2023年10月6日金曜日

ふるさとの史跡を訪ねて 331-340回 増補版

ふるさとの史跡をたずねて(331)

不動明王(今治市宮窪町宮窪不動)


 カレイ山に車で登るには大島北インターを出て左折し国道317号を宮窪港の方へ向かう。菅原池近くに信号があるので左折すればよい。しまなみ海道の高架下を抜けたところで右折するが、そこから左へ降りれば、伊予大島准四国霊場9番大聖庵(四国名では切幡寺)への参道に通じる。

 大聖庵は地名にもなっている、不動明王が有名である。



巨岩に描かれた不動明王は迫力があるが、さらに興味深いのは、右側の石段を登ると、大人の体がやっと通れるぐらいの狭い洞窟があり、そこからお参りすることになっている。これが「せりわりさん」である。




 おそらく「せり」というのは「そば」とか「近く」ということで、「わり」は割れ目のことだろう。すなわち「近くの割れ目」という意味だと思う。そして、近くの割れ目から拝むお不動さん、ということでこの不動明王を「せりわりさん」と呼んだのだと思う。それが、いつしか右側の洞窟のことも「せりわりさん」とも呼ぶようになったのは自然の流れであろう。

 四国善通寺の戒壇めぐりとか、高野山奥の院における弘法大師御廟での地下礼拝などはよく知られているが、ここの「せりわりさん」の由来はわからない。不動明王を描いた大岩の横にできた穴を広げて、礼拝所にしただけかもしれない。




ふるさとの史跡をたずねて(332)

菅原池(今治市宮窪町宮窪)


 伊予大島准四国霊場9番大聖庵の次は国道を隔てた10番証明寺(四国名切幡寺)で、ここはかつて能島水軍の菩提寺があったところだと紹介した。(310回)

 そしてまた例の幸賀屋敷跡もすぐ近くにあった。(301回)

 菅原池は幸賀屋敷跡の西側の近いところにある。堤の上には個人墓や古い時代の墓石などがあった。



菅原池の南側の丘は地元では「お城山」と呼ばれている。写真のように雑木に覆われているから、そのようすを見ることはできないが、数段の段差の跡があり中世の城の特徴とよく合うそうである。名前はないが「宮窪城」という仮称に問題はない。(左の丘)



 能島は無人島で、後には畑があったということであるが、あの急流に囲まれた島へ耕作に出向くというのは一般的でなく、そのせいか水軍遺跡としての保存状態はよかった。

 それに対して「宮窪城」の方は隣に溜池が作られており、場所から考えても農地として利用されて、城址としての保存状態はよくなかったと考えられる。

 そうであるにしもて、この周辺に水軍関連史跡が多く、能島水軍でなく「宮窪水軍」だと言う人たちがいるのも、当然かもしれない。




ふるさとの史跡をたずねて(333)

北畠顕成井戸跡(今治市吉海町名)


 能島の対岸の大島、甘崎城跡(古城島)の対岸の大三島には、それぞれ水場と呼ばれる地名が残っており、各小島に居を構えた水軍がそこから飲料水を運んだと推定される。

 大島の国道317線を南に向かうと来島海峡に出る。そこの「道の駅よしうみ」の前で左折し、海岸沿いを進むと、やはり水場がある。近くの小島を探すと、来島海峡第一大橋と第二大橋の接点となっている武志島(むしじま)が見える。ここは村上義弘の城砦の一つだった。かつて水軍が武志島に住んでいたとき、ここから飲料水を運んだものと思われる。





 さて、この水場の近くの山の中に北畠顕成(あきなり)の井戸跡があるというので、竹薮の中を探した。宝筐印塔と窪地があった。北畠顕成の宝筐印塔と井戸跡かもしれないが確証は得られなかった。




 ここにそういう話があるということは三島村上水軍の祖と言われる村上師清(もろきよ)の伝説が、この辺りから起こったと考えてもよいのだろう。

 ここで師清伝説について整理すると、1、村上義弘の名跡を継ぐため信州更級郡から和歌山雑賀党の協力を得て、伊予大島へやってきた。2、釣島箱崎浦の戦いに勝って子息を三島に配して、三島村上水軍を起こした。3、南北朝動乱終焉後、新田義貞、脇屋義助の子孫らを保護養育し身内を娶せて村上党として救井氏、稲井氏とした。そして最後に、元は北畠顕成師清であるが、大島に来て村上師清に改めたという話である。

 井戸跡はその北畠顕成ゆかりの伝承の一つである。




ふるさとの史跡をたずねて(334)

金剛福寺参道入口(今治市吉海町名駒)

 

 大島准四国霊場の各札所の名前はこれまで書いてきたようにお堂の名前で呼ばれ、四国の寺名は副次的に添えられる。今回は煩雑になるので寺番と四国名で記したい。

 その38番金剛福寺の本四国は足摺岬にあり、各地にある八十八ヶ所霊場でも、独特の場所に設けられている。それは大島でも例外ではなく、来島海峡に臨む水場からさらに東へ行った岬にある。

 大島の37番岩本寺からは、1.65km。金剛福寺から39番延光寺までは1.56kmで、ほとんどが山の中である。他の札所間はたいていが周囲に自動車が通れる道があるが、金剛福寺の前後は車が通れなく約3kmを歩くことになる。   

 したがって大島四国では最大の難所と言ってよい。さいわいこういう所には前札所と言う仮札所のようなものが準備されているので、そこで済ませた。ただ、車で行けるところまで行って見た。

 水場から見れば館山(230m)の反対側で、吉海町名駒である。海宿千年松の駐車場の隣を通って海岸に出ると、遍路道標があった。

そこから大島自然研究路が始まり、39番延光寺まで続く。金剛福寺はそのほぼ中間の地蔵鼻にある。そこまで行けば、引き返すか車を廻さないといけないので今回はここで、引き返す。

 海岸の前に広がる海は、因島周辺とは違った印象を受ける。あたかも瀬戸内海でないような・・。海に落ちると、引き潮なら来島海峡へ、満ち潮なら来島海峡から吐き出された潮流に乗って燧灘へ運ばれる。海はどこも怖いものであるが、怖くなって海岸から離れる。

 海の向こうに今治市街が小さく見える。



ふるさとの史跡をたずねて(335)

館山(今治市吉海町)

 

 大島では亀老山(301m)が圧倒的に有名であるが、その南西にあってやや低い館山(たてやま)(230m)も捨てがたい。館山は亀老山と違い自動車道はついていないので、海岸から頂上まで標高の230mの高度差をそのまま登ることになる。

 館山の登山口は大島自然研究路の水場側の入り口である。39番延光寺の近くの路地から入る。途中で遍路道である自然研究路から離れてひたすら山頂を目指す。

 亀老山というと、いかにも道教風の名前だがら仙人伝説でもあるのかと思ったが、そんなものはなかった。館山の傾斜地は修験道の道場と言ってもよいほどの絶壁の連続であった。しかし、こちらも修験道に関した話は聞かない。

 来島海峡や燧灘を望む景色はまことに素晴らしい。来島海峡大橋には亀老山よりは近いが、亀老山からの景色も素晴らしく館山でないといけないということはない。しかし眼下に海岸の見える光景が館山にはある。前回書いた遍路道入口のある、海宿千年松のある海岸が、絶壁の下に箱庭のように見える。もう少し身を乗り出して斜面の写真を写したかったが、手摺も何もない尾根筋であったので、手を伸ばすだけでも怖かった。






ふるさとの史跡をたずねて(336)

笛之戸庄左衛門頌徳碑(今治市宮窪町江口)

 

 能島への水を供給するための大島側の水場を探していたら、人家が途切れる江口集会所の隣に、大きな頌徳碑があった。その隣の小さな石には「猪之塚」と書いてあるだけである。大きな方は「頌徳碑」と書いてあっても誰の頌徳碑なのか、わからない。地元では「笛之戸庄左衛門頌徳碑」と呼ばれているようだった。

 また、その由来は以下のように言われている。

 江戸時代に今治の殿様がシカ狩りにやってきた。そのとき、土地の鉄砲撃ちの名人庄左衛門が呼ばれていた。殿様の前で庄左衛門が撃った鉄砲の玉は見事シカの喉首を射た。感心した殿様は庄左衛門に「笛之戸」の苗字を名乗ることを許した・・・。

 村で藩主に誉められる者が出るということは義人などと同様、名誉なことであったから頌徳碑が建てられても不思議ではない。

 隣にある「猪之塚」から、シカではなくイノシシではなかったのでは、と言う人もいる。しかしイノシシでは喉笛を撃つということはありえないし、撃たれたイノシシが笛のような声を発したと考えるもの不自然である。やはりシカの喉笛ということにしておこう。

 すると隣の「猪之塚」にはどういう意味があるのだろうか。私にはわからない。

 何人か四国に見られる「笛野戸」の苗字の人たちは庄左衛門の子孫の方だろう。




ふるさとの史跡をたずねて(337)

甘崎城跡(今治市上浦町甘崎4661)

 

 大島の能島の対岸の水場は道路の分かれ道に小さな溝と草の茂った崖があるだけで、何ら目印になるようなものはない。それに対して大三島の水場はありがたいことに「水場」というバス停まであって、土地の名称として残っている。場所は本家芋地蔵の下見吉十郎の記念碑のある向雲寺近くである。



 さて、その水場の水に頼った島は、地図上では古城島と書かれ、古くから水軍の城があったことを示している。すなわち甘崎城跡である。

 甘崎城跡の知見は多い。すなわち今岡通任の支配伝承、伯方島の石を使った防波堤らしき石塁、来島氏の支配、東堂高虎が今治城の支城として整備、江戸時代の見聞録など。そして現存するその石塁の残骸。

 このように江戸時代になってからも建設と破壊が行われたわけであるから、どこまでを水軍の城跡と思うかは見解の分かれるところであろう。

 これまで能島や見近島を水軍の城跡として見てきた流れから言えば、今の甘崎城跡はむしろ水軍の城跡ではないと言うべきかもしれない。

 だから、水軍の城としての特徴としてどのようなものであったのか、現況から想像するのはあまり意味ないことで、せいぜい藤堂高虎という城作りの名手に関連した城跡であり、大潮の時に渡れる楽しい城跡であると書く程度にとどめたい。

 ただ、水軍との関連でいえば、因島岡野氏の姓氏伝承の中に散見される子孫が甘崎城で活躍したというのは、話が逆であって岡野氏の先祖とされる今岡通任に関係した城であったということだと私は思っている。


ふるさとの史跡をたずねて(338)

宝篋印塔(今治市大三島町宮浦)

 

 大三島の大山祇神社には巨大な宝篋印塔が3基あり、それも一遍上人ゆかりのものと伝わっている。一遍上人は空也上人が始めた踊り念仏を広めながら全国各地を遊行した人である。また死後、時宗の開祖と言われている。

 それよりもまず一遍上人とは、伊予の豪族河野氏23代通信の孫、河野時氏のことであることを強調しておきたい。そして河野氏は、特にその配下の水軍は大山祇神社を篤く崇拝していたから、ここに一遍上人ゆかりの宝篋印塔があると聞いても、納得できる。

 しかし、一遍上人は「捨聖(すてひじり)」とも呼ばれるように、一切の所有物を捨てたことは有名である。そのような人が、このように大きな石塔を自分の財力で作るということは、普通では考えられないことではなかろうか。だから多少のゆかりがあるかも知れないが、一遍上人との深い関係を考えることに対しては、私は懐疑的である。


ふるさとの史跡をたずねて(339)

平山画伯スケッチポイント37(今治市上浦町井口9170-2)


 平山郁夫画伯しまなみ海道五十三次のスケッチポイントは、生口島のものが圧倒的に多いのは当然であるが、また多々羅大橋を描いたものも多いのも注目に値する。やはり生家に最も近く、おまけに形も大きさもしまなみ海道沿いの橋のなかで、最高ではないにしてもまずまずのものであるから、十分納得できる。

 大三島インターで降りたところの道の駅・多々羅しまなみ公園の海側に37番「多々羅大橋 生口島を望む」の陶板がある。建物の南側である。

 海や島を見るのにも良い場所であるので、陶板と橋を見比べたら周囲に目を移動してみよう。生口島と岩城島の間に因島が遠く見える。右に目を転じると甘崎城跡、その向こうが伯方島である。

 右と左から来た満ち潮は岩城島で再び左右に別れて東に進む。因島で遮られた流れは当然遅くなり、小型船には好都合であった。このような海の道を通ってさつま芋は18世紀初頭から広まった。孤島に近い島々にかなりの人が住んでいた理由の一端である。





ふるさとの史跡をたずねて(340)

平山画伯スケッチポイント24(尾道市瀬戸田町瀬戸田)


 前回に続き平山郁夫画伯のしまなみ海道五十三次のスケッチポイントである。せっかくであるから瀬戸田町について書いてみよう。前回書いたようにたくさんあるので、選択に迷うが、いずれ全てを紹介したいと思っているので、順序にはこだわらず、極めて適当に選ぶことにする。とはいえ、瀬戸田町で選ぶとすると、この24番「瀬戸田町 私の実家のある通り」から始めるのが良いと思う。

 そのスケッチ場所は丘の中腹で、小さな神社の境内である。清正公神社という。しかし、多くの地図には出ていない。だから、画伯のスケッチや写真を見て、その場所を探してほしい、と書く他に良い方法はない。

 細かい場所の説明は書けないが、おおよその位置だけは説明しておきたい。瀬戸田港の桟橋のところから高根島橋の下の方へ海岸道路が北に向かって走っている。それよりさらに右側(東側)に路地がある。その路地がスケッチの左側に描かれている道である。東側に崖があり、その先に小さな石段がある。あとは何度も振り返ってこのスケッチのように見える位置を探せば良いだろう。

 海と丘、あるいは海と山、両方の変化に富んだ自然を満喫できるのは因島でも同じであろう。その間が狭いのは、それだけ両方の自然に接する機会が増えることを意味する。





             写真・文 柏原林造




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