2021年1月14日木曜日

ふるさとの史跡を訪ねて(増補版)1-10回

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第1回 釣島箱崎浦の合戦跡(因島土生町箱崎) 2016.8.6.

 この史跡巡りを、天授3年(1377)11月15日の釣島箱崎浦の戦いの関連史跡から始めたい。
 この戦いで今岡通任に勝った村上師清(もろきよ)は翌年、子息村上吉豊を、現在ナティーク城山があるところに住ませた。ここから因島村上氏の時代が始まるからである。
「釣島箱崎浦の合戦跡」=写真=の史跡標は湊大橋のガソリンスタンド(村井石油土生SS)の北側の公園にある。ペンキが剥げていて、文字は読みにくい。
 現在、総合支所の前から湊大橋にかけては直線道路になっているが、かつて、東奥に江の内のバス停があり、海岸線は入り組んでいた。この辺り一帯が埋め立て地であることは、少し歩いてみればわかる。
 釣島は生名島の北、箱崎の西にある島で、今は鶴島と呼ばれている。鶴島と生名島との間を岩城行きのフェリーが白波を立てて往来する。鶴島の西側には浅瀬があって、潮位とともに波形が変わり、それがまた午後の陽を映して輝く。刻々と変わる光景を天狗山から眺めるのは楽しい。






第2回 島前城跡(因島土生町箱崎)

 釣島箱崎浦の戦いの今岡通任の居城跡と伝える。

 因島モールの駐車場から因島図書館を見ると、20mほどの丘と崖が印象的だ。今はセメントで覆われている崖の下まで、かつては波が打ち寄せていたものと思われる。あるいはこの崖はもっと海よりに伸びていたのかもしれない。干拓前は北側も海で、海に突き出た半島のようになっていたのだろう。

 ここは、因島村上氏の時代には村上直吉が住んだが、話を更に昔に戻すと、因島開発名主の上原祐信が住み、次いで今岡通任が支配したという。

 今岡通任の屋敷跡と呼ばれるものが青影山の西側にあったという。丘伝いに往来するとしてもかなり遠回りである。

 時代は前後するが、近くにあった上原祐信の時代の持仏堂と守護神は、後に長源寺と耳明神社になった。

 長源寺は天正5年(1577)に焼失し、江戸時代に移転して中庄の長福寺となる。耳明神社は、現在は大山神社にある。

2021.12.15.34.297,133.165  11:57


第3回 茶臼山城跡(因島中庄町茶臼)

 釣島箱崎浦の戦いの今岡通任の将、大鳥義直の居城と伝える。

 南から大山トンネルを抜けて、新しくできた消防署の前の交差点で車が止まったら、左前方を見てみよう。あるいは、水 軍城入口付近からなら西の方を見上げよう。

標高126mの形のよい山が茶臼山城跡である。山頂には段階状の平地があり、頂上付近に「茶臼城主碑」と刻まれた石がある。


西浦峠(青影トンネルの上)から北に伸びる送電線の鉄塔の近くである。 

 ここは島前城主今岡通任の配下の大鳥氏が守った。大鳥氏一族は今岡氏とともに、釣島箱崎浦の戦いで、村上師清軍と戦って敗れた。 

 大鳥氏の子孫が後に改姓して松浦氏となった。石名松浦氏である。さらに分家して、釜田松浦氏と徳永松浦氏になった。

 消防署の西を少し上がったところに石名松浦氏の先祖碑が、小林氏の先祖碑とともにある。かつて茶臼山にあったというので、捜した。その周辺を何度も回っても見つからず、結局近くの人に案内してもらった。池をめぐる古い小さな道の跡らしきものが近くにあった。






第4回 徳居屋敷(因島中庄町徳井)

 徳居屋敷と呼ばれている建物が茶臼山の東麓にある。

 またまた消防署の前の信号機に話を戻す。その建物はそこから見えるのだが、北側に伸びる路地に入って、菅原神社の方へ向かうと、その古くて珍しい建物が目に飛び込んでくる。竹を割って板状に束ねたもので壁を覆っている。それが石垣の上に乗っている。徳居屋敷である。 

 江戸時代の武家屋敷の面影を伝えるものだと言われている。
 弓削の久司浦から来た田頭茂兵衛さんがこの地を徳居新左衛門さんから購入したとき、由緒ある名だから屋号として残すことにした、と伝える。この田頭さんが中庄田頭氏の祖である。

『因島の文化財』の表紙に使われている文政二年の絵図には、「中須ケ池」の隣に「徳井」と書かれている。今も字(あざ)「徳井」である。それほど由緒ある家だったのだろう。

 徳居(徳井)というのは河野水軍に出てくる姓である。今岡氏や大鳥氏と関係があるのだろうか。また、元禄三年に『能島来島因島由来記』を書写した長州萩藩士徳威弥九郎通郷とどんな関係があるのだろうか。








第5回 掛迫農道(因島中庄町通り谷)

 茶臼山城の尾根西端に、因島村上氏の時代には見張所 があった。事代主神を祀って、これが西浦の臼岬神社の起源となった。応永年間(1394~1427)のことである。

 その尾根の西端がどこかわからない。茶臼山の尾根と呼ぶには抵抗があるが、西の端は農道で切れていた。北側の終点近くの法面に、「峠、通り谷連絡道路(掛迫農道)」の記念碑が埋め込んであった。 





 峠というのは西浦峠のことだろうから、反対側のここが通り谷である。重井にも通り谷はあるので、かつて往来があったのだろう。海岸沿いの道路ができる以前には山道を歩いた。




重井から因島南部へ行くには必ず中庄を通る。現在の一本松から片刈池への道は、土生新開ができる前はありえない。重井から、一の宮を通り、現・運動公園の前から鹿穴へ出て馬の背峠を越えれば、JAの北へ出る。鹿穴へ行かず、少し西よりの鉄塔の下を越えれば、権現に出て、茶臼山の東麓が通れる。そしてさらに西よりの道ということになる。この農道のいくらかが、その昔の道と重なっているのではないかと想像することは楽しい。







第6回 妙泰神社(因島土生町明体)

 ここで舞台を再び土生町に戻す。釣島箱崎浦の戦いの話はまだ続いているのである。

 中庄茶臼山城主は大鳥義康で、その弟が大鳥宗義であった。この妙泰神社はその宗義の妻、妙泰夫人を祀ったものである。臨済宗對潮院の西側、駐車場のあるところ。田熊町へ抜ける峠道沿いの石段の上にある。



 この峠のことを「土生越え」とか「妙泰越え」と言うそうであるが、土生の人が土生越えと言うことはないだろうから、田熊側からの呼び名だろう。土生側からなら田熊越えであるが、そう呼ばないのなら妙泰越えと言うことになる。妙泰夫人は土生側から田熊のほうへ逃げようとしたのだろう。そして、この地で力尽きた。

 今は切り通しになっているが、当時はもっと高かった と思われる。車で通ると高さが気にならないが、歩いてみるとかなり高い。妙泰夫人は甲冑をまとい、城主義康の影武者として戦った。この峠を越えていれば戦況は変わったかもしれない。妙泰夫人の無念さに多くの人が思いをよせたことだろう。

 妙泰夫人の願いは叶えられなかったが、妙泰神社に祈願すれば、女性のあらゆる願い事が叶えらると言われ、多くの人に信仰されてきた。



第7回 三庄の妙泰神社(因島三庄町三区)


 妙泰夫人を祀った土生の妙泰神社は、女性の願いごとならなんでも叶うということで人気があり、島内各所に分祀があるという。今のところ、三庄のここだけしかわからない。三区の郵便局の近くである。

 カラフルな石田造船の工場が沖に見える浜上のバス停が、海岸通りにある。かつて因島東回り土生尾道航路の浜上桟橋(旧名・本村、三庄)があったところである。海沿いの埋め立て地に山根屋源四郎作の立派な常夜燈や金刀比羅宮分祀が見える。

 その海岸通りから山側に入ると郵便局がある。郵便局から南へ二つ目の路地を山手に向かって西側へ入ると、「妙泰神社」と書かれた石柱があった。大正九年に宮地末嘉さんが建てられたものである。鳥居や本殿があるわけではないが、確かに妙泰神社である。


 不思議な感じがする。その素朴さが、妙泰信仰の本質を語っているように思われた。現代人の願望は果てしがないが、ささやかな願いごとなら、今でも叶えてもらえるのではないかと思った。




第8回 青影落葉の神(因島土生町郷区)

 大山神社から北へ二つ目の道を、すなわち天理教教会の北側の道を入り、さらに右側の細い道へ入ると、まもなく巨大な楠が目に飛び込む。きれいに剪定されていて枝より幹が大きくて戸惑うが、やがて葉も茂ってくるだろう。






 この大木の根元に凝灰岩だと思われる灰色の岩石でできた小祠がある。よく見ると、常夜燈の屋根(笠という)のようなものが石の上に載っている。それで笠塔婆というのだろう。青影落葉の神と言って、釣島箱崎浦の戦いで戦死した人を祀っているという。一説に今岡通任( みちとう)の墓だとも言われている。しかし、今岡通任が死ぬのはもっと後だと書いているものもある。箱崎浦の戦いの年代が違うのかもしれない。

 島前城の支配者今岡通任なら青影山の中腹に屋敷があったというから、青影落葉ならそうに違いないと思ったが、どうだろうか。今岡通任を祀るにしては、小さすぎるように思うので、断定はしない方がよいだろう。それに生存説もあるし。

 楠の大木は根元付近に空洞がある。子供の頃この中に入って遊んだという人がいた。入口は落葉で半ば埋もれていたが、取り除けば入れるのだろう。その入口の隣に笠塔婆の石塔はある。青影山とは関係なく、青影落葉の神と呼ぶには十分である。そして古戦場跡の目印として大楠がいつまでもあることを願って、小道を引き返すのではなく、さらに先へ進むことにする。










第9回 三子松(因島土生町三子松)

 青影落葉の神からさらに東へ歩き、少し坂を上がると左手に溜め池が見えてくる。長加入池である。

 そこから南に丘陵地が広がっている。その尾根の左端、畑から山林に変わるところに大きな円柱形の水槽がある。今は雑木に覆われて見えない。

 昨夏、ロンジ岩を探しているうちに竜王山へ入った。巨岩を追ってくだっていたら石鎚神社の小祠があった。参道らしきものに従って下山すると、巨大な水槽の隣に出た。かつて因島高校の教室から、南の丘の上に見えていた水槽だと思い出した。眼下に溜め池と、小山ひとつむこうに因島南中学校の一部が見えていた。

 三子松(み こ ま つ)は釣島箱崎浦の戦いの戦場で、中庄茶臼山城主大鳥義康の子供たちが討たれたところだと伝わる。妙泰夫人は妙泰越えの方へ敵をおびきよせ、子供たちを反対方向へ逃したのか、あるいは、はぐれただけなのか。詳しいことはわからない。

 竜王山の方へ逃げようとしていたのだろう。力尽きたのか、敵が意外に早く押し寄せてきたのか。山へ逃げ込めば助かったのではないかと思わせる地形である。 

 溜め池の東の高いところにある家の傍まで上がると、右手の彼方には海が見え、午後の陽を反射していた。











第10回 狸藪(因島中三庄町一区)

 子供の頃、「おーい ふなかたさんよー」という唄声がラヂオから流れていた。椋浦の船方さんたちが歩いたという船方道が三庄にある。善徳寺から歩くことにする。 

 せっかくだからハリコ大師さんにお参りしよう。お札に頭がよくなりますようにと書こうとして、今さら・・という気がしたので、これ以上悪くなりませんようにと書いて、弘法さんの頭部に貼らせていただいた。線香とお賽銭をお供えしてから出発だ。東に向かって歩く。

 右手に注意して歩くとすぐに雑木に覆われた丘が見える。狸藪(たぬきやぶ)である。釣島箱崎浦の戦いの古戦場であるという。

 観音寺の手前で右折して、船方道から外れ、イノシシ柵のないところから丘に登った。みかん畑の尾根を東西に歩く。

 バス通りと船方道の中間にある東西に長い丘である。北にそびえる奥山(観音山)は険しい。南の谷は深そうである。尾根伝いに東へ進めば城山(千守城跡)だ。攻撃側の船団から遠くなるほど地元軍は有利になる。城山で態勢を立て直そうとしていたのかもしれない。

 振り返れば、小丸山も百凡山も見えるから、戦場跡と伝えられていないところへ逃げた兵は助かったのかもしれない。





*****

あれや、これやと、好きなところへ飛んで、全体としては、幾つもの流れが立体的に描かれていた、という具合にしたかったが、それでは読者の方が混乱されるので、単線型でいくことにした。

因島村上氏のことを語るには、天授3年(1377)の釣島箱崎浦の戦いから始めるのがよいだろう。因島村上氏が来島したのが、この戦いの結果だというのは伝説かもしれない。しかし、話としてはわかりやすい。考証は歴史家に任せて、ここから始めることにしたい。 

当面、村上水軍の話をする。村上海賊と、最近では呼ばれているが、今更村上海賊でもなかろう。水軍でも海賊でも言葉の制約があり、十分ではないのだから、これまでどおり村上水軍でいく。しかし、水軍という独立した地位があったわけではないので、この言葉もできるだけ使わないつもりである。因島村上氏という言い方がよいと思っている。そして、時に水軍や海賊の顔があったのだろう。

今岡通任(みちとう)に勝った村上師清(もろきよ)が3人の子供たちを、能島、来島、因島に配した。それが、三島村上氏の時代の始まりだという。後期村上水軍の時代だともいう。

前期村上水軍の時代は村上義弘の死とともに終わる。

村上義弘が因島青陰城主だったというのは伝説である。後期の始まりが伝説であるから、前期のおしまいが伝説であっても構わないが、村上義弘は前期村上水軍として今回は登場願わないでおく。

それで第一回目は箱崎の江の内公園にある古戦場跡の史跡碑(木製)を訪ねる。箱崎漁港の向かいに当時釣島、今は鶴島と呼ばれている小島が見える。海と島のコントラストが美しい。悲惨な戦いのことに思いをいたすよりも、同じところがこんなに美しく今も存在するということが不思議だ。 



  (写真・文 柏原林造)

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