第11回 馬の墓(因島田熊町中区)
田熊の金栗池から少し東へ坂道を上がると、「右土生三庄道 左西浦重井道」と書かれた道標がある。
この道標から左へ行くと、春日神社の傍を通って島四国六十番横峰寺へ至る。本四国の横峰寺は石鎚山系の高所にあるので、それに倣ってかなり高いところにある。以前はもっと高い位置にあったが、少し下がった現在地に立派に新装されている。
その先で右折すると岡野明神藤原神社があるのだが、右折する手前の畑の中に石が重ねてある。
これが馬塚とか馬の墓と呼ばれるもので、釣島箱崎浦の戦いを今に伝えるものである。ここで馬を乗り捨てたので「のりすえ」という地名になったと聞いた。さらに行けば、竜王山と山伏山の間を通って西浦峠に至るから、中庄茶臼山城方面へ向かって逃げていたのだろう。
今岡軍が、土生、三庄、田熊と三方向へ散り散りになっているということから、すでに苦戦していたということがわかる。
宝暦14年の村立実録帖に出てくる小社馬神は藤原神社のこととされているが、そうであるならば、藤原神社ができる前は、ここが馬神と呼ばれていて、その後、馬の墓と呼ばれるようになったのではないかと私は思う。
(2016年10月15日)
第12回 岡野明神(因島田熊町中区)
岡野明神と藤原神社へは浄土寺の鐘楼のところから山の方へさらに上がる。手前で右へ行けば馬の墓と島四国60番横峰寺がある。
この辺りは釣島箱崎浦の戦いの古戦場で中庄茶臼山城主の弟、すなわち妙泰夫人の夫である大鳥宗義が亡くなった。
田熊岡野氏の祖とされる岡野対馬守通宗は元は今岡対馬守通宗と言った人で、この時ここで亡くなったと言われる。しかし、この人が没したのは天文6年(1537)霜月15日で、釣島箱崎浦の戦いから160年後のことであるから、話が難しくなる。
今岡通宗は、田熊の地を治めていて、うまくいかないので、地元の人と同じ岡ノ(丘の上のという意味)明神の氏子となり岡野通宗と改めたという。その真偽は定かではないが、この話から、因島への村上氏来島以降の地域のようすの一端が伺われ、興味深い。
今岡氏は河野氏の子孫だから、今岡の岡と、河野の野をとって岡野にしたという有名な話は、なぜ岡野かという非難に対して本人が答えたものか、あるいは後世の知者の創作かはわからない。
百六十年の差は、没した日が同じであることなどから伝承が混交したのか、あるいは別の二人の人物が同名で伝わったのかもしれない。何年も口承されたものが、後に記録されるような時代の話であるから、もとより正確は期しがたい。(2016年10月22日)
第13回 藤原神社(因島田熊町中区)
藤原神社は岡野明神の隣にある。近づくと見上げるばかりのビャクシンの大木があり、その木の下が藤原神社で、左に一段上がったところが岡野明神である。
それではなぜ岡野明神の隣に藤原神社があるのかということが問題になる。田熊岡野氏の祖とされる今岡通宗は姓を越智氏から藤原氏へ変えて、苗字を今岡から岡野に変えた。すなわち、長くなるが、今岡対馬守越智通宗から岡野対馬守藤原通宗になった。
藤原神社が藤原氏の氏神である天児屋命(あめのこやねのみこと)を祀ってあるなら、岡野明神は越智氏の氏神である大山積神(おおやまつみ)を祀っているに違いない。
そして岡野を苗字とする人たちには、越智姓でその家紋(折敷三文字紋)を使用するグループと、藤原姓でその家紋(籐紋)を使用する二つのグループがあるのではないかと考えた。
また、二社の格を考えた時、通宗の養子先の天児屋命よりも通宗の生家の方の大山積神を上にして岡野明神としたのではないかとも。
我ながらうまい説明だと思った。この仮説を検証するために浄土寺へ行った。結果は・・、折敷三文字紋を見つけることはできなかった。ということから、早い段階より二社とも天児屋命を祀っていたのではないかと思う。(2016年11月5日)
第14回 妙泰夫人の墓(因島田熊町浄土寺)
妙泰夫人の墓が田熊浄土寺にある。
浄土寺はさらに高い山側にあった岡野氏の菩提寺善福寺を起源とする。鐘楼の隣に六地蔵堂があり、その隣の一段高くなった墓地に、岡野氏の祖である岡野対馬守藤原道宗の墓がある。少し右手に「総本家 岡野家之墓」というのがあるから、この辺りが浄土寺の中心だったのだろう。
道宗公の墓は三百五十回忌に建てらたものだと、430回忌世話人会が建てた石碑に書かれている。
その大きな道宗公の墓の手前、向かって左側の小さな墓が妙泰夫人の墓である。注意して見れば「妙泰」の文字が読める。
妙泰夫人の墓がここにある理由は単純に考えれば、妙泰夫人の嫁ぎ先か、実家が岡野家、すなわち今岡家だったということだろう。しかし、今岡通(道)宗が岡野氏の祖であるが、前回述べたように今岡家と岡野家は異なると私は思っている。
それはともかくとして、妙泰夫人の墓は、今岡家と大鳥家の関係が伺われて興味が尽きない。
なお、通宗と道宗のふた通リの表記がある。今回は墓碑のように道宗と記した。(2016年11月12日)
第15回 耳明神社(因島土生町大山神社)
耳明神社は耳護(みみご)神社である。島前城跡にあったものが、現在は大山神社にある。市民会館の左手の階段を上がった辺りにあったという。その階段を上がると図書館の駐車場に出る。整地されて元の姿はわからないが、その辺りにあったと思われる。そしてその隣には藤原泰高の墓があったから、藤原氏の氏神である天児屋命(あめのこやねのみこと)が祀られていたであろうし、またそれが、第2回で書いたように、上原祐信によって守護神として引き継がれたとすると、実に長い間信仰されているということになる。あるいは逆に、そこへ巻幡氏が祀ったのかもしれない。
耳の神様は茨城県の耳守神社とここの耳明神社の他に知らないので、珍しいものだと思う。耳明(耳護)神社、耳守神社と並べて書くと、護と守はともに「まもる」という字であることが興味深い。
耳明神社では、顔のない大きな耳だけが祀られていて驚くが、サザエの殻がたくさんあるのが人目を引く。自分の耳の中は見えないが、サザエの渦巻きが耳の中に似ているからかなと思っていたら、その殻の中にお米とお酒を入れてお供えするとご利益があるということだった。補聴器を買うことを思えば、サザエは安い。
(2016年11月19日)
第16回 藤原泰高の墓碑(因島土生町対潮院)
島前城跡である因島図書館の駐車場にかつて耳明神社があり、その隣には藤原泰高の墓碑があったという。
東国武士の西国への移住には、源平合戦後と承久の乱後の二度のピークがあった。その承久の乱(一二二一年)後に来島して巻幡氏の祖になった泰高の墓碑は、今は対潮院にある。境内を抜けて墓地側の道路へ出たところに、巻幡家祖先奥都城の碑があり、その前にある。「巻幡先祖 藤原泰高墓 巻幡家一族建之」と彫られた石の形が印象的だ。
藤原泰衡の子万寿は後に泰高と名乗り、津軽の牧畑を開発したという話が酒田市にあり、興味深い。その子孫か本人が因島に来たということだろう。
田熊の藤原神社を建てた岡野氏の先祖と関係があるのだろうか、ないのだろうか。知りたいところであるが、わからない。
また、土生村の大西屋嘉平太さんの子が重井に住み、橋本屋を名乗った。その子が油屋茂平(茂平屋)で・・と順次広がったのが重井の藤井氏である。もし嘉平太さんが泰高の子孫であれば、私の母の旧姓は藤井であるので、ここを素通りするわけにはいかない・・・。
これで天授三年(一三七七)霜月十五日の釣島箱崎浦の戦いの関連史跡は、ひとまず終わりにします。今年は十二月十三日が霜月十五日です。地形は変わりましたが、大潮で満月であることは同じです。
第17回 鍛冶神社跡(因島土生町串畑)
第18回 長崎城跡(因島土生町荒神平)
天授3年(1377)霜月15日の釣島箱崎浦の戦いで今岡通任に勝った村上師清は、子息吉豊を現在ナティーク城山がある丘に住ませた。慶長5年(1600)関ヶ原の合戦敗退後、周防長門二州に封じられた毛利氏に従い、因島を去るまでの225年間が因島村上氏の時代である。
吉豊を初代として、吉資、吉光、吉直、直吉、吉充、吉亮、元充の八代である。そのうち、六代吉充が向島余崎へ移るまでの180年間6代にわたって長崎城を本城とした。
ナティーク城山に上がる石段の下に「広島県史跡因島村上氏城跡(長崎城跡)」と書かれた史跡標と説明板がある。その隣は、多数の巨大な船舶を浮上させだけでなく、因島や周辺の島々をも浮かべていた日立造船株式会社因島工場の正門があった所である。ということは、ここを中心にしてかつて因島は歴史上二度に渡って、燦然と輝いていたということである。このことを長く心に留めておこう。()
第19回 荒神山城跡(因島土生町荒神平)
ナティーク城山の長崎城跡が因島村上氏の本拠地だとすると、いかにも狭いという印象を受ける。しかし、長崎城跡から道を隔てて東側の長い石段を登ると荒神社がある。このあたり一帯が荒神山城跡である。長崎城の控えの城ということであるが、長崎城と一体と考えればかなり大きな城砦となるだろう。
白亜の鉄筋が荒神社で、その南の少し高くなったところにある木造の社は、城山神社である。その横を通って大宝寺の墓地の縁を登って振り返れば、長崎瀬戸の素晴らしい光景が眼下に広がる。傾斜地から平地に変わるところがかつての海岸線であったこともわかる。
墓地の最高部をさらに過ぎると急に低くなる。これが天然のものか人工的なものかはわからないが、空堀の役目をしたことは十分考えられる。
さらに因島公園を抜けて、三庄町との境をなす尾根筋を通れば、変電所の上に聳える小丸山城跡に通じる。小丸山城は第二家老稲井氏が守っていた。まことに本拠地を守るにふさわしい地形である。
第20回 弓場馬場跡(因島土生町平木)
長崎城跡、荒神山城跡の少し北に弓場、馬場があった。弓場医院の東側で、「村上水軍弓ならびに馬場跡」の史跡標があり、道路の反対側に解説板がある。それによると村上水軍には騎馬頭が十三家あったという。
水軍とか海賊と言うと船の上で戦う男たちだけが想像されるが、陸上での生活もあり、また女子供もいた。貝も掘ったであろうし、畑も作っただろう。馬の墓があったように陸の戦いで馬を使うこともあった。荷物を運んだり、城砦間の移動にも使ったかも知れない。
北側にある島四国の浄瑠璃寺へ行くと少し高くなっていて、周囲がよく見える。西側が低くなっているから、海岸が近かったと思われる。このように現在我々が通っている海岸沿いの道の多くは埋立地で、当時はなかった。山道、峠道が馬が通れる程度に整備されていたのかも知れない。
そんなことを考えながら崖を見ているとその傍にお大師水の井戸があった。弓を射たり馬を走らせたりするには、かなりの広さが必要だろう。他より長い砂浜か、広い傾斜地があったのだろう。
(写真・文 柏原林造)