2019年5月25日土曜日

ふるさとの史跡をたずねて 第130回 菅原神社(因島中庄町天神)

 油屋新開の沖に蘇功新開がある。新入川橋を超えて、外浦町の方へ行った
ところである。外浦町でなく中庄町になる。海をどんどん干拓していけば、よその町村の前に至る。今も昔も複雑な問題である。しかし、原則はその工事をしたところの所有にあるのであろうが、感情的にも面白くないと思う。その蘇功新開の工事の苦心は吉助洲に象徴されるように難工事であった。
 中庄町柏原氏の祖は今でも天満屋と呼ばれている。初代の権右衛門が宝永7年(一七一〇)に菅原神社(写真)を勧請し、その近くへ住んでいたからである。重井の柏原家の分家らしいが、川本、蔵本、中屋等どこの柏原家かはわからない。まだ屋号が付いていなかった時代の分家ではないかと、私は想像する。
 その中庄町柏原氏本家の7代吉助が歴史に登場するのは寛政の頃である。(一七八九頃)。
 土生新開を作った宮地家の子孫である、竹内与三兵衛の依頼で、数年にわたって海に石や砂を入れた。これを吉助洲と呼んだ。しかし、水泡に帰した。こういう失敗談は色々と脚色されるものであるが、重機のない時代の干拓の苦労を伝えるものだから、無批判に紹介しよう。
 膨大な費用をかけて吉助洲ができた。そして酒肴で完成を祝った。しかし、翌朝見ると堤防も石も海の底に沈んでいた。

 与三兵衛は広島藩から資金援助を受け、再普請を試みた。与三兵衛は茅屋に住み「放蚊亭」と称して蚊帳も吊らずに辛抱したが、生存中には完成しなかった。工事はその子与三兵衛長光によって天保14年(一八四三)に完成された。蘇功新開である。(写真・文 柏原林造)