2017年1月16日月曜日

因島・ふるさとの歴史を学ぶ会資料 第9回 20170117 Vol.2 p.1-2

[p.1-2](画像版)     [p.15-16](画像版) [p.3-8] [p.9-11] [p.12] [p.13] [p.14]











2。白滝山について  その9 [p.3-11]
今回は、柏原舒延著「霊峯白滝山の沿革」については、
(39)一観百回忌供養        「反省ノ泉」昭和46年7月1日発行 第224号
(40)保勝は実行(上)           「反省ノ泉」昭和46年8月1日発行 第225号
(41)保勝は実行(中)           「反省ノ泉」昭和46年10月1日発行 第227号
(42)保勝は実行(下)           「反省ノ泉」昭和46年11月1日発行 第228号
(43)保勝は拡充(上)           「反省ノ泉」昭和46年12月1日発行 第229号
(44)保勝は拡充(中)           「反省ノ泉」昭和47年1月1日発行  第230号
の6回分を読む。なお、39回は、番号に誤植がある。上記のようになる。[p.3-8]
 また併せて、宇根家文書「五百大羅漢寄進」(文政十年 亥正月吉日 重井村 観音山」(1827年)のうち、五百大羅漢佛の五番組(一部)と四天王、二王再建、地所賣渡証を見る。現在との関係は次のようになる。五番組:ト区、ホの三・四班。今回で終了。[p.9-11] 
  (39)一観百回忌供養 では伝六さんの法事が曹洞宗の僧侶によって行われている。伝六さんは新しい宗教「一観教」を創始したと言われているが、地元では曹洞宗の一信徒として理解していたことになる。すなわち「一観教」は曹洞宗から抜け出たものではなかったと考えてよい。観音経(法華経の第25)を重んじるとともに、儒教道徳的な要素も強く、そのことは修養団奉誠会との親近性があり、「平和一神」碑が日本で最初に建てられたことや、この連載が会誌に掲載されたこととも関係があるだろう。白滝山は最高部に阿弥陀三尊像を配していることからわかるように阿弥陀経の極楽浄土を具現し、宗派を超えて多くの人々へ開かれたものである。











4。重井東部史跡巡り    [p.12]     
   因島村上氏6代吉充は向島余崎城に13年いて、その後永禄12年(1569)重井青木城に移った。小早川隆景新高山城から浮城(三原城)へ移るに当たって、重井にいた杉原氏を去らせて吉充を向島から移らせたと言われている。杉原氏が神辺城主になるに当たって、吉川氏が押し隆景は反対したという経緯があるので、隆景は杉原氏とは相性が合わなかったのかもしれない。吉充の青木移城によって因島全体が村上氏の支配下になったということであるが、戦いがあったわけではなく、小早川支配地の配置替えだと思えば良い。関ヶ原敗戦後に毛利氏に従ったように、この頃にはすでに小早川の配下になっていたことがうかがえる。今回は青木城、白滝山を中心に重井東部の史跡を巡る。
大出神社 青木山東の中腹にある。
青木城跡 所在地が諸本には重井町竜王山となっている。頂上に竜王社があるように、字(あざ)が竜王山だったのだろう。それが県史跡に指定された時の所在地として登録されたためにこのように記されている。したがって間違いではないが竜王山は権現山のことであるので、青木城には使わないほうがよい。なお竜王山と呼ばれるところは雨乞いが行われたところである。
 東浜には島四国87番長尾寺がある。88番大窪寺とともに深浦が軍用地となったために現在地へ移転した。元の位置はわからない。87番は重井中付近、88番は深浦新開住吉神社付近ではなかろうか。長尾寺の北には、柏原水軒翁築港碑波止寄付録碑金比羅大権現石柱がある。住吉大明神、稲荷大明神の文字。また対岸(港の西側)の元・こまたきの発着所付近に本郷沖新開住吉神社、郵便局裏に青木沖新開住吉神社がある。
伊浜の土手。現在西側1/3が残っている。遊水池側に側道があった。
伊浜新開住吉神社。伊浜新開遊水地ポンプ場前。
宮沖新開住吉神社。ゴミステーション横。
金比羅燈籠 「金比羅大権現」「天保九戌十一月吉日」の文字。
白滝山五百羅漢石柱。サンロード(株)社長村上弘文氏寄贈。平成27年3月設置。その経緯は第8回Vol.1 p.136-137に掲載。
白王山八幡神社 青木城から丑寅(艮)の方角で鬼門になる。山の神は裏鬼門。随身像、随身門、逆針羅針盤、境内神社(高良神社、松尾神社、稲荷神社、伊勢神社、金神、生眼八幡宮、白滝龍神社)。逆針羅針盤。東(卯)と西(酉)が逆になっていて、北(子)を舳先に合わせて固定すると船の進行方向を磁針が指すことになる。船から降ろすと使い道はないが、天井に吊り下げて下から見れば、その地の方位を示すのに役立つ。佐島八幡神社に説明書が奉納されている。舵の柄を卯の方向に向けるのが卯の舵(面舵)、酉の方向に向けるのが酉舵(取舵)。
棟札に「大旦那 源吉充 勧進者 平土讃守柏原忠安七十八才 永禄十二年九月廿一日」などの文字がある。「因島史考」p.73 柏原忠安のことは宮地賢氏所蔵文書(「因島市史」p.881)にもあり、事実だと思われる。重井柏原氏の祖ではあるが、それ以前のことはわからない。関ヶ原合戦後、忠安の長男は長州へ、次男は川口土井へ移り川本家の祖となる。三男は早稲田に住み医者となる。上坂蔵本の祖。四男は福山水野氏へ。
伝六ロード  伝六旧居D、初五郎旧居H、林蔵家R。八丁丁石8。峰松氏祖五郎左衛門家G、川口柏原氏祖川本家K、丸本家系村上氏祖丸本屋M、丸本屋旧居山下屋Y、村上神社(丸小山)。丸上(家紋)本家の丸本屋は現在山下屋のところにあった。その前(南)の山が丸本家の土地であったから丸本山である。略して丸山となり周囲一帯の地名も丸山となった。一町田・太田を埋め立てるのに削られ小さくなったので丸小山と呼ばれるようになったであろう。宇根家からの分家が山下屋の下に住んだ。丸山分家と呼ばれ、後に丸山が屋号になったのが柏原仁文氏宅である。
大浜往還(古道)第三久保田橋重井間の道路は白滝山の北側を通ってフラワーラインのロータリー経由の他南側を通るものがある。しまなみ海道開通後にできた側道が大浜往還(新道)。開通以前の塞の神のところから入った切り通しのあった道路が大浜往還(旧道)。[p.15]へ続く
この建設費も久保田権四郎氏の寄付による。八重子島対岸中庄よりの新設道路開通記念碑に記されている「自大濱村至重井村 大池奥崩岩線」の道である。しまなみ海道の下で消滅している。大浜往還(古道)は旧道以前の峠道である。大浜から重井小高等科へ通うには、大浜往還(古道)、縄手の土手、須越樋口道を通った。したがって縄手の土手とつながる大師堂下から第三久保田橋までを大浜往還(古道)とする。今回は、途中で白滝山登山道へ入る。
白滝山観音堂 吉充が観音堂を建て備後灘の見張所とした。その際、細島にいた山伏の頭目常楽院静金(じょうこん)大徳を堂主とした。安政6年(1859)再建された。観音堂の前に「十字架観音像」の表示があるが、これは間違い。第8回でも記したように、左手に掲げているのは十字架ではなく仏具であることは向島岩屋巨石、三庄観音寺三十三観音等を見れば明白。
くんぐり道 表参道の南側の登山道。島四国85番八栗寺、くぐり岩がある。八栗寺の隣から白滝山奥の院への参道がある。奥の院の上には見事な絶壁が張り出している。雨が降ると岩の上を流れて白い滝のようになったので、白滝山と名付けられたと言われるが、本当だろうか。谷川健一「日本の地名」(岩波新書)には「中国地方から西ではタキの地名は断崖を指す。」(p.87)と書いてある。こちらの方がわかりやすい。また、上から秋葉神社、道了大権現、愛宕神社の小祠がある。妙覚道了は修験道の奥義を極めた室町時代の禅僧。ここの絶壁が山伏の修行場として使用されたのかもしれない。
仁王門 山門には違いないが紛らわしいので、観音堂広場の、石段を登ったところを山門と呼び、こちらは「仁王門」で通したい。
伝六さん 伝六さんと堂守の墓所。「通称墓所」ではなく「通称伝六さん」で正式には「墓所」であろう。
表参道 丁石のある青木道からを表参道と称すべきであろうが、郵便局から大師堂下までが青木道と呼ばれているので、大師堂下からとすべきで、山門までが表参道。西洋館(因島ペンション白滝山荘)の塀沿いに上がる階段道が従来の表参道であり、無くなった訳ではない。百華園からの道が合流する。1丁から北側の道が裏参道で表参道は右へ登る。
国土地理院地図を修正。

5。土生町 大宝寺 四国八十八ケ所霊場      住原俊治[p.13]


6。干拓について 4         [p.14]
 重井中学校の副読本中島忠由「義農五代の苦心 村上長右衛門傳」のp.12~15の抜粋である。

[p.1-2](画像版)     [p.15-16](画像版) [p.3-8] [p.9-11] [p.12] [p.13] [p.14]