2016年3月6日日曜日

白滝山



五百羅漢像                   
 場所:広島県尾道市因島重井町
 標高:227m                          観音和讃
 
注意!!  歩き参道の説明が主体となりますが、車で行く方はフラワーライン経由で8合目駐車場まで行き、そこから徒歩約10分で山頂を目指すのが、速いでしょう。
 
因島市北部(2006年1月10日に尾道市因島になった)に存在する五百羅漢の石仏で有名な白滝山を案内します。
山頂及び登山道から、青い瀬戸内海や周囲の島々を眺めることができます。同時にまた、至る所に鎮座する花崗岩の石仏が、登山者を様々な表情で優しく迎えてくれます。
風化しかけた石仏の表面は苔生して、長い間この地で潮風に洗われてきたことがわかります。
これらの石仏はおよそ700体あるといわれております。
江戸時代の末ごろ、麓の重井村に住む、柏原伝六が、あたらしい宗教を開き、その運動に共感した、柏原林蔵らの弟子が3年余りの歳月をかけて彫琢したと伝えられている。伝六と林蔵の住む家は200メートルも離れていませんから、弟子とはいうものの友人だったのでしょう。
 記録では1827年(文政10年)「正月から宇根家3代の林蔵が石仏工事の責任者となり大石仏や五百羅漢作りに着手した。記録,勝手方には新屋2代峰松初五郎が当たった」とある。
   なお、伝六、林蔵、初五郎の家は白滝山の麓、因島重井町にありました。重井町一本松からフラワーセンターへの狭い道路沿いです。車も通れないことはないですが、狭いので対向車とのすれ違いは、慣れぬ人には難しいので島外の方は通らないほうが無難です。伝六の家は現在の「小段」と呼ばれるところにあったのですが、今は同町の東港付近に変わっています。初五郎の新屋も別の場所に変わっています。この道路が伝六ロードです。
・・伝六ロード(北から南へ)  略図
***北端(フラワーセンター横) 灯籠とペンション
***重井村四国80番国分寺付近(四つ辻、小さな看板)80番国分寺
***かしはら電気裏(北側)から見た白滝山
***かしはら電気前(南側)から見た白滝山頂上付近
***宇根家(潮騒荘)前から見た白滝山
***重井村四国73番出釈迦寺
***大浜往還(古道)(四つ辻)
***旧村長前(南側)より見た白滝山(小さな看板)
***柏原伝六旧居地と白滝山
***重井村四国82番根香寺
***川本家南の三叉路
***葉タバコ乾燥庫
***峰松家旧居 キウイフルーツ 
***重井村四国83番一宮寺 杜仲の木 一宮寺
***重井村四国84番屋島寺 遠景 拡大
***重井村四国88番大窪寺
***南端(一本松) 看板と灯籠 

 
 
 
 

白滝山と伝六年譜(年齢は伝六の数え年)
永禄12年(1569)6代村上吉充、因島全土を掌握し青木城(本城)を築城。本城の控えの要害として白滝観音堂(堂主、常楽院静金)建立。
慶長5年(1600)柏原土佐守忠安の次子忠親、重井川口に居住。
寛永12年(1635)因島8ケ村に分村。重井、中庄、大浜、外浦、鏡浦、椋浦、三津庄、公庄(土生、田熊)。
天明元年(1781)柏原伝六生れる。
文化2年(1805)25才。伝六2月23日西国三十三番札所参拝へ出発。4月13日帰省。
以後、家業(農業兼木綿問屋)を放り仏道修行に入る。(17年間)
文化13年(1816)近隣島々に四国八十八所御本尊を勧進。白滝山頂に祭祀。
文政5年(1822)42才。霜月6日伝六後悟達す。以後「観音堂一観」と称す。
文政6年(1823)43才。伝六白滝山観音堂整備、多宝塔建立。
文政7年(1824)44才。伝六自画像・書など記す。
文政8年(1825)45才。伝六4~5月約50日間、弟子の峯松嘉七(18才)他2名を代行伝導させる。岡山、兵庫、京都、鳥取。一日に500から1000人の加持祈祷をしたという書信が重井に届く。(峯松嘉七は正賀屋初代。)
文政9年(1826)46才。8月8日。京阪神の信者寄贈なる白衣観音の入仏式挙行。本堂右側へ安置。
文政10年(1827)47才。正月より柏原林蔵が責任者となり石仏工事に着手。記録・勝手方に峰松初五郎が当たる。柏原林蔵は宇根家3代、峰松初五郎は新屋2代。
11月釈迦三尊大石仏完成。
文政11年(1828)48才。2月阿弥陀三尊像完成。(頂上展望台階段の右手)。本土、近隣の島々に伝聞され多数の参拝者で賑わう。
3月15日伝六没す。9月伝六墓所に埋葬される。
文政13年(1830)林蔵着工以来三年三ヶ月籠山の後白滝山五百羅漢完成。
天保5年(1834)八幡宮、善興寺へ仁王像建立。(寄進者 村上十兵衛、柏原林蔵)
嘉永3年(1850)重井村四国八十八カ所霊場建設(伝承)。(村四国)
安政6年(1859)白滝山観音堂再建。
明治元年(1868)神仏分離令により八幡宮仁王像、白滝山中腹へ移転。
明治4年(1871)白滝山観音堂、善興寺奥院となる。
明治42年(1909)白滝山に仁王門落慶。
明治45年(1912)因島四国八十八カ所霊場建設。(島四国、新四国)
大正8年(1919)白滝山庫裏、鐘楼再建
大正14年(1925)白滝山道路改修工事
昭和2年(1927)伝六一観居士百回忌法要。
昭和6年(1931)西洋館(現・ペンション白滝山荘)建築。
昭和10年(1935)広島県農事試験場除虫菊試験地設置(伊浜)。
昭和11年(1936)歌人吉井勇、白滝山に登る。
昭和24年(1949)白滝山梵鐘新調。
昭和30年(1955)因島白滝公園保勝会設立。
昭和31年(1956)白滝山等国立公園指定。
昭和34年(1959)白滝山上に平和一神和石建立。
昭和41年(1966)白滝山「五百羅漢」市史跡文化財指定。
昭和52年(1977)伝六一観居士百五十回忌法要。
平成元年(1989)白滝フラワーライン開通。百華園開園。
平成2年(1990)3月。滝山林道完成。(滝山は字名)。9月27日。市水道山頂まで完成。(工事費約1000万円)。
平成3年(1991)9月。台風19号により鐘楼、石仏等被害多数。
平成6年(1994)4月。広島県公園整備事業により山頂に水洗トイレ完成。(工事費1900万円)。
平成7年(1995)10月。白滝山鐘楼再建。
平成11年(1999)白滝山歩道改良工事完成。予防治山事業完成。舞台再建。梵鐘新調。
 
重井町の干拓 歴史
白滝山の縁日
 
     
     
案内:
しまなみ海道を尾道から今治に向かって車で走ると、最初の橋が新尾道大橋でそこを渡ると向島である。2番目の橋が因島大橋である。左手の海岸に建つ白亜の建物が海の青に映えて、ひときわ美しい。福山大学の臨海研究所で、大型水槽で泳ぐ魚は見せてもらえる。さて、因島大橋を渡り終え、左手の大浜パーキングを過ぎると、真正面に小高い丘が見える。山頂付近で笹の緑の葉が揺れている。これが白滝山である。しかし、こちらからは、直接登れない。
まもなく、因島北インターがある。ここで、しまなみ海道から下り、料金を払い、最初の信号を左折して、「因島フラワーセンター」を目指して進む。しまなみ海道の下を抜け,最初の信号は直進する。右手に中島菓子店。ここに松があって,一本松の石碑がある。その名のとおり,かつて大きな松が一本有り,このあたりが一本松と呼ばれた。道路がゆるく右にカーブして,白滝山を右手に見ながら川沿いの道を進んでいるのに、気付くだろう。川下の信号で右折し、郵便局の前を進めば、間もなく因島フラワーセンターに着く。フラワーセンターの背後に広がる山が白滝山である。
登山道 
 丁石 
  さて、次は登山道である。フラワーセンターからまっすぐ、歩いて登ることもできる。あるいは、自動車で頂上近くまで行き、残りを歩くということもできる。
<徒歩で>
 フラワーセンター→ペンション白滝山荘→駐車場(吉井勇歌碑)
  まず、徒歩で登る道から記しておく。フラワーセンターの南の道を上に登るのだが、もう少し上まで車で行ける。赤い煉瓦作りの西洋館がある。この近くで「西洋館」と言えば、ここのことである。広島県の西洋建築のうちでも古いものに入るではないか。ペンション白滝山荘である。この横を通ってもう少し上まで車で行こう。ほどなく大きな御影石の石碑が見える。かつては吉井勇の歌碑であったが、心ない者による破壊にあい今は説明の石碑になっている。しかし、これもまた損傷が著しい。さらに細い道が続いているが車はここに駐車しておく。ここから、歩いて登ることができる。山頂まで約25分。
伝六さん(墓所)
伝六さん(中腹) 座像 堂守の墓 堂守の墓2
 石碑の横を上に,桜の木の下を登ると,ほんの2,3分で中腹の広場にでます。その前に左下のフラワーセンター,万華園からの登山道と合流します。この広場が「伝六さん」である。古くは「墓所」と呼ばれ,伝六死後半年後に建立された一観・柏原伝六の像があります。これは伝六没後半年後にここに据えられたということです。柏原伝六は1828年(文政11年)3月15日48歳で没し,9月ここの墓所に埋葬されました。広島藩による毒殺だという説が地元では伝わっています。
  東の山際に建つ墓は堂守の墓と伝えられております。ここから羅漢像のはじまりです。五百羅漢と呼ばれるように全山に配置され,災いを除き来福を願っております。
 西洋館(ペンション)の上から万華園から来た登山道のあたりに出るのが,古い登山道で,西洋館から伝六さんまでの車道は昭和30年代に作られ,何度か拡張改修された道路です。
仁王門(山門) 写真
  ここから,石段を登ります。右へ左へと曲がります。明治42年建立の山門,仁王門です。太兵衛作の大きな仁王像が安置されております。この仁王像は明治の廃物毀釈の際,フラワーセンターの北にある八幡神社から,移されたものです。八幡神社に奉納されたのが天保5年(1934)ですから,その頃の作品だと思われます。素朴で力強く,見応えがあります。
 仁王門の下にも左右に大きな松が何本もあって,それだけで見事な景観をなしていましたが,例の松枯病の蔓延は,この島も無縁ではありませんでした。今はそのほとんどが枯れて,ありません。そのせいか,見晴らしはよくなっています。
六地蔵 写真
 仁王門のすぐ上に,参道の両側に三体ずつお地蔵さんが建っています。赤いよだれかけがしてあります。これが六地蔵です。
 少し登ると右手真っ直ぐと,左手に登山道は分かれます。どちらを登ってもよいのですが,登りは右手真っ直ぐを,帰りは左手の道を降りるのがよいでしょう。
大日如来 写真
阿弥陀三尊像 写真
 
<車で>
 時間がない場合は、車で頂上付近まで行くことができる。「フラワーライン」の道路標識に随えばよい。フラワーセンター前から北に進路をとると、すぐに八幡神社の上を通過し、道は二手に分かれる。右手に回り,坂道を上り何度かカーブすると鉄製のモニュメントのある三叉路に出る。ここでは頂上に近づくか遠ざかるかは方向からすぐに分かるが、南に登れば頂上に近づくから、行けるところまで行けば駐車場である。ここからなら、歩いて10分もすれば頂上に至る。
 丸太棒で補強された階段を登るとまもなく<徒歩で>登る登山道と合流する。山の高い方を目指せばいいのだから間違えることはない。少し登ると途中で、表参道と裏参道に分かれる。登りは表参道(右側)を推奨する。後は、石仏を眺めながら、登ればよい。なお裏参道から降りる場合はトイレと建物(管理室)の間を通ればよい。
慈母観音像
 右手まっすぐの表参道を登ると,左手の大きな岩に彫られた慈母観音像が木の枝の下に見えます。そのまま進み,左手に直角に曲がり,金属性の手すりのついた急な階段を登れば山門です。正面が管理室,その左が観音堂です。観音堂には白衣観音が安置されています。
 観音堂の前に展望舞台がある。細島,小細島などが見える。小細島の向こうに見えるのが,新藤兼人監督の「裸の島」のロケ地,宿根島である。
 
 管理室と右手石段の間にあるのが多宝塔です。トイレは多宝塔の右奥にあります。帰りはこのトイレと管理室の間の小径を通るのもいいでしょう。
 多宝塔は六メートルの自然石の上にあります。岩に彫られた不動明王は尾道の石工頭・太兵衛の作です。