2021年1月14日木曜日

ふるさとの史跡を訪ねて(増補版)21-30回

増補版index 本館 白滝山 いんのしまみち YAMAP 

第21回 長源寺跡(因島土生町箱崎)

 今では中庄の金蓮寺が因島村上氏の菩提寺として知られているが、かつては因島図書館下にあった長源寺がそうであった。長源寺は天正五年(一五七七)に焼失した。そのあと、仏堂を再建すればよかったのであるが、そうしなかった。墓所が金蓮寺に移り、長源寺は中庄の長福寺となった。

 長源寺の跡には後に地蔵堂が建ち島四国の番外札所となっていた。村四国の札所もあったのではないかと言われている。雑草と木立に覆われている一帯である。



 この付近は長源寺谷と呼ばれ、田熊側が寺迫と呼ばれている。中庄の寺迫は長福寺付近。重井の上坂(かみざこ・上迫)は善興寺の東、池の迫は因島北インター入口バス停付近というように、西日本では小さな谷に迫という字を当てる。

 田熊の寺迫には島四国を除けば寺らしいものはないので、長源寺の谷という意味だろうと教えてもらった。すなわち、長源寺谷は図書館のある建物の下を通って田熊側へ続いていたことが想像される。()


第22回 余崎城跡(尾道市向島町立花)

 弘治3年(1557)、因島村上氏6代吉充の時、土生長崎城から向島町立花の余崎城へ移った。これは尾道駅前の対岸にあり、当時は小島だった岡島城を奪った褒賞として向島の大部分を小早川隆景からもらったからである。永禄12年(1569)因島重井青木城へ移るまでの13年間、因島村上氏の本城とした。



 本城としては13年間であるが、青木城へ移ってからも因島村上氏にとっては重要な場所であって、関係者も多く住んでいたに違いない。そのことは、向島で一番多い姓が、因島と同様村上氏であることからも想像される。

 大浜の対岸でもあり、布刈瀬戸を通る船を見張る位置である。かなり広い半島で、観音崎と呼ばれる先端は低くなっていて、海に近くて何かと便利だったのではないか。また半島全体が波除け風除けになって、両側は係船にも便利だったと思われる。東側の小さな湾が船隠しだったと言われている。

 背後にある高見山はその名が示すように見張り所でもあり、同時に控えの要害としても重要な山だったと思われる。

 船を自由に操った人々には、因島からは想像以上に近かったのではないかと、余崎城跡から因島を見ながら思った。写真は高見山から。()



第23回 白石島(尾道市向島町)

 余崎城の東の入り江はかつて船隠しがあったところであるが、今はマリンユースセンターになっている。ここと百島の南端だんご岩を地図を出して結んでみよう。そのまん中あたり、ちょうど加島の南側に小さな岩礁のような島がある。白石島である。白石島には小さな海食門があり、その穴を通して向こうを通過する船影が見えたりする。

 重井に住み、代々庄屋をして長右衛門と称したのは因島村上氏6 代吉充の弟吉清の子孫である。長右衛門家6代知義の弟忠四郎は分家して伊浜に住んだので伊浜分家と呼ばれた。広島藩と福山藩の境界争いがおこった時、忠四郎は父親の名代として、この白石島が藩界であることを説いて解決させた。その褒美に藩主から、白石の苗字と帯刀が許され、この島のほか馬神山の土地、後に毎年の香花料を賜った。それゆえ白石島は伊浜島とも呼ばれる。

 長右衛門知義は重井の庄屋として塩田を綿作地に変えるなどの事業の必要から、上下の高利貸しから借財した。しかし、返済できず知義一人がその罪を負い刑死して家族は四散した。

 忠四郎はそれ以前に亡くなっていたので、伊浜分家には累は及ばなかった。以来、長右衛門家の跡目位牌墓所などは伊浜分家(現在の嘉美屋村上氏)によって相続され守られてきた。()



第24回 三躰妙見宮(尾道市向島町立花)

 魚島・椋浦・立花の海の三角形~椋浦伝説を確かめるために余崎城跡近くの三躰妙見宮へお参りした。

 いつ何家族何人が魚島から椋浦へ来て、椋浦から立花へ行ったかという正確な記録がないので、伝説と呼ばれ ているのだろう。魚島にも立花にも、この話はあるので史実だと思う。

『芸藩通志』にも載っている椋浦のまな板叩きは、かつて魚島で漁業者だったことを忘れないために除夜に行った風習だと言われている。また、魚島には三庄千守城から敗退してきた篠塚伊賀守が海岸で行った戦闘訓練に発する「てんてこ踊り」がある。これが椋浦の「法楽踊」の起源ではないかと言われている。

 立花の妙見宮では、玉垣に書かれた寄付者名に「青木」という文字を探した。予想は裏切られなかった。なお、立花への移住者は椋浦だけでなく、三庄の槙氏らの他、鏡浦、外浦からもいた。

 三躰妙見宮は因島村上氏初代吉豊が正長元年に奉祠し、6代吉充が余崎城築城に際して武運長久を祈願して建立したとも伝えられており、江戸時代に立花村を拓いた因島からの移住者らによって氏神社として篤く信仰されたものだと思われる。()


第25回 岡島城跡(尾道市向島町)

 船から鉄道への乗り換えは、いつも旅の始まりだった。尾道駅前桟橋はすでに無く、尾道駅もまもなく模様替えが行われる。懐かしい光景がまたひとつ消えていくのはさみしい。

 思い出深い駅舎の前に立つと、対岸の岡島城跡の小山がよく見える。東隣の桟橋は自動車も運ぶ福本渡船の発着場。その航路と交差して、駅前渡船がレンタサイクルを運ぶ。入り江に入るフェリーボートは川を遡っているような珍しい光景を作る。しまなみサイクリングロードがここから始まる。

 岡島は昭和五年ごろまでは名前の通り小さな島だった。尾道水道を見張る砦だったのだろう。「宇賀島(岡島)を陥せ」「向島が欲しい」「獲ったらやろう」というようなやり取りが小早川隆景と六代吉充との間で行われ、そのようになった。吉充は土生の長崎城から向島立花の余崎城へ移った。

 岡島城跡から近い亀森八幡神社は除虫菊神社があることで有名だが、村上神社と旭神社もある。旭神社は余崎城と岡島城の城主だった吉充が川尻ゆかりの木曽義重父子を祀った。吉充が没後祀られたのが村上神社である。   ()


第26回 青木城跡(因島重井町)

 多くの本に青木城跡の所在地として重井町龍王山と書いてある。県史跡に指定された時の所在地であるから間違っているわけではない。しかし、地図で見ると重井には龍王山(権現山)というのがあって紛らわしい。権現山には「とおみんさん」と呼ばれる尾根がある。遠見山のことで狼煙(のろし)の見張所の跡であるから間違って訪ねても無駄ではないが、注意が必要である。

 永禄12年(1569)因島村上氏6代吉充は13年間いた向島から因島へ戻って、青木城に住んだ。この頃、小早川隆景が三原城の整備に掛かっており、隆景の指示によるものだと言われている。

 7代吉亮、8代元充と三代にわたって本城とした。慶長5年(1600)、毛利氏の防長移封に従って因島村上氏は因島から去るので、因島最後の30年ばかりが重井時代である。

 青木城跡は海に接してないが、周囲は江戸時代に開発(干拓)されたところで当時は白滝山側を除いて三方が海に面していたと思われる。山頂の龍王社の小祠の前から竹藪の中を東へ進むと、東の廓の向こうにフラワーセンターと白滝山が見える。

   長崎城、余崎城と同様に控えの要害だったことがうかがえる。

フラワーセンターを間に上が白滝山。






第27回 白滝山観音堂(因島重井町白滝山)

 青木城跡の東にある標高226mの白滝山は今から190年ほど前の文政年間に作られた五百羅漢石仏群で有名だが、それ以前から観音堂があった。

 白滝山は岩山で雨が降ると白い滝のように見えるのでそう呼ばれるようになったと言われるが、「中国地方から西ではタキの地名は断崖をさす」(谷川健一『日本の地名』)と書かれているから白い岩肌の断崖という意味に解したい。

 因島四国八栗寺近くから見る巨岩の断崖は迫力がある。そして、白滝山が山伏たちの修行に使われていたという話に納得できる。6代吉充が青木城築城とともに見張所として白滝山を使うにあたって観音堂を建て、高名な山伏の常楽院静金を堂主とした所以である。観音堂は安政6年(1859)に再建された。

  観音堂の前にある天狗像三体はそのような修験道の歴史の名残を示すものであり、興味深い。

 天狗像の下の磨崖仏の石像が「十字架観音像」と呼ばれているが、細島、三庄観音寺、向島岩屋巨石などの三十三観音にも同様な石仏はあり、左手に掲げているのは十字状の武具と解釈すべきだろう。子細に見れば、横棒はやや上側に反っていて十字架でないことは明白である。()


 

第28回 常楽院静金供養碑(因島重井町小林)

 白滝山観音堂の堂主常楽院静金の供養碑が小林(こばし)の島四国高照院の隣にある。(写真右端)供養碑は大正9年の三百大遠忌に建てられているので、高齢であっ たことがわかる。

常楽院静金大徳が戒名で、本名は峯松作兵衛と言い、細島で山伏をしていた人である。細島はかつて山伏島とも呼ばれ、多くの修験者がいた。この海域は今でも「山伏瀬戸」と呼ばれる。

 重井峰松(峯は峰の異体字)氏の祖は、足利尊氏が九州へ下ったときの従者で、上洛の際尾道で病気のために戦列から離れ、宿の娘を娶った。(下向の時という説もある)。その後重井に来て峯松五郎左衛門義光と名乗ったと伝わる。五郎左衛門家は白滝山山麓にあり、大瀬戸と呼ばれた。また白滝山南西の尾根にある峯松神社には、「峯松元祖豊安大権現 天保十二年二月建之」と書かれている大岩などがある。

 常楽院静金は4代五郎左衛門の五男で、大瀬戸家最初の分家である。常楽院峯松氏は初代から九代までが修験者で、権大僧都の高位者も輩出している。

 なお、左端の大きな墓碑には7代夫婦と8代の名が記されている。

 地名のコバシは、村上水軍時代に小早の船溜りがあって、その小走りから来ているという。いかにも苦しい。多くの地名起源説話が言葉遊びによる後世の創作に過ぎないが、こんな納得しがたいような話を創作する者はいないだろうから、この話には却って真実みがあるように私には思える。



第29回 随身像(重井八幡神社)

 伊浜八幡神社とも呼ばれる白王山八幡神社の随身門は文化8年(1811)に建てられたものであるが、因島村上氏6代吉充が永禄12年(1569)青木城築城に際して奉納したと伝えられる随身像が飾られている。 

   

 八幡神社は青木城から見れば、艮(うしとら)の方角(北東)で鬼門である。反対の裏鬼門には山の神が祀られているから、これらの配慮が修験者の教唆に基づいたものだという説は、無理のない推定だと思う。

 八幡神社の棟札には「大旦那源吉充 永禄十二年九月廿一日」などの文字の他に「勧進者平土讃守柏原忠安七十八才」と書かれている。なぜ一人だけ年齢が書かれているのだろうか。書かれた時には既に亡くなっていたのだろうか。あるいは珍しいほどの高齢だということで記したのだろうか。

 慶長5年(1600)の毛利氏の防長移封に伴い、忠安の長男は萩へ、次男が上坂から川口へ移り、三男は早稲田で医者をした。それぞれ、川本家、蔵本家の初代になり、重井柏原氏はこの両家から始まったと伝わる。

 柏原神社のある荒神社は須越と上坂の間の無量寺跡にあり、柏原土廟碑などがある。福山の詩人木下夕爾氏は昭和33年に、ここから重井の町を眺めて重井小学校校歌を作詞した。()




第30回 青陰城跡(因島中庄町、因島田熊町)

「先のほうに、山が、三つ見えましょう。あのまん中が、村上海賊の城のある、青影山でござります」と「海賊八幡船(ばはんせん)」という題で映画化された村上元三氏の小説『八幡船』に出てくる。すなわち、東に風呂山(写真左)、西に龍王山(写真右)があって、そのまん中の頂上が平たい台形の山が青影山である。

 頂上からの眺望はまことに素晴らしい。弓削港、長崎城跡、青影山、青木城跡、細島茶臼山城跡の南北の線と、余崎城跡、青影山、伯方島の東西の線が交差する。周辺の因島村上氏の砦跡を目で追えば、その中心に位置していたことがわかる。

 それぞれの砦にここから指令を出したり、あるいはここを経由して狼煙(のろし)リレーを行えば強力なネットワークができそうである。そんなことを思ってしまうほどの絶好のロケーションである。しかし、天候に左右される狼煙でどれだけの通信ができたのか。多くを期待することは現実的ではない。そのようなことが行われた時代があったかも知れないが、長くは続かなかったのではなかろうか。 

 また、山頂の広さと周囲の山々との地形などを考えると一時的だったかも知れないが、戦略的にも重要な砦であったと思われる。







  (写真・文 柏原林造)

➡️ブーメランのように(文学散歩)