2023年12月19日火曜日

ふるさとの史跡を訪ねて 341-350回 増補版

ふるさとの史跡をたずねて(341)

平山画伯スケッチポイント21(尾道市瀬戸田町瀬戸田57)


 向上寺三重の塔は平山郁夫画伯の生家に近いところにある国宝の建物であるから、平山画伯でなくとも様々な角度で描いて見たくなるのも当然である。だから三重の塔を描いたものが3枚もあっても、決して多すぎはしない。むしろ少なすぎると思う人の方が多いのではないかと思われる。

 だから、その3枚を厳選することも、それぞれを描くことも平山画伯にとっては画家としての喜びと誇りが最高潮に達したことと思う。

 そしてその3枚は同じようなものであってはならない。すなわち大きさも構図も異なり、それでいてその3枚が合わさって一つの世界を作っていると、我々は思うわけである。

 このようなことを、あれやこれや思っていると、このしまなみ海道五十三次スケッチポイントの全作品を見るとともに、その中でも生口島に関するもの、また瀬戸田町に関するもの、向上寺に関するもの・・と、全体と部分の関係を考えることが大切だと思う。

 そして、そのまず1つとして21番の「向上寺三重の塔 瀬戸田」を見ることにしよう。




ふるさとの史跡をたずねて(342)

平山画伯スケッチポイント20(尾道市瀬戸田町瀬戸田57)


 前回の向上寺三重の塔のスケッチポイントの1つ前は、向上寺山門のところである。山門がここにあるから、ここが表参道ということになるのであろうが、途中通ってきた狭い路地は別のもので、いつしか参道に合流していたと解釈してよいのかもしれない。だから、道案内など書けないが、途中に道しるべがたくさんあるので、それに従えばよい。前々回の路地からでも迷うことなく着くことができる。

 その山門に向かって後ろ側、すなわち北側に少し登ると庚申堂があり、生口島八十八ヶ所の第61番香園寺となっている。そしてそこからなら山門を通らなくても山門の横上を通る道があるので、そちらに入ると見逃してしまうかもしれない。

 その山門の前に、スケッチポイントの石板があり、まさに目の前の光景と同様のスケッチに出会うということになっている。

 どうやら、山門の建物そのものへの関心ではなく、山門を額縁としてその中に石段のある参道を描くことが主眼だったことがうかがえる。そのつもりで、小さく書かれた、タイトルを見ると「向上寺山門入口と石段」と書かれている。石段が重要なのである。

 周囲の植物は季節によって変わるが、石段と額縁としての山門は変わらないので、いつまでもスケッチと眼前の風景を楽しむことができる。




ふるさとの史跡をたずねて(343)

平山画伯スケッチポイント15(尾道市瀬戸田町御寺)


 生口島の南側に回ると、洲江町、原町の南は岩城島が目の前にあって高い積善山が視界を遮るが、岩城島との間は日当たりの点から考えれば十分な距離で、まことに良好な土地である。さらに西に行けば伯方島が遠く見えるようになり、その前の海は広くなるから視界はもっと広がる。そのような立地であるから、早くから人が住んでいただろうし、古いお寺があるのも十分に納得できる。中でも光明坊の歴史は古く数々の逸話を伝える。

 ここでは平山画伯は珍しい石塔の一部を描き、多様なしまなみ海道の景観に変化を加える。

 光明坊の駐車場で車から降り、さて何から見て行こうかと思うよりも前に目に飛び込んできたのが、今回紹介するスケッチポイント15番の石板であった。そこには、「十三重石塔 鎌倉時代 光明坊 生口島」と書かれている。

 ここで現物の景色を、と目をあげると、正面に細かく重ねられた石塔が鮮やかに見える。これだけのものであるから近づけば、説明板らしきものがあるのであろうが、平山画伯が添えられたタイトルの文字だけで十分である。

 さらに足を伸ばせば全貌はすぐに見れるが、石塔が山と樹木と建物の間にあって一部だけ見えているという風景をまず鑑賞することを教えてくれる。かすかにしか想像できない鎌倉時代と、現在の緑とを思いながら。





ふるさとの史跡をたずねて(344)


生口四国16番延命寺(尾道市因島原町堂中)


 生口四国霊場は安政五年ごろの設置だというから、因島の島四国よりはるかに古い。

 今回はそのうちの16番延命寺を紹介する。四国名では観音寺であるが、ここはかつて延命寺のあったところで、その地蔵堂と考えられており「生口四国霊場第十六番札所 延命寺」となっている。

 お堂の中には行基菩薩製作と伝わる延命地蔵半跏坐像がある。(写真中央)

 なお、この胎内にある木札には嘉永6年(1853)に「色粉大佛師西井湛禮作」とあり、木像が塗り替えられたことを示している。

 さて、この付近を近くの山上から写した写真がある。どなたがいつ頃写されたものかはわからないが、ご存知の方がおられれば教えていただきたい。






ふるさとの史跡をたずねて(345)


生口四国12番焼山寺(尾道市因島原町荒神社)


 生口四国霊場第十二番札所焼山寺は荒神社の境内にある。と言っても珍しいことではないが、いつもながら複雑な感情と、別の意味での安心感を同時にもつ。

 複雑な感情というのは神社の境内にお寺が存在するということである。お寺の中に島四国が存在するのはよくあることであるが、時に今回の様な例に出会うことがある。神仏習合の時代が長かったので、まあ良いかと思う反面、神様はどう思っているのだろうと考えたりする。

 一方、安心感というのは、小さな島四国の札所が周囲の発展とともに移転を余儀なくされることがあるのに対して、より大きな寺社等の施設の中にあると、一応安心できるというものである。

 荒神社はなぜか岡山県広島県に多いのであるが、その理由はわからない。





ふるさとの史跡をたずねて(346)

 天満神社(尾道市因島洲江町)


 生口四国霊場は瀬戸田町茗荷から始まり、7番の鉢谷大師堂を過ぎると稲荷神社の隣を通って山を越えて洲江町に入る。これは茗荷と洲江町とを結ぶ海岸通りがない時代の創建で、茗荷と洲江町との間は山で隔てられていて、陸路では峠道を往来していたということになる。この洲江峠を通る峠道は現在でも残っていて拡張され、車で通ることができる。

 しかし洲江町に入って最初の8番熊谷寺が峠道よりもやや西にあることから、遍路道は現在の峠道よりもやや西側にあったと思われる。特に峠を越え洲江町に入ってからは現在の峠道から離れる。桃立山とか牡蠣山と呼ばれる山の東斜面である。

 柳田国男によると峠道は交通機関の発達とともにより低く、より遠くへ移動するものであるから、荷車も通れないような高くて近い峠道が遍路道として採用されていたのかもしれない。

 8番熊谷寺からはやや東に寄りながら海岸へ近づく。東へ寄った理由は天満神社があったからであろう。

 天満神社は天神社とか天満宮などと呼ばれるが、もっとも古い記録では天正6年(1578)8月の再建で「平朝臣景守」などの文字も見えるから、古くから集落の形成が見られたものと推察される。





ふるさとの史跡をたずねて(347)


牡蠣山(尾道市瀬戸田町茗荷)

 前回すこし触れた牡蠣山について書いてみよう。

 牡蠣山は生口島の東側にそびえる標高408mの形の良い山で、生口島では、西端の観音山に次いで2番目に高く、茗荷と洲江町・原町を隔てている。高い山ゆえ山麓周辺の水は豊富で人が住むのに好都合であったと思われる。

 さて、牡蠣山に登るには名荷神社からの登山道がよく整備されているので良い。とはいえ小石の多い登山道は滑りやすく注意が必要だ。特に下りは難しい。幸い、傾斜のきついところには虎ロープが張ってあったので、捉まって下山した。軍手などの手袋は必須であろう。

 頂上での展望であるが、東には因島が見え、左の重井町から視線を右に巡らすと土生町を経て弓削島の方まで見える。パノラマ写真を撮る技術がないので一望のもとに捉えることはできないが、因島の西側を見るのに良い場所である。

 ところで、問題は桃立山、殿山、百立山との関係である。少し疑問は残るものの、皆同じということにしておく。すなわち、牡蠣山(桃立山、殿山)と書くのが良いだろう。桃立山と百立山は表記の違いである。ここから名前の由来など地元の方しか知らないような話が出てくる。これも誰かか言って記録されれば、あたかもそれが本当のように流布されるから注意が必要である。それはさておき、桃立山、殿山は原町、洲江町側の呼び名のようである。





ふるさとの史跡をたずねて(348)


名荷神社(尾道市瀬戸田町名荷)

 名荷神社の参道は長い。写真の鳥居よりも前から続くのであるが、この位置からなら牡蠣山が後ろに見え、参道の彼方に拝殿の緑青(ろくしょう)の屋根がかすかに見える。長い参道を登ると名荷神社の拝殿の前に出る。意外と小さい。

 しかし、周囲には天満神社、生石神社、琴平神社などの境内神社があり、その規模は立派だ。これらが地域に分散していたらさぞかし賑やかだっただろうと想像される。

 牡蠣山の山麓として格好の地で、人が集まるのにも都合が良かったのであろうか。

 さて、荷神社は毎年4月に奉納される荷神楽で有名である。古い歴史を留めるものであろう。しかし、明治の宗教改革というよりも宗教統制で変質し、必ずしも古いものがそのまま伝わっていないことは他の神社でも似たようなものかも知れない。茗荷神楽はそれまでは荒神舞と呼ばれ、4年に一度行われていたという。荒神社が近くにあったのであろうか。あるいは名荷神社の前身が荒神社であったのだろうか。

 なお参道脇に立派な茗荷神楽衣装保存庫もある。





ふるさとの史跡をたずねて(349)

涅槃像(尾道市因島洲江町正善寺)
 因島洲江町の曹洞宗天龍山正善寺には涅槃像がある。
 美術品の鑑賞には国宝とか重要文化財であるとか、誰々作とかのレッテルが付きまとう。しかし、この涅槃像を見ていると、そんな知識は関係なくただその目元の美しさを鑑賞すればよいという思いになる。なぜなら、その目元に仏教の本質が表現されているからである。
 キリスト教はイエスという個人を旧約聖書で予言された救世主(キリスト)と信じる宗教で、人は神の子イエスにはなれない。
 一方、仏教は釈迦という個人が悟った人(仏)になったと信じ、その境地を目指す宗教である。刑事ドラマなどではよく死体のことを「ホトケさん」と呼んでいるが、生前悟りに達しなくても死んだらその境地に達するということであろうか。
 さて、涅槃像というのは釈迦の入滅を表現したものである。生前に既に悟っているのに、人はその入滅の表情に永遠の悟りを感じる。
 正善寺の涅槃像にそれを感じることができれば、レッテルは不要である。


ふるさとの史跡をたずねて(350)


滝山観音(尾道市瀬戸田町高根)

 因島から見ると高根島の高根山の南斜面はなだらかな富士山形で「片富士」などと呼ぶ人がいる。その高根山の中腹には、滝山観音と呼ばれる西国三十三観音の写し霊場がある。

 現在は、山全体を覆っていると考えられるイノシシ柵についた高価な扉を開けて登る。ほどなく立派なお堂があり、その周囲の崩れかけた岩肌に観音像が置かれている。

 ある石物には「天保九年十一月 奉寄進」と書かれており、ここが古くからの霊場であったことがわかる。他に昭和2年の寄付碑があり、また昭和25年3月18日の日付のある御堂修繕費の寄付者名簿の板が、お堂の周囲に貼り付けであるから、長い間、人々の信仰を集めてきたのであろう。

 さて、私は因島重井町の白滝山と2つの類似点があるのに気づいた。重井町の方から書くと、名前の元になった、水の流れる滝があったと考えるが人がいる。そんなものはない。また、観音像の左手に掲げられた十字状の持物を、キリスト教の十字架と考え、果ては、白滝山を隠れキリシタンの遺跡であるとか、キリスト教を入れた新しい宗教を開祖伝六が作ったと、今でも書く人がいる。無知の連鎖は怖い。

 滝山観音の周辺を見ても、水の流れる滝は無いだろう。もちろん、キリスト教関連のものも。

 崖のことを「タキ」と呼ぶことや、観音菩薩が武器を手にしていることは近辺の山や、霊場を見れば明らかである。









             
写真・文 柏原林造




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