2015年5月19日火曜日

因島中庄町 片刈山城跡物語

いんのしまみち なかのしょうみち 中庄小丸山城跡物語⬅️ 片刈山城跡物語 ➡️島前城跡物語

伝説とロマンの島 因島城跡物語 著者 柏原林造、住原俊治、村上知之

片刈山城跡物語


2015.7.14,


城郭配置図。Yahoo地図へ田中稔「因島史考」の図を参考に書き加えたもの。
青影山から。

[所在地]因島中庄町寺迫。片刈山の山上。
[標高]124m
[城廓]本丸、二ノ丸、三ノ丸が段状にある。東に出丸。南西の丸山(現在の水軍城近く)に出城。
[城主]清原守高
[史跡]三ノ丸の石垣が残っている。長福寺谷に清原守高の屋敷跡がある。さらに下に井戸跡がある。
[現状]長福寺峠から登り道がある。
[その他]地蔵鼻辺りに登り口があるのかもしれないが、未確認。
[交通]しまむら・三原スーパー駐車場から麓まで5分。
[歴史]因島は後白河法皇の長講堂領であったが、建久3年院が亡くなると、三津庄の常光院領と中庄の宣陽門院領に二分された。宣陽門院領の預所は比良木祢宜鴨県主で、現地を管理する公文が清原守高であった。

因北小学校の前のひょうたん池が埋められてゲートボール場になり、その前に信号機が付けられた。その信号機には「片刈池」とあったから、ひょうたん池という名称は何だったのだろうかと思った。その池には冬には鴨が飛来し、竹薮を写した緑の水面で泳いでいるかと思うと潜って、しばらくしてから別のところから浮き上がるということを繰返していた。その池は既にないが、その西には昔のままの山が聳えている。片刈山城跡とはその山のことである。

なお、因島村上文書には次のような下文がある。
1222貞応元年壬午。11月11日。因島村上文書。
因島中庄預所下文
下 備後國因嶋中御庄政所
 下早宛賜給田段内四斗代 二段
          三斗代 二反
          二斗代 二反
          一斗代 二反
右公文清原森高、可宛賜之状、所仰如件、
    貞應元年十一月十一日
  比良木祢宜縣主(花押)
「広島県史 古代中世資料編Ⅳ」、p.551


このように、このあたりは歴史が古く、おそらく海を隔てて南の八幡神社側より早く開けたのかもしれない。そうすると、隠島神社が例の三代実録うんぬんの第一候補としてますます有力になる。南の山側も奥が深いが、こちらもなかなか情趣に富んだ地域で歴史散歩には最適である。

その探訪記を記すことにしよう。まだ蛇など心配しないでよいころ、重井のスポーツ公園から中庄の鹿穴へ抜ける峠道を歩いた。あとでそこの住人に聞いたことだが、鹿穴は「しかあな」ではなく、「ししあな」と読むということだった。するとこの近くの重井側にある「獅子穴」と通じることになる。これはどういうことか。今の行政区分である(もうほとんどその意味もなく、単なる学区程度の区分であるが)中庄町、重井町というのものが単に後の世の産物で、それ以前からここらが「ししあな」と呼ばれていたということがわかる。
近くに重井側であるが「鼬の巣」というのもあるが、どうやら、歩いた印象では動物の名前のつく字(あざ)は狭い谷間で、それも暗い感じがする。蛇とか龍がつくと、水が多いところだということである。
その峠道はかつては狭い歩き専用の道だったと思われるが県の農道整備事業のおかげで、車が通れる道に変貌している。峠を越えて下ったら、すぐに土生神社があった。中庄に土生神社である。

土生神社から、道なりに下ると、鹿穴である。溜池が二つある。大きなほうは江戸時代には「田渡り池」と呼ばれていた。今は鹿穴池である。このあたりは中庄でも早いほうの埋め立て地で土生新開と呼ばれるところだろう。大きな道路沿いが浜床と云うから、海から浜になったのであろう。インターにかけても溜池がある。重井池、重井奥池である。重井奥池というのはインターから重井よりか。

ここの鹿穴行きの次は、スタートと山道に入る肥料工場のところは同じだが、そこから右に道を通って山を越えることにした。





いんのしまみち なかのしょうみち