2017年12月14日木曜日

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p.51-52] [p.69-70]  [p.53-58] [p.59-61] [p.62] [p.63] [p.64-65] [p.66]  [p.67-68] 

9。柏原達象氏(1884.6.23-1955.9.26)とダバオの柏原旅館 [p.67-68]

  ダバオの柏原達象氏については、かつて重井小学校が木造校舎の頃、階段の壁に大きなワニの剥製が掛けられており、その箱の下に柏原達象氏寄贈と書かれてあったことを覚えている方は多いと思う。柏原達象氏は戦前、フィリピン、ミンダナオ島ダバオ市で柏原ホテルという、ダバオで最初にできたホテルを経営されていた。ダバオ国とも呼ばれ満州国と並ぶ戦前の日本の植民地で、主要産業は麻であった。ダバオ関係の書籍から柏原達象氏についての記述を紹介する。

 古川義三「ダバオ開拓記」より。

11.柏原達象氏 1884年明治17年)6月23日広島県御調郡重井村に生まる。海外発展を志し1903年明治36年)6月、西豪州プルームに渡り真珠貝採取に従事したが、前途の見込みが少ないので僅か半年にしてシンガポールに引き返し、1905年4月ボルネオを経てフィリピン群島ホロに上陸し、更にダバオに来て太田氏に会ったが、またコタバトに引き返し米人のボーイとなった。後バランで米軍のコール マスターを勤め、月給80比の中から貯えた多少の資金で、漸くやまと屋という雑貨店を独立経営した。

以下[p.67-68]へ続く。

 古川義三「ダバオ開拓記」(古川拓殖株式会社、昭和31年)p.199-200

[p.68]の下のKASHIWABARA HOTELの写真は、改造社編「日本地理大系 海外発展地篇 下巻」改造社、昭和六年、p.33に掲載されているものである。

 

 城田吉六「ダバオ移民の栄光と挫折」より。 

 妻と一才の長女を伴って、フィリピン群島へ旅立ったのは、一九三七年(昭和十二年)七月十九日だった。以上p.252、(中略)、以下p.256

 十日目の七月三十日、北野丸はダバオ港に着いた。船上での検疫がすんで上陸すると、ダバオ税関で簡単な入国試験があった。

 明治時代の日本の修身教科書をだし読みのテストがあった。なんのために入国するのか教育視察はいつまでするのか、いつ帰国するのか等聞かれた。

 通訳してくれた柏原氏が、ばかばかしい質問ですが真面目に答えて下さい。でないと入国を拒否される場合があるかも知れないと言われて真面目くさって答えた。日本移民をよほど知能の低い人間だと思ってか古い教科書を読ませたのであろうと思った。

 柏原氏経営の柏原ホテルに泊っていると、ミンタル日本人小学校の前田照之介先生が迎えに来てくれた。私が独身で渡航して来るものとダバオ日本人会は思っていたらしく、妻子連れであるのにびっくりした模様であった。

 前田先生は急いでキャンプの世話をするからホテルで一両日待てということであった。柏原ホテルの二日は言葉は通じないし、退屈で食事はナイフとフォーク、寝風呂に腰掛け便所馴れない様式で不便この上ないものであった。

 然しはじめて食べるマンゴの甘さはなんともいえない味であった。

田吉六「ダバオ移民の栄光と挫折」、長崎出版文化協会、昭和55年、p.252、256