2018年6月28日木曜日

B

弁道話


諸仏如来、ともに妙法を単伝して、阿耨菩提を証するに、最上無為の妙術あり。これただ、ほとけ仏にさづけてよこしまなることなきは、すなはち自受用三昧、その標準なり。この三昧に遊化するに、端坐参禅を正門とせり。この法は、人々の分上にゆたかにそなわれりといへども、いまだ修せざるにはあらはれず、証せざるにはうることなし、はなてばてにみてり、一多のきはならんや、かたればくちにみつ、縦横きはまありなし。諸仏のつねにこのなかに住持たる、各々の方面に知覚をのこさず、群生のとこしなへにこのなかに使用する、各々の知覚に方面あらはれず。いまおしふる工夫弁道は、証上に万法あらしめ、出路に一如を行ずるなり、その超関脱落のとき、この節目にかかはらんや。

まさにこのとおりです、他まったく云うことなし、よく見聞して、これを得てよくまた保護して下さい、ほとけ仏に単伝する他なく、虎の威を借りる狐、人の物差しをあてがうんでなく、ただこれ自受用三昧これが標準です。他にこんな教えはないです。いいことはいいことだからという、みっともなさ独善を免れる、いえ他の諸々も結局は自受用三昧です、ただそれを知らないんです。個性だの独自などいうてお茶を濁す、醜悪です。それゆえに端坐参禅を正門とす、坐って下さい、坐るしかこれを修し証拠する方法はないんです、かたればくちにみつと、なにをどうかたろうが道本円通、ただこれ真っ只中です、でなきゃなんの意味もない。道徳家宗教家の騒々しさ、淋しさを免れて下さい。赤ん坊のたたわわ百花開くんです。そのありさまを、各々の方面に知覚を残さず、各々の知覚に方面露はれずというたです。住持して下さい、ちらとも気がついたなら、まさにそれより始まるんです。見性といい得るという、証上に万法あらしめ、万法がわれを証するんです、出身の活路これ、超関脱落とやこうべきだのだからに拠らない、生まれたて生まれる以前ですよ、なんという歓喜大満足、まさにこれをおいてないことを痛烈に知るんです。はいどうぞ眼蔵を見るに、まずもって襟元を糾して下さい、至心帰依、拝し終わってこれを受く。

諸仏のこの中に住持たる、各々の方面に知覚を残さず、群生の長しなえに此中に使用する、各々の知覚に方面露れず、是時十方法界の土地草木牆壁瓦礫皆仏事を作すを以て、其の起こす所の風水の利益に預る輩、皆甚妙不可思議の仏化に冥資せられて親き悟を顯はす、是れを無為の功徳とす、是れを無作の功徳とす、是れ発菩提心なり。

 これは修証義第三章のおしまいにあります、住職という昨今坊主どものまったく与り知らぬ処ですが、弁道話の冒頭とまずはそっくりそのまんまです、弁道ということが世襲坊主どもにははなっかない、では仏教じゃない、らしくと猿芝居、信者とお布施という、新興宗教にもまして集団自閉症です。道元禅師を食いものにし、達磨さんに毒を盛る連中ですか、まあどうしようもないです。各々の方面に知覚を残さずという、出家ということであったです、我欲を断つということ根本です、どうしても色を付ける、無心というまっさらにはならない、取捨選択好き勝手の世界です。たとい絵を描くと現れる、ごまかしようがないです。至道無難唯嫌揀択ただ憎愛なければ洞然として明白なりとある、絵を描く人ならば、いったんは風景が失せる、絵筆を折るんですか、向こう消えればこっちも消える、死ぬとはこれです。死んで死んで死にきって思いのままにするわざぞよき。死にきってはじめて彼岸にわたる、ぱーらみーたー般若の智慧なんです。各々の知覚に方面露はれず、円相です、ものみなまったくです。土地草木牆壁瓦礫皆仏事をなす、無自覚の覚まずもって痛烈にこれを知る、これなくては仏教じゃない。瀬戸内寂聴他お茶を濁す、うわさ話の右往左往です、信者といううそばっかりを生産します。害悪です。利益とは何か、いいことすりゃいい報いがある等銭儲かる以前を思う、実は世の中という自分を捨てないと手に入らない。風と水になって下さい、風と水の利益がわかります、甚妙不可思議の仏化、これを悟りというんです、悟ったとはもののありようを知る。見た目平らとちがう。菩提心とは何か、人々自ずからに答えを出して下さい、それ以外に方法はないです。


ただしおのずから名利にかかはらず、道念をさきとせん真実の参学あらんか、いたずらに邪師にまどはされて、みだりに正解をおほひ、むなしく自狂にゑふて、ひさしく迷郷にしずまん、なにによりてか般若の正種を長じ、得道の時を得ん。貧道はいま雲遊萍寄をこととすれば、いずれの山川をかとぶらはん。これをあはれむゆえに、まのあたり大宋国にして禅林の風規を見聞し、知識の玄旨を稟持せしを、しるしあつめいて、参学閑道の人にのこして、仏家の正法をしらしめんとす、これ真訣ならんかも。

 雲遊萍寄、萍はうきぐさ、大法を得て帰って弘法救生を思いとするのに、重い荷物を背負ったようだ、まずは弘通の心を放下して、しばらく雲遊萍寄して、激揚の時を待ち、先哲の風を聞こえんとす、跡をとぶらうわけです、これが正法眼蔵の謂れですか。ただし自ずから名利に属せずと、道念とはこれ、真の参学は他にはないんです。雑念あったら雑念にもって行かれる、なんとしても純粋無雑の心です。自分という思い込み、不当に所持する身心というよこしまを去るんです。ただこれ一大事因縁、ちらともあればそれでおしまいなんです。いたずらに邪師にまどわされと、そりゃもうさんざんな目に会うんです。入宋沙門道元禅師については、いえまさに渠をおいて他に正師たるはなかった、今も同じです。一盲群盲を引く、勝手に解釈して我田引水、正師は奪い去る、邪師は付け足すんです、真正面に向き合ってごらんなさい。正師はこれと示し、邪師はあれというんです。至りえ帰り来ること人本来知る、未だしならどうあがいたって未だしです、繕う先に漏れるんです。まずもってそれを見てとって下さい。みだりに正解を覆いは正解を思うに同じ、正解のまっただなかにおいては正解を知らず、ものみな一切この中にあって、自受用三味です、よくよく保護して下さい。花は花のように咲き、雲は雲のように流れ、雲は雲と云わず花は花と云わず。むなしく自狂に酔うてもの淋しい、騒がしいもの、ひさしく迷郷に沈む、こんなふうであっては断じてならんです、厳に謹んで下さい。貧道とは自分のことです、どこまで行っても貧道なんですよ、かくあってこそ始めて得道の者、一日働かざれば一日食らうべからず、一杓の水を半杓返すという、ただの人の日送りこれ。いずれの山川をとぶらはんと、一所不定なんです、幻住という、そうですよおらあがんとものみな良寛さん、ものみな仏事をなすをもって、一生不離叢林は、これはじめて我国に禅師がもたらしたんです。片隅を照らすものは国宝という、いえ優等生の指図じゃないんです。人々みなです、人にあらざるものみんなです、もと入らざるはなし、ここをもって真訣です。


この単伝正直の仏法は、最上のなかに最上なり。参見知識のはじめより、さらに焼香・礼拝・念仏・修懺・看経をもちいず、ただし打坐して身心脱落することをえよ。もし人一時なりといふとも、三業に仏印を標し、三昧に端坐するとき、遍法界みな仏印となり、尽虚空ことごとくさとりとなる。ゆえに諸仏如来をしては、本地の法楽をまし、覚道の荘厳をあらたにす、および十方法界、三途六道の群類、みなともに一時に身心明浄にして、大解脱地を証し、本来の面目を現ず。

 三業は身口意または三毒の貪嗔痴による、三途は地獄餓鬼修羅道、六道はそれに畜生人間天上を加える、あっはっはわしはこういうのじき忘れちゃうで辞書を引いた。焼香礼拝念仏など仏教らしいことの習慣ですか、修懺看経という、坊主にお経問答猿芝居みたい、あるいは門徒の言い訳懺悔ですか、まったくお座成りです。たいていなんにもなりはしない、いい気分になるかかたくなになるか、お釣りが来るんですか、人本来そのものというには、却って不都合。単伝正直の法は最上のなかに最上なりと、ただし打坐して身心脱落することを得よと。たとい一時なりとも、遍法界みな仏印となり、尽虚空みな悟りとなると。答えそのものなんです。如来来たる如しです。では他のものは邪魔にこそなれ、なんの役にも立たぬです、まずこれを知りこれを証拠して下さい。三昧に端坐して、一切ものみな仏印を、尽虚空ことごとく悟るを知って下さい、でなきゃなんの意味もないです。見性して仏を得る、仏向上事という。日々新たにという、ゆえに諸仏如来、本地の法楽を増し、覚道の荘厳を新たにす、法楽を見、荘厳をもってする、まさにこれを知って下さい、生活とはこれ。および十方法界一時を同じく、身心明浄にして大解脱地です。そうですねえ、今様曖昧もこから脱し去って、はるかに一箇たることは、小人が巨人になる如く、あるいは思いも及ばぬ清々です、生まれたまんまとは、まずもって萎縮の殻をぶち破って下さい、能書き説明文学を止めるんですか、本当の用なしになって下さい、はじめて呼吸するほどに、あっはっはまあそういうこったですか。

しかあれども、このもろもろの当人の知覚に昏せざらしむることは、静中の無造作にして、直証なるをもてなり。若し凡流のおもひのごとく、修証を両段にあらせば、おのおのあひ覚知すべきなり。もし覚知にまじはるは、証則にあらず。証則には迷情およばざるがゆえに。また、心境ともに静中の証入悟出あれども、自受用の境界なるをもて、一塵をうごかさず、一相を破らず、広大の仏事、甚深微妙の仏化をなす。

 坐禅というまさに単純を示すのは、単純を見ていては単純にならんのです。そりゃ複雑です、静中の無造作とはこれです、忘我というに直証です。これを知覚に昏ますこと、凡流のなせるわざ、悟りといい仏という、もとあるものをこうあるべき、かくのごとくの心境と、ああでもないこうでもないして、それを有り難がる、よこしまです。修証を両段にする、まったくよくないんです、相当に行く人でもこれをやる、なにかしら取り柄がほしいんです。おれはこうあったから云々ですか、すると彼岸ではなく此岸です。門徒の言い訳弁解仏教なんです、行ったっきりでいいんです。覚知にまじわるは実際にあらず、迷情及ばずの工夫は、なかなか奥が深いと云ったら怒られるんですか、行っても行ってもと思って下さい、ついには本当に本来、なんという、昨日のおのれはぜんぜん駄目だったんだなと云うが如くです。なにしろ坐って下さい。坐の荘厳これが法楽なんに替え難いことは、静中の証入悟出たといあろうが、それらをすべてです、たとい妄想という観念露出だろうが、あまねく仏事なんです。まったくの肯定です、そんな幸せは他にないんです。断然たる自受用三昧、一塵を動かさず、一相を破らず、はいどうか広大仏事深微妙に相続して行って下さい、待ってますよ。



ここをもて、わずかに一人一時の坐禅なりといへども、諸法とあひ冥し、諸時とまどかに通ずるがゆえに、無尽法界のなかに、古来現に、常恒の仏化道事をなすなり。彼彼ともに一等の同修なり、同証なり。ただ坐上の修のみにあらず、空をうちてひびきをなすこと、橦の前後に妙声綿々たるものなり。このきはみにかぎらんや、百頭みな本面目に本修行をそなへて、はかりはかるべきにあらず。しるべし、たとひ十方無量恒河沙数の諸仏、ともにちからをげまして、仏知慧をもて、一人坐禅の功徳をはかり、知りきはめんとするといふとも、あへてほとりをうることなし。

 大光明という時に、光明を発するものこれを見ず、これを知らず、ましてや坐の境地のきらきらしい悟りのなど、もっての他、つまりのみのきんたまですか。葦の髄から天井を覗く、至りえ帰り来たるということがない、駒沢の教授などいう不細工の言です。そうじゃい、かくのごとくに無尽法界古来現、常恒の仏化道です。いったいだれかれの違いじゃない、別なしにまったくの同死同生底です。すなわちこうあるべき、定まりだの、どうあらねばならぬ、だからゆえになどないんです、ものみな解き放たれて、実に大自在はもとこのとおりだからこそ、存在というもおろか命というもけちくさいんです。百頭みな本面目に本修行をそなえ、はかりはかるべからずは、これ坐禅人の工夫そのものです。よろしくよく見て取って下さい、何か他のことやってはいませんか。たとい十方無量恒河沙の諸仏、力を励まして、あなたの坐禅の功徳をはかり、知り極めんとしても、敢えてほとりを得ることなしと、いいですかつまらんてめえという、辺りをどうこうしないんですよ、まずこれがまっさき、そうしてね、豈に坐臥にかかわらんや、この節によく出ております、なんというたって坐をもっぱらにしろということです。空をうちてひびきをなすこと、橦の前後に妙声綿々たるものあり、仏とは何か、無自覚の覚比類なしを知って下さい。


とふていはく、あるひは如来の妙術を正伝し、または祖師のあとをたずぬるによらん、まことに凡慮のおよぶにあらず。しかはあれども読経念仏は、おのずからさとりの因縁となりぬべし、ただむなしく坐してなすところなからん、なにによりてかさとりをうるたよりとならん。」しめしていはく、なんじいま諸仏の三昧無上の大法を、むなしく坐してなすところなしとおもはん、これを大乗を謗する人とす。まどひのいとふかき、大海のなかにいながら、水なしといはんがごとし。すでにかたじけなく諸仏自受用三昧に安坐せり、これ広大の功徳をなすにあらずや。あはれむべし、まなこいまだひらけず、こころなほえひにあることを。おほよそ諸仏の境界は不可思議なり、心識のおよぶべきにあらず。いはんや不信劣智のしることをえんや、ただ正信の大機のみよくいることをうるなり。不信の人は、たとひおしふともうくべきことかたし、霊山になほ退亦佳矣のたぐひあり。おほよそ心に正信おこらば、修行し参学すべし。しかあらずばしばらくやむべし、むかしより法のうるほひなきことをうらみよ。又読経念仏等のつとめにうるところの功徳を、なんじしるやいなや。ただしたをうごかし、こえをあぐるを、仏事功徳とおもへる、いとはかなし。仏法に擬するに、うたたとほく、いよいよはるかなり。又経書をひらくことは、ほとけ頓漸修行の儀則ををしへおけるを、あきらめしり、教のごとく修行すれば、かならず証をとらしめんとなり。いたずらに思量念度をつひやして、菩提をうる功徳に擬せんとにはあらぬなり。おろかに千万誦の口業をしきりにして、仏道にいたらんとするは、なほこれながえをきたにして、越にむはんとおもはんがごとし。

 とふていはく、しめしていはくの項以下このとおりに続きます、解説不要むかしも今もこのとおり、まったく他なしです、もし意ある人は読んでみて下さい、法華宗真言宗浄土真宗他ある中に、仏教と呼べるものはほとんどないんです、直示単伝の法まさにこれのみを知って、実に直示単伝して行って下さい、世の中を明るくする方法は他にはないです、よろしくよく正信の大機たること、こいねがいます。


とふていはく、いまわが朝につたはれるところの法華宗、華厳宗、ともに大乗の究竟なり。いはんや真言宗のごときは、毘廬遮那如来したしく金剛薩垂につたへて、師資みだりならず。その談ずるむね即心是仏、是心作仏といふて、多劫の修行をふることなく、一座に五仏の正覚をとなふ、仏法の極妙といふべし。しかあるに、いまいふところの修行、なにのすぐれたることあれば、かれらをさしおきて、ひとへにこれをすすむるや。」しめしていはく、しるべし、仏家には教の殊劣を対論することなく、法の深浅をえらばず、ただし修行の真偽をしるべし。草花山水にひかれて、仏道に流入することありき。土石砂礫をにぎりて、仏印を稟持することあり。いはんや広大の文字は、万象にあまりてなほゆたかなり、転大法輪また一塵にをさまれり。しかあればすなはち、即心即仏のことば、なほこれ水中の月なり、即坐成仏のむね、さらにまた鏡のうちの影なり、言葉のたくみにかかはるべからず。いま直証菩提の修行をすすむるに、仏祖単伝の妙道をしめして、真実の道人とならしめんとなり。又仏法を伝授することは、かならず証契の人をその宗師とすべし。文字をかぞふる学者をもて、導師とするにたらず、一盲の衆盲をひかんがごとし。いまこの仏祖正伝の門下には、みな得道証契の哲匠をうやまひて、仏法を住持せしむ。かるがゆえに、冥陽の神道もきたり帰依し、証果の羅漢もきたり問法するに、おのおの心地を開明する手をさずけずといふことなし。余門にいまだきかざることなり。ただ仏弟子は仏法をならふべし。又しるべし、われらはもとより無上菩提かけたるにあらず。とこしなへに受用すといへども、承当することをえざるがゆえに、みだりに知見をおこすをならひとして、これを物とおふによりて、大道いたずらに蹉過す。この知見によりて、空華まちまちなり。あるひは十二輪転、二十五有の境界とおもひ、三乗・五乗・有仏・無仏の見つくることなし。この知見をならふて、仏法修行の正道とおもふべからず。しかあるを、いまはまさしく仏印によりて、万事を放下し、一向に坐禅するとき、迷悟情量のほとりをこえて、凡聖のみちにかかはらず、すみやかに格外に逍遙し、大菩提を受用するなり、かの文字の筌睇にかかはるものの、かたをならぶるにおよばんや。


 はいこのとおりです、こっちの云いたいこと逐一する親切、まことにかゆいところに手が届くふう、正法眼蔵さえ見ていれば、もういらない、涙を落とす良寛さんの俤が浮かびますか。たとい即心即仏を云う、なを水中の月のごとく、鏡のうちの影のごとく、自分のことだとは夢思わない、淋しく騒々しい輩、あるいは詩歌管弦の道ですか、草花山水にひかれする。風景と一如を思いたがえて、樹林に坐し、耳をそぐほどが明恵上人も、もしくは土石沙礫を握りて仏印となす。未だこれを知らず、生まれ本来の仏を見ず、なにゆえにいたずらに身心を弄し、ついに得ず焦燥のうちに死ぬか。われらもとより無上菩提、とこしなえにこの中にありといえども、なを証せずんば現れず。これを物と思うて追い求め、空華まちまちにして、だからといい得たといい思想百般、これたとい禅宗無門関といいながら、物として追う、室内を透過した無字をとおった、だからという、こっちの岸です。迷悟情量のうちに、俗物凡聖です、曖昧模糊として、世界中がみんな平和になればなぞ、時流におもねる以外になく、なんというみっともなさ。


とふていはく、この坐禅の行は、いまだ仏法を証会せざらんものは、坐禅弁道してその証をとるべし。すでに仏正法をあきらめえん人は、坐禅なにのまつところかあらん。」しめしていはく、痴人のまへにゆめをとかず、山子の手には舟棹をあたへがたしといへども、さらに訓をたるべし。それ修証はひとつにあらずとおもへる、すなはち外道の見なり。仏法には修証これ一等なり。いまも証上の修なるゆえに、初心の弁道すなはち本証の全体なり。かるがゆえに、修行の用心をさずくるにも、修のほかに証をまつおもひなかれとおしふ。直指の本証なるがゆえなるべし。すでに修の証なれば証にきはなく、証に修なれば修にはじめなし。ここをもて釈迦如来・迦葉尊者、ともに証上の修に引転せらる。仏法住持のあとみなかくのごとし。すでに証をはなれぬ修あり、われらさひはひに一分の妙修を単伝せる初心の弁道、すなはち一分の本証を無為の地にうるなり。しるべし、修をはなれぬ証を染汚せざらしめんがために、仏祖しきりに修行のゆるくすべからざるとをしふ。妙修を放下すれば本証手の中にみてり、本証を出身すれば妙修通身におこなはる。

 このとふていはく、今の人も参禅弁道またこの類です、悟ったらどうなる、境地のよしあしなど、大切な心を物としか見ない、だからその証をとるべし、悟ったらあともう坐禅なぞいらないという、すなわちこれ外道です。外道とは本来をそっちのけにする、思い描くばかりですか、ラジニーシとかクリシュナムルティというインドの聖者どもがこれです、有心というんですか、痴人にゆめをとかず、山人に舟の棹をあずけるなという、彼の徒輩に法を説くのはまあさ、ほんに疲れるばかり。物としか見ていないということに、一切気がつかないんですか。いはく修証一如の法があります、初心すべて。一分の本証を無為の地にうる、人間の完成、ぜんたいだの、行ない清ましだんだんよくなる式じゃないんです、どうか心して参禅して下さい。この項まさに坐の工夫です、あなたが死んで三日たったら、いえ三年たったらどうなる、さあという。なに風景世間まったく今の目の当たりこのとおり、あなただけがあっはっは、たいてい人の記憶にも残らんです、はいこれがあなたの悟りですと。わかりますか、あなたに用事ないんです、たとい内外あるんなら、外に向かって参禅しなさいと。これをえたえないという、そんなものも残らない全体これ、初心というまったくの未知です。わしほど坐ってる者ないですよ、朝に夕にひまさえあればです、えーと飲むときあるんでいかんですがさ。妙修を放下すれば本証手の中にみてり、本証を出身すれば妙修通身におこる、悟後の修行と云うんでしょう、仏向上事と、すなわちこれです、初心の他なくして昨日の吾はまったく今日の吾にあらず、すなわち生活とはこれ。


とふていはく、あるがいく、生死をなげくことなかれ、生死を出離するに、いとすみやなるみちあり、いはゆる心性の常住なることはりをしるなり。そのむねたらく、この身体はすでに生あれば、かならず滅にうつされてゆくことありとも、この心性はあへて滅することなし。よく生滅にうつされぬ心性、わが身にあることをしりぬれば、これを本来の性とするがゆえに、身はこれかりのすがたなり、死此生彼さだまりなし。心はこれ常住あり、去来現在はるべからず。かくのごとくしるを、生死をはなれたりといふなり。このむねをしるものは、従来の生死ながくたえて、この身おはるとく性海にいる。性海に朝宗するとき、諸仏如来のごとく妙徳まさにそんはる。いまはたとひしるといへども、前世の妄業になされたる身体なるがゆえに、諸聖とひとしからず。いまこのむねをしらざるものは、ひさしく生死にめぐるべし。しかればすなはち、ただいそぎて心性の常住なるむねを了知すべし。いたずらに閑坐して一生をすぐさん、なにのまつところかあらん。かくのごとくいふむね、これことの諸仏諸祖の道にかなへりやいかん。」しめしていはく、いまいふところの見、またく仏法にあらず、先尼外道が見なり。いはく、かの外道の見、わが身、うちにひとつの霊知あり。かの知すなはち縁にあふところに、よく好悪をわきまへ、是非をわきまふ、痛痒をしり苦楽をしる、みなかの霊知のちからなり。しかあるにかの霊性は、この身の滅するとき、もぬけてかしこにうまるるうえに、ここに滅すとみゆれどもかしこの生あれば、ながく滅せずして常住なりといふなり。かの外道が見かくのごとし。しかあるを、この見をならふて仏法とせん、瓦礫をにぎりて金宝とおもはんよりもおろかなり、癡迷のはずべき、たとふるにものなし。大唐国の慧忠国師、ふかくいましめたり。いま心常相滅の邪険を計して諸仏の妙法にひとしめ、生死の本因をおこして、生死をはなれたとおもはん、おろかなるにあらずや、もともあはれむべし。ただこれ邪見なりとしれ、みみにふるべからず。ことやむことをえず、いまあはれみをたれて、なんじが邪見をすくはば、しるべし、仏法にはもとより身心一如にして、性相不二ありと談ずる、西天東地おなじくしれるところ、あへてたがふべからず。いはんや常住を談ずる門には、万法みな常住なり、身と心とをわくことなし。寂滅を談ずる門には、諸法みな寂滅なり、性と相とをわくことなし。しかあるを、なんぞ身滅心常といはん、正理にそむかざらんや。しかのみならず、生死はすなはちねはんと覚了すべし、いまだ生死のほかにねはんを談ずることなし、いはんや心は身をはなれて常住なりと領解するをもて、生死をはなれたる仏智に妄計すといふとも、この領解知覚の心は、すなはち生滅して、またく常住ならず、これはかあなきにあらずや、嘗観すべし。身心一如のむねは、仏法のつねの談ずるところなり。しかあるになんぞ、この身の生滅せんとき、心ひとり身をはなれて生滅せざらん。もし一如なるときあり、一如ならぬときあらば、仏説おのずから虚妄にありぬべし。又生死はのぞくべき法ぞとおもへるは、仏法をいとふつみとなる、つつしまざらんや。しるべし、仏法に心性大総相の法門といふは、一大法界をこめて、性相をわかず、生滅をいふことなし。菩提ねはんにおよぶまで、心性にあらざあるなし。一切諸法、万象森羅、ともにただこれ一心にして、こめずかねざることなし。このもろもろの法門、みな平等一心なあり、あへて異違なしと談ずる、これすなはち仏家の心性をしれる様子なり。しかあるを、この一法に身と心とを分別し、生死とねはんとをわくことあらんや。すでに仏子なり、外道の見をかたる狂人のしたのひびきを、みみにふることなあかれ。

 あっはっは他に云うことなし、たいてい狂人の舌の響きにふれることなかれです。見という実ではない見解、こうあるべきと予想する、すると必ず間違うんです。その間違いの一人歩き、仏の周辺にはかくの如きの外道、はかないとか生まれ変わりとか、なむあみだぶつとか、ありがたやとかうわさの色餓鬼ですか、見をもって左右振り回す、キリスト教だの共産主義だのする、百人百様のいいことしい、信ずれば救われる底、みなまた理想のためには手段を選ばずという無理無体です、必ず弊害です、わずかに坐して世界まったく納まる、真です、ものみなのありよう、他にはないんでしょう。見解やこうあるべきは同じ羽根の鳥を集める、多いほど安心できる、うるさったい淋しい集団です、これを外道という、ないほうがいいからです。実に唯一無二のこの法、たった一人大自在大安心、もとからそのようにできあがっているからです、宇宙一切ものみな、はい帰家穏坐。


とふていはく、あるがいはく、仏法には即心是仏のむねを了達しぬるがごときは、くちに経典を誦せず、身に仏道を行ぜざれども、あへて仏法にかけたるところなし。ただ仏法はもとより自己にありとしる、これを得道の全円とす、このほかさらに佗人にむかひてもとむべきにあらず。いはんや坐禅弁道をわずらはしくせんや。」しめしていはく、このことばもともはかなし。もしなんじがいふごとくならば、こころあらんもの、たれかこのむねをしへんに、しることなからん。しるべし、仏法はまさに自他の見をやめて学するなり。もし自己即仏としるをもて得道とせば、釈尊むかし化道をわずらはじ。しばらく古徳の妙則をもてこれを証すべし。むかし則公監院といふ僧、法眼禅師の会中にありしに、法眼禅師問ひていはく、則監院なんじわが会にありていくばくのときぞ。則公がいはく、われ師の会にはんべりてすでに三年をへたり。禅師のいはく、なんじはこれ後生なろ、なんぞつねにわれに仏法を問はざる。則公がいはく、それがし和尚をあざむくべからず。かつて青峰禅師のところにありしとき、仏法におきて安楽のところを了達せり。禅師のいはく、なんじいかなることばによりてか、いることをえし。則公がいはく、それがしかつて青峰にとひき、いかなるかこれ学人の自己なる。青峰のいはく、丙丁童子来求火。法眼のいはく、よきことばなり、ただしおそらくはなんじ会せざることを。則公がいはく、丙丁は火に属す、火をもてさらに火をもとむ、自己をもて自己をもとむるににたりと会せり。禅師のいはく、まことにしりぬ、なんじ会せざりけり、仏法もしかくのごとくならば、けふまでつたはれじ。ここに則公躁悶してすなはちたちぬ。中路にいたりておもひき、禅師はこれ天下の善知識、又五百人の大導師なり、わが非をいさむる、さだめて長所あらん。禅師のみもとにかへりて、懺悔礼謝してとふていはく、いかなるかこれ学人の自己なる。禅師のいはく、丙丁童子来求火と。則公このことばのしたに、おほきに仏法をさとりき。あきらかにしりぬ、自己即仏の領解をもて、仏法をしれりといふにはあらずといふことを。もし自己即仏の領解を仏法とせば、禅師さきのことばをもてみちびかじ、又しかのごとくいましむべからず。ただまさに、はじめ善知識をみんより、修行の儀則を咨問して、一向に坐禅弁道して、一知半解を心にとどむることなかれ。仏法の妙術、それむかしならじ。

 老師が日泰寺覚王山の名目だけの師家を真に受けて、わしらを連れて乗り込んだ。そりゃ老師の悟ったのは覚王山であった。声涙ともに下る提唱はこの弁道話であった。以前からの師家が動かない、禅堂を御祈祷場にし、寺院子弟の学生下宿をする、どうしようもないらごらども。つきあいで坐っていた。丙丁童子来求火、終いの一声に、求道心のかけらもないのが、一尺単から飛び上がる。おじいちゃん泣いてらあと雪溪老漢、うんとわしら。愛知学院大学の教授どもが見学して、なんのかのいうのを、わしどもはそういう児戯に類することはやっとらんと云った。うひゃおじいちゃんといって、またさんざめく。なんせ宗門というところは、達磨さんに毒を盛る、御開山禅師をないがしろにする、ごくみっともない集団だ。はじめ善知識を見んより、修行のありようをよく知って、ひたすら坐禅して、一知半解を心にとどむるなかれ、仏法の妙術それむかしならじ、今もまったく同じです。この弁道話、正法眼蔵多少の古語を知れば、まったくに解説などいらんです、今の仏法諸禅入門など月とすっぽんです、今のありようまさにこれ。


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