2023年7月17日月曜日

第4章 芸術・文芸

因島誌(目次)
第6編 文化

第1章 宗教 リンク  
第2章 民俗・文化 リンク 
第3章 信仰・芸能 リンク
第4章 芸術・文芸 リンク
第5章 伝説・伝承・方言
第6章 伝承・口碑

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第4章 芸術・文芸

第1節 俳句

第2節 短歌 

第3節 川柳

第4節 詩

第5節 小説・その他

第6節 読書会


 音楽

UFO

ポルノグラフティ

 その他

 腹話術、手品














因島誌(目次)

福山藩政史

勝海舟とその時代

菅茶山とその時代

菅茶山が亡くなったのは、1827年8月13日である。幕末40年を残してのことである。80歳で亡くなっているので、生まれたのは、1748年である。












文献

 菅茶山 、『黄葉夕陽村舎詩』(全)

『菅茶山とその世界Ⅱ』、広島県立歴史博物館展示図録 第22冊、広島県立歴史博物館友の会、1998

2023年7月16日日曜日

第1章 風土

 第1節 自然環境

 因島は因島本島と周辺の小島から構成される。因島は広島県南東部にあり、芸予諸島では最東部に属する。南には愛媛県上島町の弓削島、生名島と上を隔てて接しており県境をなす。

 因島周辺の小島、すなわち因島の属島には細島、小細島、四十島、八重子島があり、細島は唯一の有人の属島である。

 因島 東西 8.2km 南北 10.6km  面積 34.9k㎡ 周囲40.1km 

  細島 面積 0.76k㎡    周囲5.3km

    小細島 面積 0.14k㎡    周囲5.3km


地質は主に花崗岩。古生層が山頂付近から東部海岸にかけて分布。

東と北海岸はリアス式海岸で起伏に富んでいる。

気温は比較的高く、雨量は年間1200ミリ程度。





参考 因島閉市記念誌、2006年、因島市









因島誌(目次)

2023年7月12日水曜日

増補版321-330

 ふるさとの史跡をたずねて(321)

えんこ石(今治市伯方町有津)
 吉井勇歌碑のすぐ下の海岸にえんこ石というものがある。


 私の子供の頃はエンコと言えばアメンボのことであった。県北ではタイコウチのことをエンコと呼ぶそうであるから、詳しく調べてみれば水棲昆虫の名前としてエンコが用いられていた例がほかにもあるかもしれない。
 エンコウの省略形と思えば猿のことであるが、民俗学的には圧倒的にカッパの例が多い。カッパは実在しない妖怪のようなものである。人気があるとともに悪戯をする動物として悪者扱いされる。その最たるものが、川で人間を溺れさせるというものであろう。
 海も流れの速いところは多いが、周囲の状況から予想できる。しかし、川の急流や淵は周囲のようすだけからはわからないところが多いから、水難事故にあいやすい。そんなところにはカッパが棲んでいて、人を引っ張ると言われる。とは言え目撃情報は極めて少ない。生還者が一人の場合は信用されないし、二人以上が目撃する例は少ないからだろう。また、生還者がいない場合は死人に口無しで、確認のしようがない。
 それにもかかわらず全国にカッパの話があるのは、古老の知恵だろう。遊泳禁止の看板よりも、カッパが棲んでいると言いふらす方がはるかに効果があったのだ。
 船折瀬戸から離れ、海域が広くなっているので安全なところのように見えるが、潮が引けば潮の通り道は狭まり、潮位により複雑な流れが生じるだろう。そんな見かけとは裏腹に危険な場所であったことを、このエンコ石はカッパに仮託して語っているのではないかと、私は思う。

ふるさとの史跡をたずねて(322)

金ヶ崎城跡(今治市伯方町木浦甲72)

 伯方町木浦の金ヶ崎は木浦港の北東に位置する岬で、古くから人が住んでいたらしく、周辺は遺跡の宝庫である。能島村上氏が近辺を支配した時はもちろん、それ以前から城砦として利用された可能性は高い。しかし、能島村上氏の主力が竹原へ移動した、実質的な水軍の解散の後、金ケ崎に残って畑作に従事した人はほとんどなく、荒地に戻った。

 金ケ崎城跡へ行くには、金ケ崎を目指すのだが、海岸に下る前に、三叉路がある。よく見れば、丘に登る軽トラなら通れそうな農道もあって、厳密には四叉路である。その農道に登る。農道にはところどころに電柱があり、こんなところになぜ電線が? と、不思議に思う光景である。行き止まりまで行くと、伯方島四国八十八ヶ所の立派なお堂があった。六番安楽寺の本院である。本院というのは、分院である前札所が伯方造船所近くにあって、わざわざ遍路道から遠く隔たったここまで来なくても良いようになっているのだ。

 さて立派なお堂の前の境内は広く、桜の木も植えられ桜の季節に来れば、良いところのように思うが、不思議なことに近くに人家がない。能島水軍より後には、人が少し離れた所にしか住まなかったということであろう。

 境内の桜の木の下には「金崎城趾」の石碑が建つが、残念ながら樹木に覆われて海は見えない。岬の中央であるから、海が見えれば往時の城砦の役割もよくわかると思われるが、地図を見て想像するしかない。



 



ふるさとの史跡をたずねて(323)

             

木浦城跡(今治市伯方町木浦甲546)

 伯方港の北側の小高い山が木浦(きのうら)城跡である。木浦城と言うよりも伯方ふるさと歴史公園と言った方がよくわかる。そこには天守閣を模した展望回廊と資料館があったのだが、残念ながら現在は閉館されている。それでも、駐車場とトイレは使えるし、眺望の素晴らしいところだから行ってみるだけの価値はある。

 標高96メートルの頂上を中心に段差のある曲輪(くるわ)があった。その遺跡が想像できなくもない。写真の瓦屋根の写っている展望回廊(模擬天守)のある場所が本壇(一段)で、北東方向に、駐車場になっている二段、さらにフェンスの下に三段目があり、その下のブルーシートのところが武者走りで、遺構に対応してある。海の向こうには金ケ崎城跡のある岬が見える。

 ここは1170年頃、河野通信配下の紀氏によって作られ、村上水軍の時代になってからも、能島村上氏によって利用された。

 海に近い良い場所ではあるが90mの高さは、日常的に上り下りするのにいかがであろうか。現代人の感覚で考えるのは無謀であるが、やはりもっと低いところへ人は集まったのではなかろうか。

 マニアにとってはここまで改造されたものは、もはや遺跡とは呼べないのかも知れないが、城郭図と対応させて眺めれば、ありし日の面影を想像できなくもない。




ふるさとの史跡をたずねて(324)

平山画伯スケッチポイント(今治市伯方町木浦甲546)

 木浦城跡、すなわち伯方ふるさと歴史公園には、平山郁夫画伯 しまなみ海道五十三次スケッチポイントの石板もある。「伯方港四阪島と四国山系を遠望」と左下に書かれている。平成11年(1999)の作品である。

 伯方港の入口付近にある造船所では、クレーンがいろいろな方向に傾き忙しく動いている。船首の丸い貨物船のようなものが偶然同じところに入港することは考えられないから、作業用船台と考えられる。はるか向こう、岬の先端上部に四阪島が見える。その向こうの四国連山は天候によって見えたり見えなかったりするが、因島よりはるかに近いのでよく見える。

 四阪島は大小5つの小島からなるが、その2つの島の間は埋め立てらているので実質4島から構成される。

 別子銅山の精錬所として人里遠く離れた無人島に設置されたことは当時としては画期的なことであったが、明治38年に四阪島で精錬所が操業を開始すると周囲に亜硫酸ガスが拡散し、却って公害は増えた。島全体の松が枯れたというようなことを教科書で読んだ人は多いと思う。

 最盛期は大正末期で、島の人口は5千人を越え、社宅、学校などもあった。

 また、新居浜、四阪島、尾道を往復する住友の専用航路が開かれ、木津川丸が運行した。石炭の黒煙を吐く木津川丸は三庄町沖を通り、陳情の結果、三庄町沖でも止まり乗せてもらうことができた、と言われている。







 ふるさとの史跡をたずねて(325)

喜多浦八幡大神神社(今治市伯方町北浦甲1463)

 伯方島へ行ったら 北浦八幡神社へ一度は訪ねてみたい。長い石段と小山の上の神社という配置は珍しいものではないが、境内が広いせいか明るくて楽しいところである。

 伯方町北浦にある北浦八幡神社は、正しくは 喜多浦八幡大神神社と呼ばれ、長い歴史をもつ。白鳳2年(674)に博多筥崎八幡から勧請されたので、この島が伯方島と言うようになったと伝わる。ただ、その最初の地はどこかわからないが、およそ400年ほど経て、現在地へ社殿が建てられた。

 古い時代の勧請の伝承はともかくとして、伯方島の地名語源説話にそれを結びつけることには、抵抗がある。やはり、共通の地名を付けたのなら、もっと狭い地域にハコザキとかハカタとかという地名がついたと思う。

 また、ひとつ気になるのは境内神社である伊方神社は、元は別のところにあったものだが、貞観2年(860)に従五位下が授けられていることである。栄枯盛衰は世のならいとはいえ、その時代には、北浦八幡神社には、ここで想像するような華やかさはなかったのかもしれない。 

 現在は、山上の豪華な社殿のみならず、石段下の鳥居や狛犬なども見事だし、そこに続く参道周辺は門前町のような落ち着いた雰囲気で、好感がもてる。






 ふるさとの史跡をたずねて(326)

開山公園(今治市伯方町伊方)

 伯方島の開山(ひらきやま)公園は桜の名所として特筆に値する。桜のシーズンには約千本の桜が咲き、林道は南から北への一方通行になるのだが、駐車場に限りがあるので、満車になると大変である。

 桜だけでなく景色もよく、西には大三島橋のかかる鼻栗の瀬戸、そして北に多々羅大橋が見える。さらに右手方向には生口島と岩城島の間に因島が遥かに望める。




 開山公園が現在のような桜の名所になるには3人の功労者がいた。もちろん地元の人々や町の協力があってのことではあるが。

 まず、地元の篤志家で大地主の馬越新吉氏が私財を投じて149mの沖浦山を開墾し、果樹などを栽培した。それで開山と呼ばれるようになった。しかし、馬越氏は明治41年に48歳で事業半ばで亡くなった。

 その後荒廃していたが、明治から大正にかけて瀬戸田町の小林磨五六氏が再開墾して除虫菊を栽培した。小林氏は大正10年に観音堂を建てた。翌年、三十三観音、熊野権現、花山院、不動尊などを寄進する人が相次いだ。





 昭和27年に慈母観音が寄進されると、翌年、木浦の藤井伊太郎氏が発起人となり四十数名の寄進により桜が大々的に植えられた。

 その後、国立公園に指定されたり林道や展望台が建設され、現在の盛況となった。

 なお、ロープウェイを設置する計画があり、用地買収まで進んでいたが取りやめになった。もし設置されていても、維持費を賄えるだけの観光客が来たか疑問であろう。




ふるさとの史跡をたずねて(327)

平山画伯スケッチポイント(今治市伯方町有津)

 319回で船折瀬戸の鶏小島を紹介した。その時、車をとめた駐車場の西の端に平山郁夫画伯のしまなみ海道五十三次スケッチポイントの石板があった。



「伯方大島大橋 伯方島」で平成11年(1999)の作品である。1983年12月の因島大橋の開通に続いて、1988年1月開通の伯方大島大橋は、その間に見近島があって伯方島側が伯方橋で、大島側が大島大橋という2つの橋のことである。

 橋の長さは伯方橋が325m、大島大橋が840mである。これは陸上部も含まれるので、海上の長さに近い橋脚間の長さではそれぞれ、145m、560mと伯方橋の方が短い。

 すなわち、見近島は伯方島・大島間の中央付近にあるのではなく、かなり伯方島に近い。両側の海峡はいずれも急流で、特に大島側は通行船舶も多く、建設には多くの工夫がなされたようである。

 また、大島大橋は、日本初の鋼箱桁を使ったを補剛箱桁吊橋だと、伯方橋の歩行者通路の説明板に書いてあったが、技術的なことはわからない。

 平山画伯のスケッチでは近景が伯方島で、その向こうに大島大橋が見える。右側の主塔の下が見近島ということになる。見近島には歩行者、自転車、バイクは降りることができる。

 同じ場所での写真は、季節のせいか樹木に覆われ、大島大橋の一部しか見えなかった。冬になればまた違った光景を見ることができるかもしれない。



ふるさとの史跡をたずねて(328)

見近島(今治市宮窪町宮窪)

 伯方島と大島の間の橋脚の島ということになる。無人島でキャンプ場がある。歩行者、自転車、原付バイクしか降りられない。車では降りられないということは、救急車を呼んでも時間がかかるし、通常の消防車も近寄れない。そのことを承知の上でキャンプをするなり、あるいは散策をするのには良いところである。伯方島からの方が近いので、何かと便利である。

 さて、位置から見ても能島に近く、能島水軍が放置していたということは、誰が考えてもあり得ないことだろう。能島、鵜島、見近島を合わせて海の要塞を成していたのだと思う。東側に周ると鶏小島、鵜島、能島がよく見える。(写真) 



 見近島では橋脚建設時に多くの陶器のかけらが発見されたが、水軍の生業の実態がわからない以上、確定的なことは言えない。貿易業、国内海運業、あるいは海賊業などがどれくらいの期間にわたって行われていたのかによって、解釈は異なるだろう。

 幸い遺跡の上に橋脚を作ることは避けられ、現状のように両端に橋脚が建てられて、島の中央はよく保存されている。(写真)


ふるさとの史跡をたずねて(329)

余所国小学校跡(今治市宮窪町余所国)


 かつて中島忠由氏が水軍時代の因島大浜町に共同租界地があり、軍監などが派遣されていたということを記された。そしてそこを「余所国(よそのくに)」と呼ぶとも。しかし、因島でそのような文書を見たことはないし、大浜町で「余所国」という地名の痕跡も探すことはできなかった。

 ところが何と、「余所国」が大島にあったのだ。

 見近島と大島の間にある大島大橋の、大島側の橋の下を通って西に向かうと両社明神社がある。その西隣が小学校の跡地で、校舎は残ってなくて門柱があり、元校庭の片隅には二宮金次郎の像が建っていた。



門柱の標札は無かったが、その前に門柱設置の時の寄附石が残っており、それには「余所国尋常小学校・・」と書かれており、かつての村名が「余所国」であったことがわかる。今は字(あざ)名として残っている。しかし、残念ながら期待したように「よそのくに」とは呼ばず、「よそくに」である。でも、残念がる必要はない。「余所国」と書いて「よそくに」と呼んだとしたら、あるいは「余所国」を意味する言葉を「よそくに」と言ったとしたら、日本語的に不自然である。だから、元は「よそのくに」であったに違いない。それがいつしか「の」が脱落して「よそくに」と言われるようになったに違いない。

 だから、共同租界地を期待していたが、そのような史実は出てこない。近隣の人たちが自分達を「内方」、別のところ(今の余所国)を「余所国」と呼んだと言う説がある。また、このあたりだけが小早川氏の支配地だったからだと言う説もあるようだ。

 さて、因島村上氏6代吉充は隠居の身で関ヶ原合戦後、毛利氏に従い長州矢田間に行くが、ほどなく領地を返して弓削、大島余所国を経て、予州佐方(現今治市菊間町)へ行ったという伝承がある。この話の中に、元共同租界地ではなかったにしても、どこか治外法権的な雰囲気が無くもないが、なぜ大島余所国経由なのか書いたものは未見なので、これ以上書いても妄想のレベルを出ない。


ふるさとの史跡をたずねて(330)

平山画伯スケッチポイント47(今治市宮窪町宮窪6355-2)


 標高232mのカレイ山は大島の東北端に近く、能島、見近島を眼下に見おろすことができる。だからと言って見張り台らしきものを設置して常に監視していないといけないほど、危険な商売をしていたとも思えない。また、来島や因島の水軍においても、あるいは他の水軍でない勢力が能島を強奪したとしても、そんなに大きな意味があったとは思えない。もちろん戦国末期においては所属大名、この場合、毛利・小早川氏の領地を死守するのが当然であった時代があったことは確かだろうが。

 思わずこんなことを考えてしまうほど素晴らしいロケーションで、また島々の光景も、橋も海もすばらしく、いつまでも見飽きない。

 そんな場所を平山郁夫画伯が見逃すはずはなく、スケッチポイント47として描かれている。それは「カレイ山展望公園 伯方大島大橋 伯方島」で平成11年(1999)の作品である。

 石板の真上から写した写真では造船所の向こうに多々羅大橋の橋脚と生口島・観音山の稜線が見えている。左へ下がる稜線の向こうに平山画伯の生家はある。そう思ってみると、スケッチのそこがひときわ濃く描かれているように思える。





   写真・文 柏原林造

2023年7月1日土曜日

夕凪亭閑話 2023年7月

 クリスタルホーム      

2023年7月1日。土曜日。雨。2148歩。66.4kg。岩波文庫『無門関』終わる。7月資料作り。「雍也 第六」11章から15章まで。


2023年7月2日。日曜日。曇り。3093歩。66.5kg。5時に起きて、畑の草取り。岩波文庫『法華経 上』終わる。7月資料作り。「雍也 第六」16章から20章まで。


2023年7月3日。月曜日。曇り時々雨。4044歩。67.1kg。5時に起きて、畑の草取り。午後、文化財役員会。夕方も草取り。7月資料作り。「雍也 第六」21章から25章まで。


2023年7月4日。火曜日。晴れ。朝霧。3818歩。66.5kg。5時に起きて、畑の草取り。7月資料作り。新釈漢文大系の「荘子 上」終わる。「雍也 第六」26章から30章まで。


2023年7月5日。水曜日。雨のち曇り。4347歩。66.8kg。朝畑の草取り。買い物。帰って庭の草取り。午後、歯科医院。終わる。夕方、瀬戸内タイムズ原稿出す。


2023年7月6日。木曜日。晴れ。3830歩。66.7kg。朝、畑の草取り。夕方も。古文書。本の移動。


2023年7月7日。金曜日。曇りのち雨。3445歩。66.kg。午後、古文書学習会。テキスト原稿印刷。夜、解読文打ち込み送る。福山の庭に朝、除草剤。夕方シロアリ床下点検。夜、2階の片付け。


2023年7月8日。土曜日。朝、霧。曇り時々雨。4135歩。66.4kg。朝、少し畑の草取り。午後来客。7月資料。古文書。論語「述而 第七」1章から5章まで。


2023年7月9日。日曜日。朝から激しい雨。「洞山集」終わる。(続世界の名著)。朝、買い物。7月資料作り。雨が止んだ時畑の草取。新釈漢文大系の「老子」終わる。「述而 第七」6章から10章まで。


2023年7月10日。月曜日。雨時々曇り。10018歩。66.3kg。朝から生口島四国88箇所2回目12名。八番から。夕方畑の草取り。


2023年7月11日。火曜日。晴れ。2368歩。65.8kg。朝、1時間畑の草取り。一日中7月資料。夜、完成。夕方も草取り。


2023年7月12日。水曜日。晴れ。3319歩。66.3kg。朝、2時間畑の草取り。7月資料印刷。買い物。午後、重井公民館で論語を読む会。4人。帰って庭、畑の草取り。夜、瀬戸内タイムズ原稿書く。


2023年7月13日。木曜日。晴れ。3189歩。65.8kg。朝、2時間畑の草取り。夕方も。7月史料印刷でき、綴じ作業。

2023年7月14日。金曜日。曇り。蒸し暑い。2810歩。65.6kg。朝、草取り。午後、古文書学習会。夕方草取り。夜、入力、一部送る。


2023年7月15日。土曜日。晴れ。暑い。2539歩。66.3kg。朝、草取り。10時から法事。午後、解読文入力。夕方、草取り。


2023年7月16日。日曜日。晴れ。暑い。4619歩。65.35kg。5時過ぎから草取り。買い物。風蕭庵へベッドを作る。といってもコンテナの上にベニヤを置いたもの。カラーコンパネの方が良かったのだが、買い置きがなかったので、ベニヤで代用。そのうちに取り替えるかも。夕方再び草取り。


2023年7月17日。月曜日。晴れ。暑い。5108歩。65.3kg。5時過ぎから草取り。2時間。本を片付けたり、移動したろ。「因島誌」の構想。5時前から2時間ほど草d
とり。


2023年7月18日。火曜日。晴れ。暑い。3712歩。64.6kg。5時過ぎから草取り。2時間。9時からふるさとの歴史を学ぶ会。19人。午後、昼寝。夕方、草取り、2時間。


2023年7月19日。水曜日。晴れ。時々雨。暑い。歩。65.4kg。朝、2時間草取り。10時半から因島図書館で、因島文学散歩。井伏鱒二「へんろう宿」終わる。「掛け持ち」途中まで。午後、昼寝。夕方も草取り。瀬戸内タイムズ原稿書き送る。


2023年7月20日。木曜日。晴れ。梅雨明け。3939歩。65.6kg。朝、2時間草取り。午後、昼寝。夕方草取り。もう少し。因島誌、少し進む。創造的な仕事では内科が、誰もやらないだろうから、できるだけのことはしておきたい。


2023年7月21日。金曜日。晴れ。4499歩。65.3kg。朝4時に起きる。5時から草取り。夕方も草取り。古文書。因島誌の執筆。

2023年7月22日。土曜日。晴れ。2235歩。65.3kg。5時から草取り。夕方も草取り。腰が痛くなった。減らさないといけない。8月資料の執筆。


2023年7月23日。日曜日。晴れ。2510歩。65.3kg。朝4時に起きる。5時から草取り。6時から草取り。やはり腰が痛いので少しでやめる。8月資料と古文書。


2023年7月24日。月曜日。晴れ。夜雨。2523歩。64.75kg。5時に起きてすぐに畑の草取り。草取りでは腰が痛くなるので、植木の剪定を主とする。昨夜寝る前に体のいたるところにインドメタシンを塗ったのがよかったのか、快適。午後資料作りと昼寝。夕方6時ごろから草取り。
風呂に入ろうとしたら雨が降り出した。昼間四国からかかってきた電話に一雨降ったとあった。似たようなことが時を隔てて起こるものだと感心した。すぐに止むだろうと思っていたが、意外と長く降った。先日、屋根の水を池に入れる排水路を少し変更した。うまく流れてくれているだろうか。これで、池の水が少し増えるだろうか。期待は大ききい。でも、涼しくなることは期待しない。一時的に涼しくなっても、明日はまた灼熱の真夏日に違いない。


2023年7月25日。火曜日。晴れ。2484歩。65,2kg。3時に起きて5時過ぎから草取り、2時間。シャワーを浴びて朝食後寝る。9時に起きてゴミ捨て。古物商へ。暑い。午後、昼寝と資料作り。夕方1時間草取り。小雨。古文書。


2023年7月26日。水曜日。晴れ。2869歩、
65.2kg。3時半に起きる。5時から畑と庭の草取り。買い物。午後、重井公民館で論語を読む会。4人。論語、法華経。夕方、庭木の剪定。松原泰道『禅語百選』祥伝社、終わる。


2023年7月27日。木曜日。晴れ。3064歩。64.5kg。4時半に起きる。5時から畑と庭の草取り。朝食後、昼寝。夕方6時ごろから1時間半ほど庭木の剪定。


2023年7月28日。金曜日。晴れ。1713歩。午後、古文書学習会。帰って、解読文入力。半分終わる。


2023年7月29日。土曜日。晴れ。4030歩。65.25kg。解読文入力。午後、終わる。夕方5時から1時間半ほど草取り。夜、北海道の孫が来る。


2023年7月30日。日曜日。晴れ。3649歩。65.6kg。4時に起きる。5時から畑の草取り。9時から買い物。11時前来客。午後、海へ孫を連れて行く。夕方草取り。


2023年7月31日。月曜日。晴れ。2016歩。64.9kg。3時半に起きる。5時から畑の草取り。午後、孫を海へ。夕方草取り。資料作り。古文書。







読書の記録
7月1日。
『無門関』、岩波文庫
7月2日。
『法華経 上』岩波文庫
7月4日
「荘子 上」、新釈漢文大系、明治書院
7月9日
「洞山集」、世界の名著続3
「老子」、新釈漢文大系、明治書院
7月26日
松原泰道『禅語百選』祥伝社、
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