2025年10月21日火曜日
2025年10月2日木曜日
夕凪亭閑話2025年10月
2025年10月1日。水曜日。晴れ。2841歩。73.4kg。
朝、蘇鉄。買い物。来客。
2025年10月2日。木曜日。晴れ。2913歩。72.6kg。
朝、蘇鉄。古文書。午後、蘇鉄。
トルストイ13回に目を開き
2025年10月3日。金曜日。曇りのち雨。3430歩。73kg。朝蘇鉄。昼前に雨の中をでて福山へ。古文書学習会。今やっている下宮家文書が、そろそろ終わりが見えてきた。これが終わったら、次のグループには入らず引退することにする。夜、公民館。閉校記念行事実行委員会。
2025年10月4日。土曜日。雨。1843歩。72.7kg。この前まで9月だと思っていたらもう4日。まるで流れるように日々が去っていく。朝から古文書入力。夜終わり送る。午後、来客。
2025年10月5日。日曜日。雨のち曇り。2359歩。73.1kg。古文書勉強会用資料作り。
2025年10月6日。月曜日。晴れ。2520歩。73.5kg。朝、蘇鉄。地についた切り株、ついに下まで除く。根はまで残っている。切り離した切り株の動かせないもの1つ。できるだけ小さくして移動させることにする。午後、裏の藤棚。残っている葉を落とす。まだ少しある。
飛行雲の季節になったのか。
秋風に日の入りも早くなり。
つくつくほうしが夏の忘れ物でも探しているように鳴く。
日暮れて道遠し、何の道?これと言って大きな目標があるわけではないのだから、道遠しと言うのはおかしい。
でも、子供の頃描いていた夢(これも具体性がないのだからそう書くのもおかしいが・・)と随分違うのだから、その夢に遠いと言う思い・・で。人生の日暮れ、と言うのは老化の進む今日この頃の感慨にぴったりではあるが、・・・。世間では私のことを郷土史家のように思っているようだが、とんでもない。私は単なる雑文書きにすぎない。エッセーというほど、方向も焦点もない。だから随筆家とかエッセイストとは言えない。やはり雑文書きというのがぴったりだ。そのタネを探すために本は比較的よく読むが、研究などと呼ぶようなものではない。読めば考える。だから、読むこと、考えること、書くことが渾然となったのが私の生活である。それだけで、菜園の手入れなど単なる息抜き以上の何物でもない。
2025年10月7日。火曜日。晴れ。2852歩。73.8kg。朝9時前まで蘇鉄の切り株切り。土地に付いている方はほど片付いたが、さらに深い根がある。それを少し。そして切り取った切り株の最後の一つを少しずつ削って軽くしていく。その後、タイムズ原稿。教育史。割とスムーズに書けた。まあ、第二の専門のようなものだから当然と言えば当然。修士の時を思い出した。磯崎先生の理科教育史は学部の授業で単位は取らず聴講だけであった。あの時いただいたプリントはどこへ行ったのだろうか。
2025年10月8日。水曜日。曇り、夕方小雨。2702歩。73.3kg。朝、みかんの農薬散布と除草剤。買い物。午後、論語の会4名。帰って小学校史料の整理。夕方小雨が降るも、夜には止む。日中は暑いが朝夕が涼しい。
2025年10月9日。木曜日。晴れ。2797歩。73.9kg。
昨日と同じ農薬と除草剤。そのあと蘇鉄の切り株を小さくする。午後来客。小学校史。
2025年10月10日。金曜日。晴れ。3947歩。73.9kg。朝から福山。午後、ガソリン。福山城博物館でコピー。企画展見学。古文書学習会。タイムズ配る。
2025年10月11日。土曜日。晴れ。2454歩。73.6kg。朝草取りと蘇鉄の切り株。やっと運べた。10時から古文書入力。午後少し外出。夜、入力終わる。送る。
2025年10月12日。日曜日。晴れ。2567歩。74.3kg。朝、草取り。買い物。午後、弓削遍路の順路の確認。
2025年10月13日。月曜日。晴れ。10223歩。73.6kg。弓削遍路2回目。8人。
2025年10月14日。火曜日。晴れ。4476歩。74.4kg。朝、草取り。午後オン道市民病院。帰って庭木の剪定。
2025年10月15日。水曜日。晴れ。2908歩。74.3kg。朝、庭木の剪定。因島文学散歩。4人。買い物。昼寝。夜、小学校史。
2025年10月16日。木曜日。晴れ。4168歩。74.3kg。朝、蜜柑ばたけの手入れ。草取り。林蔵像設置の前準備。桑原石材店。
2025年10月17日。金曜日。晴れ。2779歩。74.3kg。畑の草取り。山の竹切り。午後、昼寝。夜、記念誌原稿少し。
2025年10月18日。土曜日。晴れ。夜小雨。3871歩。74.3kg。草取り。山の草刈り。柿を一部摘む。夜、記念誌少し。
2025年10月19日。日曜日。曇り。夜雨。5085歩。74.6kg。朝買い物。朝夕山の草刈り。
2025年10月20日。月曜日。曇り。5059歩。74.3kg。朝夕山の草刈り。広道の草刈り。夜寒くなった。電子毛布を出す。
2025年10月21日。火曜日。曇り。5029歩。74.3kg。9時から公民館で定例会。11名。午後、買い物。山の草刈り。
2025年10月22日。水曜日。曇り。5148歩。73.8kg。朝夕山の草刈り。午後、公民館で論語の会3人。夜寒い。そろそろ2階で冬モードに入ろうか。
2025年10月23日。木曜日。晴れ。6032歩。74.7kg。朝4時に起きると寒いので夕凪亭に行かず新聞をとってきて二階に上がりコタツに入る。朝食後ゴミ出し。山の草刈り。二階で昼寝。夕方再び草刈り。
2025年10月24日。金曜日。晴れ。6058歩。73.9kg。朝、夕山へ草刈り。昼前に出て福山古文書学習会。帰ってタイムズ配布。
2025年10月25日。土曜日。曇り一時雨。6030歩。74.2kg。朝、買い物。大と広道の草取り。古文書入力。夜送る。
2025年10月26日。日曜日。曇り一時小雨。6186歩。73.7kg。山の草刈り。公民館だより原稿書き送る。
2025年10月27日。月曜日。晴れ一時小雨。14894歩。74.6kg。7時半に出て弓削遍路二−三回。10人。69番まで。
2025年10月28日。火曜日。晴れ。6111歩。74.4kg。朝と午後山の草刈り。朝夕は寒いが日中は良いお天気。
2025年10月29日。水曜日。晴れ。6964歩。75.2kg。朝、医師会病院。買い物。午後、山の草刈り。かなり進んだ。体重がどんどん増える。ご飯の量を減らそう。
2025年10月30日。木曜日。晴れ。6243歩。74.6kg。朝夕山の草取り。今日からご飯の量を減らす。
2025年10月31日。金曜日。雨。6140歩。73.7kg。
朝、役員会。午後、福山で古文書学習会。最終回。
2025年9月16日火曜日
421-430 増補版
ふるさとの史跡をたずねて(421)
小学校史①学制
有名な「邑(むら)に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん事を期す」と言う宣言は、まさに近代教育のスタートを象徴する言葉であった。
これは「明治五年壬申七月太政官」の名で公布されたもので、終わりから4行目の所に「右之通被仰出候」とあることから「仰出書」(おおせいでられがき)と呼ばれる文書中の言葉とされる。また「学制」の前書きとか、「学制」に先立って公布された、などと書かれていて、甚だ紛らわしい。
私は、これらは皆正しいと思う。詳しく見ると次のようになっているからだ。
まず「学制」本文の方を見てみると巻末の表の前に、「明治五年壬申七月文部省」と記してある。そして冒頭には表題のない前書が2ページあって本文に入る。そしてそれは「仰出書」を踏まえて、「今般被仰出候旨も・・」と始まる。
またこれらは明治5年8月3日に「仰出書」が公布され、同日「学制」が公布された。
そして今、我々は文部科学省のホームページで「学制」と言うタイトルの元に、この二書が続けて記された冊子の画像を見ることができる。
かくして、明治5年に法律的に公立学校が作られることが決まったわけである。明治5年という国家の大部分が未完成な時に教育に踏み出した意義は大きい。幾多の改良を経て近代教育は形をなしていく。やがてそれが国家の力となった・・・。
出典:文部科学省のホームページ(https://www.mext.go.jp/)。引用、並びに加工。
ふるさとの史跡をたずねて(422)
小学校史②振徳舎
明治5年の学制により、いわゆる公教育が始まる訳であるが、それ以前に教育機関がなかった訳ではない。寺小屋という言葉は誰もが知っているように全国的にお寺で庶民教育はなされていた。ただ僧侶だけでなく、地域によっては神主、医師、修験道者などの知識人が私塾を開いていた場合もあった。それらに変わるものとして小学舎を設置したのであるが、しばらくはこれらの私塾も許可されていた。
第16小区の因島では申請により、明治6年4月に重井、田熊の2箇所に小学舎を設置することが広島県により許可された。同時に舎号(学校名)として「振徳舎」(重井村善興寺)、「研幾舎」(田熊村浄土寺)が定められたが、「研幾舎」は「尚純舎」に変わった。教師は、「振徳舎」が沼田良蔵、「尚純舎」は村上万之助であった。どちらもお寺が使われているので、以前から寺子屋があったことが想像される。と同時に、財政的な面からもお寺をとりあえず教場としたのであろう。
明治6年10月より10年2月まで使用された「振徳舎」の間取り図では教員室4坪、教室32坪、便所2坪である。
10月が開校でその間は準備期間だったと考えられる。また10月に川口大師堂に「信誠舎」(分教場)を設置した。
ふるさとの史跡をたずねて(423)
小学校史③尚純舎
 田熊村では、広島県によって許可された「研幾舎」(
 かくしてもう一つの私塾「尚純舎」が小学舎として設置された。
 さて「尚純舎」の教師、村上万(萬)之助(介)
 この複雑な事情について、『田熊の文化財』
 以上のことから田熊小学校初代の校長村上萬之介氏の在任期間を慶
 これら一連の歴史をどう捉えるかによって「尚純舎」
 *前回の「村上万之助」は『因島市史』p.
ふるさとの史跡をたずねて(424)
小学校史④その他の村々
明治5年8月に公布された「学制」は、明治12年9月に「教育令」が発布されて改正される。それまでに因島内各村でも次第に小学舎が設置される。しかし、『因島市史』では重井村と田熊村のことだけで、その後のことは書かれていない。書けなかったのではなかろうか。それぞれの学校には学校史があるのだが、それを見てもどこで寺小屋・私塾から「学制」による公教育になったのかわからない。
その公教育の学校の一般的な名前も、私は小学舎と書いたがいつまで一般的であったかわからない。公立学校という概念もなかったはずである。だから学校名だけから私塾と区別できない。その私塾を前身として学校の歴史に入れる所も入れない所もある。さらにまた、多くの学校が「学校沿革史」を典拠に記してあるのだが、その沿革史も、しばらく後に書かれているだろうし、用語も変わる。そんな状況で場所・名前・教師も同じままで私塾から公教育に変わった場合もある。また、それを記録する人はおそらく江戸時代に生まれ育った人である。学制公布以降も私塾ができたところもあるだろう。
その混乱の様子を示すのが椋浦村の場合である。小学校になるのが学制公布より5か月早く「不可解である」と『椋浦学校史』p.18に記されているが、今風に解釈すればたとえ形が揃っていても法律施行前は私塾とすべきで、最初に記録した人の誤りであろう。
・・だから『因島市史』がそれ以上書かなかったのは賢明であった。参考までに、各村の状況を示す。
大浜村。 明治6年酒井教蔵宅に「養生舎」設置。明治8年見性寺に小学校を置く。
中庄村。明治6年1月6日小林敬哉宅に「久敬舎」創設。3月19日成願寺に「温和舎」創設。
外浦村。明治7年3月15日小学校設置。
鏡浦村。明治5年鏡浦学校が設置され「開郷舎」と称す。
椋浦村。明治5年3月15日「明分舎」が小学校になる。
三庄村。明治8年8月1日創立、「六行舎」と称す。(明治11年12月まで)。
土生村。明治6年3月1日対潮院に創立、土生学校と称す。
*参考にした文献を略記する。
『大浜小学校閉校記念誌』、『中庄村史(昭和40年)』、『椋浦学校史』、『ふるさと三庄』』、『土生小学校創立120周年記念誌』
ふるさとの史跡をたずねて(425)
小学校史⑤教育令・改正教育令
記録者が混乱するほどであるから、分かりにくい制度であったのは確かである。
それでも重井村の場合には、明治8年8月振徳学舎を重井小学校と改称し、信誠舎(大師堂)を分教場と位置づけ、同時に細島にも分教場を設けた。明治10年2月に校舎を山の神に新築し5月に移った。これに伴い信誠舎(大師堂)分教場を廃した。大小の2教室(土間付き)があり、教室34.25坪、土間5.25坪である。「小学教則」(明治6年)によると、下等は6歳より9歳、上等は10歳より13歳で合計在学8年、授業日数は32週以上であった。
国家の創業期であり、学校制度が目まぐるしく変わるのも当然であった。明治12年9月29日太政官布告40(「教育令」)が発布された。「学制」がフランスを手本としたのに対して「教育令」ではアメリカを倣った。しかし自由主義的すぎて廃校などが相次いだので、翌明治13年12月28日に「改正教育令」が公布された。
重井小学校では明治15年2月に校舎を字・須越(元藪の下)酒庫に移し、5月学校の等位を中等科と定めた。これは同年4月28日に公布された「広島県小学校教則」の初等科3年、中等科3年、高等科3年の区分による。初等科3年で卒業しても良いし、さらに3年学ぶこともできるということである。それぞれ6ヶ月の級を6級修業した。紛らわしいので現在流の学年で言うと初等科1年は1日4時間、1週24時間、2年生以上は1日5時間、1週30時間であった。
この「改正教育令」で特記すべきは、学習すべき学科(教科)に修身を第一に置いたこと(写真)、政府が干渉統制する方針をとり県令の指示に従い各町村が小学校を設置することを厳重に要求したことである。
*写真は『法令全書明治13年』p.325(国立国会図書館デジタルアーカイブによる。)
写真・文 柏原林造
2025年9月1日月曜日
夕凪亭閑話2025年9月
2025年9月1日。月曜日。晴れ。3753歩。72.4kg。
3校出す。水やり。古文書入力。完了、午後送る。今日も暑い。
2025年9月2日。火曜日。晴れ。3149歩。72.3kg。
朝から蒸し暑い。記念誌準備。
2025年9月3日。水曜日。晴れ。夜、小雨。2479歩。71.8kg。朝、買い物。古文書。
2025年9月4日。木曜日。曇り時々雨。朝、豪雨。歩。72.5kg。
古文書。写真のスキャン。
夜になってまた雨が降り出した。長い。水を飲ままいせいか腹が減る。父と母の写真をスキャンする。生きているうちに整理して、小さな写真集を作ってあげればよかった、と思っても遅い。
2025年9月5日。金曜日。曇りのち晴れ。3214歩。71.8kg。
また暑い夏が戻ってきた。古文書。古い写真の整理。夜、閉校記念行事実行委員会の準備会。
白滝の岩隠したり夏の木々
2025年9月6日。土曜日。晴れ。3440歩。72.5kg。やはり暑い。草刈り。写真の整理。古文書。
2025年9月7日。日曜日。晴れ。4736歩。72.5kg。
少し暑さが緩んだか。午後買い物。古文書。草取り。満月が綺麗。僕がこの世からいなくなって、100年たっても200年たっても、同じように空を見上げれば月と星があるだろう。ほとんど同じような運動を繰り返して。しかし、それを下から見る人たちは随分変わった人たちになっているのだろうと思う。
フィルムスキャナー届く。対象外のバージョンMacにインスツールできた。
2025年9月8日。月曜日。晴れ。3401歩。72.55kg。
藤棚の剪定。藤の葉が少しずつ長期間にわたって落ちてくるので、先手を取っと剪定しておくのが良い。とはいえまだ日差しが強いので日覆いとして利用しているところは後回しにして、影響の少ないところから切っていく。
2025年9月9日。火曜日。晴れ。5488歩。72.75kg。
朝、レモンの枯れ木を切る。図書館へ返却。午後、市民病院。テイムズ原稿書いて送る。20回で伝六一区切り。
2025年9月10日。水曜日。晴れ、一時雨。2917歩。72.55kg。
朝、ソテツの切り株、一部除去。買い物。午後、論語の会三人。古文書。
2025年9月11日。木曜日。晴れ。2471歩。72.5kg。
古文書資料作り。古文書。語学。
2025年9月12日。金曜日。曇り時々晴れ。4328歩。72.3kg。8時半に出て、井原。墓参。福山の家。福山城博物館事務所へコピーの依頼。古文書学習会。本日『潮音石声』完成。
2025年9月13日。土曜日。曇り。4741歩。72.15kg。朝、墓参。ソテツの切り株、少し処理。古文書入力。
2025年9月14日。日曜日。曇り。3099歩。72.9kg。
朝から古文書入力。買い物。昼過ぎに完成。送る。
2025年9月15日。月曜日。晴れ。2924歩。72.6kg。
朝、ソテツの切り株抜き。古文書。
2025年9月16日。火曜日。晴れ。3040歩。72.5kg。
朝、公民館で故郷の歴史を学ぶ会、14名。午後、タイムズ原稿書く。夜、送る。今日から小学校史。
2025年9月17日。水曜日。晴れ。2690歩。72.8kg。
朝、トモノール散布。因島図書館で文学散歩。6人。午後、買い物。藤井医院。
2025年9月18日。木曜日。晴れ時々小雨。2276歩。72.55kg。古文書。時々小雨の変な天気。
2025年9月19日。金曜日。晴れ。3131歩。72.05kg。
朝、21℃で寒い。朝、福山へ。午後、古文書学習会。
自己退化か自己脱皮か知らないが、新しい流れがあるとそれに乗るのはうまい。初めはいやいやながら進めるのであるが、それがすぐに自分が目指していたような錯覚を得るほど熱中する。近づきすぎる。これまでなんども経験した悪い癖である。
2025年9月20日。土曜日。晴れ。1943歩。72.2kg。
2025年8月21日木曜日
2025年8月4日月曜日
番外編31-35
31 禅
道元、『正法眼蔵』、岩波文庫、日本思想体系、日本の名著、
言葉も出ない。
秋月龍珉『一日一禅』上下、講談社現代新書
碧巌録からの借用も多く、碧巌録の理解を助ける。
32 孟子
素読といえば論語ばかりだ。孟子も読まなければいけない、とどこかに書いてあった。
確かに孟子は長く、格段に漢文の力はつくだろう。しかし、長いだけに敷居は高い。少々のことでは皆読むまでにダウンしそうである。
岩波文庫、世界の名著、筑摩の世界古典文学全集。
皆同じだ。ちょっと持続力が弱い。
吉田松蔭が何か書いていたと言うことは、ずっと前から知っていたが、読む気にはならない。
それが、ふと読んでみようと思った。講談社学術文庫にあった。下巻がない。注文した。とりあえずこれを皆読んでみよう。
2025年8月1日金曜日
夕凪亭閑話2025年8月
2025年8月1日。金曜日。晴れ。3816歩。72.2kg。
朝、住民検診。買物。帰って来客。夕方タイムズ配る。暑い日が続く。
2025年8月2日。土曜日。晴れ。3113歩。72.1kg。
朝、バベの木の伐採、途中。四国から来客。長女,孫を連れてくる。
2025年8月3日。日曜日。晴れ。2478歩。73.6kg。
朝、バベの木の伐採、途中。
2025年8月4日。月曜日。晴れ。2830歩。73.55kg。
5時から水やり。バベの伐採。かなり進んだ。朝、次女を送る。のち、クロネコへ。
2025年8月5日。火曜日。晴れ。3286歩。73.95kg。
4時に起きる。5時から水やり。バベの木の伐採。まだ少し残っている。今日はタイムズ原稿の日。朝から書く。午後、尾道市民病院。帰ってからも書く。ちょっと遊びすぎ。インパクト弱い。
2025年8月6日。水曜日。晴れ。2983歩。74.9kg。
朝からバベの木伐採。やっと1mほど残し切る。
2025年8月7日。木曜日。雨のち晴れ。2559歩。73.85kg。久々の雨。珍しく降ったが昼前にはやむ。
2025年8月8日。金曜日。晴れ。3124歩。72.5kg。
朝、草取り。福山へ。午後、古文書学習会。
2025年8月9日。土曜日。晴れ、時々小雨。3608歩。73.6kg。
2025年8月10日。日曜日。晴れ、時々小雨。1984歩。74.2kg。朝から雨。少し草取り。
2025年8月11日。月曜日。雨。3035歩。73.9kg。
朝から雨。止んだ時庭木の剪定。
2025年8月12日。火曜日。晴れ。2308歩。73.55kg。
朝買い物。エディオンでプリンターインクを買って来る。
2025年8月13日。水曜日。晴れ。2496歩。73.5kg。
朝、除草。梨の取り入れ。小さいの6個。午後、来客。校正。
2025年8月14日。木曜日。晴れ。1720歩。73,8kg。
5時過ぎから草取り。5時はまだ暗い。日に日に夜明けが遅くなる。朝食後も9時ごろまで。蘇鉄の株を切る。次女と孫、帰る。
2025年8月15日。金曜日。晴れ。2393歩。73.5kg。
朝、蘇鉄の切り株を処理。かなり進んだ。初校を最後まで進める。
2025年8月16日。土曜日。晴れ。1351歩。74.5kg。
昨日に引き続きソテツの処理。まだ終わらない。初校の整理。
2025年8月17日。日曜日。晴れ。4089歩。72.7kg。
朝食後2時間蘇鉄の株切りと水やり。買い物。午後、みかんの水やり。
2025年8月18日。月曜日。晴れ。3260歩。72.55kg。
蘇鉄の株切りと水やり。缶ゴミを出してから、初校提出。
2025年8月19日。火曜日。晴れ。2170歩。72.5kg。
朝食後みかんに水やり。蘇鉄の株切り。大きな株をやっと切った。残りは小さいのが一つ。タイムズ原稿書いて送る。
2025年8月20日。水曜日。晴れ。2531歩。73.2kg。
朝5時から水やり。蘇鉄の切り株を切る。7時過ぎに出て、JA総合病院。知人の手術。帰って買い物。
亀井勝一郎、臼井吉見編『人生の本2 読書の楽しみ』、文藝春秋、終わる。
2025年8月21日。木曜日。晴れ。3526歩。73.4kg。
朝、紅葉の木を剪定。古文書。
2025年8月22日。金曜日。晴れ。3187歩。73.4kg。
朝、花桃の木を剪定。昼前に出て福山。古文書学習会。夜、解読文入力。
2025年8月23日。土曜日。晴れ。3884歩。71.5kg。
朝から解読文入力。昼前に終わり、送る。午後、尾道総合病院へ見舞い。二校。
2025年8月24日。日曜日。晴れ。3239歩。71.45kg。朝、サビダニ予防。買い物。来客。昼寝。二校。
2025年8月25日。月曜日。晴れ。2219歩。72kg。
朝から2校。10時過ぎに完成。午後、昼寝。
2025年8月26日。火曜日。晴れ。2762歩。72.1kg
朝、サビダニ少し。来客。中学校の卒業写真のスキャン。午後、瀬戸内タイムズの原稿書いて送る。
2025年8月27日。水曜日。晴れ。3786歩。71.8kg
朝、水やり。公民館だより原稿書き送る。買い物。午後、論語の会。
2025年8月28日。木曜日。晴れ。3460歩。71.8kg
朝、ソテツの切り株の切断。古文書。
2025年8月29日。金曜日。晴れ。5044歩。72.4kg
朝から福山。草取り。午後古文書学習会。
2025年8月30日。土曜日。晴れ。3450歩。72.1kg。
朝からソテツの切り株切り。なかなか終わらない。古文書。3校。
2025年8月31日。日曜日。晴れ。3719歩。71.8kg。
朝、ソテツ。買い物。古文書。
2025年7月31日木曜日
総目次
因島・ふるさとの歴史を学ぶ会総目次
Vol.1
総目次2016年 Vol.1
因島・ふるさとの歴史を学ぶ会資料
第1回20160517
レジメ [p.1-2 ]
レジメの部分は以下の各ページの冒頭に再録しております。
1。白滝山について 1 [p.3-5]
2。村上水軍について 1 馬神城跡をめぐって [p.6-7]
3。真珠の養殖 [p.8]
4。道元禅師へのアプローチ 1「正法眼蔵随聞記」 [p.9]
第2回20160621
レジメの部分は以下の各ページの冒頭に再録しております。
1。白滝山について 2 [p.13-16][p.17-20]
3。大出万吉翁と重井バプテスト協会 [p.11-12][p.25-26]
4。道元禅師へのアプローチ 2「正法眼蔵」 [p.25-26]
5。弘法大師空海へのアプローチ 2「空海の風景」 [p.22]
7。江戸時代の農作物 [p.25-26]
第3回20160719
レジメの部分は以下の各ページの冒頭に再録しております。
1。白滝山の現状について 因島白滝公園保勝会 会長 柏原広雄[p.27-28]
2。白滝山について その3 [p.29-36]
柏原舒延著「霊峰白滝山の沿革」[p.29-32]
宇根家文書「五百大羅漢寄進」 [p.33-36]
3。柏原伝六と一観教 今井 豊 [p.37-40]
4。村上水軍について その3 「予陽盛衰記」から [p.41-42]
5。細島 [p.43-45]
8。重井村四国八十八か所札所について その2 [p.48-50]
第4回20160816
1。白滝山の現状について 因島白滝公園保勝会 柏原広雄
2。白滝山について その4 [p.53-61]
(12)一観の「素意」 「反省ノ泉」昭和44年2月1日発行 第196号(12)〜(17)
(13)一観伝道哀史 「反省ノ泉」昭和44年3月1日発行 第197号
(14)白衣観音の木像 「反省ノ泉」昭和44年4月1日発行 第198号
(15)一観の伝道精神 「反省ノ泉」昭和44年5月1日発行 第199号
(16)歌にみえる一観の教 「反省ノ泉」昭和44年6月1日発行 第200号
(17)歌にみえる一観の教(続) 「反省ノ泉」昭和44年7月1日発行 第201号
3。白滝山・青木・馬神~重井周遊マップ [p.62]
4。村上水軍について その4
5。釣島箱崎浦合戦史跡巡り [p.63]
6。土生町 対潮院境内 西国三十三観音霊場 住原俊治 [p.64-65]
8。弘法大師空海へのアプローチ その4 入唐のこと2 [p.66]
9。柏原達象氏(1884.6.23-1955.9.26)とダバオの柏原旅館 [p.67-68]
第5回20160920
1。白滝山の現状について 因島白滝公園保勝会 会長 柏原広雄
2。白滝山について その5 [p.73-81]
(18)一観居士因縁記(天の巻) 「反省ノ泉」昭和44年8月1日発行 第202号(18)~(23)
(19)一観居士因縁記解説 「反省ノ泉」昭和44年9月1日発行 第203号
(20)一観居士因縁記解説 「反省ノ泉」昭和44年10月1日発行 第204号
(21)一観居士因縁記解説 「反省ノ泉」昭和44年11月1日発行 第205号
(22)一観の功過自知録 「反省ノ泉」昭和44年12月1日発行 第206号
(23)二二号迄のまとめ 「反省ノ泉」昭和45年1月1日発行 第207号
宇根家文書「五百大羅漢寄進」(文政十年 亥正月吉日 重井村 観音山」貳番組
4。中庄茶臼山城跡周辺史跡巡り 地図 住原俊治 作成 [p.83]
5。中庄の「村四国八十八か所」 住原俊治 [p.84-85]
6。道元禅師へのアプローチ その5「正法眼蔵」〈即心是仏〉より
7。弘法大師空海へのアプローチ その5 「三教指帰」について
8。柏原米太郎氏 [p.86-87]
第6回20161018
1。白滝山の現状について [p.91-92]
2。白滝山について その6 [p.93-98] [p.99-100]
4。田熊村四国 住原俊治 [p.104-105]
5。田熊史跡巡り [p.106]
7。道元禅師へのアプローチ その6 何事も修行 [p.109-110]
8。弘法大師空海へのアプローチ その6 「請来目録」 [p.109-110]
9。柏原学・柏原正兄弟 [p.108]
10。小学校史 その1 [p.109-110]
11。トランペット鼓隊50周年記念誌制作委員会 柏原裕 [p.109-110]
第7回20161115
1。白滝山の現状について [p.111-112]
2。白滝山について その7 [p.113-116][p.117-118]
4。土生史跡巡り [p.119]
5。江戸時代の物価 住原俊治 [p.120-121]
6。道元禅師へのアプローチ その7 修証義 [p.111-112]
7。弘法大師空海へのアプローチ その7 空海と水銀 [p.125-126]
8。干拓について その2 [p.122-123]
9。小学校史 その2 [p.124]
第8回20161220
1。白滝山の現状について [p.127-128]
2。白滝山について その8 [p.129-133][p.134-135]
3。村上水軍について その8 [p.127-128]]
6。道元禅師へのアプローチ その8 [p.141-142]
7。弘法大師空海へのアプローチ その8 [p.141-142]
9。小学校史 その3 [p.141-142]
10。トランペット鼓隊50周年記念誌制作委員会 [p.141-142]
2017
9回20170117 目次
1。白滝山の現状について 因島白滝公園保勝会 会長 柏原広雄[p.1-2]
2。白滝山について その9 [p.3-8] [p.9-11]
4。重井東部史跡巡り [p.12]
5。土生町 大宝寺 四国八十八ケ所霊場 住原俊治[p.13]
7。道元禅師へのアプローチ その9 生死 [p.15-16]
8。弘法大師空海へのアプローチ その9 広島県高野町 [p.15-16]
9。小学校史 その4 教育令の時代 [p.15-16]
10回20170221 目次
1。白滝山の現状について 因島白滝公園保勝会 会長 柏原広雄[p.17-18 ]
2。白滝山について その10 [p.17-18 ]
4。重井東部史跡巡り
6。干拓について 4
7。道元禅師へのアプローチ その9 生死
総目次2017年 Vol.2 総目次
因島ふるさとの歴史を学ぶ会
9回20170117 目次
1。白滝山の現状について 因島白滝公園保勝会 会長 柏原広雄[p.1-2]
2。白滝山について その9 [p.3-8] [p.9-11]
4。重井東部史跡巡り [p.12]
5。土生町 大宝寺 四国八十八ケ所霊場 住原俊治[p.13]
7。道元禅師へのアプローチ その9 生死 [p.15-16]
8。弘法大師空海へのアプローチ その9 広島県高野町 [p.15-16]
9。小学校史 その4 教育令の時代 [p.15-16]
10回20170221 目次
1。白滝山の現状について 因島白滝公園保勝会 会長 柏原広雄[p.17-18 ]
2。白滝山について その10 [p.17-18 ]
4。重井東部史跡巡り
6。干拓について 4
7。道元禅師へのアプローチ その9 生死
総目次2018年 Vol.3
因島・ふるさとの歴史を学ぶ会資料
21回20180123
1。白滝山の現状について [p.1]
3。弓削、佐島。生名史跡巡り [p.2]
5。白滝山の石造物 6 くんぐり道 [p.4-5]
6。伝六思想の継承と発展 3 [p.6-7]
7。藤井忠三氏について 3 [p.6-7]
8。白滝山について 21『観音和讃他』6 [p.8-9]
10。末広講の夢-重井村四国八十八ヶ所- 6 [p.12-13]
11。 小学校史 16 第三次小学校令の時代6 [p.14-15]
22回20180220
1。白滝山の現状について [p.17]
5。『霊峰白滝山の沿革』注解 1 [p.20-21]
6。伝六思想の継承と発展 4 [p.22-23]
7。藤井忠三氏について 4 [p.22-23]
8。白滝山について 22 『観音和讃他』7 [p.24-25]
12。小学校史 17 第三次小学校令の時代7 [p.30-31]
23回20180320
1。白滝山の現状について [p.33]
5。『霊峰白滝山の沿革』注解 2 [p. 36]
7。伝六思想の継承と発展 5 [p. 38-39]
8。藤井忠三氏について 5 [p. 38-39]
9。白滝山について 23 『観音和讃他』8 [p.40-41 ]
10。末広講の夢-重井村四国八十八ヶ所- 8 [p.42-43 ]
11。街道から海道へ 小早川氏の進出 住原俊治 [p.44-45 ]
12。小学校史 18 第三次小学校令の時代8 [p. 46-47]
24回20180417
1。白滝山の現状について [p.49]
5。『霊峰白滝山の沿革』注解 3 [p.51-53]
6。白滝山の石造物 9 大日如来から馬の背まで [p.54]
8。藤井忠三氏について 6 [p.55]
9。白滝山について 24 『観音和讃他』9 [p.56-57]
10。末広講の夢-重井村四国八十八ヶ所- 9 [p.58-59]
11。瀬戸内海の要塞 住原俊治 [p.60-61]
12。小学校史 19 第三次小学校令の時代9 [p.62-63]
25回20180515
1。白滝山の現状について [p.65]
5。『霊峰白滝山の沿革』注解 4 [p.69]
6。白滝山の石造物 10 裏参道分岐から山門下まで [p.70]
8。藤井忠三氏について 7 [p.71]
9。白滝山について 25 『観音和讃他』10 [p.72-73]
10。末広講の夢-重井村四国八十八ヶ所- 10 [p.74-75]
11。信仰とリクレーション 伊勢詣 住原俊治 [p.76-77]
12。小学校史 20 第三次小学校令の時代10 [p.78-79]
26回20180619
1。白滝山の現状について [p.81]
3。大島 探 [p.82]
5。『五百大羅漢寄進』 注釈 [p.85]
6。白滝山の石造物 11 裏参道分岐から山門下まで [p.86]
8。白滝山について 27 『観音和讃他』11回目 [p.88-89]
9。文政10年における帰参者 [p.90-91]
10。末広講の夢-重井村四国八十八ヶ所- 11 [p.90-91]
11。信仰とリクレーション 2 伊勢詣 住原俊治 [p.92-93]
12。小学校史 22 第三次小学校令の時代12 [p.94-95]
27回20180717
1。白滝山の現状について [p.97]
6。『霊峰白滝山の沿革』注解 5 [p.101]
7。白滝山の石造物 12 裏参道分岐から山門下 [p.102]
8。伝六思想の継承と発展 8 12 大原幽学 [p.103]
9。藤井忠三氏について 8 [p.103]
10。白滝山について 27 『観音和讃他』12 [p.104-105]
11。末広講の夢-重井村四国八十八ヶ所- 12 [p.106-107]
13。小学校史 22 第三次小学校令の時代12 [p.110-111]
14。道元禅師へのアプローチ 27 略伝13 [p.112]
28回20180821
1。白滝山の現状について [p.113]
3。細島 [p.114]
6。『霊峰白滝山の沿革』注解 6 [p.117]
7。白滝山の石造物 13 12.観音堂前広場 多宝塔 [p.118]
8。伝六思想の継承と発展 9 神仏習合と廃仏毀釈 [p.119]
9。藤井忠三氏について 9 [p.119]
10。白滝山について 28 『観音和讃他』13 [p.120-121]
11。末広講の夢-重井村四国八十八ヶ所- 13 [p.122-123]
12。三原城から見た石垣の歴史 住原俊治 [p.124-125]
13。小学校史 23 第三次小学校令の時代13 [p.126-127]
14。道元禅師へのアプローチ 28 略伝14 [p.128]
29回20180918
1。白滝山の現状について [p.129]
3。大島 [p.130]
6。『霊峰白滝山の沿革』注解 7 [p.133]
7。白滝山の石造物 14 .観音堂前広場 石観音 [p.134]
8。伝六思想の継承と発展 10 神仏習合と廃仏毀釈 [p.135]
9。藤井忠三氏について 10 [p.135]
10。白滝山について 29 『観音和讃他』14 [p.136-137]
11。末広講の夢-重井村四国八十八ヶ所- 14 [p.138]
12。中学校史 1 [p.139]
13。牛と馬から見た文化の違い 住原俊治 [p.140-141]
14。小学校史 24 第三次小学校令の時代14 [p.142-143]
15。道元禅師へのアプローチ 29 略伝14 [p.144]
16。弘法大師空海へのアプローチ 29 三教指帰2 [p.144]
30回20181016
1。白滝山の現状について [p.145]
3。鵜島 [p.146]
5。『霊峰白滝山の沿革』注解 8 [p.148]
7。白滝山について 30 『観音和讃他』15 [p.150-151]
8。伝六思想の継承と発展 11 神仏習合と廃仏毀釈 [p.152]
9。藤井忠三氏について 11 [p.152]
10。中学校史 2 [p.153]
11。末広講の夢-重井村四国八十八ヶ所- 15 [p.154]
12。町史年表考 1 [p.155]
13。「芸藩通史」から見える広島藩 住原俊治 [p.156-157]
14。小学校史 25 第三次小学校令の時代15 [p.158-159]
15。道元禅師へのアプローチ 30 略伝15 [p.160]
16。弘法大師空海へのアプローチ 30 三教指帰3 [p.160]
第31回20181120
1。白滝山の現状について [p.161]
5。『霊峰白滝山の沿革』注解 9 [p.164]
8。白滝山について 31 『観音和讃他』16 [p.166-167]
9。伝六思想の継承と発展 12 神仏習合と廃仏毀釈 [p.168]
10。藤井忠三氏について 12 [p.168]
11。中学校史 3 [p.169]
12。末広講の夢-重井村四国八十八ヶ所- 16 [p.170]
13。町史年表考 2 [p.171]
14。「芸藩通史」から見える広島藩 住原俊治 [p.172-173]
15。小学校史 25 第三次小学校令の時代15 [p.174-175]
16。道元禅師へのアプローチ 31 略伝16 [p.176]
17。弘法大師空海へのアプローチ 31 三教指帰4 [p.176]
18。善興寺残影 [p.176]
第32回20181218
1。白滝山の現状について [p.177]
5。白滝山について 32 『観音和讃他』17 [p.180-181]
6。『霊峰白滝山の沿革』注解 10 [p.180-181]
7。伝六思想の継承と発展 13 14 黒住教 [ p.182]
8。藤井忠三氏について 13 [ p.182]
9。末広講の夢-重井村四国八十八ヶ所- 17 [ p.183]
11。商売往来・資料編 [ p.185]
12。町史年表考 3 [ p.185]
14。中学校史 4 [ p.187]
15。小学校史 26 第三次小学校令の時代16 [ p.188-189]
16。善興寺残影 2 [ p.192]
因島・ふるさとの歴史を学ぶ会資料
第33回20190115
1。白滝山の現状について [p.1]
5。白滝山について その33 [p.4-5]
6。『霊峰白滝山の沿革』注解 その10 [p.6]
8。藤井忠三氏について その14 [p.6]
9。末広講の夢-重井村四国八十八ヶ所- その18 [p.7]
11。商売往来・資料編2 [p.9]
12。町史年表考 3 [p.10]
14。中学校史 5 [p.11]
15。小学校史 27 第三次小学校令の時代17 [p.12-13]
16。「能島来島因島由来記」に見る因島村上氏の規模 住原俊治[p.14-15]
17。善興寺残影 3 [p.16]
第34回20190219
1。白滝山の現状について [p.17]
5。白滝山について その33 [p.20-21]
6。『霊峰白滝山の沿革』注解 その11 [p.22]
7。伝六思想の継承と発展 その15 14黒住教 [p.22]
8。藤井忠三氏について その15 [p.22]
9。末広講の夢-重井村四国八十八ヶ所- その19 [p.23]
11。商売往来・資料編3 [p.25]
12。町史年表考 4 [p.26]
14。中学校史 6 [p.27]
16。瀬戸内海航路と村上海賊 住原俊治 [p.30-31]
17。善興寺残影 4 [p.32]
第35回20190319
1。白滝山の現状について [p.33]
4。白滝山の石造物 山頂広場 [p.35]
5。白滝山について [p.36-37]
6。『霊峰白滝山の沿革』注解 [p.38]
8。藤井忠三氏について [p.38]
11。商売往来・資料編 [p.41]
12。町史年表考 [p.42]]
14。中学校史 [p.43]
第36回20190416
1。白滝山の現状について [p.49]
3。笠岡 [p.50]
4。白滝山の石造物 山頂広場 [p.51]
5。白滝山について [p.52-53]
6。『霊峰白滝山の沿革』注解 [p.54]
8。藤井忠三氏について [p.54]
11。商売往来・資料編 [p.57]
12。町史年表考 [p.58]
14。中学校史 [p.59]
16。データで見る因島 江戸→大正時代 住原俊治 [p.62-63]
第37回20190521
1。白滝山の現状について [p.65]
3。魚島 [p.66]
4。白滝山の石造物 山頂広場 [p.67]
5。白滝山について [p.68-69]
6。『霊峰白滝山の沿革』注解 [p.70]
8。波濤万里 [p.70]
11。商売往来・資料編 [p.73]
12。町史年表考 [p.74]
14。中学校史 [p.75]
第38回20190618
1。白滝山の現状について [p.81]
3。魚島 [p.82]
4。白滝山の石造物 山頂広場 [p.83]
5。白滝山について [p.84-85]
6。『霊峰白滝山の沿革』注解 [p.86]
8。波濤万里 [p.86]
11。商売往来・資料編 [p.89]
12。町史年表考 [p.90]
14。中学校史 [p.91]
15。小学校史 白滝市活動 [p.92-93]
16。戸崎島四国調査結果 住原俊治 [p.94-95]
第39回20190716
1。白滝山の現状について [p.97]
3。竹原 [p.98]
4。白滝山の石造物 山頂広場 [p.99]
5。白滝山について [p.100-101]
6。『霊峰白滝山の沿革』注解 [p.102]
8。波濤万里 [p.102]
11。商売往来・資料編 [p.105]
12。町史年表考 [p.106]
14。中学校史 [p.107]
15。小学校史 白滝市活動 [p.108-109]
16。城跡面積から見える因島村上氏 住原俊治 [p.110-111]
第40回20190820
1。白滝山の現状について [p.113]
3。児島 [p.114]
4。白滝山の石造物 山頂広場 [p.115]
5。白滝山について [p.116-117]
6。『霊峰白滝山の沿革』注解 [p.118]
8。波濤万里 [p.118]
11。商売往来・資料編 [p.121]
12。町史年表考 [p.122]
14。中学校史 [p.123]
15。小学校史 白滝市活動 [p.124-125]
16。三原新四国八十八カ所巡拝 住原俊治 [p.126-127]
第41回20190917
1。白滝山の現状について [p.129 ]
3。御手洗 [p.130]
4。白滝山の石造物 山頂広場 [p.131]
5。白滝山について [p.132-133]
6。『霊峰白滝山の沿革』注解 [p.134]
8。波濤万里 [p.134]
11。商売往来・資料編 [p.137]
12。町史年表考 [p.138]
14。中学校史 [p.139]
15。小学校史 白滝市活動 [p.140-141]
16。潮の価値の歴史 住原俊治 [p.142-143]
第42回 20191015
1。白滝山の現状について [p.145]
4。白滝山の石造物 山頂広場 [p.147]
5。白滝山について [p.148-149]
6。『霊峰白滝山の沿革』注解 [p.150]
8。波濤万里 [p.150]
11。商売往来・資料編 [p.153]
12。町史年表考 [p.154]
14。中学校史 [p.155]
15。小学校史 白滝市活動 [p.156-157]
第43回 20191119
1。白滝山の現状について [p.161]
4。白滝山の石造物 山頂広場 [p.163]
5。白滝山について [p.164-165]
6。『霊峰白滝山の沿革』注解 [p.166]
8。波濤万里 [p.166]
11。商売往来・資料編 [p.169]
12。町史年表考 [p.170 ]
14。中学校史 [p.171]
15。小学校史 白滝市活動 [p.172-173 ]
16。大崎上島 御手洗の歴史 住原俊治 [p.174-175 ]
第44回 20191217
1。白滝山の現状について [p.177]
4。白滝山の石造物 山頂広場 [p.179]
5。白滝山について [p.180-181]
6。『霊峰白滝山の沿革』注解 [p.182]
8。波濤万里 [p.182]
11。商売往来・資料編 [p.185]
12。町史年表考 [p.186]
13。夕凪亭文庫資料目録 [p.186]
14。中学校史 [p.187]
15。小学校史 白滝市活動 [p.188-189 ]
16。Voll.4(2019)総目次 [p.190-191 ]
 




