2018年8月14日火曜日

因島村上氏の歴史


 2018.8.15.因島高校同窓会総会 於:ポートピアはぶ
因島村上氏の歴史 〜城跡を中心に〜
                   柏原林造   




今、我われは左端の白い建物の中央付近の1階にいる。
目を右に転じると、青屋根の建物が見える。ナティーク城山である。
今からおよそ640年前に、ここを本拠地として村上を名告る人たちが住み始めた。
後に因島村上氏と名告る人たちである。


概要
 日本遺産で村上海賊と呼ばれる三島村上氏の中でも、知名度から見れば因島村上氏が一番だろう。しかし、能島や来島ほどの本拠地の跡が明確でなく、その実態の多くは伝説に彩られていてわかりにくい。今回は城跡と呼ばれているところを中心に因島村上氏について話したい。
 因島村上氏は天授3年(1377)釣島箱崎浦の戦いに勝って因島へ来た。その後、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いに負けた毛利氏に従って山口へ行った。その間8代の頭首と本拠地は、初代吉豊、2代吉資、3代吉光、4代吉直、5代尚吉、6代吉充、(初代から180年間土生長崎城、向島余崎城13年、重井青木城1569年より)、7代吉亮、8代元充(以上青木城)である。また、主な家臣五家老とその居城・分担は第1家老救井氏(田熊中庄青陰城・軍奉行)、第2家老稲井氏(土生小丸城・支那貿易)、第3家老末永氏(重井馬神城・用人)、第4家老宮地氏(中庄大江城・国内回漕船隊)、第5家老南氏(三庄土居城・舟銭奉行)である。家老ではないが片山氏(三庄百凡山城、重井天秀庵城・船奉行)がいる。(以上、田中稔『因島史考』による。)

プロフィール


1951年生まれ。昭和45年3月因島高校卒業。因島重井町文化財協会副会長。因島白滝公園保勝会顧問。因島文学散歩の会(因島図書館、第3水曜日)、因島ふるさとの歴史を学ぶ会(重井公民館、第3火曜日、午後史跡探訪)代表。せとうちタイムズ「ふるさとの史跡を訪ねて」連載。『白滝山資料集2018』(編著)、『写真アルバム 尾道・三原の昭和』(樹林舎)(共著)。ブログ「いんのしまみち」。

1。因島村上氏の因島来島〜長崎城・荒神山城180年間
伝説ではあるが)1377年天授3年頃
初代から180年間土生長崎城を本拠地とする。
   初代吉豊、2代吉資、3代吉光、4代吉直、5代尚吉、6代吉充



長崎城跡(現ナティーク城山)





長崎城跡(現・ナティーク城山)
背後に荒神山城跡(大宝寺の墓地も)


2。向島・余崎城〜13年
 6代吉充
(白滝山山頂から)。

余崎城跡(左側の入江が船隠し)

岡島城跡(尾道駅前より)
3。重井・青木城 1569年永禄12年〜1600年慶長5年
 6代吉充 1588海賊禁止令で隠居
 7代吉亮、8代元充
 7代吉亮は鞆分家亮康二男で養子。墓:金蓮寺。





★1600年関ヶ原の戦い 因島から村上氏退去!!
✳️1603年から江戸時代・・村上氏無き後の因島⇨只の農村
   村上氏の子孫・・?
 や武将たちの子孫・・? 
  を中心に近世農村社会を建設する
 その中の大きな事業は
   干拓と海運業への進出であった。
 すなわち、海は宿命であった。
 近現代になると、
   造船業が島の主流となる。
   船を造ることによって海と戦ってきた。
 そして、未来は・・




4。家臣たち
第1家老 救井氏(田熊中庄青陰城・軍奉行)新田義貞の子孫
第2家老 稲井氏(土生小丸城・支那貿易)新田義貞の弟・脇屋義助の子孫
第3家老 末永氏(重井馬神城・用人)稲井氏の分家
第4家老 宮地氏(中庄大江城・国内回漕船隊)元杉原氏の船奉行
第5家老 南氏(三庄土居城・舟銭奉行)
船奉行片山氏(三庄百凡山城、重井天秀庵城)
付録。村上分家筋
田島分家(田島天神山城 後、能島村上へ)
大浜分家(幸崎城、土居城、子は能島村上へ)大浜村上祖。
百島分家(茶臼山城)
岩城分家・竹島分家(岩城八幡山城、竹島城)田熊村上祖。

鞆分家(大可島城、2代で絶家)



家臣たち 第1家老 救井氏(田熊中庄青陰城・軍奉行)

中庄側 左:風呂山 中央:青影山 右:竜王山



第2家老 稲井氏(土生小丸城・支那貿易)
土生小丸城跡は、変電所の上に才の池があり、その南。


小丸城跡の西麓の宝地谷(宝持寺跡)に石塔群がある。

第3家老 末永氏(重井馬神城・用人)
重井馬神城跡。向こうに細島茶臼山城跡。

細島荒神社(元長福寺)

第4家老 宮地氏(中庄大江城・国内回漕船隊)
 大江は宮地氏の姓。中庄公民館周辺が「大江」。
大江城跡。中庄公民館の裏山。


第5家老 南氏(三庄土居城・舟銭奉行)三庄に「土居」「南」の地名。
三庄土居城跡(現・明徳寺)
地蔵鼻の先端が美可崎城跡。

南の地名が残る「南池」。

船奉行片山氏(三庄百凡山城、重井天秀庵城)三庄、重井に「片山」の地名。
 左端:三庄百凡山城跡。才ノ池(変電所の上)の南の山(天狗山へ続く尾根)
重井天秀庵城跡。山の神と伊手樋の間。


5。村上分家筋
田島分家(田島天神山城 後、能島村上へ)
大浜分家(幸崎城、土居城、子は能島村上へ)大浜村上祖。
百島分家(茶臼山城)
岩城分家・竹島分家(岩城八幡山城、竹島城)田熊村上祖。
鞆分家(大可島城、2代で絶家)

田島分家(田島天神山城 後、能島村上へ)
2代吉資が田嶋地頭職、子息四郎吉則を田嶋へ。3代吉光の室は能島氏。
田島天神山城跡(左端)
大浜分家(幸崎城、土居城、子は能島村上へ)
      大浜幸崎城跡(斎島神社の上)
大浜土居城跡(大楠山中腹)
大浜村上氏先祖碑
百島分家(茶臼山城)
岩城分家・竹島分家(岩城八幡山城、竹島城)
6代吉充の弟・啓吉、直吉。岩城八幡山城跡(亀山城跡)は八幡神社になっている。


因島総合支所沖350m。村上直吉(田熊村上氏祖)。

直吉の墓は田熊浄土寺にある。

鞆分家(大可島城、2代で絶家)
6代吉充の弟・亮康。中央が大可島城跡。(現・円福寺、右は林家別邸)。


6。まとめ
この場所での『伝説とロマンの島〜因島城跡物語』イラスト展から3年。・・以来、どの部分が伝説で、どれだけが史実だと確認できるか探ってきた。しかし、まだまだ作り話を史実だと思っているようでならない。伝説から歴史へと進む道は思ったよりも厳しいようだ。