2019年9月27日金曜日

因島文学散歩④ 柏原神社(荒神社)(因島重井町上坂)


 静かにたたえる みどりの海の
 潮のかおりの かよう窓べ
 やさしく われらに ささやく声よ
 われらは われらは 重井の健児

 船の絵を描くとき、島の山に緑色を使うので、海は青色となる。これはもう幼稚園の頃かそれ以前からの定番で、海は青いものと決まっている。しかし、実際に見る海の色は緑色だった。それは重井の桟橋でも、尾道の桟橋でも上から見れば、緑色で底に行くにつれて次第に濃くなっていた。
 福山で薬局を経営しながら詩を書いていた木下夕爾さんが、重井小学校の校歌の作詞を依頼されて、それでは一度行ってみましょう、と重井町を訪ねたのは昭和34年の初夏だった。尾道から船に乗る。海が緑色だということに驚いたと思う。
 校内を一通り案内されたあと、学校を見渡せるところへということで、学校の近くの丘へ登った。かつて無量寺というお寺のあったところ。墓地は移転して荒神社になり、柏原氏の先祖が祀られ柏原神社とも呼ばれている。ここには島四国81番白峯寺と村四国7番十楽寺もある。
 東に見えるあのあの山は?
 白滝山と言って、多くの石仏があって・・・横田徳造教頭の説明は遠慮がちであったが、町民の抱く思いは伝えておいた。
 これは、はずせない、しかし、どこまでのせるか。目を転じると、さっき来た海の上には青空を背景に白い雲が浮かんでいる・・・。 

 朝(あした)も夕(ゆうべ)も 白滝山(しらたきやま)に
 仰ぐ真白の 雲のつばさ
 明るく われらを さそう光よ
 清らかに 清らかに 夢をそだてて
 われらは われらは 重井の健児

 あの山肌の畑は? 
 ほとんどの家庭が農家で、特産物の除虫菊とさつま芋。 
 一応、メモする。使えそうにないな・・・。

 平和なふるさと わが因島
 心ひとつに つどう窓べ
 力ある 力ある 足ふみしめて
 われらは われらは 重井の健児
 

 自動車も鉄工団地もない静かな農村を、平和という文字で表現しても不自然でない自然に溢れていた時代であった。


因島文学散歩⑤ 椋浦廻船燈籠(因島椋浦町)


亀五郎は、芸州椋之浦(広島県因島市椋浦町)の生れで、十年ほど前、船乗りとして江戸から帰航中、熊野灘で遭難、破船漂流してアメリカ商船に救けられ、サンフランシスコに上陸した。一同十七人であったが、清国に送られる途中、ハワイで船頭が病死。亀五郎は、治作、彦蔵とともにサ ンフランシスコにもどり、船の炊に雇われてすごしていた。

 椋浦廻船燈籠は椋浦と船との関係をよく示している。千石船で栄えていた頃、その持ち主たちによって建てられたものである。地元に船主がたくさんいるのだから船乗りも増える。中には他国の船に乗るものも出る。そのような中の一人亀蔵(改名して亀五郎)は、播磨国(兵庫県)の永力丸で遭難した。嘉永4年(一八五一年)10月29日のことであった。幸いアメリカ船に救出された。永力丸には後にアメリカ彦蔵(浜田彦蔵)と呼ばれた男が乗っていたので、多くの記録に記されることになった。
 吉村昭『アメリカ彦蔵』(読売新聞社)では、次のように続く。

その船で長い航海をしてサンフランシスコにもどると、すでに彦蔵は神奈川に、治作は箱館にそ れぞれ帰国したことを耳にした。
ただ一人になったことを知った亀五郎は、狼狽して日本へ行く船を狂ったように探しまわり、商船「ロッジル号」が商用で香港へ行くことを知って船長のノルデネルに乗せて行ってくれるよう懇願した。船長は承諾し、亀五郎は水夫に雇われて乗船し、五十日間の航海をへて香港についた。


 鎖国時代に国外へ出た人の運命は、開国を前にした幕末では、時とともに大きく変わる。入国を拒否された天保8年(一八三七)のモリソン号事件を聞いた亀蔵ら3人は帰国を諦めてサンフランシスコへ戻り、そこで3人は別れ別れになった。その後、香港へ行き、遣米使節団の乗った「ナイアガラ号」に乗って帰国できた。

因島文学散歩⑥ 日立造船(因島土生町・因島三庄町)


「伊号第三三潜水艦」は、赤錆びた艦体を御手洗海岸近くに浮べている。又場にとって海底に沈められていた巨大な棺ではなく、会社経営の利益の対象になったのだ。 艦体の腐蝕も少く、殊に浸水していなかった魚雷発射管室は貴重で、艦を視察した商社との引取り価格の調整がおこなわれた。その結果約三千五百万円で取引きが成立、又場は艦の解体工事をおこなう広島県因島市の日立造船ドックまで曳航することになった。かれは引揚げ作業によって予期通りの利益を手中にする ことができたのだ。吉村昭『総員起シ(おこし)』(文春文庫) 

 昭和19年6月13日伊予灘由利島付近で沈没した伊号第三三潜水艦は、昭和28年に引き揚げられ、因島で解体されることになった。全長108.7メートルというから壮観だったと思われる。

「伊号第三三潜水艦」は原型をとどめていたので、造船業界の注目を集めた。韓国海軍から買受け希望があるというニュースなどもあって、浦賀ドック、川崎重工、三菱電機、日立製作所、播磨造船などから商社に注文が殺到した。

 まさに海底から引き揚げられた「お宝」であった。しかし解体前に不幸な事故が起こった。浦賀ドックの潜水艦設計の専門家3名が8月12日に調査にやってきた。

魚雷発射管室に入って調査することを申し出たが、現場主任はガスが内部にたまっているかも知れぬという理由で同意しなかった。
 
 しかし、危険はないと判断した3人は中に入り、次々と倒れた。

いつの間にか炎熱につつまれたその区劃内には 濃厚なメタンガスが発生していて、三名の技師の生命を瞬間的に奪ってしまったのである。
収容されたかれらの遺体は、その夜日立病院から因島市土生町の善行寺に移され安置された。ハッチは、再びかたく閉鎖された。

 死者にムチ打つことは慎まなければならないが、やはり、現場主任が同意しなかった、ということは重ねて書いておきたい。

(写真は瀬戸内タイムズ2007年7月7日より転載 文 因島文学散歩の会・柏原林造

因島文学散歩⑦ 青影山(因島中庄町・因島田熊町)



瀬戸内海の諸水軍を大統一したのは伊予の村上義弘である。かれは戦法に長じ、その戦法はやがて村上流といわれるようになった。やがて村上氏は、因島村上氏、来島村上氏、能島村上氏などにわかれた。司馬遼太郎『坂の上の雲』(全集24)

  伊予出身の秋山真之(さねゆき)は海軍の参謀で戦術研究家であった。秋山が日露戦争で用いた作戦は水軍戦法を元に考え出されたものだと言われている。それは「能島流海賊古法」という写本が元だった。上記の記述では同じものが因島村上氏に伝わっていてもよさそうである。しかし、そうではない。

能島は伊予大島に付帯する島で、全島が城塞化され、能島村上氏の根拠島になっている。ここで、能島流戦法が生まれた。

 私はその「能島流海賊古法」の大部分は、江戸時代に実戦経験のない兵法家が書いた想像の産物だと思う。秋山真之は戦略家であって歴史家ではなかったから資料の真偽には関心はなかった。戦史を猟歩し、あとは自分の置かれた状況での戦略を練る。だから能島の狭い海域で生まれた戦法ではなく、空想の産物だからこそ、日本海で役立つ戦略が生まれたのであろう。能島水軍時代の原本はこれまで発見されていないだろうし、おそらく今後も発見されることはあるまい。
 司馬遼太郎さんのこの本で懐かしい村上義弘の名に出会うとは意外だった。私たちが子供の頃、村上水軍といえば青影山の村上義弘だった。だから村上元三原作の映画「海賊八幡船(ばはんせん)」も当然義弘が主人公だと思ってみた。その義弘さんは水軍城におられなく、青影山へ登ると立派な石碑があって「村上義弘公青影城址登山路改修碑」と書いてある。

 正五位の追贈問題は、とんびに油揚げをさらわれたような形で伊予の大島へ行ってしまったが、亀老山中腹の村上義弘の墓のあるところには因島にも居たことが記されている。

 また宮窪小学校の近くには幸賀屋敷跡というものがある。因島村上文書に法橋幸賀館が出てくるので、義弘が因島で幸賀館になり、大島へ移っても幸賀館と名乗っていたということであろうか。(文・写真 因島文学散歩の会・柏原林造

2019年9月16日月曜日

ふるさとの史跡を訪ねて 第141〜150 増補版

本館 白滝山 いんのしまみち

ふるさとの史跡をたずねて(141)

金山新開道路新設記念碑(因島田熊町因島モール)

 金山新開道路新設記念碑が、因島モールの駐車場の北側入口から入ってすぐのところにある。元は道路沿いにあったものが道路拡張で何度か移設されたものであろう。見通しもよく、安住の地を得た感じである。多くの道標や石碑が失われていく中で、このような形で保存されることは、意義のあることだと思う。もちろん元あった所の面影は、うかがうべくも無いが、その道路そのものも大きく変貌しているのだから仕方がない。 

 因島モールの広大な平地は内海造船があったところであるが、それ以前には塩田などがあったと言われている。塩田があったところは、たいていが干拓地で埋立地ではない。初期の塩田は入浜式であったから、海から高いところにある埋立地では作業効率が悪かったせいであろう。しかし、その塩田の跡を探すのは困難である。石垣の一部が残っているだけである。

 因島モールの南側が扇新開で、北側が金山新開であるが、私にはその境界ははっきりしない。おそらく、海へ伸びる水路がそれであろう。

 扇新開の潮回しは、ひまわりの南の辺りから一部が見える。それは田熊桟橋まで続いているので明治橋から桟橋へ至る道が南の端であることがわかる。

 それに対して金山新開の北端は複雑である。この辺りは山がせり出していて、道路が西へと方角を変えるので、この辺が境であろうか。

 金山という地名は鉱山(かなやま)から来ており、銅の鉱山があったということである。島四国67番大興寺(小松尾寺)の下に坑道跡があり、山の中には縦に伸びる坑道跡もあると言うことであるが、素人が探検すべきものではない。銅山といえば銅だけが産出すると思いがちであるが、金や銀も他の土地に比べたら豊富に産出し、周辺にもミネラルが豊富なはずである。近辺では、生口島にマンガン鉱がわずかに産出した程度であるから、そんなに大きな銅山ではなかったと思われる。



ふるさとの史跡をたずねて(142)

西浜明神社(因島田熊町西区)

 金山新開の少し北西に西浜明神社がある。私の遠い記憶ではかつては因鍛前(いんたんまえ)と呼ばれていたが、今は西浜バス停となっているところの北(西)側の路地を海の方へ入ったところである。海に近いので厳島神社の分霊を祀っていて、海運業者から信仰されていたのかと思ったら、半分違っていた。すなわち、厳島神社ではなかった。しかし金山銅山にゆかりのある珍しいものだということである。

 海洋信仰の歴史は古く、多くの神社が海寄りにあるのはよく知られていることであるが、鉱山関係者も大地に穴を開けるのだから地の神の怒りを招いてはいけないので、神社が必ず付随していた。古くは水銀採掘集団の丹生一族により全国各地に丹生神社が祀られた。また、別子銅山では大山祇神社が勧請されていたし、さらに坑道の入り口にはそのまた分霊の小祠が祀られており、入坑者たちは必ず手を合わせて安全を祈願していた。海も鉱山も危険と隣り合わせだから、神仏のご加護を願ったのは当然であろう。

 さて、田熊の西浜明神であるが、古くは鹿田山金山明神と記されていたそうである。鹿田山というのはよくわからないが、同名の山が群馬県の岩宿遺跡の近くにある。そこから渡良瀬川沿いに県境を越えると足尾銅山に至る。その間約20キロ。近いといえば近い。何か関係があるのだろうか。

 西浜明神社は、近くの干拓地(西新開)が入浜式塩田としてできた文政8年と、金山港の増築や工業用地が拡張された昭和18年の二度にわたって移設され、現在地に落ち着いた。その間に鉱山から塩田の守り神となり、さらに海運業者や商人から崇められ、地域の神社として祀られたきた。特に金山港を母港とする帆船、機帆船の守り神として重きをなしたものと考えられる。

 江戸時代の千石船は椋浦、三庄が中心であったが、当然のことながら田熊の関係者もいたし、規模の小さい船は田熊にもあった。それらの伝統から明治以降も木造帆船が増加し、昭和の時代になると機帆船へと変わっていった。




ふるさとの史跡をたずねて(143)

東浜明神社(因島田熊町明治橋)

 西浜明神社の次はやはり東浜明神社ということになる。明治橋の交差点のところの神社である。道路を隔てて南側は島前でその上の図書館のあるところが島前城跡だった。また、少し南は釣島箱崎浦合戦の古戦場である。・・・こう書くと振り出しに戻ったような気持ちになる。

 箱崎浦と同じように、こちらも深い入り江になっていた。あるいは、こちらの方が奥が深ったと思う。どちらも今は陸になってその面影はない。ただ、道路の傾斜が大きくなるところからが元の海岸線だと思えばよい。

 田熊側の沖は扇新開で、その奥に古新開があったというから何回かに分けて干拓が行われたのである。従って古い干拓の堤防跡がありそうなものであるが、それを探すのは難しい。堤防といえば海と対峙するのだから、立派なものであったと思いがちである。しかし後に改修されたものばかりで、元の堤防や土手は埋もれてしまっているだろう。ただ、堤防の跡が道路になっているところは多い。

 さて、西浜明神社であるが、これは文化13年(一八一六)に扇新開を中庄村庄屋宮地与三兵衛が扇新開を完成させた時に、田熊の住人によって設置されたものである。厳島神社であるから、干拓地の守護神であるとともに船の守り神であった。農船のみならず海運業・商業に従事する船も次第に増えたから、商売繁盛の神としての位置付けが重くなったことだろう。

 ところで厳島神社の祭神は宗像三女神で、その筆頭は市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、すなわち弁財天である。田熊町にはここより少し東に弁財天があり、かつては海に接していたと言われている。新開の延長に連れて移転はせずそこに残し、新たに厳島神社を勧請し、ともに弁財天、明神社と神仏習合時代の名で呼んで区別しているのであろう。




ふるさとの史跡をたずねて(144)

お政大師堂(因島田熊町東区)

 明治橋の交差点から東へ入る道は妙泰越の対潮院墓地横を通って三庄方面へ抜ける近道に続き、交通量は多い。因島スーパー田熊市場近くから島四国57番永福寺へ入るのであるが、その道路脇に島四国のお堂と見間違うばかりに立派なお堂がある。番外札所お政大師堂である。

 大師堂の堂守として住んでいたと書くと、小さなお堂に人が住めるのかと思う人も多いと思う。家電製品に取り囲まれた現在の生活から見ると、システムキッチンの代わりに七輪一つが唯一の家財道具であった小屋掛けのような生活を想像することは難しい。まあ、そういうことが可能な時代であった、ということにして話を続けよう。そういう人が大師堂の名前として今に伝わるわけだから、よほど奇特な方だったにちがいない。わずかの伝聞を元に思いをめぐらしてみよう。

 お政さんの先任者はお竹さんである。家族に、もて余されたお政さんを引き取り、下働きをさせながら育てて教えたら、お竹さんを上回る能力を発揮した。今風に言えば、おがみ屋とか占い師とか祈祷師とか霊媒師と呼ばれる類の、要するによろず相談人だったのであろう。それで生活をしていくとなると、余人には理解しがたい超自然的な能力をもっていたということだろうか。

 時々、足し算のできる犬や馬がいて、3+5と問題を出すと犬なら8の札を、馬なら前足で8回たたく。その秘密は飼主の表情の中に答えがあったというわけである。

 このことから連想するに、この二人の女性は、相手の表情を読む力に優れていたと思う。またこの人の言うことなら当たる、と思わせるだけの雰囲気も備えていたと思う。

 超自然的な能力に対する私の解釈は以上に尽きる。それ以上のことはわからないが、お政さんも偉いがそれ以上にお竹さんも偉いと思う。お政さんは明治の初め頃の生まれだということだから、お竹さんはその頃までに一家をなしていたと思われる。そして島四国のつくられた明治44年頃には、お政さんは存命であり、このお堂を島四国のお堂のひとつにすることはなかった。





ふるさとの史跡をたずねて(145)

川口大師堂(因島重井町川口)

 島四国のお堂がすべて大師堂である。しかし、重井町で大師堂といえば、今は島四国84番屋島寺となっている川口の大師堂のことである。重井村の安永三年(一七七五)村立実録帳には観音堂と大師堂と地蔵堂が記録されている。観音堂は白滝山にあり、「恋し岩」という創作民話のモデルとなった石観音を安置していた。また、「はふく大師堂」とあるのだが、意味不明である。

 大師堂の裏には六十六部の廻国供養塔があり、「奉納大乗妙典六十六部日本回国  天下泰平 日月清明 願主 行者了心 十方施主 文政八歳 酉三月吉日 」とある。また「尾道住人 石工 善三郎  伊平」と記されている。

 白滝山石仏建造時の寄付録である「文政十年 重井村観音山 五百大羅漢寄進」に「六部了心」の名が重井村壱番組の最後の頁に見えるから、この近くに了心と名乗る人が住んでいたことが推察された。しかし、それ以上のことはわからなかった。ところが、ある家の家譜に、大師堂の尼僧の勧めである女性を娶ったと記されているのを見つけた。このことから行者了心が女性だとわかる。

 大師堂のある丘は川口新開一町田と長右衛門新開に接しており、両新開築堤のために山が削られ、そのあとに大師堂が建てられたのだろう。そこに了心が堂守として住み、発心して全国66ヶ寺に法華経の写経を奉納して、結願供養塔を建てた。尾道石工の作った立派なもので、多くの寄進があったと考えられる。

 明治近代教育は「邑に不学の戸なく、家に不学の子なからしめん」という有名な明治5年の学制から始まった。その法令によって最初の公立小学校として明治6年4月に重井村善興寺に振徳舎が田熊村浄土寺に研機舎が開校した。それに伴いここ大師堂に信誠舎(分教場)が設立され、明治10年2月まであった。小学校の守本尊は後に金次郎さんになるのだが、ここでは弘法さまだったのだから、学習のの効果は大いにあがったことだろうと思われる。




ふるさとの史跡をたずねて(146)

山神神社(因島田熊町西区)

 山の神を祀ったのが山神社で、山神神社と書いても同じことである。社殿の額に「山神神社」と書いてあるのでそうしておく。

 山神神社のあるところが西区なら西浜明神とは随分離れているので西区が広くなりすぎる・・と考えて調べなおしてみたら、金山港や西浜明神のあるところは、金山区であった。調べなおすといっても区名を書いた地図は持っていないし、字(あざ)を書いた地図では境界がはっきりしない。自分の住んでいる町内でも日常会話で使われる地区名や字名の境界を全て理解しているわけではない。地名というのは複雑なものである。それなのに郵便物はほぼ間違いなく配達されるし、救急車も電話一本でたどり着くのだから、我が国の文明度はかなり高いと思ってもよい。

 しかし、西区の山神神社の場所を説明するのは難しい。車で行くのはもっと難しい。運良く道標が見つかれば、それに従い、見つからなければ近くの人に聞くしかない。スマホをナビとして使える人は、容易にたどり着けるだろう。

 山はいくらでもあるのに、どうしてここに山神神社があるのだろうか。山の神は春になると下に降りてきて田の神になる。そして秋には再び山に帰って山の神になる、という話がある。これは水の比喩だと思えばよい。山の恩恵は風を遮るとか、樹木を成長させるとか、いろいろあるが、やはり水となって現れることが最大である。だから山の神を祀るということは山の水を祀っていると思っても大きくぶれてはいまい。

 そう思ってこの山神神社を見ると左には大きな沢があって、少し上の方には大きな砂防ダムがある。また彩色摩崖仏の少し下には水場と呼ばれるところがあって地蔵さんもある。摩崖仏の上の峠を越えると中庄町に出るのだが、左側の山が竜王山である。ということで、水と縁のある地域であることがわかる。

 なお竜(龍)王山はここの他、因島南小学校から東へ入ったところ、重井町の権現山、青木城跡などが竜王山と呼ばれており、雨乞いが行われていた山である。






ふるさとの史跡をたずねて(147)

山の神社(因島重井町山ノ神)

 重井町の字(あざ)山の神には山の神(やまのかみ)社が祀られている。国土地理院の地図では竜王山と書かれているが、地元では権現山と呼ばれている山の北麓である。

 少し上には、今は埋められてゴミステーションになっているが、かつて山の神池という溜池があって、子供の頃魚釣り用のヌマエビを採りに行ったことがある。下流に田んぼがあってもいいのだが、その頃はもう田んぼはなくなっていたので、開削時の目的は終えたが、宅地化が進んだときに防火用水として重宝されたに違いない。特に下流域は住宅密集地であったからなおさらだった。

 山の神池の水は北に下り、大出酒店前の防火用水池にたまり、そこで北と北西に分岐され、それぞれの先端にも防火用水池があった。なかなかよくできた施設で、先人の知恵には頭がさがる。しかしそれも市の水道が重井町まで延長されると、各所に消火栓が設置されて役目を終えた。山の神池や防火用水池は埋められ、導水路の大部分が暗渠になって排水路として機能しているに過ぎない。

 さて竜王山であるが、前回書いた通り、雨乞いが行われていた山が竜王山と呼ばれている。雨乞いが迷信だと思っている人は多いがそうではない。都では天文博士の阿部家や土御門家が司(つかさど)ったのかも知れないが、地方では山伏や神官の祈祷や祝詞で始まった。雨が降れば、彼らの能力が評価されるが、降らなければ無能ぶりをさらけ出すことになる。自己の力を示すためには、その地域の気象現象に通暁し雨が降りそうな頃に雨乞いをすればよいことになる。

 また山上で火を焚けば上昇気流が生じ、雨雲が近くにあるとさらに引き寄せ、煤(すす)などの微粒子が核となって雨を降らせやすくするだろう。したがって、村の代表からそろそろ雨乞いをと打診された時、いつ承諾するかを決める術は彼らの家で伝授される企業秘密であった。

 農村では長い日照りの後で雨が降ると「雨喜び(あまよろこび)」をした。雨振り正月とも呼ばれるように、畑仕事を休みご馳走を作って祝った。




ふるさとの史跡をたずねて(148)

宇賀の神(因島田熊町樫平)

 かせびらさんの愛称で親しまれている宇賀の神は、地図の上では春日神社と書かれているので、田熊町の山神神社に比べればスマホで探しやすいと思う。しかし現地に近づいても、発見できないかもしれない。というのは、道らしくない道があって、その下にあるからである。屋根を見つけて、それだと思ってもどこからお参りするのか、参道の入口がわからない。道の下にあるのだから、道との高さが最も小さくなるところから入るということが理解できて、それらしきところを発見しても、蛇が出そうでやはり躊躇してしまう。

 なぜこんなことをだらだらと書くのかというと、本来のというか、往時の光景は現在とは全く逆の様相を示していたと思うからである。

 雑草に覆われ両側から傾斜地がせまってくる周囲は、イノシシの運動場にしか見えないが、元は田んぼだった。あぜ道はよく手入れされ、その外側の水路には、メダカ、ドジョウはもちろん、タニシや、ちんぼうさしと呼んでいたミズカマキリやミズスマシなどの水棲動物の宝庫だった。それらが激減したのはホリドールと呼ばれたパラチオン系の農薬が使われだした頃からだと思う。

  田植えが終わり、水を張られた田んぼは初夏の光を反射して輝く。夏の間に稲は緑を増して稔り、秋には黄金色に変わる。

 その片隅にお宮があって、里山の四季によく溶け込んでいたことだろう。

 この辺りが田熊町の田んぼの発祥の地だと言われているから、そこに穀物神である宇賀の神(宇賀大神)が祀られたので

ある。山の神が降りて来て田の神となる信仰との関わりはわからないが、こちらはそれとは独立した田の神である。境内にはツキヨミさんも祀られている。宇賀の神は女神であるので、月読の命を併せて祀っているのは気の利いた配慮である。

 大浜町の幸崎城跡にある芋神社では、月読の命が祀られている。月読の命は天照大神の弟神で、やはり穀物神である。




ふるさとの史跡をたずねて(149)

           写真・文 柏原林造

厳島神社(因島重井町明神)

 水軍祭りとかフラワーフェスティバルのような新興のお祭りは別として、昔は最大の祭りといえば秋祭りであった。尋常小学唱歌(3年)「村祭り」の歌詞の一部に「村の鎮守の神様の今日はめでたいお祭り日」「年も豊年万作で村はそうでの大祭り」「実りの秋に神様のめぐみたたえる村祭り」とあることからもよくわかる。そして秋祭りが収穫祭であったことも伺える。

 村の鎮守といえば多くは八幡神社で、九州の宇佐氏の氏神であったものが、武家の氏神などを経て源氏の氏神になる。重井の伊浜八幡神社は6代吉充が作り、江戸時代には村上長右衛門が増築した。

 村上氏も源氏だから、八幡大菩薩の旗を立てて航海したという話は理にかなってはいるが、真偽のほどは疑わしい。しかし、村上氏が八幡社を造営したのは、村のためでもあり、自分たちのためでもあったと思われる。

 その八幡神社の秋の大祭の起源は収穫祭である。宇迦魂(うがのみたま)が祀られているから、秋祭りの祭神であろう。宇迦魂があるのに、田熊町の宇賀の神には重井町からもお参りしていたというから宇賀の神のご利益が大きかったのだろうか。

 夏祭りは虫送りと関連するのか、疫神鎮護で神輿を激しく振って神威を高める。また、疫神に神輿で十分に楽しんで出て行ってくださいという意味もあるという説もある。前者の進化したものが喧嘩神輿であり、後者の発想がお旅所ということになる。

 これと重なるように瀬戸内地方では厳島神社の管弦祭がある。これは旧暦の6月17日の大潮の日である。旧暦で同じ日にすれば潮位が同じで、船を利用するのには都合がよい。

 重井町に大疫神社(祇園さん)と厳島神社(明神さん)があり、明神祭の方でより盛大に神輿が繰り出されている。これは両社の祭りが融合した形であり、船で神輿が渡御する間、賑やかに祭囃子を奏でるところに管弦祭の面影をとどめていると言えるだろう。





ふるさとの史跡をたずねて(150)

草深山稲荷神社(因島三庄町三区)

 今では祭神はおキツネさまだと多くの人が思っている、陶器の白いキツネと赤い鳥居で有名な稲荷神社に、なぜ稲の字が入っているかのという疑問は、元々の祭神は穀物神の宇迦之御魂(ウカノミタマ)であったと書けば納得されることと思う。それならば、おキツネさんは俗説かと言うと、そうではなく、長い歴史を持つ民間信仰である。ただ、本来の祭神ではないが。

 その歴史は長く複雑である。初めは秦氏の氏神であり、農耕や養蚕の神として祀っていた。それを空海が東寺(教王護国寺)を建てたときに守護神としたので、真言密教と習合するとともに広く信仰されるようになった。時代とともに神様のキャパシティ(守備範囲、正確には神格)も殖産興業、商業と広がり、屋敷神も兼ねているのだから、その人気は留まるところを知らない。

 統計上も神社総数は多いが、それには載らない邸内祠でもお稲荷さんの人気は高いから、庶民信仰の雄であろう。邸内祠、すなわち個人の屋敷内で祀るのは江戸時代、田沼意次が家に祀りどんどん出世したので庶民に広まったという説がある。白い陶器と木製の赤い鳥居で稲荷神社ができるのだから安い投資である。私も岡山の高松稲荷にお参りしたとき、おキツネさまを買って帰ろうとしたら、家人に止められた。私が死んだ後誰がそのおキツネさまの面倒を見るのだ、というのである。確かに墓仕舞いならぬ祠仕舞いの問題は看過できない。不燃ゴミの日に出せばバチが当たりそうだ。いやそれ以上に祟りがありそうだ。ということでお稲荷さんは祀っていなし、お金もたまらない。おキツネさんの代わりに、小型の金次郎さんの像を時々眺めて、この姿では乱視や腰痛や水虫になるのではないかと心配している。

 生口島の名荷から洲江に抜ける峠道のお稲荷さんへお参りすれば、海岸道路のなかった時代の状況を考えることができる。土生町では因島公園の下、田熊町と重井町では八幡神社の境内に稲荷神社が祀られている。三庄町では三区の政所に、京都の伏見稲荷の分霊を祀っている草深山稲荷神社がある。願い事ばかりでなく、大地の恵みへの感謝も忘れずにすべきであろう。





 写真・文 柏原林造

本館 白滝山 いんのしまみち

ふるさとの史跡を訪ねて 第148回 宇賀の神(因島田熊町樫平)


 かせびらさんの愛称で親しまれている宇賀の神は、地図の上では春日神社と書かれているので、田熊町の山神神社に比べればスマホで探しやすいと思う。しかし現地に近づいても、発見できないかもしれない。というのは、道らしくない道があって、その下にあるからである。屋根を見つけて、それだと思ってもどこからお参りするのか、参道の入口がわからない。道の下にあるのだから、道との高さが最も小さくなるところから入るということが理解できて、それらしきところを発見しても、蛇が出そうでやはり躊躇してしまう。
 なぜこんなことをだらだらと書くのかというと、本来のというか、往時の光景は現在とは全く逆の様相を示していたと思うからである。
 雑草に覆われ両側から傾斜地がせまってくる周囲は、イノシシの運動場にしか見えないが、元は田んぼだった。あぜ道はよく手入れされ、その外側の水路には、メダカ、ドジョウはもちろん、タニシや、ちんぼうさしと呼んでいたミズカマキリやミズスマシなどの水棲動物の宝庫だった。それらが激減したのはホリドールと呼ばれたパラチオン系の農薬が使われだした頃からだと思う。
  田植えが終わり、水を張られた田んぼは初夏の光を反射して輝く。夏の間に稲は緑を増して稔り、秋には黄金色に変わる。
 その片隅にお宮があって、里山の四季によく溶け込んでいたことだろう。
 この辺りが田熊町の田んぼの発祥の地だと言われているから、そこに穀物神である宇賀の神(宇賀大神)が祀られたので
ある。山の神が降りて来て田の神となる信仰との関わりはわからないが、こちらはそれとは独立した田の神である。境内にはツキヨミさんも祀られている。宇賀の神は女神であるので、月読の命を併せて祀っているのは気の利いた配慮である。

 大浜町の幸崎城跡にある芋神社では、月読の命が祀られている。月読の命は天照大神の弟神で、やはり穀物神である。( 写真・文 柏原林造)



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➡️ブーメランのように


ふるさとの史跡を訪ねて 第149回 厳島神社(因島重井町明神) 

 水軍祭りとかフラワーフェスティバルのような新興のお祭りは別として、昔は最大の祭りといえば秋祭りであった。尋常小学唱歌(3年)「村祭り」の歌詞の一部に「村の鎮守の神様の今日はめでたいお祭り日」「年も豊年万作で村はそうでの大祭り」「実りの秋に神様のめぐみたたえる村祭り」とあることからもよくわかる。そして秋祭りが収穫祭であったことも伺える。
 村の鎮守といえば多くは八幡神社で、九州の宇佐氏の氏神であったものが、武家の氏神などを経て源氏の氏神になる。重井の伊浜八幡神社は6代吉充が作り、江戸時代には村上長右衛門が増築した。
 村上氏も源氏だから、八幡大菩薩の旗を立てて航海したという話は理にかなってはいるが、真偽のほどは疑わしい。しかし、村上氏が八幡社を造営したのは、村のためでもあり、自分たちのためでもあったと思われる。
 その八幡神社の秋の大祭の起源は収穫祭である。宇迦魂(うがのみたま)が祀られているから、秋祭りの祭神であろう。宇迦魂があるのに、田熊町の宇賀の神には重井町からもお参りしていたというから宇賀の神のご利益が大きかったのだろうか。
 夏祭りは虫送りと関連するのか、疫神鎮護で神輿を激しく振って神威を高める。また、疫神に神輿で十分に楽しんで出て行ってくださいという意味もあるという説もある。前者の進化したものが喧嘩神輿であり、後者の発想がお旅所ということになる。
 これと重なるように瀬戸内地方では厳島神社の管弦祭がある。これは旧暦の6月17日の大潮の日である。旧暦で同じ日にすれば潮位が同じで、船を利用するのには都合がよい。

 重井町に大疫神社(祇園さん)と厳島神社(明神さん)があり、明神祭の方でより盛大に神輿が繰り出されている。これは両社の祭りが融合した形であり、船で神輿が渡御する間、賑やかに祭囃子を奏でるところに管弦祭の面影をとどめていると言えるだろう。(写真・文 柏原林造)



ふるさとの史跡を訪ねて 第147回 山の神社(因島重井町山ノ神)

2019年9月7日土曜日




ふるさとの史跡をたずねて 第146回 山神神社(因島田熊町西区)

 山の神を祀ったのが山神社で、山神神社と書いても同じことである。社殿の額に「山神神社」と書いてあるのでそうしておく。
 山神神社のあるところが西区なら西浜明神とは随分離れているので西区が広くなりすぎる・・と考えて調べなおしてみたら、金山港や西浜明神のあるところは、金山区であった。調べなおすといっても区名を書いた地図は持っていないし、字(あざ)を書いた地図では境界がはっきりしない。自分の住んでいる町内でも日常会話で使われる地区名や字名の境界を全て理解しているわけではない。地名というのは複雑なものである。それなのに郵便物はほぼ間違いなく配達されるし、救急車も電話一本でたどり着くのだから、我が国の文明度はかなり高いと思ってもよい。
 しかし、西区の山神神社の場所を説明するのは難しい。車で行くのはもっと難しい。運良く道標が見つかれば、それに従い、見つからなければ近くの人に聞くしかない。スマホをナビとして使える人は、容易にたどり着けるだろう。
 山はいくらでもあるのに、どうしてここに山神神社があるのだろうか。山の神は春になると下に降りてきて田の神になる。そして秋には再び山に帰って山の神になる、という話がある。これは水の比喩だと思えばよい。山の恩恵は風を遮るとか、樹木を成長させるとか、いろいろあるが、やはり水となって現れることが最大である。だから山の神を祀るということは山の水を祀っていると思っても大きくぶれてはいまい。
 そう思ってこの山神神社を見ると左には大きな沢があって、少し上の方には大きな砂防ダムがある。また彩色摩崖仏の少し下には水場と呼ばれるところがあって地蔵さんもある。摩崖仏の上の峠を越えると中庄町に出るのだが、左側の山が竜王山である。ということで、水と縁のある地域であることがわかる。

 なお竜(龍)王山はここの他、因島南小学校から東へ入ったところ、重井町の権現山、青木城跡などが竜王山と呼ばれており、雨乞いが行われていた山である。 (  写真・文 柏原林造)





2019年9月6日金曜日

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第42回 20191015
1。白滝山の現状について               p.145                      
2。村上水軍について                                                           p.145                          
3。四国霊場今治  55-59番                  p.146                         
4。白滝山の石造物  山頂広場               p.147         
5。白滝山について                                p.148-149                            
6。『霊峰白滝山の沿革』注解                               p.150 
7。伝六思想の継承と発展 修験道                            p.150
8。波濤万里                                                        p.150 
9。末広講の夢-重井村四国八十八ヶ所-                 p.151
10。文化財探訪                                               p.152               
11。商売往来・資料編                               p.153
12。町史年表考                                          p.154
13。因島高等学校史                                       p.154 
14。中学校史                                                     p.155
15。小学校史    白滝市活動                                          p.156-157
16。塩飽諸島の歴史       住原俊治              [p.158-159
17。因島抄                                                                    p.160