2019年5月24日金曜日

ふるさとの史跡をたずねて 第131-140回

ふるさとの史跡をたずねて 
第131回      文久新開 (因島中庄町新開区)
 干拓の苦労を語るものに、文久新開もある。その名が示すように、江戸末期文久時代に完成した干拓である。
 ここも最初から成功したわけではない。最初は、石井禎四郎が始めた。嘉永5年(一八五二)のことである。しかし二度にわたる堤防建設に失敗し、未完となった。
 のち、安政5年(一八五八)元山常太郎が工事を再開した。3年かかって文久元年に完成した。一部は塩田として利用され、残りは畑であった。
 しかし、不幸なことに、明治17年(一八八四)に暴風に襲われた。その結果荒波が堤防を越えるとともに、破壊した。一度海水を浴びた畑地は使い物にならなかった。そこで、明治24年(一八九一)に全てを塩田にした。その後、全国的な塩田の整理に伴い、昭和46年(一九七一)に塩田は廃止された。
 その後自動車練習場ができていたが、高低差のある土地で整備が大変だと思った。現在はゴルフの練習場になっている。
 こう書くと多くの人々にどの場所かわかると思う。すなわち、唐樋から新入川橋に至る、油屋新開の堤防上の道路より海側の土地である。そして入川を隔ててその向こうは蘇功新開である。
 三面の満潮時の水位はかなり高い。すなわち自然の脅威と直面しているということである。作ることも大変だが、守ること、すなわち維持することも大変だと思う。より高くと、夢を追い続けなければならないだろう。

 例の大浜越えは現在は通れないが、大浜から大楠山への分岐のところをまっすぐ唐樋へ降りる谷道がある。かつては耕作されていた南斜面であるが、ヤツデのジャングルで眺めは悪い。少し南西に下って大きく鼠屋新開へカーブするところの尾根か見ると、現在はかなり整地されているという印象を受ける。(写真・文 柏原林造)




ふるさとの史跡をたずねて(132)

仁井屋新開 (因島中庄町新開区)

 蘇功新開の灌漑用水池ぞいの桜は水軍スカイラインの北の名所である。そしてここから南へ登れば、外浦町鏡浦町間の平田道路を通る峠道へ続く。また、この池より海側(東側)が仁井屋新開である。

 仁井屋新開は昭和の新開で歴史的にも新しい。時代が新しいせいか、立派な記念碑が建っている。(写真)

 昭和23年(一九四八)に工事を始めて昭和32年(一九五七)に完成しているから、実に10年の歳月を要している。国庫補助による広島県の事業であった。工事は、中庄村の村長であった宮地弘氏が推進したので、宮地弘氏の屋号から仁井屋新開と呼ばれる。

 中庄町には仁井屋新開とは別に仁井屋という地名があり、なかなか複雑である。多くの場合、長男が相続し、次男以下は他家に養子に行くか、あるいは分家する。この分家のことを新屋と呼ぶ。「しんや」と発音する人が多いと思うが、時に「にいや」と言う人がいる。私がはじめて分家のことを「にいや」と聞いて驚いたのは岡山であった。大江姓宮地氏は全国に分布するのであろうが、因島宮地氏の遠祖は、例えば岡山県井原市大江町宮地郷という地名があるように、備中に勢力をもっていた。だから宮地氏の一部の人たちは分家のことを「にいや」と言ったのではないか、と私は思う。そしてその分家は周辺の地名になるほど大きくなった。漢字はわかりやすいものがつかわれたということであろう。

 このように「仁井屋」を「新屋」と解釈したが、「仁井」には別の意味があるので注意が必要だ。因島の例ではないが、仁井、仁井山、仁井川などは、丹井が転化したものである。丹生(にう)というのは辰砂(シンシャ)、すなわち硫化水銀HgSのことである。硫化水銀は加熱すると水銀と硫黄(いおう)に分かれる。金を含む鉱石を水銀に溶かし、加熱して水銀を蒸発させれば金が得られる。これが古い金の採取法で、同じ原理で奈良の大仏が金メッキされたことはよく知られている。この丹生(辰砂)を多く含む所が丹井、丹生田、丹生野などと呼ばれ、のちに仁井、入田、入野と表記されるようになった。これらは、古代の水銀産地で丹生一族によって採掘された。残念ながら因島にはそのような痕跡や伝承はない。




ふるさとの史跡をたずねて(133)

西浦新開(因島中庄町西浦区)

 中庄町西部の西浦区の干拓地について見てみよう。

 重井町小田浦(おだのうら)の南で中庄町になる。その海岸地帯は北から南へかけて、山根新開、利吉新開、嘉助新開、黒崎新開と呼ばれている。そして田熊町に入って黒崎新開、瀬戸の浜となる。したがって黒崎新開は要橋から南、町界を挟むということになるのだろう。それぞれの新開の完成年と推進者は次のように記録されている。

 山根新開、天保7年(一八三六)完成、宮地儀三太(屋号山根)。利吉新開、文政7年(一八二四)完成、徳永の長百姓利吉(屋号浜屋)。嘉助新開、天保6年完成、東屋嘉助。黒崎新開、天保6年完成、庄屋竹内(宮地)与三兵衛。

 利吉新開と嘉助新開の間に西浦漁港がある。西浦のバス停のところにある巨大な石碑は、昭和6年に西浦漁港を拡張した時のもので、その大きさに圧倒されたので今回はこれを載せておく。

 なお、黒崎新開の東(山側)が「天鵞絨ケ原」である。この難しい字は音読すれば「てんがじゅう」であるが、ポルトガル語のビロードに中国語の白鳥の織物を表す天鵞絨を当てたもので、ビロードと読む。こういうのを当て字という。ジャガイモと馬鈴薯は別の植物だから、ジャガイモのことを馬鈴薯と言うのは間違いだと主張したのは牧野富太郎博士である。オリーブと橄欖(カンラン)も同じことでオリーブの誤訳と書いている辞書もある。当て字であるなら許容されるのであろうが、それぞれ別のものである。

 さて、ビロードと言っても若い人は知らないだろう。現代では、もっぱらベルベットと呼ばれる柔らかで光沢のある織物で、ドレスやカーテンなどの高級品に使用される。

 色としては濃い青みがかった緑色というから、竜王山と山伏山の北西の山麓であるから、繁茂した木々が、そのような色に見えたのかも知れない。ここまで書けば、因島医師会介護老人保健施設ビロードの丘という優雅で古めかしい名が、その土地の名に因むということが理解していただけたものと思う。





ふるさとの史跡をたずねて(134)

深浦新開住吉神社(因島重井町深浦新開)

 干拓地には住吉神社がつきもので、いたるところにその小祠を見つけることができる。重井町の深浦新開の潮回しは、現存するものでは島内最大のものである。その潮回しの北側に高い土手があり、頑丈なコンクリートで長い防波堤が作られている。その土手の西側、三和ドックの入口に近いほうに、深浦新開の住吉神社がある。(写真)

 かつて大きな鳥居があったことが、近くにある破片からわかる。しかし、私には鳥居の記憶にはなく、ここに大きな松の木があったことを覚えている。

 北側は海であるが、現在はその沖に三和ドックの工場が伸びてきている。また、祠の後ろには地元の鮮魚商の方が建てられた供養碑がある。

 実は深浦新開から北、あるいは現在重井中学校の辺りより北は、戦時中陸軍の軍用地として撤収され、立ち入り禁止となっていた。そのために因島四国八十八ケ所のうち、87番長尾寺と88番大窪寺は立ち退きを余儀なくされた。87番長尾寺は重井町東浜の東北端にあり重井郵便局の東にある86番志度寺からあまりにも近い。88番大窪寺は伊浜八幡神社の上にあり、ここで結願しても、さてどこへ帰るのか。何とも意味のない場所である。神社の近くであるという理由はないと思う。明治以降神仏習合の時代は終わっているから、お寺と神社が同居する必要はない。両方とも、おそらく慌てて現在地へ移築したのではなかろうか。

 それらの元の位置は不明であるが、88番大窪寺はこの住吉神社付近ではなかったかと私は思う。そうすると大浜崎灯台付近に島四国遍路をする人たちを運んできた船は、二日後にこの辺りに着岸して待っておればよいということになったと思う。つい最近まで交通の主役は船だったのだから、島四国の発願と結願が海の近くでなされたということには、大きな意味があったと思う。




ふるさとの史跡をたずねて(135)

陸軍境界石(因島大浜町)

 軍用地と民有地を隔てるものが陸軍境界石である。大日本帝國陸軍は法的にはしばらく後のことであろうが、昭和20年の敗戦とともに実質解体したのであるから、境界石はその存在価値を失った。あるものは撤去され、あるいは単なる石材として利用されたりして、目にすることはなくなったのではないか。ところが、山の中では撤去する理由がなかったのか、そのまま放置されていた。別の目的で山へ入った時、たまたま目につき、これが以前聞いたことのある陸軍境界石かと納得しただけである。

 民有地側には「陸軍」と彫られていた。そしてその反対側、すなわち軍用地側には漢数字で番号が書かれている。また頂部には、境界に沿った線が彫られており、曲がるところでは、そのように線が折れている。

 さて、軍用地という言葉は最近では聞くことはないが、かつてそこに畑を持っている家ではよく使っていた。今でも使われているのだろうか。

 畑にはその家独自の名前が付いていることは、湊かなえさんの『望郷』中の最初の短編にあったことを覚えておられる方もおられるだろう。おそらく多くの農家は複数の場所に畑を持っている。一カ所だけであれば名前はいらない。「畑」で済む。

しかし、作業予定を伝えるにしてもそれぞれの畑が区別されてなければ会話が成り立たない。だから、個々の畑に名前がついているのである。その土地の字名が伝統的によく使われたようである。しかし家族内でわかればよいのであるから簡略されたものもあったであろう。例えば干拓地が一カ所だけであれば「新開」と言えば、その家では十分に通用する。

 その軍用地は戦後、農事試験所の農地や、中学校になっていた。農事試験所の方は土地交換等で現在のフラワセンターの方へ集約された。その他の民間への払い下げや、あるいは軍用地としての民有地の接収または購入がどのようなものであったのかを知る資料は現在のところ知らない。




ふるさとの史跡をたずねて(136)

ゆるぎ岩(因島大浜町)

 陸軍境界石はゆるぎ岩を探しに山に入った時、たまたま出現したものであった。そして確かにその延長線の北側が軍用地であることに思い至り納得した次第である。

 しかし、ゆるぎ岩の方は、時すでに遅し、であった。ゆるぎ岩はゆるぎ岩でなくなっていたのである。

 ゆるぎ岩というのは、揺さぶれば、ゴトゴトという音はともかくとして揺れる大岩のことである。巨大な岩が揺れるからおもしろいのであって、これが動くのか、と驚くほど大きくなくてはならない。

 そのゆるぎ岩が白滝山の近くにあるということを知ったのは、子供の頃のことではなく、老境に達してからである。それは、くぐり岩の話をしている時、その岩と混同して話し出されたのであった。くぐり岩というのは巨岩の下に通路があり、その岩の一端がわずかな部分で地上に接している奇岩である。白滝山表参道の六地蔵の上で右にそれ、島四国85番八栗寺の手前にあるが、この「くんぐり道」はその前後がよく通行止になる。

 くぐり岩ではなく、ゆるぎ岩について年配の方に尋ねると、白滝フラワーラインの上の方から深浦の方へ降りて行く道の途中にあったということがわかった。ということは白滝フラワーラインの三叉路で白滝山八合目駐車場の方へは行かず、大浜側へ向かい、左下へ下る山道のありそうなところから、山へ入るということになる。

 確かに山道はあった。そしてそれらしき大きな岩も見つかった。しかし、残念なことにその岩と山肌の間にくさび状の岩が押し込まれており、動かなかった。そのくさび状の岩を取り除く術はなかった。

 実はこのゆるぎ岩には弘法大師にまつわる話がある。伝説にはほど遠く、単なる創作民話に過ぎないので、興味はないが、こんなものまで弘法大師に結びつける精神風土は、単なる大師信仰を超えた何かがあるようで、そちらの方が私には興味ぶかい。




ふるさとの史跡をたずねて(137)

土地寄附碑(因島重井町宮の上)

 深浦新開が陸軍の軍用地として撤収された時、そこにあった因島四国八十八ケ所のうち87番長尾寺と88大窪寺が現在地に強制的に移転させられたと書いたが、元の場所どころか、そのことを知っている方に、未だにお目にかかっていない。だから、何か確実な証拠がほしい。前に書いた、86番志度寺と長尾寺が近すぎるというのでは、証拠にならない。また、結願寺大窪寺が海岸近くにあるべきだというのも、私の個人的な見解に過ぎず、現に本四国では山奥にあるのだから、それに倣えば悪くはない、と言える。だからこの件は半信半疑のまま棚上げしておこうと思っていた。

 ところが、ふと目に入った石柱には、まことに興味深いことが書かれていた。それは重井町宮の上の88番大窪寺のお堂の前の石柱である。そこには「昭和十六年三月吉日 土地寄附大出半七」と彫られていた。よく知られているように因島四国八十八ケ所は明治45年に作られた。場所によっては多少の相違はあろうが、ほぼ同じ頃に作られたと考えてよい。また、大窪寺の土地はそれまで借りており、昭和十六年になって土地所有者からにわかに寄贈されたと考えるのも不自然であろうから、昭和16年に移転したと考えるのが自然である。

 よって、軍用地がらみの移転の話は事実と考えられる。

 さて、伝統行事と呼ばれるものには次のふたつのパターンがあるように思う。一つは聴衆の多寡など気にせずに、古式ゆかしく続けることを最大の意義として、延々と続けているもの。もう一つは時代の流れを機敏に取り入れて、絶えず変貌しつつ長く存続しているものである。

 四国遍路の人気が衰えないのは、後者の例であって、それ相応に努力されているからであろう。かつて難所と言われたところも自動車道が整備されていて、乗用車、観光バスで参拝される方も多い。ロープウェイやケーブルカーを利用できるところもある。

 因島四国八十八ケ所では、既に歩き遍路道は完全には残っていないのだから、現状に応じた対応が考えられてもよいのではなかろうか。




ふるさとの史跡をたずねて(138)

軍用地船着場跡(因島重井町勘口)

 軍用地と言っても、そのことを語るようなものは残っていない。しいて探せば、船着場の石垣の跡であろうか。しかし、その石垣も波に洗われて崩れ、もはやそれを探すのすら難しくなっている。かつては確かにあったのである。今なら崩れた石の何個かを見ることができるだけである。

 因島金属の前の道が大きくカーブする所の海側である。現在のコンクリート製の護岸でも修復するから壊れずに存在しているのである。そのままにしておくと、長い年月の間に壊れていくことは多くの人が知っていることである。ここの船着場も昭和20年8月に役目を終えて、後は補修される必要もなかったのだから、そのまま波に洗われて徐々に壊れていった。

 現在の姿を見ても、それが船着場の跡だとは、なかなか想像できない。50年以上前は、もう少し沖まで伸びていたし、ここの近くが軍用地と呼ばれ、戦時中はドラム缶が置かれていたと聞いていたから、船着場の跡だと想像していただけである。

 その頃は近くに工場や民家はなかったから、それ以外の用途は考えられなかった。

 何しろ一般人は入れなかったから、実際にここに船を着けてドラム缶を下ろしていた光景を見た人はあまりいないと思う。


 


ふるさとの史跡をたずねて(139)

黒崎明神(因島田熊黒崎新開)

 干拓地すなわち新開地の特色は神社があるということであろうか。もともと海中にある安芸の宮島、すなわち厳島神社を勧請したものが海辺にあるのは当然としても、住吉神社、金毘羅宮などを祀った小祠などがあって、庶民信仰を考える上ではまことに興味深い。

 黒崎新開の南の端に黒崎明神がある。その北側には潮回しがあり、大きなボラが泳いでいた。黒崎明神はここへ平成2年に移設されたようだが、中庄庄屋の竹内宮地家与三兵衛が天保5年(一八三四)に黒崎新開を作った時、厳島神社から勧請したということだから、その歴史は古い。黒崎明神と呼ばれているが、厳島神社のことだろう。重井町では明神さんと言えば厳島神社のことであるのだが、普段の会話ではたいていが明神さんで済む。明神というのは神仏習合時代の神社の呼び方である。

 中庄町から田熊町へ入ると、山伏山の山裾に天鵞絨ケ原(ビロードがはら)、黒崎、女郎ケ浜、崎西浦と続く。黒崎の沖が黒崎新開でその南が瀬戸の浜と、あでやかな地名が続く。

 女郎ケ浜というのは遊女がいたということであろうから、周囲の港の賑わいが想像される。

 そこから南は海沿いではあるが竹長新開まで新開と呼ばないようだから、干拓ではなく埋立地であろう。竹長新開を過ぎると、金山新開、扇新開と続く。

 竹長新開は山側の上八新開と呼ばれていたところと、後の部分の二度に渡って行われ、天保13年(一八四二)に岡野六兵衛が完成した。初めから綿花を植えるつもりであったようだ。干拓地と言えば塩田か田んぼを想像しがちであるが、この時代は綿花が主要産業になっていたのであろうか。

 現在、生口島へのフェリー発着場が金山桟橋と呼ばれているから、そこよりも北側が竹長新開ということである。




ふるさとの史跡をたずねて(140)

山伏山(因島田熊町)


 生口橋の因島側にある山が山伏山である。風呂山、青影山、竜王山、山伏山と続いているようであるが、竜王山と山伏山との間には小さなトンネルがあって峠道が西浦峠から田熊町へと続いている。しかし、荒廃が進んでいるので、数年前通った時を最後に普通車では通らないことにしている。

 そのトンネルのところから登る。頂上近くには遠見岩と呼ばれている岩があるが、南側の地名(字)にやはり遠見岩というのがあるから、頂上の岩を遠見岩というのは、何かの間違いかもしれない。いずれにせよ、遠見岩というのは狼煙(のろし)を見る岩という意味だろう。

 重井町の竜王山(権現山)中腹に遠見山というのがある。やはり狼煙の見はり所だったと思われる。また、青影山の眺望はよく、多くの海域からも見ることができる。弓削港、伯方島トウビョウ鼻、重井町青木山、細島などからもよく見える。そのせいか水軍時代の青影山を見張所や司令所的な役割を持った場所として、その手段を狼煙をもとにして考えれば面白いかもしれない。

 しかし、狼煙は「ある」か「ない」かの二進法であり、仮に狼の糞を混ぜて色をつけたところで、多くの情報が送れるものではない。また天候に左右されやす。だから上記の想像がいかに現実離れしたものであり、実戦には向かいないということは、青影山に何度か登り、数時間海を眺めていればわかる。

 したがって、遠見岩とか遠見山とか言っても、水軍時代のものというよりも、後の平和な時代のものだと考えるのが妥当だろう。参覲交代や千石船の経過を、狼煙で知らせたということはあったかもしれない。

 さて、山伏山という名前は興味深い。山伏とは修験者のことであり、一般には修験道の修行者という意味である。だから、その修行の場であったということを示している。










写真・文 柏原林造