2017年1月12日木曜日

Vol.2 p.3-8

2。白滝山について  その9 [p.3-11]
今回は、柏原舒延著「霊峯白滝山の沿革」については、
(39)一観百回忌供養        「反省ノ泉」昭和46年7月1日発行 第224号
(40)保勝は実行(上)           「反省ノ泉」昭和46年8月1日発行 第225号
(41)保勝は実行(中)           「反省ノ泉」昭和46年10月1日発行 第227号
(42)保勝は実行(下)           「反省ノ泉」昭和46年11月1日発行 第228号
(43)保勝は拡充(上)           「反省ノ泉」昭和46年12月1日発行 第229号
(44)保勝は拡充(中)           「反省ノ泉」昭和47年1月1日発行  第230号
の6回分を読む。なお、39回は、番号に誤植がある。上記のようになる。[p.3-8]
 また併せて、宇根家文書「五百大羅漢寄進」(文政十年 亥正月吉日 重井村 観音山」(1827年)のうち、五百大羅漢佛の五番組(一部)と四天王、二王再建、地所賣渡証を見る。現在との関係は次のようになる。五番組:ト区、ホの三・四班。今回で終了。[p.9-11] 
  (39)一観百回忌供養 では伝六さんの法事が曹洞宗の僧侶によって行われている。伝六さんは新しい宗教「一観教」を創始したと言われているが、地元では曹洞宗の一信徒として理解していたことになる。すなわち「一観教」は曹洞宗から抜け出たものではなかったと考えてよい。観音経(法華経の第25)を重んじるとともに、儒教道徳的な要素も強く、そのことは修養団奉誠会との親近性があり、「平和一神」碑が日本で最初に建てられたことや、この連載が会誌に掲載されたこととも関係があるだろう。白滝山は最高部に阿弥陀三尊像を配していることからわかるように阿弥陀経の極楽浄土を具現し、宗派を超えて多くの人々へ開かれたものである。