2021年5月7日金曜日

ふるさとの史跡をたずねて 増補版 221-230回

 ふるさとの史跡をたずねて(221)

第三久保田橋(因島大浜町)


 多くの道路が久保田権四郎氏の寄付によって新しく作られたり、改修されたりした。だから、それぞれの道路を久保田道路と呼んでよいし、おそらくその近くの人によって久保田道路と呼ばれたこともあったであろう。しかし、次から次へと久保田道路ができると、ごく限られた範囲での会話ならよいのだが、村を越えての会話となると混乱が生じるであろうから、久保田道路という名称は定着しなかった。

 しかし、久保田橋というのはある。第四久保田橋というのがあったので、少なくとも4橋はあったのだろう。しかし最初の橋に「第一久保田橋」という名称をつけたとは考えにくい。単に「久保田橋」と呼んだと思う。そして2番目の橋を作った時、「第二久保田橋」と名付けたのは妥当であった。それで最初の「久保田橋」が2番目の久保田橋と区別されるために「第一久保田橋」と改名されたのだろう。あるいは、その頃には「第三久保田橋」の話があり、それも含んでの名称の統一と差異を図ったものかも知れない。

 まず、わかりやすいのは第三久保田橋である。しまなみ海道側道沿いにある大浜重井往還道と大浜町の海岸線を南北に走る国道317号線が接するところである。昭和十五年の文字が残る。周辺の道路は何度か拡張され、橋そのものも原形はとどめていないが、残された断片が石碑として保存されているので、そのことがわかる。

 かつては、この辺りが因の島バスの終点であった。






ふるさとの史跡をたずねて(222)

 第一、二、四、久保田橋(因島大浜町)


 前回の続きである。残りの久保田橋について記そう。前回の第三久保田橋を中心に話す。いずれも海岸沿いを走る国道317号線の山側(西側)の歩道を注意しながら歩こう。南へ向かって歩けば、第二久保田橋、第一久保田橋がある。

 第二久保田橋は大浜保育所跡地にある大浜地域未来交流館・晴耕雨読の裏である。



 第二久保田橋の橋名入り欄干は大浜小学校の跡地にある尾道特別支援学校しまなみ分校の敷地内にある久保田公園にも保存されている。





橋の両側・両端の4個のうちの2つであろう。

 第一久保田橋はちょっと分かりにくい、というのはすでに橋はなく樋門が残っていて、その近くに第一久保田橋の石碑が建っているだけである。南に向かって進み、右手に注意しながら捜す。





 第四久保田橋は第三久保田橋から北方向へ、国道の山側(西側)の歩道を左手に注意しながら進む。やはり、ここも記念碑だけで、橋の形は見ることはできない。





 橋巡りというよりも久保田翁記念碑巡りの一部と考えたい。



         


ふるさとの史跡をたずねて(223)

埋立港湾道路建設記念碑(因島大浜町西浜)


 大浜町のJA沖の埋立地には、この埋立地を作った時の記念碑があり、寄附者久保田権四郎翁と書かれている。ここの記念碑は他のものと比べて大きくやや新しい感じがする。南側が正面で埋立港湾道路 建設記念碑と書かれている。



これだけでは何のことかよく分からないだろう。裏面に詳細が記されている。「西浜埋立地一、五七二坪、港湾防波堤六二米、道路自西浜至添川線二、一六〇米 昭和十四年二月起工 仝十五年十一月竣工」。

 これから分かることは埋立地と62mの防波堤を持つ港が作らた。それとともに西浜から添川までの道路工事も行われたということである。しかし、この1.2kmの道路がどこのことかわからない。大浜町から各方面への道路については既に記したからである。そこで、ここから1.2kmのところを探すと、北側でしまなみビーチに達する。ここまでの道路については218回で記した。すなわち大正14年の新設道路が久保田権四郎さんの寄付でできたということであった。また添川というのが気になった。古地図で見るとやはりしまなみビーチの近くが添川であった。これは重井町の字別全図によると相川(そうがわ)というのがあるので、ここのことだと考えられる。すると大正14年に作られた道路を昭和14年に拡張したり修復したということであろう。

 南面に書かれている「大浜町建之」には違和感があるが、この石碑が昭和35年に建てられたと言うから、半分は納得した。権四郎翁が亡くなられた翌年である。新しい感じがするのはそのせいでもあるし、良い石を使ってあるのだろう。

 国道を車で通過するだけならわからないが、沖へ出ると、広場になっており余裕をもって見ることができる。また眼前に広がる備後灘や布刈瀬戸の景色もすばらしい。



ふるさとの史跡をたずねて(224)

久保田権四郎翁胸像(因島大浜町久保田記念公園)



 尾道特別支援学校しまなみ分校の一角に久保田権四郎翁を記念する公園がある。

  そこに立つ久保田権四郎翁の胸像は、これまで記したような多くの翁の貢献に感謝の気持ちを込めて大浜町民が建てたものである。

 写真は胸像部分である。

基台の背面には、この胸像が翁の33回忌に当たる平成3年(1991年)11月に建てられたことなどが記されている。



 翁の経歴業績のほか、「小学校、敬老館、道路、橋梁、埋立、護岸工事等々、更には神社、寺に多額の寄進をされ、大正から昭和にかけて町財政の救済と町民の福祉増進に多大な寄与をされた大恩人であり、その功績を称え偉徳に敬慕と謝意を捧げ、次の世代を担う青少年に夢を託す」などと書かれている。

 これを読むと、これまでの紹介では久保田権四郎翁の偉業のまだ半分も紹介していないことがわかる。




ふるさとの史跡をたずねて(225)

大浜小学校建設寄付碑(因島大浜町久保田記念公園)



 尾道特別支援学校しまなみ分校の一角にある久保田記念公園には大浜尋常高等小学校の建設時の久保田権四郎翁の寄付碑がある。



碑の右側に「昭和二年三月」と彫られている。昭和2年は1927年である。その後昭和60年に鉄筋3階建の校舎が、ここに建設され移転した。現在のしまなみ分校である。したがって、この寄付碑は今はない木造校舎についてのものである。

 石碑の正面には「一、金一万円 講堂及敬老館 一、金三千円 校舎建築費 久保田権四郎翁」と書かれている。

 昭和2年の新築校舎は旧校舎の跡地に建てられ木造二階建であった。旧校舎は、校地を拡張して少し移動、改築した。そして更に、講堂と敬老館を新築したということである。当時はまだ因島市の時代ではなかったから大浜村独自の事業であり、村民の受けた恩恵がいかに大きいものであったか容易に想像できるだろう。

 この石碑も当然そこにあったもので、のちに移設されたものであろう。石碑はあるが残念ながら建物は残っていないようだ。大浜町文化財協会によって昭和63年に発行された写真集『ふるさと』にその勇姿を見ることができる。



ふるさとの史跡をたずねて(226)

敬老会基金寄付碑(因島大浜町久保田記念公園)



 尾道特別支援学校しまなみ分校の一角にある久保田記念公園には、もう一つ紹介しておきたい久保田権四郎翁の寄付碑がある。



 写真のように左に「敬老会基金」、右に「昭和五年三月」とある。これまでに紹介した石碑が道路や建物などの建設費であったから説明がなくても多くの人が理解できたと思う。しかし、昭和5年の敬老会基金と言われても何のことか想像もできない人の方が多いのではなかろうか。

 私にもわからない。わからないと言えば、前回の小学校の講堂とともに作った敬老館についても理解しがたかった。小学校は村の中心だから近くに老人集会所のようなものがあってもおかしくはない。しかし、小学校の新築に合わせて老人集会所を建てるというのは、村の時代でも市の時代でもおかしい。だから敬老館は小学校の施設だと考えられる。

 敬老館から3年後の敬老会基金の寄付であるから、敬老館の維持費や備品のことだろうかと思ったりする。

 また、翌年の昭和6年には、権四郎翁の還暦記念行事が村をあげて盛大に行われている。還暦の祝賀行事に村の出身者が帰省するのは毎年行われていることだから現在でも特別のことではないが、これまでことを考えれば、権四郎翁の帰省を盛大に歓迎したいのは、全村民の共通の願いだったに違いない。しかし、経費をどうするか? そんな悩みを聞いた権四郎翁の配慮だったのであろうか。

 この敬老会基金の寄付額は、一万二千五百円で、3年前の小学校校舎、講堂、敬老館の建設への寄付額の合計一万三千円に近いことを考えると、敬老館の維持費や備品とか、あるいは歓迎・祝賀行事などの費用などではないことがわかる。やはり文字通り「敬老会基金」であって

敬老会運営に当てたものだと解釈すべきであろう。ただ昭和5年当時の「敬老会」というものが想像できない。おそらく今でいう「老人福祉」というようなものを考えればよいのかもしれない。



ふるさとの史跡をたずねて(227)

 神社寄付碑(因島大浜町斎島神社)



 久保田権四郎翁頌徳碑の隣にある石段を上がると斎島神社がある。境内に入ってまず目につくのは左右一対の大きな雨水溜である。近づいてよく見ると業務用の漬物樽のような凝った意匠で鋳鉄製である。正面に寄付者としての久保田権四郎の銘も見える。これは権四郎翁が自ら設計し全身全霊を込めて製作して奉納したものではないかと思った。そうであるならば生涯を鋳物工業の発展に尽くし、またそれによって大成功を収めた権四郎翁の人生を象徴するものであり、久保田神社を作って御神体とすべきものではないか・・・と思った。しかし後ろに回ってよく見ると、昭和24年に備後国新市町高田鋳造所で作られており、また権四郎翁個人の寄進によるものではないこともわかった。それでも、権四郎翁が「うちの工場で作らせよう」と言わなかったのだろうかと思う。もうその頃は大きな水道管を連続的に製造する巨大企業になっており単品を鋳造する町工場からは大きく隔たっていたのかも知れない。

 さて、拝殿の北側の崖には寄付碑が所狭しと並んでいるのだが、左端にひときわ大きな寄付碑がある。「奉献基本財産 一、金千円 久保田権四郎」と書いてある。右側面には大正六年十月六日とある。貨幣価値を計算するのは難しいが、700倍強と概算した。




ふるさとの史跡をたずねて(228)

宮沖相川道路改修碑(因島重井町勘口)

 草書で「自宮沖至相川 道路改修費」と書かれた石碑がある(写真1)。



左面には、「大正十三年五月起工 同年六月竣工」と書いてある。宮沖は重井八幡神社の下、相川は重井村の最北端で、大浜村に入ると添川と書く。これらは同じ名前で呼ばれていたところが、村境ができてから別名で表記されたということであろう。どちらにも川の字があるから川が村境である。

 添川はしまなみビーチのあるところで、大浜村の最北端であり、大浜村の中心からここまでの道路は久保田権四郎氏の寄付で作られまた改修されたことを既に記した。そこからさらに重井側に伸びる道路を改修したということである。およそ百年前だから、かろうじて歩ける程度の道を荷車が通れるようにしたのだろう。右面には写真2のように「総工費一、金一万一千円 総人夫四千四百三十一人 内訳 金一千円大阪久保田権四郎寄付 金三千五百円村費補助 金六千四百五十六円関係寄付 金四十四円特別寄付」とある。




関係寄付と特別寄付の違いはよくわからない。関係寄付が周辺の畑や住居の所有者で、特別寄付は周辺に土地を持っていない村民ではないかと想像する。

 さて、この石碑は現在の宮沖相川間の道路沿いにはない。旧道がパルエッグセンター因島農場の東側(山側)を走っており、その道路沿いにある。ただし、この旧道の北端は今は通れない。

 大浜町から中庄町重井町に通じる三本の道路が権四郎翁の寄付で作られさらにその延長も整備されたと既に記したが、因島最北端の周回道路にも多額の寄付が寄せられていたことに気づき、改めて権四郎翁の配慮に敬服する。


ふるさとの史跡をたずねて(229)

山門建立之碑(因島大浜町見性寺)


 因島大浜町の天海山見性寺の境内には、六地蔵の隣に基本財産としての千円寄付碑があり、寄付者は大坂鉄工所久保田権四郎と記されている。



また、目を南に転じると真新しくて、寄付額の大きな石碑が目に飛び込む(写真)。



これには「開創五百年記念事業費 一、金八百万円 株式会社クボタ」とあり、左面に平成二十七年十二月吉日とある。権四郎翁在職中はともかく、現在に至ってもこのようなかたちで権四郎翁の遺徳が継承されていることに驚くのは私だけではあるまい。

 八百万円に圧倒されて、その左側にある石碑が小さく見えるのだが、これも忘れてはならない。この山門建立之碑は昭和12年に久保田権四郎氏が父の五十回忌の供養のため山門を寄進された時のものである。裏面に「四代大出岩太郎 功徳者大阪市三男初代久保田権四郎 檀家総代世話人二男五代大出茂平 建築費都計金三千円也」と記されている。四代岩太郎の三男である権四郎翁は久保田家の養子になったのだから、そちらが何代目かであったのだろうが、大浜の大出家の分家初代であるという意味であろう。あるいは久保田家の養子になり姓は変わっていても、久保田家をまだ相続していなかったということであろうか。

 なお、写真の背後には島四国6番安楽寺がある。



ふるさとの史跡をたずねて(230)

久保田権四郎墓(因島大浜町見性寺)

 因島大浜町の見性寺に来たら当然のこととして、次は久保田権四郎翁のお墓=写真=にお参りせねばならない。




と言っても、墓地の案内ほどしにくいものはない。あまり良い説明だとは思わないが、書いておこう。海岸からまっすぐに見性寺の参道を歩くと、正面に権四郎翁が建てた山門が見える。その向こうに墓地が広がる。ちょうど山門の上のあたりであるから、その位置をよく覚えておこう。

 権四郎翁は昭和34年11月11日、89歳で亡くなられた。

 権四郎翁夫妻の墓にお参りしたら、目の前に広がる海を見よう。



まことに天海山見性寺と言う通り海と天が広がる。見性寺は権四郎少年が通った小学校のあったところであるから、権四郎少年の眺めた光景である。海の向こうには日に日に変わっていく都会があることを権四郎少年も耳にしたことであろう。

 当時、大浜村には九州から大阪へ石炭を運ぶ石炭船を持つ家があったという。そのうちの一軒に頼み込んで、何度か九州と大阪の間を往復したのち、その間に働いた賃金を持って大阪で上陸した。明治18年のことで、まだ15歳になっていなかった。目標は鍛冶屋になることであった。



  写真・文 柏原林造