この史跡巡りを、天授3年(1377)11月15日の釣島箱崎浦の戦いの関連史跡から始めたい。
この戦いで今岡通任に勝った村上師清(もろきよ)は翌年、子息村上吉豊を、現在ナティーク城山があるところに住ませた。ここから因島村上氏の時代が始まるからである。
「釣島箱崎浦の合戦跡」=写真=の史跡標は湊大橋の ガソリンスタンド(村井石油土生SS)の北側の公園にある。ペンキが剥げていて、文字は読みにくい。
現在、総合支所の前から湊大橋にかけては直線道路になっているが、かつて、東奥に江の内のバス停があり、海岸線は入り組んでいた。この辺り一帯が埋め立て地であることは、少し歩いてみればわかる。
釣島は生名島の北、箱崎の西にある島で、今は鶴島と呼ばれている。鶴島と生名島との間を岩城行きのフェリーが白波を立てて往来する。鶴島の西側には浅瀬があって、潮位とともに波形が変わり、それがまた午後の陽を映して輝く。刻々と変わる光景を天狗山から眺めるのは楽しい。
(写真・文 柏原林造)
**地図**
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あれや、これやと、好きなところへ飛んで、全体としては、幾つもの流れが立体的に描かれていた、という具合にしたかったが、それでは読者の方が混乱されるので、単線型でいくことにした。
因島村上氏のことを語るには、天授3年(1377)の釣島箱崎浦の戦いから始めるのがよいだろう。因島村上氏が来島したのが、この戦いの結果だというのは伝説かもしれない。しかし、話としてはわかりやすい。考証は歴史家に任せて、ここから始めることにしたい。
当面、村上水軍の話をする。村上海賊と、最近では呼ばれているが、今更村上海賊でもなかろう。水軍でも海賊でも言葉の制約があり、十分ではないのだから、これまでどおり村上水軍でいく。しかし、水軍という独立した地位があったわけではないので、この言葉もできるだけ使わないつもりである。因島村上氏という言い方がよいと思っている。そして、時に水軍や海賊の顔があったのだろう。
村上義弘が因島青陰城主だったというのは伝説である。後期の始まりが伝説であるから、前期のおしまいが伝説であっても構わないが、村上義弘が因島にいたとすると、話がややこしくなるので、とりあえず引っ込んでいてもらうことにする。
それで第一回目は箱崎の江の内公園にある古戦場跡の史跡碑(木製)を訪ねる。箱崎漁港の向かいに当時釣島、今は鶴島と呼ばれている小島が見える。海と島のコントラストが美しい。悲惨な戦いのことに思いをいたすよりも、同じところがこんなに美しく今も存在するということが不思議だ。
写真とリンク
敗者の多くは、この時点で歴史の舞台から去っていく。だから、まず敗者の側から書いていこう。