しげいみち
柏原達象氏。(1884.6.23-1955.9.26)
ワニのおじさんである。田舎の小学校の踊り場の高い所に巨大なワニの剥製があった。その下には「柏原達象氏寄贈」と書いてあった。あるいは、「寄贈柏原達象氏」であったかもしれない。何しろ50年以上も前のことであるから記憶も曖昧である。
いつでも、ワニの剥製が見られるということは、家庭にも学校にもたいして本も多くなかった時代、途方もなく贅沢なことだった。その贅沢さが田舎の子供たちにどれだけ理解できたかは疑問である。それが証拠に、というわけではないが、現在はどこにいったのやら、展示はされていないと人づてに聞いた。(確認しないといけないが。)
その同じ名前が、通学路の途中にある大きなお屋敷の高い門柱にあった。人々はそのお屋敷のことを「ダバオ」と呼んでいた。今でいう屋号である。
その柏原達象氏がダバオで何をしていたかというと、柏原ホテルという、ダバオで最初にできたホテルを経営されていたということである。
改造社編、「日本地理大系 海外発展地篇下巻」、昭和六年、p.33
KASHIWABARA HOTELとある。柏原を「かしはら」と読まずに「かしわばら」と読んだほうが誤解が少ないので、そのようにしていたのかもしれない。
ダバオの柏原達象氏のことは、「広島県移住史 通史編」p.471の辺りにもあるが、その大部分が別書に依るものであるので、その元本である、古川義三「ダバオ開拓記」から引用することにしよう。
1884年(明治17年)6月23日広島県御調郡重井村に生まる。海外発展を志し1903年(明治36年)6月、西豪州プルームに渡り真珠貝採取に従事したが、前途の見込みが少ないので僅か半年にしてシンガポールに引き返し、1905年四月ボルネオを経てフィリピン群島ホロに上陸し、更にダバオに来て太田氏に会ったが、またコタバトに引き返し米人のボーイとなった。後バランで米軍のコール マスターを勤め、月給80比の中から貯えた多少の資金で、漸くやまと屋という雑貨店を独立経営した。古川義三、「ダバオ開拓記」、古川拓殖株式会社、昭和31年、p.199
古川義三、「ダバオ開拓記」、古川拓殖株式会社、昭和31年
太田氏といい、著者の古川氏といい、ダバオ開拓史には必ず出て来る大立て者である。
達象氏も含めて三人とも漱石の「それから」に出てくる、いわゆるアドヴェンチャラーである。なお、アラフラ海の真珠貝採りについては、例えば司馬遼太郎さんの「木曜島の夜会」(文春文庫)などを見ていただきたい。「真珠貝」採りであって、「真珠」採りではない。念のために。
また、別の書には次のような記載があった。
妻と一才の長女を伴って、フィリピン群島へ旅立ったのは、一九三七年(昭和十二年)七月十九日だった。以上p.252、(中略)、以下p.256
十日目の七月三十日、北野丸はダバオ港に着いた。船上での検疫がすんで上陸すると、ダバオ税関で簡単な入国試験があった。
明治時代の日本の修身教科書をだし読みのテストがあった。なんのために入国するのか教育視察はいつまでするのか、いつ帰国するのか等聞かれた。
通訳してくれた柏原氏が、ばかばかしい質問ですが真面目に答えて下さい。でないと入国を拒否される場合があるかも知れないと言われて真面目くさって答えた。日本移民をよほど知能の低い人間だと思ってか古い教科書を読ませたのであろうと思った。
柏原氏経営の柏原ホテルに泊っていると、ミンタル日本人小学校の前田照之介先生が迎えに来てくれた。私が独身で渡航して来るものとダバオ日本人会は思っていたらしく、妻子連れであるのにびっくりした模様であった。
前田先生は急いでキャンプの世話をするからホテルで一両日待てということであった。柏原ホテルの二日は言葉は通じないし、退屈で食事はナイフとフォーク、寝風呂に腰掛け便所馴れない様式で不便この上ないものであった。
然しはじめて食べるマンゴの甘さはなんともいえない味であった。
城田吉六、「ダバオ移民の栄光と挫折」、長崎出版文化協会、昭和55年、p.252、256
古老の話によると、重井からダバオの柏原ホテルを手伝いに、柏原徳一氏や半四郎の方などが行かれたという。(未確認)