月曜日。晴れ。 旧暦1.1. 辛未(かのと ひつじ) 八白先勝。旧正月。
 旧正月である。中国はともかくとして,我が国で,どれくらいの人が,この旧正月を祝っているのだろうか。。それもだんだん減っていることは予想される。しかし,今日から春なのである。そして謹賀新春とか、迎春とかいうのも今日がふさわしい。1月2月3月が春なのである。ということで,自分一人で旧正月を祝いたい。謹賀新春!  折しも石焼き芋の拡声器の声が寒空の下を流れる。
 寺田寅彦「自画像」(全集2)は,静謐とでもいえばいいような,静かなエッセーである。自宅療養中のことである。読書に飽きたのと季節の変わり目に,絵を描きたくなって,写生に行けないので自画像を描いたという訳である。自画像を描きながら様々な想念が出来する。それらをひとつずつ丹念に描いて(絵ではなく文章に)いく。しかし,読んでいるうちに,またまた寅彦の観察癖に出会う。キャンパスの上の自分の手が成したことの一つ一つが物理の実験のように,正確に記録されなければならない。そうであるが故に,かどうかはともかくとして,絵は完成しない。
 
 
2009年1月27日。火曜日。晴れ。 旧暦1.2. 壬申(みずのえ さる) 九紫友引。
 謹賀新春などと言っても,まだ寒い。まだまだ冬である。ただ,朝夕の時間が日に日に広がっていっているのは確かだ。朝は7時に薄暗いということはなくなった。夕方も6時頃まで薄明るい。冬の中にも春があるというのは,確かである。日射しがやや明るい。猫の啼き声が増えた。
 寺田寅彦「蓑虫と雲」(全集2)。寅彦版昆虫記である。そういえば,最近では蓑虫など見る機会がめっきり減った。自然から遠ざかっている訳ではない。木々は身近に豊富にある。なのに。何故であろうか。思うに鳥のせいだと思う。最近家の周りに来る鳥の種類が随分と変わったように思う。燕はいることはいるが,少ない。雲雀は,まったくといっていいほど見ない。多すぎるのがヒヨドリだ。ヒヨドリは,私が小さい頃,というと50年ほど前のことになるが,冬になるとやってきては,蜜柑の熟れたのを啄んでいた。それがどうだ。年中家の近くにいて,猛烈な勢いで花びらを落としたりしている。そういう環境が,きっと蓑虫を駆逐したのではないだろうか。寅彦は,例によって観察癖をここでも発揮して,蓑虫の横穴から入る小さな蜘蛛のことまで,書いているのだが,果たして,何という蜘蛛の仕業なのであろうか。
 
 
2009年1月28日。水曜日。晴れ。 旧暦1.3. 癸酉(みずのと とり) 一白先負。
 朝は1℃の中を通勤している。それでも,昼間西のほうを見るとまばようばかりの日射しで,春の息吹が感じられた。夕凪亭の前の梅の木の蕾がどんどん大きくなる。これは鉢植えの残り物を半値で買ったものを路地に植えたものである。残念ながら実は大きくならないが,花は咲く。そして何よりも木の成長が早い。  
 寺田寅彦「蜂が団子を作る話」(全集2)。昨日に引き続き,寅彦版昆虫記である。庭の植木を荒らす昆虫たちの話から,ついには蜂が毛虫を団子にする話に致るという,まことに楽しい随筆である。私にも蜂の思いでは数々あるが,団子を作っているところは見たことがない。蜂の学名などが出てくるわけではないのに,この話は実に楽しい。ファーブルの昆虫記は,完全には読んでいない。フランス語の対訳で読もうと岩波文庫を買ってあるが,原文のほうが相当難物で,今では二階の本棚に押しやられている。下ろしてきて読みたくなった。
 
 
2009年1月29日。木曜日。晴れ後小雨。 旧暦1.4. 甲戌(きのえ いぬ) 二黒仏滅。
 夕方になって小雨。夜になって強くはないがかなりの雨。この頃の雨は,一雨ごとに春に近づいていく。特に今年のように暖冬の年はそうだ。もう何回か寒波は来るのだろうが,日々春に近づいて行く。季節のみならず山々の木々にとっても,この頃の雨は成長の糧に違いない。
 寺田寅彦「田園雑感」(全集2)は,田舎の風物に寅彦流観察癖を発揮したものである。ここに書かれているような田舎の光景は,半分以上は廃れているのだろうが,今なお存続しているものもあるだろう。
「反応を要求しない親切ならば受けてもそれほど恐ろしくないが、田舎(いなか)の人の質樸(しつぼく)さと正直さはそのような投げやりな事は許容しない。それでこれらの人々から受けた親切は一々明細に記録しておいて、気長にそしてなしくずしにこれを償却しなければならないのである。」(p.239)
 物心両面にわたって,最も多く存在しているのが,ここに記されたようなことだろう。かつて,放送大学の文化人類学の講義で,南太平洋の小さな島国での,贈答儀礼について,ある文化人類学者が三つの義務があると分析した。何かの儀式や,節目に,物を贈る習慣のあるところでは,贈る義務,受けとる義務,返礼をする義務があるのだそうである。これは,田舎に限らず,多少の程度の差はあるものの,都会でも存続していて,サービス業者を益しているのかも知れない。
 過疎地が日本全国津々浦々まで浸透しているが,仕事がないとかいうような経済問題だけでなく,古い習俗からの脱出(エクソダス)があったのではなかろうか。
 古い習俗から離れようと田舎を飛び出したと思ったら,ある年代に生じた新興住宅団地などでは,形を変えて古い習俗の一端を移植した町内会があって,葬式にかり出されたり,変な回覧板を回されたりしているところもあって,どこまで行っても亡霊は追いかけてくる。さらに自由になろうと,マンションへと移っても・・・,その先は伝聞になるので書くのはやめておこう。
 
2009年1月30日。金曜日。晴れ後小雨。 旧暦1.5. 乙亥(きのと い) 三碧大安。
 昨夜来の雨で気温がぐんと上がり,暖冬と春来を同時に感じることのできる一日であった。そして,今夜も激しい雨ではないが,長い間降り続いている。
 シェイクスピア作,和田勇一訳「恋の骨折損」(筑摩・世界古典文学全集42)。全編洒落のオンパレードでそれを脚注で楽しむというのも変な話だが,訳者の苦労は察するに余りある。小生がその立場に立てば,「興味ある読者はぜひ自分で原文に当たってみてほしい」などと言って,お役目を御免被るところである。到底翻訳など不可能な作品である。
 当時の社会で誓い破りがどの程度の悪徳になるのかわからないのだが,随分と楽しい劇である。本文に出てくる洒落がわかっていて,英語による劇を見ることができれば,この劇の面白さがよくわかるであろう。
 「間違いの喜劇」と同様対になる登場人物を巧みに配した,創意に富んだ実験的作品で,十分に喜劇的なよい作品だと思う。
 
2009年1月31日。土曜日。曇り時々晴れ。 旧暦1.6. 丙子(ひのえ ね) 四緑赤口。
 明け方まで降っていた雨は止んで,気温は異常に高く春のようだった。しかし,後に低気圧の影響で北風の舞う一日となった。
 ファーブル昆虫記より「ラングドックのあなばち」(山田吉彦・林達夫訳,岩波文庫1-10)。獲物の昆虫を歩いて運び,近くに巣穴を掘る蜂の話である。
 この岩波文庫の第一巻には総目次が付いているのだが,ファーブル昆虫記というのは膨大なvolumeである。よく,私の好きな本などとして挙げる人が多いが,全巻を読んでそうしている人がどれくらいいるのだろうか。児童文学全集などの抄訳の抄訳などで,それが昆虫記だと思っている人が多いのではなかろうか。だから,教科書だけとか,どこかで一つのエピソードを読んだだけでも,堂々と昆虫記が好きと言ってもいいと思う。
 どこをとっても,金太郎飴のように面白いので,あれだけ人気があるのだ。ちょっと立ち止まって考えれば,志賀直哉の私小説にも寺田寅彦の随筆にもよく似ている。まことに読みやすくて楽しい。さて,小生の読書計画であるが,全巻読破の射程にはまだ入っていない。多分,死ぬまでに最後まで至らないだろうと思う。気長に,気の向いたところか読んで,それぞれで楽しめば,それでもって瞑目すべし。
 暖冬の一月は今日で終わる。
 

夕凪亭閑話 2008年12月 decembre

2008年12月5日。金曜日 雨後晴れ。 旧暦11.8. つちのと う 三碧 赤口
 忙しかったわけでもなく,体調不良だったわけでもなく,いつものように生活しておりましたが,あっという間に12月も5日となってしまいました。早朝から大雨で,午後は晴れておりましたが,夕方の冷え込みには驚きかつ振るえました。
 江戸川乱歩の「覆面の舞踏者」(全集2)は,タイトルほどおどろおどろしい話ではなく,仮面舞踏会のようなもので,主催者があらかじめ設定していた相手通りにならなかったという,話で,特別の意味はないのですが,仮装するときに,乱歩の変装へのあこがれぶりが遺憾なく発揮されており,乱歩ワールドの巾の広さに畏れいった次第。そういえば,似たような趣向が太宰治の「人間失格」や三島さんの「仮面の告白」にもありましたねェ。
 
 
2008年12月6日。土曜日 晴れ時々小雪。 旧暦11.9. かのえ たつ 二黒 先勝
 今日は昨夜の続きで大変寒い一日であった。少しだけ外で作業をしましたが,すぐにやめました。
 福田恆存訳「ヘンリー四世」(新潮世界文学2)を読んだ。放蕩息子のハリーが面白い。しかし,後半,王のもとでよく奮闘する。この辺の変わり身の速さの状況をもう少し描いていればおもしろくなったのではないかと思われる。史劇とはいうもののあくまで個人のドラマに近い。さて,この全集に収められている「リチャード三世」は,三年ほど前に読んだので,今回はパスすることにする。ということで,新潮世界文学の1のほうに移ることにしよう。
 
 
2008年12月7日。日曜日 晴れ。 旧暦11.10. かのと み 一白 友引  大雪
 今日も寒い一日でした。庭のメダカを飼っている池や発泡スチロールにいれている水が凍って夕方になっても解けなかったので,相当寒い一日だったと思います。夕方,例の金星と木星が出て晴れた寒空で瞬いていました。
 三島由紀夫さんの「孔雀」という短編を集英社の文学全集で読みました。昭和44年の12版(今流にいうと12刷でしょうか)で,290円のものですが,印刷も濃く,今でも読みやすく,内容も良い本です。三島さんの作品は傑作が多く,この頃各社から出た文学全集ではいずれもどれを載せるか苦労されたようです。代表作を網羅していたらとてもではないが,収まりきれないし,代表作と思われるものばっかり選んでいたら,他社のものと同じになるし・・・。「金閣寺」と「潮騒」があって,短編が八作品というのは,よい選択です。短編もなかなかよいものを選んでおります。その中でも「孔雀」は最後のところが,リアリズムに反しておりまして,どう納得させるか難しい作品です。金閣寺の焼亡のニュースを聞いて,その後でそれが放火によるものだったと聞いて,驚くとともに,先を越された,それは自分こそがやるべきだった,と思った人はいないと思います。いるかも知れませんが,やはりいないと思います。三島さんだってそんなことは思わなかったと思いますよ。しかし,そう思っていたに違いないと誤解する子供がいてもおかしくないほど,小説「金閣寺」はよくできております。それはさておき,遊園地の孔雀が何者かによって殺されたとき,それは,自分がやったのではないが,自分がやりたかったことだと思う人はいないでしょう。そんな人がいるのかな? いないと思うけど・・・。 「孔雀」は,そういうお話なのです。そして,それを殺すのは,年取ったおじさんではいけなくて,美少年でなければいけない,というのが三島さんの美学なのです。40歳の三島さんが青春時代を憧憬して書いたというよりも,むしろ成長の否定をここでも宣言しているわけですね。青春は永遠で老年は醜いという,いつものテーマです。それを言葉の彫刻で作りあげることに,不思議な魅力を感じます。
 
2008年12月8日。月曜日 晴れ後曇り,夜小雨。 旧暦11.11. みずのと うま 九紫 先負
 少しだけ寒波はやわらぎましたが,朝は寒かった。それに午後は雲って,夜になって小雨まで降りまして,冬が深まっていっております。(普通,秋は深まるとは言いますが・・・)
 江戸川乱歩の「闇に蠢く」(全集2)はかなり長い作品です。後半意外な展開となり最後には「食人鬼」となるという凄惨な話なので,内容についてはこれ以上触れませんが,作品としては完成しており,乱歩らしい,傑作と言ってもよいでしょう。「湖畔亭事件」でもでてきましたが,「覗き見」への嗜好が例によって詳しく語られます。「変装」「覗き見」「鏡」「浅草」・・・・と乱歩ワールドの小道具のオンパレードです。そういえば,三島さんの「午後の曳航」や「暁の寺」にも覗き見は出てきました。また,「鍵のかかる部屋」にもあったように記憶しております。
 
2008年12月9日。火曜日 曇り時々小雨。 旧暦11.12. みずのと ひつじ 八白 仏滅
 寒さはやわらぎましたが,ぱっとしない天気ですね。不況のようすが至るところから聞こえてきます。車の販売台数の減少。採用取り消し。マンションの販売戸数の減少。少子化は依然続いているし,物は余っているし・・・。少し前までの好景気が幻だったのではないでしょうか。団塊の世代と呼ばれている方々がどんどんと定年を迎えられているようですが,この人たちの定年後の,消費ブームが起きていないようですね。やはり,年金がこの先どうなるか不安ですから,財布の紐は堅く締めておこうという傾向があるのでしょうか。
 江戸川乱歩の「灰神楽」(全集2)は,すてきなタイトルです。だが,こういう言葉はもう死語に近いのでしょうか。火鉢など使いませんからね。火鉢といえば,過度期の様子を少し書いておきましょう。火鉢,炬燵には底に木炭を入れて,その上に熾(おき,薪などが燃え終わって炎が出なくなり,炭火となったもの,旺文社国語辞典)を置くのです。調理した後の熾(おき)を十能(スコップの小型のもの)に火箸で移して,運ぶのです。しかし,プロパンが普及してくると,竈(かまど)や七輪を使う頻度が減りますから,当然のことながら熾は出なくなります。そこで,木炭に火をつけて熾にする器具が出てきたのです。手持ち鍋の底が網になっているようなものだと思っていただければよいでしょう。実際は網ではなく金属板が斜めに渡してありましたが。それに木炭を入れ,ガスコンロに載せて,下からプロパンの火で,木炭を熾のようにするわけですね。そしてそれを,炬燵や,火鉢に入れるというわけです。やがて,石油ストーブや,電気炬燵の普及により,そのような光景は消えてしまいましたが・・・。
 さて,話を元にもどして「灰神楽」は灰汁の強くない,短編ですが,おかしさや,さわやかな気持ちの残る佳作です。完全犯罪をねらうためのトリックというのが主題なのですが,時代背景をかんがえなければ理解はできません。現在では,このような状況での事件であれば,どんな策を弄しても,すぐに検挙されてしまうでしょう。
 
2008年12月10日。水曜日 晴れ。 旧暦11.13. きのえ さる 七赤 大安
 また暖かくなりました。月がだんだん大きくなってきます。雲が少なく,くっきりと見えます。
 江戸川乱歩の「火星の運河」(全集2)は,これもすてきなタイトルですが,中身と関係ありません。一場面の比喩です。出だしと最後は感心しませんが,途中のファンタジーは素晴らしい。
 
 
2008年12月11日。木曜日 晴れ。 旧暦11.14. きのと とり 六白 赤口
 本日はさらに暖かくなりました。ガソリンがどんどん下がっていきます。不景気風とは裏腹に。
 江戸川乱歩の「モノグラム」(全集2)は,探偵小説ではありませんが,よくできた話で,一応トリックらしきものと最後のどんでん返しがよく決まっておりますから,犯罪と絡めておれば,推理小説になるのですが・・・。見知らぬ男が,どこかであったことがあると,声をかけてきます。記憶にありません。何かの間違いに違いない。そうこうするうちに,こちらも,その男にどこかであったような気持ちになる,という謎のような話が展開していきます。さて,これにいかに合理的な解釈を与えるか。その先は種明かしになるので,書きません。
 
2008年12月12日。金曜日 晴れ。 旧暦11.15. ひのえ いぬ 五黄 先勝
 秋のような暖かさで,日中窓を開けておりました。今日は,今年最後の満月です。綺麗ですね。
 江戸川乱歩の「お勢登場」(全集2)は,子供とかんれんぼをしていて,押入の中の長持ちの中に入ったら蓋がしまって開けられなくなるという話です。大人が隠れんぼしたときの,快感を乱歩はさらりと書いてますが,これも乱歩の世界ですね。もっと書きたいところを,我慢したのでしょう。さて,ダイイング・メッセージまでありながら,犯人逮捕までいたらないのですから,やや中途半端ですね。
 
 
2008年12月13日。土曜日 晴れ。 旧暦11.16. ひのと 四緑 友引
 ここ二,三日の天気だけから判断すると,暖冬ですね。いつまで続くのやら。暖冬だとスキー場は困りますね。不景気風はあまり吹いてほしくはありませんから,夏は暑く,冬は寒いのを我慢して,通常の季節の推移を期待しましょう。
 福田恆存訳「アントニーとクレオパトラ」(新潮世界文学1)は,高校のとき読んで感動したのですが,登場人物があまりにも凡庸で,がっかりです。でも,まあ歴史上の名場面ですから,こういう形で人々の記憶に刻まれるのもいいことだと思いました。
 
 
2008年12月14日。日曜日 晴れ時々雨。 旧暦11.17. つちのえ ね 三碧 先負
 昨夜少し降りました。今日は少し寒くなったせいか一時,雹が降ってました。今日は,播州赤穂の義士祭ですね。何回か行きましたが,いいですね。今年は日曜日ですから,さぞ盛況だったと思われるます。また機会があれば行ってみたいですね。ついてで赤穂温泉に泊まるとか・・・。一度,会社の慰安旅行で泊まったことがあります。二度かな? 波の音が聞こえていいところでした。
 江戸川乱歩の「人でなしの恋」(全集2)は,これまた乱歩ワールドです。結婚半年にして,夫の愛情のよそよそしさに気づいた妻がその原因を探るという話です。同性愛を連想させますが,そんなものではない・・・・。ネタバレになりますので,その先はやめておきましょう。「押し絵と旅する男」という私の好きな作品がありますが,あのようなものを想像しておりましたが・・・。 さて。これで,江戸川乱歩全集第二巻(講談社,昭和54年)は終わりです。月報には,この作品にも出てきた,土蔵を書斎にしている乱歩の写真があります。また,巻末に土屋隆夫氏のエッセー。
 
2008年12月15日。月曜日 晴れ。 旧暦11.18. つちのと うし 二黒 仏滅
 少し寒くなりました。でも,寒波というほどのことはありません。少し先週が暖かすぎたのでしょう。
 寺田寅彦「やもり物語」(全集代一巻)。しみじみとした,町のうつろいの話である。わたしにも,「やもり物語」がある。岡山で,下宿していたとき,磨りガラスの向こうに夜毎,やもりがたずねてきた。そばにあったヘアドライヤーでこちら側からゆっくりと暖めていく。だんだんガラスの温度があがって,やもりは脚を交互にあげたりして,変化に気づく。しかし,何もしない・・・。次の瞬間,ジャンプして周辺へ逃げてしまった。翌日は,さらに広い範囲で,周辺からじわじわとドライヤーを当てた。そして円を描くように暖めつつ,徐々に円を狭めていく。どうだ! 逃げられまい。と思った瞬間,またもジャンプしてやもりは裏の畑に逃げてしまった。
 さて,私のもっている岩波書店の寺田寅彦全集は全17巻の新書版で,1960年に第一刷が出たものの,1977年の第9刷である。60年のときが,三回目の寅彦全集(文学編)だということで,このときに現代表記になったようだ。だから,今でも読みやすい。活字さえ大きければ旧漢字でも構わないが,この程度の本であれば現代表記でないと読みにくいだろう。新書版で軽いので,重宝している。
 
2008年12月16日。火曜日 晴れ夜一時雨。 旧暦11.19. かのえ とら 一白 大安 さんりんぼう
 少し寒いなと思いながら,朝の月を見ながらの出勤です。暗くなって一時強い雨が降りました。冬の雨は寂しいですね。
 江戸川乱歩「鏡地獄」(全集3)。これも,またまた乱歩ワールドです。少年は一時期,レンズや鏡に凝るものです。しかし,たいていが何日も続かないでしょう。かつて遊園地のお化け屋敷に,暗いところで両側に鏡を置いてあってずっとずっと遠くまで見えて,随分怖い思いをしたことがありますが,これを自分の部屋に作って,天井も床も前も後も,すなわち六面をすべて鏡にしたら,いかなる自分が見えることか,興味は尽きません。さらにこれを,角にも鏡にして14面体にし,さらに・・・としていけば,おもしろいと思うのですが,この小説の中では,いきなり球状の鏡を作り,その中に入って発狂してしまったというのですから,怖いですね。「2001年宇宙への旅」の映像を超えているのではないでしょうか。
 
2008年12月17日。水曜日 晴れ。 旧暦11.20. かのと う 九紫 赤口
 ここ数日,朝と昼に1円ずつレギュラーガソリンを単価を下げる,ガソリンスタンドの電光掲示板が今日は,朝から99円のままで,昨日と同じ値で推移しなかった。 5時過ぎに,西の空を見ると,薄くところどころ紅に染まった空に,灰色がかった雲が乱れて浮いていた。いかにも冬空といった感じで,どんどんと暮れていく。同じようにどんどんと今年も終わっていく。
 寺田寅彦の「障子のらく書き」(全集1)は,夫の亡くなった妹とその娘を引き取って,郷里に向けての列車を見送った日の感慨を述べたものである。夜家に帰って,障子に姪の書いた落書きを見て,「名状のできぬ暗愁が胸にこみあげて来て,外套のかくしに入れたままの拳を握りしめて強く下くちびるをかんだ。」
 
 
2008年12月18日。木曜日 晴れ。 旧暦11.21. みずのえ たつ 八白 先勝
 ガソリンスタンドは,さらに1円下げて,98円になりました。まだまだ暖かい。 
 江戸川乱歩「木馬は廻る」(全集2)は傑作である。推理小説ではないが,実に見事な短編小説である。木馬館の貧しいラッパ吹き,そしてまた貧しい切符切りの娘。中年のラッパ吹きは娘に恋心を抱く。娘はまずしいせいか,給料をもらっても流行のショールも買えない。男は買ってやりたいが,その余裕はない。ある日,スリが刑事に追われて,盗んだ給料袋を,木馬に乗って,この娘の後ポケットに隠す。娘は気がつかない。ラッパ吹きは恋文だと思って,娘に気がつかれないように抜き取る。これだけあればショールも買える。貧しさ・女,このお金を掠めてもおかしくないようなストリーがここまで展開してきた。この男の転落の人生が今始まろうとしている。このお金を使ったら,もとが貧しいのだから,返すことはできないだろう。もし家にもって帰って,妻が事情を知らずに使っても,やはり取り返しはつかないだろう。まるで近松の世界だ。お金に弱い,女に弱い。これが,世の中の男の大部分だ。・・・ラッパ吹きは,娘にショールを買ってやる,ともののはずみで言ってしまった。もう引き返せない。そして高揚したラッパ吹きは,みんなにおごるからと言って,木馬に乗る。さあ,それでも,この男は引き返せるのか。貧しいながら,日々ラッパを吹いておれば,家族も養っていける。もし,このお金をねこばばしたことがわかれば,犯罪になるし,この木馬館を解雇されるのは,目に見えている。悲惨な物語が始まるのか,寸出のところで男は反省して,引き返すのか,と読者がその続きに期待したところで,この小説は終わる。実に見事な終わりかたである。
 
 
2008年12月19日。金曜日 晴れ。 旧暦11.22. みずのと み 七赤 友引
 日中暖かかったが,日ぐれとともに気温は下がり,夜はしんしんとしている。夕方,五時過ぎに西の空を見ると,燃えるような赤色がビルの向こう側の日の沈んだあたりを染めている。目を南のほうへ転じると,やや高いところで,金星が大きく光っている。土星は少し,西のほうへ,以前よりもずっと離れて,そして小さくなっている。
 寺田寅彦「花物語」(全集1)は,花が,しおりのように添えられた,花とはあまり関係ないエッセーである。蝙蝠がいる,カブトムシがいる,清水がある,桶屋がある・・・多くが今は見ることができない光景である。ただ,私の小さい頃には,まだそのような生活が少しではあるが息づいていた。それにしても世の中は変わったものだ。今も急激に変わりつつある。この先の変化も予想はできない。人間の能力もその変化に応じて進化していけばいいのだが,どうもそうはいかないようだ。人間の進化は遅い。
 
 
2008年12月20日。土曜日 晴れ。 旧暦11.23.   きのえ うま 七赤 先負
 暖かい。床に雑巾がけをした以外は,気儘に過ごした。振替を出そうと思って歩いて郵便局へ行ったがATMが故障して,普及の見通しはありません,後できて下さい,と言われたのでまた歩いて帰った,公園は,ポプラも桜も銀杏も皆散って,黒い枝が青空を背景に天に向かって伸びて,冬の日を浴びていた。見渡せば,花も紅葉もなかりけり,である。 
 寺田寅彦「まじょりか皿」(全集1)。まじょりかというのはどこかで聞いたことが有るが,確かでないのでネットで検索をかけてみたが,珍しく出てこない。しかたがないので,重たい「大辞泉」を開くと見事にあった。「15世紀から16世紀にかけてイタリアで発達した陶器」とある。「もとになる陶器がスペインからマジョルカ島を経て輸入されたから」とある。しかし,この随筆の主題は,その陶器のことではない。陶器を買った心である。フリーターをしていて,大晦に原稿料の30円が入った。前から欲しかった5円のマジョリカの絵皿を買った。が,「ことしは例年のことを思えば楽な暮れであるが,去年や一昨年の苦しかった暮れには,かえって覚えなかった一種の不安とさびしさを覚え」たという話である。芥川の「鼻」とは少し違うが,一種の「満足の不満足」という感情をうまく書いた好随筆である。慌ただしく年を越すほうが,却って落ち着くのかも知れない。
 
 
 
2008年12月21日。日曜日。 雨時々曇り。 旧暦11.24. きのと ひつじ 八白 仏滅 冬至
 例年になく暖かい冬至です。雨になりました。断続的に降っています。時々激しく。今年も10日ほどです。時が経つのが速いといって嘆くこともなく,自分の自由になる時間を最大限に活用できれば,それでよしとしましょう。
 福田恆存訳「リア王」(新潮世界文学1)。リア王と三人の娘への遺産配分というよく知られた話は,唐突にも愛情の程度を,娘達に宣言させるところから始まる。「巧言令色鮮なし仁」というのは論語の中でも群を抜いて理解しやすい語句だから,この開幕のリア王の要求は,はなはだ陳腐に見える。それは「ロミオとジュリエット」の突然の一目惚れにも似て,観客や読者に違和感を抱かせるところであろう。しかし,この陳腐な芝居はあっという間に,もとの主題からそれて,グロスターの庶子の悪巧みの世界へと突入していく。エドマンドという,決して主役にはなれそうにない平凡な男が計画を実施に移して行ったかと思うとこの話があたかもメインであるかのごとくに複雑に展開していく。しかし,それでいてやはり主役はリア王であったと,最後には納得させるところが,このドラマの凄いところである。それぞれの会話がまた素晴らしく,特に道化の台詞のひとつひとつが,光っている。複雑に絡みあう複数の場面の目まぐるしい展開の妙味もまたこの作品の魅力で,断片を読むよりも通して読む方がはるかに面白い。
 
 
2008年12月22日。月曜日。 晴れ。 旧暦11.25. ひのえ さる 九紫 大安
 久しぶりの寒波。黒みを帯びた冬の雲が湧き,寒風に流れる。
 花澤哲文氏の「高坂正顕 京都学派と歴史哲学」(燈影舎)を読んだ。大学へ入って間もなく高坂氏の「ツァラトゥストラを読む人のために」というのを大学の図書館で貪るように読んだのは,もう既に遠い記憶だ。その高坂氏の思索の跡を京都学派の諸氏との交友と絡めながら,主著「歴史哲学」の分析とともに示した労作である。その高坂は戦後京都大学の哲学哲学史第一講座の教授職の候補に挙がりながら,そこに復職することはなかった。このことが京都学派の戦後ルネッサンスの夢は潰えたことの最大の理由だと思う。そして我が国の哲学の主流は,西欧哲学の紹介と解釈という従来のパターンを継承しながら現在に至っているということは,多くの人が感じていることだろう。
 
 
2008年12月23日。火曜日。 晴れ。 旧暦11.26. ひのと とり 一白 赤口  天皇誕生日
 寒い日でした。トヨタ赤字というのには驚きますね。そういうことがあるのでしょうか。今の車はなかなか壊れませんからね。どんどん製造されて地球上を覆い尽くすまで作られるのでしょうね,きっと。鉄だけでできていれば,製鉄所に放り込んで,もう一度鋼鉄にしてしまえばいいのでしょうが,いろんなものが入っていますから,解体分別がたいへんでしょうね。
 寺田寅彦「先生への通信」(全集1)。これはヨーロッパ留学中の手紙である。勿論,先生とは漱石のことで,漱石が朝日新聞に掲載した。おもしろいのは,スイスの山でのできごとです。「お前は日本人ではないかと聞きますから,そうだと答えたら。私は英人でウェストンというものだが,日本には八年間もいてあらゆる高山へ登り,富士へは六回登ったことがあると話しました」(p.122)という記述です。上高地の梓川沿いを散歩していたら記念碑があって,その前で写真を撮ってもらったことがあります。そのウォルター・ウェストンのことですね。
 
 
2008年12月24日。水曜日。 晴れ。 旧暦11.27. つちのえ いぬ 二黒 先勝
 郊外に住んでいますし,テレビも見ませんので,ジングルベルの音楽は,今年は一度も聞いておりませんが,洋菓子屋さんの前に,車が溢れておりましたから,多くの家庭で,不景気にもかかわらず,あるいは不景気故に,何千円もするケーキを食べておられるのでしょうね。雪は降っていませんが,よいお天気で,外を出歩くのには,適した気候だったと思います。何十年か前に,ロンドンへ行ったら,翌日は店が閉まっていて,ちょっと残念だった思い出があります。
 寺田寅彦「方則について」(全集1)は,読み応えがあります。物理や化学の法則のことです。初出が「大正四年十月,理学界」となっておりますから,当時は「方則」と書いていたのでしょう。
 その法則の限界と効用について,見事に,なおかつ丁寧に書いたものです。結論は「自分は科学というものの方法や価値や限界などを多少でも暗示することがかえって百千の事実方則を暗記させるよりも有益だと信じたい」(p.153)ということになるのですが,前半の法則にまで致る実験への影響を与える因子とそれをどのように考えて法則が得られるのかを示したところが凄い。やはり寺田寅彦は卓越した物理学者であったのだ,と改めて思った。
 
 
2008年12月25日。木曜日。 晴れ一時小雨。 旧暦11.28. つちのと い 三碧 友引
 作家の早乙女貢さんがお亡くなりになられました。ご冥福をお祈り致します。30年ほど前になりますが,岡山で,講演をお聞きしたことがありました。田辺茂一さんもご一緒でした。印象に残っているのは,三島さんの死について,書けなくなったから自殺されたのだと明言されました。作家だから,書くことがあれば死なないというわけです。ここで書けないという意味が重要です。その作家にとっての作品を書けないという意味です。三島さんの場合は,時代と自分の芸術観との接点を書くというのが書くということだったわけですから,そこに意義を見いだせなくなったという意味で書けなくなったと言うことは言えるでしょう。
 寺田寅彦「物質とエネルギー」(全集1)は,物理の内容をわかりやすく解説したもので,いろいろと教えられることがたくさんありました。寺田寅彦の科学的な随筆は,身の回りの現象などに言及したものが好んで引用されますが,科学の概念そのものについて書かれたものも,素晴らしいのです。中学や高校の教科書に出てくるような概念についても,その本質をついた解説には感心します。この中にも記憶に留めておきたいことがたくさんありますが,一つだけ引用しましょう。「物理の理の字はまさにかくのごとき総括を意味するとも言える。」(p.164)いかがでしょうか。「昔の物理学では五感の立場から全く別物として取り扱ったものがだんだんいっしょになって来る」(p.163)という流れを言っているのです。光と電気現象,磁気現象が統一され・・・それが更に・・という具合に。現在は一般相対性理論と量子力学を統一しようとして努力が続けられているのは周知のことだと思います。「五感の立場から」云々というのは,プランクの講演にもありましたので,興味のお持ちの方は,「世界の名著・現代の科学Ⅱ」のp.93以降をお読み下さい。
 
 
2008年12月26日。金曜日。 晴れ一時小雪。 旧暦11.29. かのえ ね 四緑 先負
 時折小雪の舞う寒い日となりました。ガソリンは95円くらいのところで,ここ数日安定しているようです。
 寺田寅彦「科学上における権威の価値と弊害」(全集1)もなかなか素晴らしい科学論である。科学の内容というよりも学習の仕方,自然への接し方,自然科学に対する態度,というものへの洞察である。著者の狙いは,科学の進歩は権威への反逆から成し遂げられている。偉い人の言うことのすべてが正しいわけではない,というところにあるのだが,易しい例として前半に語られる例ももっともなことである。例えば,教科書で学習することもまた,権威のもつ価値と弊害の問題を含む。権威ある教科書故に,自然をそのようにしてしか見られないとしたら,それは正しい自然への向き合い方ではない。科学は教科書の中にあるのではなく,自然の中にあるということを忘れてはならない。
 
 
 
2008年12月27日。土曜日。 晴れ。 旧暦12.1. かのと うし 五黄 赤口
 実は,たくさんある趣味の一つ(下手の横好き)で,遠きにありて思う故郷(某所)で錦鯉の稚魚を飼っているのだが,何とカワセミが襲来していることがわかった。あの飛ぶ翡翠(動く翡翠?)とも呼ばれる青い美しい鳥だ。宮沢賢治の「やまなし」にも出てきたかな?(もう忘れました。老化がどんどん進みます。下り廊下) しあわせの青い鳥とは思えない。悪名高き鷺(何しろオンが詐欺と通じますからね)に備えて,ネットは張ってあるのだが,何しろそのネットの目よりも小さいのだから,どうしょうもない。 
 寺田寅彦「科学者と芸術家」(全集1)。このタイトルを見たとき,寅彦の随筆の最もポピュラーなものがこのタイプのものではないかと思う人が結構多いのではなかろうか。世間一般に,別のタイプの能力や,人間が従事していると思われる分野を上げて,実はよく似ているところもあるのだ,というように展開する。例えば,科学者には数学が得意な人が多いが,芸術家には苦手な人が多い,とかいう調子で。芸術家にも数学が得意な人はかなりいるだろうが,長い芸術家になるための訓練の間に,数学を勉強する時間などあまり多くなかった人が大部分だろう。こういう調子で,違いを述べる。そして次に,ところが・・・と,似たものを挙げていく。
 どうですか,自分ならいくつぐらい挙げられるか,試みに書いてみてから読んでみるといいでしょう。多分多くのの人が寅彦には負けるでしょう。例えの多さ。それにそのことを説得する論理の細やかさにおいて。ニュートンとゲーテというように歴史上の人物まで持ち出すのであるから,やはり寅彦はすごい。と,書いたが当然といえば当然,あたりまえのことである。寅彦自身が,偉大な物理学者にして偉大な芸術家(例えば随筆という文芸の)であることは,多くの人が認めることであろう。ならば,このタイプの随筆を書くのに寺田寅彦ほど適した人はいまい。そして,寅彦の書いた文章に,多かれ少なかれ,このような発想のものが含まれるのも,また当然のことでもある。
 では,こういう科学随筆の走りのようなものを前にして,寅彦の専売特許かというに,さにあらず。思ったほど難しくはない。何でもいいから手当たり次第に比較してみよう。
 例えば,物理学者と競泳選手。共通点その1。どちらも好きなことをしている。好きでないとやれませんからね。その2.どちらも日々研鑽・努力している。その3。最後の栄冠は,片やオリンピックの金メダル。片やノーベルメダル。ノーベルメダルも金ですよ。何故金メダルかというと,ゴール! et.・・・・いかがでございましたでしょうか。でも,やはり品位と発想の豊かさでは,なかなか,寅彦を超えることはできませんでしょうね。
 
 
2008年12月28日。日曜日。 晴れ。 旧暦12.2. みずのえ とら 六白 先勝 三りんぼう
 良いお天気であったが,いつものように時間はたち,いつものように今年も終わりつつある。時間の上での話である。しかし,世の中は俄に不景気で操業短縮の会社も多いらしく,長い正月休みをとる人たちが多いと聞く。正月休みだけでなく,日本への滞在に見切りをつけて,帰国する人たちも多い,と聞く。今回の不況は,どこか変である。これまでの不況には,どこかに納得するものがあって,世間並みに財布のヒモをを引き締めて静かにくらしていこうと,不況の風を正面から迎えて,歓迎していたわけではないが,とにかくそういう雰囲気の中に浸ることができた。しかし,今回の不況は,よくわからない。海外ではその兆候がはるか以前からあって,慧眼なエコノミストにはわかっていたことなのだろうが,世情に疎い小生にはよくわからない。世界中で車が売れないということはどういうことなのだろうか。売れないことは,わかる。だか,それでは,なぜ今まで売れていたのか,ということがわからないのだ。自動車は流れ作業で生産される。一日に世界中で何台生産されていたのか知らないが,それが今まで売れ続けたということは,買い換え需要以上の需要があったとしか考えられない。世界人口は確実に増えているが,その分だけ自動車が売れたというものでもあるまい。地球人口における,自動車購入層,すなわち高所得者層が確実に増えていたのに違いない。それが止まると言うことは,大変なことで,その結果として,影響がまたそちらへ戻ってくる。すなわち低所得者層の増加ということになるのなら,社会の構造そのものが変わらざるを得ないだろう。今回の世界同時不況は,20世紀型の社会が崩壊して,21世紀の社会へ否応なく転換せざるを得なくなったということかも知れない。
 寺田寅彦「自然現象の予報」(全集1)。当たった,はずれたの世界である。今も昔もかわらない。庶民は期待する。期待が大きい故に,はずれたときの憤りが大きい。予報官は科学的な訓練を受けて来た人だ。科学的な根拠に基づいて予報を出す。だから,ここでの話は,素人対科学者ということになる。だから,この問題は昨日の「芸術家と科学者」のバリエーションである。出るべくして出た一文である。主眼は,科学的な考え方から説きおこして,予報の限界を述べ,素人と科学者の間の溝について一考を促す。現在でも,自然現象の予報と言えば,天気予報と地震予知のことを考える。天気予知とも地震予報とも言わない。それほど,天気予報と地震予知は「自然現象の予報」に違いないが,問題は多いに隔たっている。理論の発達も勿論原因の一つであるが,観測の問題も入ってくる。
 予知や予報の恩恵に預かりたい人は,素人なりに,その意味するところを確認し,いたずらに期待することや,逆にせっかくの予知に対して無関心になっていることを戒めようではありませんか。
 日本のe-text状況は,外国のものに比べたら極めておそまつなもので,これが世界に冠たる工業国か? と疑問を持っている方は多いのでは無かろうか。我が国のe-textの例でまとまりのあるものをを挙げるなら。国立国会図書館の近代ディジタルアーカイブと青空文庫くらいしかないではないか。勿論,各大学の図書館がやっている貴著書の画像とか,大蔵経データーベースとか,大学の研究室がやっている古典などの公開とか,学術雑誌のオンライン化とか・・・色々あるのだろうが,寂しいですね。もし私が外国人で日本語が少しわかったとしたら,これがSONYやTOYOTAの国の現状かと,驚き呆れてしまいます。そして,(これはあくまでも喩えとして)SONYやTOYOTAのブランドが消えたとしても,会社の経営が悪いのではなく,国民の文化レベルが低いのだから仕方がないと思ってしまいます。
 近代ディジタルアーカイブの使い勝手の悪さは,如何なものでしょうか。中身がないから,非難の声がでないのでしょうか。そんなことはありません。けっこうまともなものもありますから,一括ダウンロードできるようにしてもらいたいものですね。それはさておき,青空文庫がやっているくらいのことは,国会図書館がやるべきですね。そして少なくともテキストと画像の両方で提供すべきです。さらに著作権が切れていなくても,許可を得て,公開すべき価値のある絶版本も相当あると思いますが,そういうのを積極的に発掘すべきでしょうね。
 不満はありますが,存在しないよりはいいというのは事実です。ですから,少しでも利用していきましょう。
 岡本綺堂「読書雑感」(青空文庫)。蔵書家に本を読ませてもらいに行くという苦労。
 太宰治「ア、秋」(青空文庫)。タイトルが粋である。「あっ,秋」と読ませられそうだが,五十音順に並べたノートのアの項ということである。
 太宰治「I can speak」(青空文庫)。小説のような随筆,随筆のような小説。
 太宰治「愛と美について」(青空文庫)。タイトルから考えて,随筆だと思っていたら,にわかに小説のようになって,やはり最後は小説で終わった。
 
2008年12月29日。月曜日。 晴れ。 旧暦12.3. みずのと う 七赤 友引
 残り枚数一枚のカレンダーを見ながら,今年もあと三日かと思うと,さすがに寂しいものだ。まもなく2009年,平成21年ということになる。激動の昭和が終わって平成になって20年が経ったわけだ。平成元年は一月八日に始まったのだから,ほぼ一年間あった。だから,今年の年末をもって20年経ったと言ってもおかしくはない。景気の変動はいくらかあったが,平成の字の通り平和であったと言ってもいいと思う。ただ社会がよくなったか悪くなったかということは一概に言えないので,これは後世の評価を待つべきであろう。ただ,教育について言えば,「悪化」だったと思う。
  寺田寅彦「物理学と感覚」(全集1)。物理学が感覚の感知しうるところのものから生じたのは以前にも書いたとおりであるが,その感覚と物理学について詳しく論じたものである。その一つに,感覚から生じながらも,その感覚は極めてあやふやなもので,その標準が人間から離れることによって物理学として発展してきた,というのがある。しかし,感覚的なるものを完全に捨象して幾何学にしてしまうわけにもいかないのである。
 青空文庫を少し読んでみました。
 太宰治「青森」(青空文庫)。「豊田様のお家の、あの画が、もっと、うんと、高くなってくれたらいいと思って居ります。」。この願いどおり,棟方志功のあの画はうんと高くなって,太宰も草葉の陰で喜んでいることでしょう。でも,そう思うのは小生だけで,ひょっとするとこの随筆は作者にとっては小説で,ほんとうは棟方志功の画ではないのかもしれませんね。
 太宰治「朝」(青空文庫)。川端さんが嫌ったのは,こういう作品に流れている感情だろうか,とふと思いました。
 太宰治「あさましきもの」(青空文庫)。「破廉恥(はれんち)の市井(しせい)売文の徒(ともがら)、あさましとも、はずかしとも、ひとりでは大家のような気で居れど、誰も大家と見ぬぞ悲しき。一笑」。新潮社の一人一巻の「日本文学全集」の太宰の巻の解説に,奥野健男さんが太宰についての講演をしたときのことを書いておられたが,さて,太宰は今でも,中学生や高校生に読まれているのだろうか。
 太宰治「兄たち」。「父に早く死なれた兄弟は、なんぼうお金はあっても、可哀想なものだと思います。」今度こそ随筆だと思って読んでいたのですが,最後は小説だと思わされてしまうのですね。「私小説」と,今はこんな言葉をわざわざ使う人はいませんが,言われていたのですが,健康的でないですね。作品作りはうまいのですが。
 
 
2008年12月30日。火曜日。 晴れ。 旧暦12.4. きのえ たつ 八白 先負
 曇りがちで寒い日であった。寒波というよりも,陽が照らなかったので,と言ったほうがよいだろう。午後,公園を散歩するも,閑散として少数の小学生や一組の親子がキャッチボールをしているばかり。時折,北風が吹くので早々に引き上げようと思っていたら,雲が移動し,太陽が明るく照りだしたので楽しく散歩できました。
 注連飾りを買うのを忘れているので明日行こうと言ったら,一夜飾りはよくないなどと馬鹿なことを言うものがいたので,車で五分ほどのところにある百円ショップへ向かって夜の街へ繰り出した。土星の下の小さな三日月が美しく輝いているではないか。日中は正月準備の客でごった返していたと思われるショッピング街も,寒いせいか思いの外,人が少なかった。来年も使えるような一番安いものを買った。
 寺田寅彦「物理学実験の教授について」(全集1)。タイトルの通りのことであるが,これはこれで立派な科学論になっている。実験と簡単に言うが,ただやればいいものではない。いろいろと問題があるのだ。それを知らずにやっているだけのことだ。それを寅彦はここでは教えるべきこととして記してあるが,現在のように情報の溢れた社会では,学生が自ら学んでこそ身につくことがらであろうと思われる。それぞれの分野において,書物は溢れているのだから,自ら問題意識をもって実験者が探究すべきであろう。ただ,この一文などは,その概論として実によくまとめてあるので,自然科学を専攻する学生にはぜひ一度読んでもらいたいものだと思う。
 青空文庫を少し。
 岡本綺堂「中国怪奇小説集 凡例 開会の辞 捜神記(六朝)」(青空文庫)
 その想像力の豊富さに驚く。さすがに中国は広いだけあって,怪異咄も凄い。ハーンの「むじな」のラストを思わせるのもある。また,「羽衣」には,「どの女もみな鳥のような羽衣(はごろも)を着ているのである」とある。謡曲「羽衣」では何故かレースのような天人の服を連想するのだが,ここに書いているように羽でできた衣(服)ということで,これで飛べると解するとよく分かる。また,「八犬伝」の典拠となった話も出てくる。
 なお,捜神記の原文はウィキソースにありますので,興味の有る方はご覧下さい。
 太宰治「或る忠告」(青空文庫)。自己反省というようりも,自己解剖ですね。このようにして,自分の皮膚の皮を1枚ずつ,1作ごとに剥がしていくのですね。書くことがなくなったら。自分の足を喰う鮹のように。行き着く先が見えているようです,かわいそうですね。でもそれを極端にすすめるところが他の人たちとの差でしょうか。
 太宰治「老ハイデルベルヒ」(青空文庫)。五十三次の三島のことです。老をアルトと読ませるのです。このことについては,作者は何も書いてないので,その自虐めいた性根を云々してもはじまらないでしょうから,詮索はやめましょう。それは別にしても内容は,いいです。好きです。大林監督の「廃市」という映画がありました。福永さんの小説の映画化です。福永さんは,私が高校・大学生の頃,人気のある作家の一人でしたが,他の本を読むのに忙しく,一冊も読んでありません。ボードレールの翻訳がありましたが,それ以外は。その映画の「廃市」のような,因習を残した,時代に取り残されたような町が,もの悲しくも美しく描かれております。
 太宰治「一日の労苦」(青空文庫)。青空文庫は作品が五十音順に並んでいる。やっと「イ」に入った。またしても自嘲的な自己解剖である。「私は、ディレッタントである。物好きである。生活が作品である。しどろもどろである。私の書くものが、それがどんな形式であろうが、それはきっと私の全存在に素直なものであった筈である。この安心は、たいしたものだ。すっかり居直ってしまった形である。自分ながらあきれている。どうにも、手のつけようがない」。自己解剖の名手,三島さんを思い出した。実によく似ている。ただ,方向が反対なのだ。だから,三島さんは,ことあるごとに太宰は嫌いだと言い続けた。
 
 
2008年12月31日。水曜日。 晴れ。 旧暦12.5. きのと み 九紫 仏滅
 とうとう,今年最後の日がやってきました。これくらいの寒さなら例年並みといってよいでしょうか。午後になって公園を散歩すると,凧揚げをしている子供と老人がおりましたが,よく揚がっておりました。何年前かの正月に,一向に風が無くて,全然揚がらないときがありましたが,やはり凧揚げができるくらい風には吹いてもらいたいものですね。現代は,ほとんどがインディアン凧と呼ばれていたポリエチレン製のもので垂直に揚がりますね。小さい頃は凧のことを「ヨーズ」と言っていました。揚子江のほうから来たのだから,「ヨーズ」というのだそうです。カボチャのことを南京というのと同じですね。
 さて,私は年内は年賀状を書かない主義ですから,まだ書いておりません。テレビも見ませんので,あと三時間ほどですが,いつものように静かに一日の変わり目を迎えるだけです。
 福田恆存訳「オセロー」(新潮世界文学1)。以前二回ほど読んでおり,退屈な悲劇だという印象があったので,今回は後のほうにまわしていたのです。今回読んで,どうしてどうして,おもしろいではありませんか。特にオセローの台詞がよい。退屈しませんね。福田さんの解説にもあるように嫉妬が主題でもないし,まして家庭劇でもない。イアゴーという悪人の言葉にオセローが理性を失っていくという大変わかりやすい話です。ですから,四大悲劇の中では最も現代的と言えるかもしれませんねでもただ一つの欠点はイアゴーが劇の上ではなかなか狡知に長けているとはいうものの,証拠もないのに妻を疑いだすオセローの愚かさが理解できませんね。こういう愚かさは,多分現代人には理解できないのではないでしょうか。こう考えると,これは悲劇でもなんでもない。オセローという愚かな人間の迷妄に過ぎないと思いたくなります。こんなことを言えば,「ロミオとジュリエット」も「リア王」も「マクベス」も「ハムレット」も全て成り立たなくなります。ここは作者がしつらえた登場人物の弱点は全て認めて,その上でドラマの展開を,歯の浮くような台詞とともに楽しめばいいのでしょうね。そう考えると,この作品も傑作であることにはまちがいはない。棺桶に入る前にもう一度読むかもしれませんね。さて,それはともあれ,新潮社の「新潮世界文学」の1巻と2巻が終わりました。この文学全集は,高校のとき出だしたもので,スタインベックとかカミュなどを借りて読んだことを覚えております。本題に戻って,シェイクスピアは,持っている本は皆読んでしまったので,残っている作品は近くの市立図書館から借りてきて読むことにしましょう。今年の読書計画は,史記だったわけでして,9月に史記を終わり,その後がシェイクスピアの全作品を夜むことにしましたので,この残りは来年に持ち越すわけです。その次は,いろいろ候補があるのですが,決まっておりませんので,とりあえず,来年もシェイクスピアを続けるということを記すにとどめておきましょう。
 次ぎに,ここ二三日恒例の青空文庫です。
 太宰治「一問一答」(青空文庫)。「生活に於いては、いつも、愛という事を考えていますが、これは私に限らず、誰でも考えている事でしょう。ところが、これは、むずかしいものです。愛などと言うと、甘ったるいもののようにお考えかも知れませんが、むずかしいものですよ」。どんなエッセーでもフィクションだろうと思って読んでしまいがちですが,この部分だけは嘘ではないでしょうね。
 太宰治「一燈」(青空文庫)。変な随筆が小説のように展開していく。貧者一燈から「皇太子殿下、昭和八年十二月二十三日御誕生。その、国を挙げてのよろこびの日に、私ひとりは、先刻から兄に叱られ、私は二重に悲しく、やりきれなくていたのである」という話へと展開していくのである。
 太宰治「一歩前進二歩退却」(青空文庫)。自分で私生活を書いておいて,「作家の私生活、底の底まで剥(は)ごうとする。失敬である。安売りしているのは作品である。作家の人間までを売ってはいない。謙譲は、読者にこそ之(これ)を要求したい」ということはあるまい。こう書くことの滑稽さを百も承知で書いているから,大人には嫌われる。
 太宰治「『井伏鱒二選集』後記」(青空文庫)。嘘は書いていないと思われるが,この人は都合の悪いことは要領よく忘れることができるらしい。それは嘘を書くことと同じではないが,本当のことを書いていないのである。
 岡本綺堂「秋の修善寺」(青空文庫)。こちらは,「十番随筆」新作社1924(大正13)年4月初版発行に出て,例の「修善寺物語」は「美芸画報」1911(明治44)年6月号に出ているのだから,こちらの随筆が後だと思うのだが,小生にはそれ以上はわからない。
 では,皆様よいお年をお迎え下さい。 以上で夕凪亭閑話 2008年12月を擱筆といたしましょう。この1年のご愛読を感謝しつつ。
 


夕凪亭閑話 2008年11月 novembre

 2008年11月1日。土曜日。晴れ。旧暦10.4. きのと み 一白 先勝
 霜月になったが,小春日和のよいお天気であった。戸外で労働をすると汗ばむようであった。柿をとりにいくと蚊に刺された。まだ,ヤブ蚊が活動しているんですから,温暖化も相当進んでいるのでしょうね。地球は,いつまでもつのでしょうか。いや,地球は人類よりもはるか先まで存在するのは確実でしょう。人類のほうが早く姿を消す。地球が破滅して同時に人類が滅びる。あるいは,地球が破滅したときには,人類は他の惑星か,どこか太陽系以外の星の惑星に行って,進化を続けているかもしれませんが,そいうのは信じません。科学の未来は予想もつかないというのは,わかるのですが,物理的に不可能だと思います。へんてこりんなワームホールのようなのがあるとか,ワープするとかいうのは,実際にはあり得ないことだと思います。当然タイムマシンも。1億光年先にある天体の姿は,確かに1億年前の姿でしょう。しかし,1億光年先のその星が(もし,今もあれば),その星の上では,やはり今なのです。情報を伝えるのに途方もない時間がかかるというだけで,それぞれのところで,時間を逆転させることはできません。「猿の惑星」も「ターミネーター」も,面白い作品で,大好きですが,これはSF作品なのです。Fはfictionのfなのです。考えるのは自由です。想像するのも自由です。でも,未来に行くこともできないし,未来から来ることもできません。過去からも。すなわち死者が戻ってくることもありません。あれば,妄想です。幻影です。夢です。
 「ターミネーター」を久しぶりに見ました。楽しかった。名作ですね。コンピュータは,この映画が製作された頃に比べれば,今は格段に進歩しました。しかし,材料のほうは少しは進歩しましたが,あんなにタフなサイボーグまがいのものは,今もってつくれません。自立走行もおぼつかないし,蹴られれば起きあがれないでしょう。機械が叛乱を起こすほどに,進化するのは,まだまだ先の話でしょう。信号だけの世界でなら,叛乱するウィルスがインターネット上に棲むようになるかもしれませんが,何しろそれから外には出てこれないでしょう。
 
2008年11月4日。火曜日。晴れ。旧暦10.7. つちのえ さる 七赤 仏滅
 11月にしては珍しいような晴天に恵まれ,日中の気温はかなり上がった。木々の紅葉がどんどん進んでいる。
 福田恆存訳「夏の夜の夢」(新潮文庫)を読んだ。これほど楽しいものはあるまい,と思えるし,またその奇妙きてれつにあきれるのもまた一面である。ただ,言えることは古い演劇の発展のさまが伺えるということだろう。ギリシア劇から,一直線に,シェイクスピア劇に至ったと思うのは,誤解である。さまざまな,今は忘れられた形の宮廷劇が,遅い歩みで進歩していたのではないか。それらの名残をとどめながら,大きな一歩を記したのがシェイクスピアではなかろうか。そして,この作品の中の劇中劇は,古いほうの名残を色濃く残したものだと思う。
 
2008年11月7日。金曜日。雨後曇り。旧暦10.10. かのと い 四緑 先勝 さんりんぼう 立冬
 もう立冬ですから,朝夕が寒くなるはずですね。外気の温度に比例するかのように活動が下がっております。もっと速く本を読めばいいのでしょうが,雑誌を見たり,気になるものを拾い読みしたりしておりますと,なかなか一冊を読み切るところまでいきません。アメリカではオバマ氏が大統領になるし,マイケル・クライトン氏がお亡くなりになるし,どんどんと時代が進んでいるという感想をもちます。21世紀になったんだな,という感じでしょうか。クライトンさんのものは,やはり最初の「アンドロメダ病原体」が素晴らしく印象に残っておりますね。映画は見ておりませんが,小説のラストは,コンピュータに管理されているセキュリティを突破するという,きわめて現代的な問題でした。もちろん,「ジュラシックパーク」の科学的な意匠が面白かったのは言うまでもありませんが。ご冥福をお祈りいたします。
 DVDで「ガープの世界」を見ました。母親も,ガープも銃弾に倒れます。何故? 理不尽ですね。この世は不条理だといわんばかりに。ガープが最後に救急ヘリで運ばれるとき言う言葉が,rememberなのですね。一緒に暮らした日々を,自分のことを,覚えていてほしい,そして思い出してほしい,ということですね。記憶の中で生き続ければ,生きていた価値があったということになりますね。紫式部のように千年も後の世の人たちに作品が読まれるという形で,人々の心の中に生きているのも,これはこれで素晴らしいのですが,そうではなくて,同じ時代を生きた人たちの心の中に生きておれば,それだけで素晴らしいことだという意味だと思います。長い間生きておりますと,多くの人たちと出会い,そのうちの何人かは既に亡くなられており,また何人かは交流すらありませんが,時に思い出してみると,心の中に甦ります。
 
 
2008年11月9日。日曜日。曇り。旧暦10.12. みずのと うし 二黒,先負
 雲って寒い日でした。一日中,炬燵の中におりました。夜は,当然ストーブを入れます。昼間に少し散歩しました。赤くなった桜の葉が散っております。
 福田恆存訳「あらし」(新潮文庫)終わる。政治劇でありながら、全然政治色は無く、妖精が出てきたり、不思議な魔法で嵐を起こしたり、人を操ったりする。しかし、その力で復讐をするでもなく・・・わかりにくい作品だ。演出が大変だろう。でも,こういう作品を書く,シェイクスピアという人はやはり魔術師ですね。
 
 
2008年11月10日。月曜日。晴れ。旧暦10.13. きのえ とら 一白,仏滅
 駆け足で冬が来ているようですね。
 開高健のDVD「河は眠らない」(60分)を見た。アラスカへキング・サーモンを釣りに行く話である。それにしても,ウィスキーをがぶがぶと飲む。これでは長生きはできない,と思った。そんなことは聡明な開高さんことだから,百も承知だったに違いない。それにもかかわらず,飲み続けたということに,私は,破滅型の芸術家の面影を見る。芸のためなら命をも惜しまない・・・。
 
2008年11月11日。火曜日。晴れ。旧暦10.14. きのと う 九紫 大安 
 かなり大きくなった月が冬空に浮かんでおりました。日が暮れて散歩するのは寒いのですが,今日は雲が多くさほど苦になるほどの寒さではなかった。最近また,本棚から溢れた本が増えた。夏に模様替えをして,本棚を二階に上げたので,仕方がないが,効率が悪い。それで,できるだけ二階に上げるようにしているのだが,二階に上がったついでに読みたいものをまた持ってくるので同じことになる。どうしょうもないのだが,一つ言えることは,本棚に入りきらない物をできるだけ減らすことが肝要だと思う。
 雑誌の廃刊のニュースをよく耳にする。読書界の異変はもう数年も続いているのだから,今更激変というのもおかしいのだが,大変動が起こっているような予感がする。良心的な出版社の多くが,経営難に陥っているのではなかろうか。書店に行っても,新刊書にもいい本が並んでいることはよくわかる。お金さえあれば買いたい本はたくさんある。復刊本にもいいものが多い。しかし,若い人たちの間で本の話題がささやかれなくなった。読書については沈黙の秋だ。
 DVDで「地球大進化 46億年・人類への旅 第一集 生命の星 大衝突からの始まり」を見た。地球は誕生以来何度も隕石が衝突し「全海洋蒸発」などが起こっていて,そのような試練を経て生命の進化が進んだという話である。NHKスペシャルで放送されたものである。わかりやすくて,かつ刺激的でよい。
 
 
2008年11月12日。水曜日。晴れ。旧暦10.15. ひのえ たつ 八白 赤口
 美しい満月です。雲もまばらにありますが,空気が澄んでいて美しい。日々寒くなっていきますが,これは仕方がない。季節の移り変わりがあってこそ春や夏の喜びも大きい。冬は冬で気持ちを内に向けて過ごせばいいだろう。
 DVDで「ゴールドフィンガー」を見た。何度見てもおもしろい。007シリーズを初めて見たのは,高校のとき定期考査が終わった日に見た「007は二度死ぬ」だった。その時の感想は,映画のおもしろさをよく知っている人が作った映画だと思ったことだ。イントロのところが毎回楽しい。「ゴールドフィンガー」でも同じである。
 
 
2008年11月13日。木曜日。晴れ。旧暦10.16. ひのと み 七赤 先勝
  DVDで『マタ・ハリ』(1931年アメリカ)。を見る。グレタ・ガルボ主演。オープニングのインド舞踊を踊るところが素晴らしい。スパイ活動も稚拙で,1時間30分ほどで描くのが無理な感じ。
 
 
2008年11月16日。日曜日。晴れ。旧暦10.19. かのえ さる 四緑 仏滅
 因島の道ばたで,みかんを買ってきました。因島北インターからおりてすぐの,消防署近くの三叉路です。安くてとてもおいしく頂いております。スーパーに売っているワックスをかけたのより,はるかにおいしいですね。形とか色とか少しおかしいのもありますが,まったく気になりませんね。スーパーもワックスのかかっているみかんでなく,産地直送のものを売ってほしいですね。
 DVDで「華麗なる賭け」を見ました。高校のとき定期考査が終わってよく見に行きました。友達が選んで,ついて行くだけですが,けっこういいのを見ています。そのときの一つです。久しぶりです。1999年に、リメイク版としてピアース・ブロスナン主演の「トーマス・クラウン・アフェアー」というのがありましたが,「華麗なる賭け」の原題はThe Thomas Crown Affairというんですね。あの当時は今ほど情報化社会ではありませんでしたから,今以上に邦訳タイトルには気を遣ったのだと思います。「華麗なる賭け」というのは,見事な翻訳ですね。いいタイトルですね。スティーブ・マックイーンもフェイ・ダナウエイも華麗でした。それに主題歌も,映像も。名作ですね。 
 
2008年11月18日。火曜日。晴れ。旧暦10.21. みずのえ いぬ 二黒 赤口
 寒くなりました。県中部のへんでも雪が降ったそうです。このあたりも降ってもおかしくはないですね。
 福田恆存訳「ヴェニスの商人」(新潮世界文学2)を読みました。傑作ですね。それぞれの場面がほどよくできており,人物の出退場も,適正です。勿論ストーリーも。ただ、ヨーロッパ人がユダヤ人を軽蔑するのはおかしい,と思います。周知のように,キリストはユダヤ人だし、キリスト教はユダヤ教から生まれたわけですね。木の実はいいが大地はいけないというようなものですね。
 
2008年11月23日。日曜日。晴れ。旧暦10.26.ひのと う 六白 大安 勤労感謝の日
 寒くなったので炬燵に入って別の環境のパソコンを使っていたので,書かずにだらだらと日を送っていたら,もう23日である。やはり,炬燵では腰が痛くなるので,本日,夕凪亭を冬モードに衣替えた。といっても,そんなに大げさなものではない。天井にあるカーテンレールにあわせて机を移動したのである。そしてカーテンで仕切ったということ。こうすると暖房効率がずっと違います。
 『007 死ぬのは奴らだ』(Live And Let Die)をDVDで見た。これは広島の宝塚劇場で見たことがあります。弟と。弟と映画を一緒に見るということは,小学校の頃はともかくとして,ないようです。久しぶりに見て,無駄のない作品だと思った。傑作である。
 
2008年11月25日。火曜日。晴れ。旧暦10.28. つちのと み 四緑 先勝
 今日は三島さんの命日である。あの日は,今日よりも暖かかった。現在の状況は,さて置いて,昭和45年の頃でも,昭和30年の始め頃よりもはるかに文学の力というものが相対的に弱体化していたのを三島さんは感じていた。そして,文学というものに命をかければかけるほど,世間から離れ,観客のいない道化を演じなければならない世の中が来ることを(いや来たことを)ひしひしと感じていたに違いない。書くのが嫌になった,書くことの意味を失った,書けなくなった,これらはすべて三島さんにとっては同義語である。自分の芸術観と時代の風潮の火花の出るような接点で小説を書くことが三島さんの流儀だったのだから,そこに接点を見いだせなくなったときには,死ぬしかなかったのかも知れない。妥協を排することが芸術を芸術たらしめる鉄則である。
 江戸川乱歩の「湖畔亭事件」(全集2)は,現代から見れば,古色蒼然たる感を禁じ得ないが,推理小説の王道に沿って,このジャンルを日本に定着させようとする人の熱意がひしひしと感じられる作品で,作品としては,完成している。最後のどんでん返しも,残された疑問も,よい。
 
2008年11月26日。水曜日。晴れ。旧暦10.29. かのえ うま 三碧 友引
 少し寒さが弱まったので,夕方,といっても暗くなっていたが散歩した。木星と金星が接近している。銀杏の黄葉は暗くて見えなかったが,そろそろ落葉だ。木枯らしとともに落ちていく。それもまた美しいだろう。
 福田恆存訳「空さわぎ」(新潮世界文学2)は,台詞劇である。奇想天外な台詞の連発には驚きを通りこしてあきれてしまうが,それがまた喜劇の喜劇たるところだろう。しかし,劇全体を通してみたとき,特別におもしろいとも思わなかった。「ロミオとジュリエット」ほどではないにしても,似たような,死んだことにするという奇策がこの劇では使用される。まちがいの元だから,やめたほうがよいが,劇故に許されるのかも。
 
2008年11月27日。木曜日。晴れ後雨。旧暦10.30. かのと ひつじ 二黒 先負
 夕方になって雨が降り出した。冬の雨は冷たい。日暮れた空を見ながら雨音を聞いていると,にわかに年末が押し寄せてきているような気持ちになる。毎年同じようにやっているつもりで,やはり慌ただしいのは事実である。
 江戸川乱歩「踊る一寸法師」(全集2)は,推理小説ではなく,犯罪小説であるが,まさに乱歩的世界を形作る,ブロックの一つであろう。そのタイトルからして魅力的である。そして,殺人の動機,衆人監視の元での殺人,そしてさらにその残虐性,これらすべてが,乱歩的である。それ故,乱歩の代表作の一つに数えてもいいだろう。
 
2008年11月28日。金曜日。晴れ。旧暦11.1. みずのえ さる 一白 大安
 黄色になったメタセコイアやフウの葉っぱが急に散りだした。いよいよ冬の到来であろう。
 福田恆存訳「お気に召すまま」(新潮世界文学2)は,は追放された公爵という設定がいい。同様に,善人の主人公たちに次々と災難が起こり,アーデンの森に逃げる。それぞれ苦労するがやがて,運が開けてくる。ここまでならば,見事な復讐劇ができあがるのだが,あくまでも本作品は喜劇をめざしたものらしく,事態の解決は主人公たちの努力によらず,またストーリーもそのように展開せず,夢幻喜劇になる。そして例によって,巧みな比喩と洒落の応酬となる。ストーリーは単純でわかりやすい。
 
2008年11月29日。土曜日。晴れ後雨。旧暦11.2. みずのと とり 九紫 赤口 
 午後になって雨が降り出した。風も吹いて,冬らしい。年をとると寒さが応える。夕方止んでいたので,公園を歩いた。銀杏はほとんどが散ってしまった。ポプラが垂直に黄色旗を立ているよう。雲が多いと思ったら,夜になってまた降り出した。
 江戸川乱歩の「毒草」(全集2)も,また乱歩の世界そのものである。毒草というよりも薬草である。「おろし薬」すなわち堕胎薬として使われる薬草のことなのである。ただ,そのその話を乱歩が料理すると,このような独自の世界ができるところがおもしろい。乱歩の前に乱歩なく,また,乱歩の後に乱歩無し,であろう。

夕凪亭閑話 2008年10月 octobre

2008年10月1日。木曜日。晴れ。旧暦9.4. きのと い 四緑 赤口
 いつの間にか,ではなく,昨日から10月になっております。いつもの秋のように,秋晴れのすがすがしい天気になりました。夕方には,南西の空に,美しい三日月を久しぶりに見ました。南の空高くあがっているのが,木星でしょうね。
 福田恆存訳「ハムレット」(新潮文庫)。何度読んでも,凄い。台詞の表現の見事さ。比喩の素晴らしさ。巧みな箴言。考えてみると,世に溢れるハムレット人物論ほど,ストーリーは複雑ではなく,実にあっさりと流れていく。何が複雑な印象を与えるのか。ハムレットの人物か。単純に解釈することもできる。複雑に解釈することもできる。
 
 
2008年10月6日。月曜日。晴れ。旧暦9.8. つちのと う 九紫 仏滅
 昨日は一日中雨でしたが,今日はよく晴れて秋空が広がっておりました。日中はやや,暑いようでした。27℃くらいあったのでしょうか。夕方,黒い雲が出ましたが,雨とは関係ないでしょう。 
 チェーホフ著,原卓也訳「可愛い女」(集英社・世界文学全集25)は,愛すべき女性の人物造形がすばらしい。「犬を連れた女」にも通じる,地味な女性です。どこといって悪くないのに,夫は突如亡くなります。二度目の夫も同様です。寂しがり屋の彼女は誰かを愛さないではいられません。(好色とかいうのではなく)。そんなところが,こまかく描かれた傑作です。
 
 
2008年10月7日。火曜日。曇り。旧暦9.9. かのえ たつ 八白 大安
 朝,散歩して山のほうへ行きましたら,カラタチの黄色い実がなっていました。畑の垣として植えられているもので,棘だらけの木です。
 田中菊雄「あなたはこの自助努力を怠っていないか!」(三笠書房)は,いろいろな人生論の本の紹介などがあって楽しい本です。
 
2008年10月10日。金曜日。晴れ。夜小雨。旧暦9.12. みずのと ひつじ 五黄 友引
 秋晴れが続いていたのに昼前から曇り,夜,少しだけ小雨。
 ノーベル物理学賞,化学賞に海外在住の日本人が含まれ,明るいムードに湧いている。結構なことである。ついでに,ノーベル文学賞にペドロ下瀬氏になればいいと思っていたが,残念ながらこちらはル・クレジオ氏に決まった。
 福田恆存訳「ジュリアス・シーザー」(新潮社・シェイクスピア全集8
 世界史上最大の英雄は誰かと問われれば,アレクサンダー大王ではなく,始皇帝でもなく,チンギス・ハーンでもなく,ナポレオンでもなく,文句無くユリウス・カエサル,すなわちジュリアス・シーザーと答える。そして長いローマの歴史の中でのクライマックスは,カエサルが暗殺されたときであろう。それを,これまた世界の文豪の十指に入るシェイクスピアが書いたのだから,面白くないはずがない。実に素晴らしい歴史劇だ。
 暗殺前,暗殺日,暗殺,暗殺後と時間の進行にあわせてドラマは進む。非常にわかりやすい。では,本編の主人公は誰かというと,なかなか難しい。シーザーではない。ほんのわずか出て,すぐ殺される。ならば,追悼演説をして政治の流れを変えたアントニーかということになろう。昔見た仲代さんの舞台公演でも,仲代さんはアントニー役を演じ,追悼演説にクライマックスがあった。とはいえ,アントニーの登壇は少ない。始めから終わりまで出てくるのブルータスである。そしてテーマもまた,シーザーを最も愛した男がなぜ殺戮に及んだのかということになるのだから,ブルータスだって十分に主役を主張する権利はある。ということで,このドラマはハムレットがハムレットの一人舞台だったのと異なり,三人も主役がいるという大変豪華なドラマになっているのだ。
 さて一つだけ異を唱えれば,シーザーよりもさらにローマを愛したというブルータスの動機はいかにも文学的解釈で,面白いのだが違和感をもつ読者も多いことだろう。やはり,ブルータスの権力欲と考えたほうが理解しやすい。
ところで,ここに描かれるアントニーは,シーザーにも劣らぬ政治的な天才である。にもかかわらず,後にクレオパトラの色香に迷って自滅する。それほどクレオパトラの美貌は強い磁場を引き起こしていたのだろうか。ならば,パスカルがクレオパトラの美貌が世界史を変えたと言うのは,決して誇張ではなかろう。
 
2008年10月11日。土曜日。晴れ。旧暦9.13. きのえ さる 四緑 先負 十三夜
 秋晴れのよいお天気。スーパーで蜜柑を買ってきた。失敗。ワックスをかけてあって皮が浮いている。できるだけワックスをかけているのは買わないようにしているのだが,よく確認しなかったので帰ってから気づいた次第。色艶と,皮の柔らかさをよく確認しなければ。総じて,JAと書いてある函のものはワックスがかかっているようだ。JAと書いてないのは,地方の問屋さんが集めて出荷したものか,ワックスがかかってないのが多いようだ。それに産地の道端で売っているのは,当然といえば当然であるがワックスはかかってなくて,おいしい。これはあまり転がしたりしてないからだろう。大きさで選別するのに穴の開いた容器の上を転がし,機械でワックスなどかけていたら,まずくなるのは当然だ。なぜ,あんな馬鹿なことをするのだろうか。エネルギーの無駄だし,消費者を馬鹿にしているとしか思えない。大きな組織であるJAから率先して止めるべきであろう。
 十三夜である。美しい月が,日暮れとともに昇ってくる。夕日も美しかったが。
 古いDVDで「ハムレット」(1948年,イギリス)を見た。ハムレット(監督も):ローレンス・オリヴィエ,オフィーリア:ジーン・シモンズ。映画としてはよくできている。ただ,ハムレットは,もっと若い人に演じてもらいたいものだ。難しいところだろうが。
 
 
2008年10月12日。日曜日。晴れ。旧暦9.14. きのと とり 三碧 仏滅
 朝も夜も,星を見ながら散歩をしました。空気が澄んでとてもきれいな星空です。夕方満月前の月と木星と,そして西のほうにあるのが土星でしょうか。見事な秋の夕暮れでした。
 DVDで「暗くなるまで待ってWait Until Dark」(1967年,アメリカ)を見ました。息もつかせぬサスペンスです。原作は読んでおりませんが,これは映画だからこそ面白いのでしょう。ヘップバーンの演技あってのものでしょうけど。小説に書くほうが難しいのではないでしょうか。
 
2008年10月13日。月曜日。晴れ。旧暦9.15. ひのえ いぬ 二黒 大安 体育の日
 今日は体育の日でお休みです。秋晴れの気持ちのよい日です。今日は満月で,多少雲が出ていますが,きれいに見えます。
 DVDで「誰がために鐘は鳴るFor Whom the Bell Tolls」(1943年,アメリカ)を見ました。ゲイリー・クーパーとイングリッド・バーグマン共演の大作です。なにしろ原作は長く,最後になっても主人公の独白は長々と続くのですが,映画では,速い展開で最後の別れのシーンを盛り上げております。タイトルはAnd therefore never send to know for whom the bell tolls; It tolls for thee. というJohn Donne の詩の一節からとられております。汝自身の為に弔鐘は鳴るということでしょうか。
 
 
2008年10月17日。金曜日。晴れ。旧暦9.19. かのえ とら 七赤 先負
 ちょっとご無沙汰している間に,一週間が過ぎてしまった。この間に,朝夕三〇分ずつ毎日歩き,次第に小さくなっていく(あまりにもわずかだが)月を朝夕眺めておりました。そして,「ドクトルジバゴ」をDVDで見たり,しておりました。気候のほうは,すっかり秋の気候で落ち着いて,最高気温25℃,最低気温15℃くらいで推移していたようであります。しかし日暮れはだんだんと早くなり,冬がいつきてもおかしくはない,という感じです。世界的な株価の暴落は,どこか対岸の火事のような感じで,まだその熱気が届きません。
 大山敏子訳「じゃじゃ馬ならし」(旺文社文庫)。こちらは昭和49年7月発行の重版ですが,紙は初期のものほど上質ではなく,新潮文庫程度といったところでしょうか。この作品は二重構造になっていて,タイトルであり主題でもある,じゃじゃ馬をならしていくというのは,長女のキャサリーナを,ペトルーチオウが求婚し,おとなしい妻に仕立て上げるという,最も喜劇的な話題が劇中劇として展開されます。それに対して,その劇を見ているのが,序幕です。ここでは,鋳掛け屋のスライが酔っぱらっているうちに領主に仕立てられ,からかわれるという,これまたおもしろい話であるが,途中,これらの見物人の声が少し出てくるだけで,あとは一切出てこないという,変な構造です。ですから,これは完成稿ではなく,種々のバリエーションのうちの一つではないかと思います。このスライの成り代わりというのは,本筋のほうの,妹ビアンカの求婚者たちが,互いに主従入れ替わるというのを暗示しているところが暗示的で,スライがやはり自分は入れ替わっているのだと,気づく話に展開していってもいいわけですから,これは序幕に対応して,スライの物語が,あったのが欠落したと考えたほうがいいようです。
 さて,本題のじゃじゃ馬ならしは,まったく見事というほかなく(こちらの話も,もう少し伸ばしてもよかった,という印象を受けます),おもしろいだけでなく,人間心理の洞察には恐れ入る次第である。
 
 
2008年10月18日。土曜日。晴れ。旧暦9.20. かのと う 六白 仏滅
 朝,歩くと,日に日に公園の桜が色づいていくのがわかります。桜は,葉が緑のうちから,黄葉したものからどんどん落ちていきます。この頃になると,残っている葉が赤くなってきます。こうなると,あっというまに,落ちてしまうでしょう。日中は戸外では暑いほどの天気でしたが,やはり,秋ですね。
 DVDで「クォ・ヴァディス」を見た。久しぶりであるが,やはりこのような大作は面白い。1951年のアメリカ映画。あの時代にこれだけのカラー映画を作るのだから,アメリカという国は凄いですね。
 
2008年10月21日。火曜日。晴れ。旧暦9.23. きのえ うま 三碧 先勝 さんりんぼう
 日中は暑いような秋の日が続いている。しかし,朝夕は,気温が下がり,日々秋が深まっていっている。中国山地や四国山地の高原では,もう秋も終わりに近づいて冬も間近という状況ではなかろうか。
 石川文洋「四国八十八カ所 -わたしの遍路旅」(岩波新書)を読んだ。写真家だということで,かつてお参りしたお寺や周辺の写真集だと思って買ったのだが,残念ながら,さにあらず。しかし。ベトナム戦争や,カンボジア戦争を取材した経験からのさまざまな思いが記されており,数々の美しい写真とともに,胸を打たれた。特に戦場で若い命を落とされた写真家たちの思いでは,この本に格別の重みを与えている。かつて,岡村昭彦さんの「南ベトナム戦争従軍記」というのを高校時代に読んだことがあるが,改めて命がけの取材であることを知った。
 読みながら,四国の山河が懐かしく思い出された。3回目の遍路もしてみたいものだが,当分はその予定が入らない。しばらくはペーパー遍路ということで,その思いを維持しよう。 
 
2008年10月22日。水曜日。曇り夜雨。旧暦9.24. きのと ひつじ 二黒 友引
 朝から雲っていたが,夜になって雨が降り出した。これくらいの頻度で雨が降れば,空気も大地も適度に湿っていい。
 中野不二男「湯川秀樹の世界」(PHP新書)は,湯川博士に関する本の中でも異色のものである。特に中間子論誕生に至るドラマはこれまでに書かれていたものを超えているのではなかろうか。なかでも家庭における苦闘の跡が,スミ夫人の証言から組み立てられているところが圧巻である。また,ヨーロッパのソルベー会議に招かれ渡欧したものの,第二次世界大戦勃発で帰国を余儀なくされたとき,アメリカで下船し,実に積極的に大学や研究者を訪問しているところが見事に報告されており,若き日の湯川博士の行動力には驚いた。
 
2008年10月23日。木曜日。曇り時々雨。旧暦9.25. ひのえ さる 一白 先負 霜降
 夜になってまた雨が降っている。そのせいか寒いくらいだ。日中も,もう25℃を越えることはあるまい。奥のほうでは紅葉が進んでいるようです。
 福田恆存訳「マクベス」(新潮社・シェイクスピア全集13)。「マクベス」は「ハムレット」や「ロミオとジュリエット」ほどではないにしても,比較的好きな作品です。でも,カタルシスがあるわけではなく,悲しみを感じるわけでもありませんから,四大悲劇というのには疑問です。しかし,単純でわかりやすいということと,名台詞もほどよく配置されていて,よい作品だと思います。主人公の深みがあまりまくマイナーな印象もありますが,しかし,よく描かれております。小心者のマクベス。姦婦のマクベス夫人。マクベスは真の悪人にはなれない。そもそも魔女の予言をマクベスが夫人に漏らしたことが悲劇の発端となる。こういうことはマクベスの胸の内に留めておくべきことだったのだ。しかし,後半になって,行動は逆転する。男だから,女だから,ということであろうか。それに魔女の登場も,この作品をおもしろくしております。
 
2008年10月24日。金曜日。曇り。旧暦9.26. ひのと とり 九紫 仏滅 
 夜がだんだんと寒くなってきました。そろそろ暖房器具が必用のようですね。すでに準備はできているのですが,最近は使っておりません。
 朝永振一郎「物理学とは何だろうか 上」(岩波新書)。 これは何度読んでもいい本だと思います。現代物理学の最先端を学ぼうという人には,お呼びではありません。そうかと言って科学史に期待しても無駄でしょう。まさにタイトルどおり「何だろう」という探究の書であると,申し上げておきましょうか。前半はケプラー,ガリレオ,ニュートンという,占星術から物理学へという旅の追跡です。後半は,熱力学の成立です。トモナガイズムとでもいうべき,思考の流れにそって,理論の発展を跡づけてみせるところは,「量子力学Ⅰ」を思い出しました。こういう本が翻訳ではなく,日本語の原著として読めることに感謝すべきでしょうね。
 
2008年10月27日。月曜日。晴れ。旧暦9.29. かのえ ね 六白 先勝
 土曜日は秋晴れの良いお天気で,庭木の剪定をしていると汗ばむほどでした。日曜日は一転して雨模様。そして今日は,日中はよいお天気だったのですが,夜になって風が吹き出したので,夜の散歩はお休みです。
 DVDで「レベッカ」を見ました。小説もあるのですが,途中でやめておりましたので,意外な結末に驚きます。未見の方もおられると思いますので,その部分は書かないでおきましょう。レベッカというのは富豪の先妻の名前です。富豪は不釣り合いとも思われる普通の少女を恋して結婚し,豪邸に帰り・・・・,というのが大雑把な紹介です。結局,富豪と新妻が誤解を解き,いかにして愛し合うようになるか,というのが,もう一つの主題です。よくできた映画だと思います。
 
2008年10月28日。火曜日。晴れ。旧暦9.30. かのと うし 五黄 友引
 昨日ほどではありませんが,夜になるとかなり寒くなります。夜七時頃散歩したら,雲はいくつかあったものの,晴れていました。風は吹いてなくおだやかな気候でした。九時頃になると,足下が冷えてきました。18.8℃です。10月の終わりですからね,こんなもんでしょうか。
 高山岩男「文化類型学研究」(弘文堂,昭和16年)というのを読んでいたら,西洋では人間の前のものを客体として思考したのに対して,東洋では,そうではなくて人間が対象であったと書かれておりました。確かにその通りでしょう。論語なとは執拗に,人間について,すなわち自己についての言及ですから。かかるが故に,科学が西洋で生まれ発達したということです。なるほどと思いました。と,同時に実存主義への違和感がその辺にあるのではないかと思い,岩波の哲学思想辞典で実存主義のところを読み直してみました。ハイデッガーは,実存主義者ではないと言ったということですが,そのことの意味は大きいと思います。あくまでも哲学の対象として,「存在と時間」の現象学があるのですから,簡単に人間主義に還元されたら困るということでしょう。それに対して,サルトルは「実存主義はヒューマニズムである」というわけです。それでは,哲学的人生論かというと,どうもそれだけではないようなので,わからなくなります。 
 
2008年10月30日。木曜日。晴れ。旧暦10.2. みずのと う 三碧 大安
 朝夕が,また寒くなった。朝の通勤途中に暖房を入れたりして・・・。昔のように,いろんなことを並行してやるというのではなく,ひとつずつ片づけていたら,あっという間に10月が終わろうとしている。
 江戸川乱歩全集がある。全25巻で,昭和54年頃に講談社から出た。黒っぽい装幀の本で,函を全巻並べると横尾忠則氏の見事な絵が妖しい光を放つようになっている。その第2巻は,あの有名な「人間椅子」というタイトルだが,他にも短編が多数収められている。「疑惑」と「接吻」は,どこが推理小説? という感じで読んでいたのだが,最後になって苦心のトリックが明かされる。一応,推理小説ということだから,ネタをばらすことは控えたいが,やはり,「さすが乱歩」と,敬服致しました。ただただ,その執念とでもいう努力に頭が下がりました。
 
 
2008年10月31日。金曜日。曇り。旧暦10.3. きのえ たつ 二黒 赤口
 いまにも降りそうな空模様であったが,結局降らなかった。夜になっても雲が立ちこめて,かえって暖かい。今日で10月は終わり,明日から11月だ。いよいよ秋が深まっていく。そして今年も残りあと二月。こちらは年をとり,若い人たちは成長する。世の中も変わる。大きく変わっている分野と変わらないものがある。気がつかないうちに激しく変わっているのもあるだろう。とりわけ,インターネットの世界の発展の仕方は驚異的である。やがて,多くの分野で既成の形態にとってかわるだろう。


夕凪亭閑話 2008年9月septembre

   2008年9月1日。月曜日。晴れ。旧暦8.2. きのえ たつ 八白 先負
  9月になりました。やっと。年をとると時間の経過が速いと感じるものですが,不思議なことに,今年の8月は長いと思いました。長かった。やっと,待ちに待った9月になった,という雰囲気です。でも,残暑は厳しいようです。今日も最高気温が31℃でした。この一週間くらいは,最高気温は30℃前後で推移するでしょう。強い残暑ということでしょうが,35℃の日々に慣れた身体には,31℃というのは,そんなに高い温度ではありませんね。
  「奇策Une rouse」(新潮文庫・モーパッサン短編集Ⅰ・青柳瑞穂訳)では,お医者さんが,ご婦人方があいびきを楽しんでいて露見しそうになったのを助けた奇策を披露する。
 
 
2008年9月2日。火曜日。晴れ。旧暦8.3. きのと み 七赤 仏滅
 今朝の新聞に,福田総理辞任の見出しをみて驚きました。そんなに早く辞めないといけないの? という感想です。政治の世界のことはわからないですね。我が国だけのことではありませんが,未来のない道を走っている自動車のようなものですね。この道は一本道です。途中で別ルートはありません。そして,その先は河に出ます。しかし橋はありません。崖から真っ逆様に落ちるしかありません。そんな道路を走っているのですから,誰がトップになっても同じですね。止まることもできず,他のルートもなく。それでは,どうするのか,と問われれば,道路を壊してしまうしかないですね。
 
 F・サガン,朝吹登水子訳「ブラームスはお好きAimez-vous Brahms...」(新潮文庫)は,サガンの第四作目の作品です。作品ごとに主人公の年齢が上がり,作品もうまくなっていくのですから,やはりサガン女史の才能は素晴らしいと思います。今回は39歳のポールというキャリアウーマンが主人公です。離婚歴があり,年上の愛人があるのですが,シモンという,金持ちの息子で25歳の美青年に惚れられてしまうという話です。とくに,ポールがよく描けています。これは,20世紀を代表する傑作です。
 
 
2008年9月3日。水曜日。晴れ。旧暦8.4. ひのえ うま 六白 大安
 日中は残暑が続いているのに,夜になるとさすがに冷たい風が吹いております。昨日までは,ここ数日の高湿度を避けて,夜はエアコンを入れていたのですが,今夕は,南北の窓を開けて,自然の風を入れております。夕凪亭は,標高100メートル以上のところにあり,今日のような日には,よく空気は流れて快適です。しかし,夏の間に大量に飲んだ麦茶を急に少なくすると,膨れた胃を満たす必用か,空腹感に襲われます。
 「秦楚之際月表第四」(新釈漢文大系)
 十二表のうちの第四表は,タイトルも厳めしい。開けてびっくり,というわけではないが,月ごとの表だから驚く。驚かなくても,タイトルに際月表とあるではないか,と言われれば,まさにその通りなのである。前209年の秦二世皇帝の元年から前202年漢高祖5年までである。秦の末期,楚の陳勝・呉広の乱から始まって,漢帝国の出現までの八年間のことであるが,人物史と違い,面白いものではない。しかし,その詳細な記録には頭が下がる。
 
2008年9月4日。木曜日。晴れ。旧暦8.5. ひのと ひつじ 五黄 赤口
 今日は久しぶりに月を見た。まだ三日月といっていいほどの月だ。月を見ながら,人類の歴史と月の歴史を比べてみた。どう考えても,人類の誕生以前から月はあったと結論せざるを得ない。月のない地球は,現在のように公転,自転をしていないだろうから,気候も安定していなかったであろう。そのようなところに生命が誕生したとは思えない。地球上での生命の誕生は,現在の太陽系がこのような形で安定してから以降のことだと思われる。だから,月の歴史のほうが,人類の歴史よりはるかに古いのだ。
 ならば,この先は? もし,地球がこのままで存在し,月が無くなったら,地球への影響は甚大なものとなろう。多分,人類の生存の危機を招くほどの影響がでるのではないか。そうとすると,人類のほうが月よりさらに存在するとは考えられない。むしろ,月が無くなる前に人類が滅亡するほうが早いかもしれない。
 「目ざめReveil」(新潮文庫・モーパッサン短編集Ⅰ・青柳瑞穂訳)は,貞淑な妻が,胸に障るといけないからと,霧深い谷の婚家からパリの実家に帰ったときの話である。したがって,乙女の春の目ざめの話ではない。とはいえ,多くの男達に,とくに二人の男に,ちやほやされ,浮気心に目ざめる話であるから,似たようなものか。
 
 
2008年9月5日。金曜日。晴れ。旧暦8.6. つちのえ さる 四緑 先勝
 今日はまた特別残暑が厳しかった。夜になっても暑く,エアコンを入れている。
 人類は滅びる前に進化するかも知れない。かつては,ホモサピエンスとネアンデルタール人が同時期存在したそうであるが,そのように,ホモサピエンスと,後世になって別の学名のつく新種が共存してもおかしくはない。そして,ホモサピエンスが滅び,新種はさらに生き延びる,というシナリオがあってもおかしくはない。あるいは,既にホモサピエンスから別種の人間が生まれていて,それにわれわれが気が付いていないだけかもしれない。不妊と一言で言うけれど,種が違うのかも知れない。あるいは,進化は常に起こっており,われわれがそう認識しないだけかも知れない。
 田中菊雄「英語研究者のために」(講談社学術文庫) 閑話子は,英語の教員でもなければ,まして英語研究者でもない。ただ,田中菊雄という人物に興味をもって,アマゾンの古書で三冊著作を買った。その一冊である。読んだものとしては二冊目である。タイトルの通りで,英語の教授や研究を仕事にするひとにとっては,心温まる名著であろうと思われるが,「英語被教育者のために」と書いても,半分くらいは通用するのではなかろうか。そしてなによりも,随所で引用・利用される夥しい古典的著作の紹介が楽しい。それにしても,講談社学術文庫の選択には,いまさらながら感心する。学術文庫の名に恥じぬ内容でありながら,なおかつ読みやすい。解説によると,今回収録されなかった書物リストもあったそうであるが,WEB上に,陸続と古典がテキストとして流通しつつある昨今の状況からみて,絶版書籍でも大いに紹介する価値はあるのではなかろうか。
 
 
2008年9月6日。土曜日。晴れ後雨。旧暦8.7. つちのと とり 三碧 友引
 今,21:15ですが,ゲリラ豪雨が降っております。ほんとうにおかしな天気です。二時頃までは大変暑かった。残暑です。しかし,その後,陽は弱まり,やはり秋だな,と少しだけですが思いました。夜になって,何と,ぱらぱら雨が降るではありませんか。お月様が出ているのに・・・と思いながら,戸を閉めて廻りました。そして,降ったりやんだりしていました。さらに,時々何事かと思うほどの音を立てて雨が降ります。怖いようです。雷注意報だけが出ています。しかし,雷の気配はありません。こんなに降っても,少し離れたところは降ってないと思います。もう少し広い範囲で降って,水の憂いを払拭してほしいものです。
 「漢興以来諸侯王年表第五」(新釈漢文大系)
 表題の通り,高祖が天下を平定して以来の王に封じられた者の年表です。前206年から,前101年までの26侯王の歴史ということです。内容は実に単調です。延々と,来たり朝す,というような文字が続きます。しかし,何度も読んでいると,するめを口の中で噛んでいるときのように,少しずつ味が出てくるから,不思議です。二千年以上も前のことでありながら,確かに人間が生きて活動していたのだと,改めて思いました。そして,本当は,それぞれの国柄が違い,距離が違い,豊かさが違い,そして思惑が違うはずです。それなのに,同じように,来たり朝す,なのです。これでは何も書かないのと同じようなものだとも思たこともあります。でも,違うのですね。書かないのと書くのでは。司馬遷はどんな思いで,書きつづったのでしょうか? 単純な繰り返しのようなところにこそ,色々と思ったり考えたりしながら書いたのではないでしょうか。前にも書いたように,書くという行為自体が,現在のわれわれから想像できないほどの作業だったのですから。そしてまた,これらを伝えてきた人々,歴史。はるか,悠久の世界ですね。私など一個人は,あっという間に無機物に還ってしまうのですが,これから,また長い長い時間の海を航海していくわけですからね。そうは言っても,永久に存在するとは,誰も保証できないのですからね。
 これにて,十表の二分冊の前巻が終わりますので,書誌的事項を記しておきましょう。門田日出男著,史記 三上(十表一),新釈漢文大系40 明治書院 平成17年7月30日初版発行,となっております。   
 
 
2008年9月7日。日曜日。晴れ一時雷雨。旧暦8.8. かのえ いぬ 二黒 先負 白露
 今日も残暑の中,にわかに空がかき曇り,雷鳴に混ざって雨が降りました。そのせいか,夜にはくっきりと星が見えております。多少雲はあるようですが。ちょうど,今日は上弦の月が見えます。それに木星が南西に居座っていますが,随分下になったようです。天頂で明るいのが,白鳥座のデネブでしょうか。
 「木靴Les sabots」(新潮文庫・モーパッサン短編集Ⅰ・青柳瑞穂訳)は,お金持ちの男鰥のところの女中になり,やがて婚約するという話です。「木靴をごっちゃにする」という慣用句は,手元の辞書には載ってありませんが,そういう表現が,ある地方にはあったのかも知れません。あるいは単に,モーパッサンが比喩として使っただけでしょうか。
 
 
 
2008年9月8日。月曜日。晴れ。旧暦8.9. かのと 一白 仏滅
 秋風の吹く日でございました。
 「牧歌Idylle」(新潮文庫・モーパッサン短編集Ⅰ・青柳瑞穂訳)
  長閑な風景である。暑い列車の中で,マルセイユに乳母として出稼ぎに行く農婦と,やはりマルセイユに職を探しに行く若者。乳母になるというだけあって,乳が張って苦しくて死にそうだという。男が飲んでやって女はやっと助かったといって感謝する。男も感謝する,二日飲まず食わずだったんですと。母乳を消化する酵素は大人にはないと聞いたことがありますが・・・。
 このモーパッサンの列車も,パラグアイやボリビアへ日本人移住者を運んだ列車も,我々の感覚からは遠く隔たっている。いつの間にか,列車というものが時間に正確で,ということは時刻表どおりで,そして限りなく速いものであることが期待され,そしてそうでなければならないものとなっている。日本国内のどこを旅行しても,災害等を除けば,列車だけは,予定どおり走り着くということが,前提となり大きな安心感になっているのは確かだ。こういうのは,世界の鉄道のうちのどれくらいの割合なのだろうか。
 
 
2008年9月9日。火曜日。晴れ。旧暦8.10.  みずのえ ね  九紫 大安
 今日も秋晴れの良いお天気でした。夜になると,水蒸気が少なく,月も星もくっきりと見えております。月の近くにあるのが,木星です。天頂にあるのが,白鳥座のデネブとしたら,その中間あたりにあるのが,わし座のアルタイルでしょう。デネブから西に寄ったところにあるのが,こと座のベガでしょうか。
 来年の夏あたり,海水魚の飼育にチャレンジしようかと,夏を見送りながら考えていましたので,広島大学の総合博物館に行ったついでに,海水槽はどうやって管理しているのか尋ねてみました。竹原から海水を汲んでくるということと,水槽の下にプロテインスキマーというのをつけているということでした。以前,海水にエアポンプをつけてヤドカリなどを入れたとき,翌日には濁って,間もなく死んだということがありました。プロテインスキマーについてネットで調べてみてよくわかりました。泡と一緒に有機物などが上がっていくのだそうです。これを別に取り分けるのがプロテインスキマーということで,海水の場合には効果があるようです。
 「旅路En voyage」(新潮文庫・モーパッサン短編集Ⅰ・青柳瑞穂訳)
  これも鉄道ものです。ロシアの伯爵夫人の恋です。ロシアから国境を越えるとき,助けた男が影のように見守る。しかし,夫人は愛されていることに幸福感を感じながらも,以来,一度も口をきかず死んでいくという悲恋です。この二人の関係については,作者は最後になっても明らかにしませんが,何かあるように,ほのめかして終わります。
 
 
2008年9月11日。木曜日。晴れ。旧暦8.12. きのえ とら 七赤 先勝 さんりんぼう
 昨日今日と暑い日が続いております。戻り残暑とでも呼んでおきましょうか。夜の8時になってもエアコンを入れております。暑さ寒さも彼岸まで,と昔から言いますから,もう少しの我慢です。
 一に健康(体力),二に人物,三,四がなくて,五に学力などと言っていたら,浴槽の底のほうの水を汲もうとして腰を曲げとき腰椎のあたりを電流が流れた。しまったと思ったが後の祭り。腰がまがらない。こういうのをぎっくり腰というんだろうか,と一瞬思ったが,そこまで重症ではない。ゆっくりと動かせば身体が廻る。・・・・・ということで,時間とともに快復に向かっておりますが,やはり,年をとったなあという実感。こういうとき両肘掛け付き椅子というのは,手すり代わりになって重宝ですね。
 「アマブルじいさんLe pere Amable」(新潮文庫・モーパッサン短編集Ⅰ・青柳瑞穂訳)は,悲しい話です。まずしいアマブルじいさんには,農夫の息子がいます。この息子は同じ村のセレストという働き者の娘と結婚をしようと思います。しかし,アマブルじいさんが反対するのです。それはその娘が,かつて,自分の家の作男と関係をもち子供とともに追い出されていたからです。とうとう結婚しますが,じいさんは気に入りません。しかし,嫁の作る食事のときだけは顔をあわせます。しばらくして,息子が死んでしまいます。女手ひとつでは畑仕事はできません。そこで嫁は,子供の父親でもある以前の作男を家に入れます。アマブルじいさんは気にいりません。しかし,嫁の作る食事を食べなければ死んでしまいます。結局アマブルじいさんの選んだ道は・・・・・・。息子も,嫁も,作男も,悪いところがあるわけではありません。嫁のほうは,自分の置かれた境遇の中でよく尽くしているわけです。アマブルじいさんも,これといって悪い人でもないし。みんないい人たちばかりでも悲劇が起こるのです。そういうい作品ですから,やはり傑作作品のひとつでしょう。
 
 
2008年9月13日。土曜日。晴れ。一時小雨。旧暦8.14. ひのえ たつ 五黄 先負
  一時小雨といっても,ほとんど降ったうちに入りません。夕方,近くを雷が通過したようですが,雨は降りませんでした。今日は一日中机に向かっておりました。時々エアコンを入れながら,です。深夜になって何か読んでおこうかと思って少し読んだだけです。
 「クロシェートClochette」(新潮文庫・モーパッサン短編集Ⅰ・青柳瑞穂訳)。途中で,最近も読んだものだと,気づいたのですが,とうとう終わりまで(といっても短いものですから)読んでしまいました。いい作品です。愛するお針ばあさんの死と,その若き日の恋です。死後,お医者さんが,不自由な足の秘密を語るという構成です。うまいですね。これも傑作。
 
 
 
2008年9月14日。日曜日。晴れ。旧暦8.15. ひのと み 四緑 仏滅 十五夜 
 日中は暑い日が続きますが,もう十五夜(仲秋の名月)ですから,今年は早いですね。
 「高祖功臣侯者年表第六  史記巻十八」(新釈漢文大系)
 新釈漢文大系では,いよいよ最後の一冊になります。十表は二冊に分かれており,第二分冊は今年の六月に出たばかりです。この本の出版に合わせて読んできたというのではなく,ただ気の赴くままに読んできて,最後に十表になって,ちくま文庫の「表は省略」で済まそうかと思っていたら,新釈漢文大系の中にもあり,その後半が出版されて,近くの図書館に配架されていたということです。一年近くなる,史記への旅も,この一冊が終われば,これで終わりです。次はシェイクスピアだ,と決めておりますので,今月中には,史記を終わりたいものです。
 さて第六の表はタイトルの通り,高祖すなわち劉邦が漢王国を樹立したときの,論功行賞者です。日本でも戦国時代に必ずあったあれですね。戦功に応じて,○○の国,△万石といういわばゴホウビですが,生活がかかっているのですから,サラリー,すなわち能力給の年俸と考えたほうがいいですね。と同時に,家来となり,周囲に配置して防御の楯となる宿命です。だんだんと中央から離れるにつれて,位は下がり,敵との接触が増えるフロントとなる訳ですね。近ければいいかというと,常に反乱の恐れを警戒されることになります。支配者としては難しいところで,強くしておれば,刃向かわれる,弱くしておけば外敵に対して守りにならない。これは我が国でも同じで,苦心の結果が徳川幕藩体制でしょう。少しやりすぎの感がありますが,二百年間戦が無かったことは評価していいですね。しかし,文化的な面での発展は,十分ではありませんでした。
 さて,本題にもどって,第六表ですが,国名の後,まず「侯功」があって,最後に何百個とか何千個とか書かれています。次いで中央の年代に合わせて,代が代わったときに○○の元年と記されます。多少の事跡が記録されることもありますが,大抵はこれだけで,後は,罪ありて国除かれる,とか滅ぶとかがあります。そして最後の蘭が侯第といって武功の順が書かれております。そして,多くの国が三代か四代で滅びます。これはこれで当然でしょう。竹馬の友だ,同期の桜だということで,県知事や市長にしてもらって,三代も禄をはんでおられたというのなら,有り難いと感謝すべきですから。p.431と432に誤植がありました。(と,思うのですが)
 
2008年9月16日。火曜日。晴れ。旧暦8.17. つちのと ひつじ 二黒 赤口
 昨日は大雨で,夜になると気温も下がり,秋まっただ中,という感じだったのですが,いつものように,今日は暑かった。こういう天気を繰り返しながら,次第に秋になっていくのでしょう。 
 「恵景閒侯者年表第七  史記巻十九」(新釈漢文大系)は孝恵帝から孝景帝までの間に侯となった者の年表で,前巻と同じ体裁である。興業から守業へと,時代が変わっていくのが侯功の説明にも現れている。後半になるとさらにその傾向は顕著で「匈奴の王を以て降りて侯たり」とか「○○の子を以て侯たり」とか,侯功とは呼べないようなものまであって,為政者の苦労が伺える。
 
2008年9月19日。金曜日。雨後晴れ。旧暦8.20. みずのえ いぬ 八白 先負
 今週は,いろいろと忙しくて,飛び飛びになっております。昨夜は,松竹歌舞伎の公演がありましたので,行ってきました。一つは「芦屋道満大内鑑」から葛の葉です。折口さんの論考にもある葛の葉伝説が,ああいう形で劇化されているとは知りませんでしたが,よくまとまっていて,一幕物として楽しめました。二つ目が幸四郎さんの「勧進帳」です。幸四郎さんというよりも,染五郎という名前のほうが馴染みがあるのですが,その幸四郎さんは,昭和17年生まれですから,六十代の後半ですね。それで,あの熱演ですから,すごい体力です。誰がやっても,ある程度は受けるという,名場面ゆえに返ってその人なりのものを出さないといけないので,逆に役者さんにとっては大変ですね。とはいえ,千回近くも上演した人の余裕も感じられる堂々たる舞台でございました。
 さて,久しぶりに接近してきた台風12号は,四国沖を上陸せずに東上し,大きな被害を出すことなく,多少の(場所によっては過大な)お湿りをもたらして,去って行きました。天気予報では最高気温30℃,最低気温20℃で,文字通り朝夕には涼しさが感じられるのですが,午後は晴れて30℃近くなったのには,閉口です。
 「建元以来侯者年表第八  史記巻二十」(新釈漢文大系)は孝武帝の時代に侯になったもののうち,一部(諸王の子)が次巻に送られておりますが,それ以外の73国です。ほとんどが対匈奴戦での戦功で,やはり時代を感じますね。それと,大月氏国とか,楼蘭とかでてきて,感動したりするのですが,ここで表意文字の欠点というか,へんなイメージを払拭するのが難しい。国名などカタカナで書いていたほうが,ストレートに入ってきていいと思いますが・・・。
 夢野久作「悪魔祈祷書」を青空文庫で読みました。タイトルに偽りはありませんが,やや誇大広告気味。「古本屋話」「雨の古本屋」などの平凡なタイトルでよかったのに,と思います。
 
2008年9月21日。日曜日。雨後晴れ。旧暦8.22. きのえ ね 六白 大安
 午前中激しい雷雨。池が溢れて,鯉やメダカが庭を泳いでおりました。午後は,雨がやんですっかり秋らしくなりました。
 1332分「史記」読了。記念すべき日となりました。 
 「建元已來王子侯者年表第九 史記巻二十一」(新釈漢文大系) 
 孝武帝の時代に侯となった者の子供で,それ故に侯になった者たちに記してある。従って,これまであった侯功無く,国名の次に「王子号」というのがあって,「長沙定王の子」というように記されている。後は,これまでと同じように何年に誰の元年か記される。ただ,今回は,何代も続かない。多くが一,二代で,廃せられる。多いのが「酎金に座し,国除かる」である。この酎金(ちゅうきん)については次のように説明されている。 酎酒は三度重ねて醸した酒。八月に酎酒ができると,もっとも純粋なものを宗廟にささげる。この祭祀の際,諸侯が黄金を献ずることを酎金という。酎金については孝文帝が酎金律という法を定め,法に従わない場合,爵位を奪われる等の罰があった。「史記」平準書には「列侯,酎金に坐して侯を失ひし者百余人あり」とある。この律を定めたのは,列侯を取り潰すためであったという。(p.704)。以上。こういことであった。
 「漢興以來将名臣年表第十 史記巻二十二」(新釈漢文大系)
 司馬遷の筆になるものは失われており,後世の補作で,どこまでが司馬遷のものかわからない,という。しかし,この年表は,主要事項を列記しているので,読んでいて楽しい。特に,匈奴討伐がかなりでてきて,司馬遷の時代も,このような時であったのかと,納得する。
 新釈漢文大系の書誌的事項を記せば,次の通りです。寺門日出男著,新釈漢文大系第116巻 史記三下(十表二), 明治書院,平成20年6月10日初版発行。 
 
2008年9月23日。火曜日。晴れ。旧暦8.24 ひのえ とら 四緑 先勝  さんりんぼう 秋分 彼岸の中日. 
 秋分の日である。庭の隅に赤い彼岸花が,三日ほど前から出てきて蕾をつけていたと思ったら,昨日今日と開いている。実によく,この日を知っているお化けのような花ですね。そっと近づいて・・・,というような感じです。そのせいかどうか知りません後,私の田舎では,彼岸花とか曼珠沙華というような都会的な名で呼ばず,幽霊花などと呼んでいました。黄色いのもあるのですが,まだ出てきませんね。
 シェイクスピア著,大山敏子訳「ロミオとジュリエット」(旺文社文庫)
 史記を了えたので,次はシェイクスピアです。未読のものだけでなく,再読を含めて全作品を読むことにしたいが,途中で止めるかもしれません。まず,やさしいところで,「ロミオとジュリエット」です。ここにあるのは,昭和41年9月1日発行の旺文社文庫の初版です。昭和42年5月1日と購入日を書いております。定価は150円です。この頃の旺文社文庫は,紙も上質で,函までついておりまして,豪華でございました。今以て変色しておりません。昭和42年頃読んで,その後,福田さんの訳や,映画もいくらか観ているのですが,今回は懐古趣味で旺文社文庫を再び開いてみたわけです。
 かつて,清水義範氏の「世界文学全集」という作品の中の「ロミオとジュリエット」の編では,短大生の卒論ということで,大変印象深く書かれていたのを思い出します。ばっかじゃなかろうか・・という調子で始まるのですが,多くの読者も同感されることと思います。主人公二人は,決して少年少女のアイドルにはなりません。尊敬されないでしょう。そのような,愚かとも思える(実際,愚かですね)主人公を設定して突走らせるのですから,シェイクスピアがいかに魔術師的才能の持ち主かわかりますね。やはり,傑作ですね。
 旺文社文庫の解説には,坪内士行氏の本質を突いたエッセーが修められております。
 
2008年9月24日。水曜日。晴れ。旧暦8.25. ひのと う 三碧 友引
 やっと秋らしくなりました。彼岸花が毒々しく咲いております。毒をもっているので,墓地に植えると動物が堀にこなかったのでしょう。そういうことで,地獄花とかいろいろ呼ばれたようで,私の故郷で呼んでいた幽霊花というのも,その延長かも知れませんね。薬草にもなるようですが,内服すなわち,飲んだり食べたりしてはいけないそうです。水仙なども同じですね。野草を食べるのが趣味の人はしっかり研究してから実践しましょう。
 F・サガン著,朝吹登水子訳「すばらしい雲」(新潮文庫)
 これはたいしてすばらしい作品とは思われない。しかし,異常な愛というものを書こうとしたのであれば,それはそれで一つの作品になっているということである。作者にとっては満足のいくものであったのかも知れない。僕個人としては,好きになれなかったというだけである。主人公ジョゼの人物造形は,好悪は別にして,よくできている。その夫アランについては,変な異常な性格が,ちょっと書きにくいものを書いているので感心するのだが,でもやはり物足りない。
 
2008年9月26日。金曜日。雨後晴れ。旧暦8.27. つちのと み 一白 仏滅
 朝二時間ほど雨が降りました。時折激しく。夜になって気温が下がりました。半袖で歩いていると肌寒いようでした。こうして秋になっていくのですね。
 漱石「こころ」(青空文庫)。青空文庫の底本は,集英社文庫、1991(平成3)年2月25日第1刷,1995(平成7)年6月14日第10刷 ということ。随分久しぶりです。多分高校のとき以来。前回は乃木大将の殉死の影響で死んだ先生,というのが一番印象に残っていたのですが,今回は,先生が,軍人の未亡人とお嬢さんのところへ下宿するところが最も迫力をもって迫ってきました。同じような日常なのですが,日々の心の変化を重複させずにこれだけ書くのですから,漱石はすごいですね。「こころ」一つだけでも,漱石は大作家です。
 
 
2008年9月30日。火曜日。雨。旧暦9.2. みずのと とり 六白 仏滅
 すっかり寒くなった。台風15号の影響による雨のせいもある。昨日などは一時的ではあるが,暖房を入れた。服も冬用に変えた。あっという間の夏から晩秋のような天気への転換。これは温帯の天気ではなく,亜熱帯の天気であろう。
 山本紀夫「ジャガイモのきた道」(岩波新書)は,アイルランドのジャガイモ飢饉を知るために買った。予想以上に内容のある本だった。まず,ジャガイモが食糧としてすぐれていること。世界中で主食としているところも多いこと。水分が多いので長期保存が利かないのが欠点であること。(加工法はある) アンデスの高原文明は,トウモロコシが主食でなくジャガイモが主食であったと考えられること。などなど。なかでも,感動的なのは,ネパールの高山地帯でも,アンデスでも,自給農業は常に飢饉との隣りあわせで,そのリスク回避への様々な工夫がなされていることであった。こういうレポートを読むと,食料の大半を海外に頼っている日本の状況も反省させられる。食料はスーパーで求めるのが一般的になった現代人は,生産の仕方も,加工の仕方も,貯蔵の仕方も忘れて,脆い都市生活に安住していると気づくであろう。一見,自給自足農業が理想のように思えるが,残念ながら,都市と農村の問題は,アンデスの高原でも起こっているということは,残念なことである。