2021年10月21日木曜日

ふるさとの史跡をたずねて 増補版 241-250回

ふるさとの史跡をたずねて(241)

因島船渠碑(尾道市因島土生町平木区)

 因島警察署(現在は尾道警察署因島分庁舎)の南西は因島病院の駐車場でかつて日立会館のあったところだ。

 その日立会館の海側に無造作に自転車を駐めて映画を見に行った。たいていが定期考査の最終日の午後だった。「猿の惑星」「007は二度死ぬ」「天地創造」「華麗なる賭け」「ドクトル・ジバゴ」、そして幾つかのマカロニ・ウエスタンなどなど。半年か一年遅れのものだったが今から思えば悪くない選択だった。と言っても自分で選んで見たのではない。メダカが群れるように、合流してついて行っただけである。というような50年以上も昔のことを思い出しながら歩いていると、宮島さんの前に巨大な石碑があった(写真)。



 戀(恋)田清三郎、弓場定松、橘富太郎の三氏が明治29年に因島船渠を作ったと書いてある。この石碑の文字は大正5年9月に書かれている。

 一方、昭和43年に発行された『因島市史』では確定できるような記録がないと書いてある。大正5年なら関係者の記憶や、多くの記録もあったことだろうから間違ってなかろうと思う。

 ところで、この巨大な石碑は50年ほど前もここにあったのだろうか。まったく記憶にないということは、まったくこういうものに興味がなかったということでもあるが。


                               ◇虹の都・光の湊


ふるさとの史跡をたずねて(242)

升浜道路改修記念碑(尾道市因島中庄町浜床)


 220回で紹介した浜床団地入口の「切切念郷」の久保田権四郎翁顕彰碑は大山トンネルを経てしまなみ海道へ行くのに通る幹線道路沿いであるから、多くの人がその前を通っていることだろう。そしてその大きな石碑に目を奪われるから、その下にある道路改修碑を気にかける人は少ないと思う。

 この小さな石碑には、上部に二段にわたって右から「字(あざ)升浜道路改修記念碑」と書かれている。その下には小さな文字で寄付者名が金額とともに並ぶ。注意してみると、最初の二行は「大正十三年一月建」、「一、金六百五十円本村補助」と読める。



 丸池の手前あたりから浜床まで、土生新開の北端にある道路だろうか。主に江戸時代に行われた干拓地の道路が明治時代以降に改修されのは、さらに沖に干拓地ができることと、人口の増加が考えられるし、また交通機関の発達も考慮せねばならない。この時代は荷車が通れるような道路にすることが主な狙いだったと思われる。こういう状態がしばらく続き自動車が通るようになるのはもっと後の時代である。

 また、道路の発達と人口増加は関連性は高いのであるが、この周辺の人口が増加するのはもっともっと後のことであるから、この道路改修の主たる狙いは今でいう農道のようなものだったのかもしれない。

 土生新開は江戸時代よりも前の干拓地であるが、江戸時代にさらに東の鼠屋新開ができて、田んぼや畑が増え、最近ほどではないにしても明治時代になってから周辺人口も少しずつ増えていたであろう。そして元の海岸線と土生新開の境目が道路らしくなったのではないかと想像する。そして道路が整備されればさらに家も増えた。




ふるさとの史跡をたずねて(243)

鼠屋新開道路改修記念碑(尾道市因島中庄町新開)

 前回浜床の大正十三年の道路改修記念碑が新開池の道路整備であったが、同様のものが少し東にもある。鼠屋新開にある道路改修記念碑で「本村字自鼠屋新開至油屋新開唐樋道路」と中央に描かれている。

 また左側面には「大正四年八月建之」と描かれており





前回のものと比較すると、干拓地は西から東へと伸びておりながら、道路改修費は東側の方が少し早いということになる。普通なら干拓地が沖へ沖へと伸びれば、それを追うように人が移動するのであるが、ここでは逆転しており、興味深い。


 これは中庄湾を挟んで存在していた中庄村と大浜村が鼠屋新開、油屋新開によって、結ばれたことによる経済効果の表れではないかと思われる。その一つは大浜村からの移住者が多かったのではなかろうか。この近くに村境があり、村境内であれば同じ村内の移動であったから他村への移住というほどの抵抗はなかったと思う。それに峠を越えれば近い。現代人の感覚とは異なると思えばよい。


 現地の方のファミリーヒストリーをお聞きしたわけではなく、あくまでも私個人の想像ではあるが。



ふるさとの史跡をたずねて(244)

 旅順戦勝記念埋立地碑(尾道市因島中庄町徳永)

 因島中庄町徳永の入川橋の所は、164回でも少し書いたが、4歳の私が昭和30年に何回か訪れており、それより古い記憶はほとんどないので、私の最古の記憶を甦らせる特別の地である。

 そこには多くの石碑があるのだが、今回は川べりにある旅順戦勝記念埋立地碑という珍しい石碑について紹介するが、正面に書かれた文字(写真)を解釈するのは難しい。




明治38年1月2日の旅順開城の勝利を記念するということと埋立が決議されたことが書かれている。そして39年4月にこの石碑を建てた。

 戦勝記念と言ってもまだ日露戦争が終わったわけではない。有名な日本海海戦に勝利するのは明治38年の5月末である。バルト海を明治37年10月に出港したバルチック艦隊が到着する前に、難攻不落の旅順要塞を落とし、旅順港を押さえておくことが至上命令だった。

 苦戦を重ねたが1月1日にロシア軍が降伏を申し入れ、2日に戦闘は中止された。この勝利で戦況に希望が見えてきたわけだ。旅順港を支配下に置いたということを祝して、入川港の一部の埋立工事に着手し、翌年5月に竣工してこの石碑を建てたということだろう。

 裏面には亀山峰樹二代目村長のほか助役、収入役、書記、村会議員12名の名前が記されている(写真)。



 おそらく、この石碑はその埋立地にあったものが、後にここへ移されたものだろう。



ふるさとの史跡をたずねて(245)

入川橋寄付碑(尾道市因島中庄町徳永)

 前回の旅順戦勝記念埋立地碑の隣に入川橋寄付碑がある。中央に「入川橋寄付者」とあり、その両側に宮地知輿(与)市、村上竹吉の二人の名前が大きく書かれている。そして周囲に60数名の人名がやや小さく書かれている。金額などは書かれていないのだから、なぜこの二人だけか大きな字で書かれているのかわからなかった。

 右(北)面に「人夫村中 大正三年十二月 寄付者世話人席順抽籤」とあり、世話人5名の名もある。

 ということは大きな文字の二人を含めて籤(くじ)引により決めて、全員の氏名を記したようだ。二人だけ大きな文字になっているが、これはバランス上そうしただけなのかもしれない。

 上記のことから大正三年十二月に入川橋が架設されたことがわかる。毎年のように各地で道路改修が行われているが、自動車が出始めるのはまた後のことだから、荷車の普及が急成長していたのではないかと思う。道路改修というと道幅の拡張が主となるのだが、荷車が普及すれば山道や峠道を避けて、多少遠回りになっても、段差のない道が要求されたことであろう。また新開池の活用が広がるとともに道路網の整備が必要となり、河川に架かる橋が沖へと増えていくのも必然だった。



資料

右(北)面「人夫村中 大正三年十二月 寄付者世話人席順抽籤 世話人 村上竹吉 横山直三郎 村上卯太郎 小林佐吉 横山開治」


ふるさとの史跡をたずねて(246)

           写真・文 柏原林造

電燈寄付票碑(尾道市因島中庄町徳永)

 前回の入川橋寄付碑のさらに右側(北側)に「電燈寄付票」と書かれた石碑がある。



表面には寄付額に応じて三段に分かれて氏名が書かれている。上段が近40円から20円で金額と氏名。中段が「金拾円宛」の氏名、下段が「金五円宛」の氏名である。

 左面(南面)に「大正十年七月寄付 電燈建設及基金積立」とあるから電気事業が始まった頃のものである。



『因島市史』等によると、大正4年6月因島電気株式会社が創立されて、田熊町の扇屋新開に発電所が置かれた。はじめは30kwの発電機で田熊、三庄、土生長崎から供給が開始され、その後発電機を増設し、大正5年頃に中庄、重井と各村へ拡張された。

 石碑との年代のズレはどう解釈したらよいのだろうか。単純に考えると、中庄村への給電の拡張には地元負担が要求され、大正10年7月頃から中庄村の大部分で電燈の使用が可能となった。そしてそれ以前には、ごく一部で中庄村でも使用が可能だったということだろうか。


資料

左(南)面「大正七年寄附 電燈建設及基金積立 発起者 世話人 小林佐吉 横山開治 村上卯太郎 村上和三郎? 田頭悌□郎」 



ふるさとの史跡をたずねて(247)

奥古江油屋新開道路改修碑(尾道市因島中庄町新開)

 丸池の東側に島四国8番熊谷寺がある。その隣にも道路改修碑がある。最上部は右から横書きで「特別寄付者」とある。その中央の下に「字」とあり、その下に2行にわたって「自奥古江」「至油屋新開」、そして1行で「道路改修之碑」と書かれている。



 それぞれの字(あざ)は広いからどこを改修道路の起点と考えるかは、石碑だけからでは難しい。

 しかし、242回の升浜道路改修碑、243回の鼠屋新開道路改修碑の工事と接するのではなかろうか。特に後者は大正4年8月で、今回のは右面に大正3年10月とあるから、その関連性は高い。



 大正3年は1914年であるから、百年以上も前の話で、道路そのものもその後拡張されたり直線になったりしているだろうから、当時のことを想像するのは難しいが、広大な干拓地の発展の歴史が伺える貴重な石碑である。 

 なお左面(南面)には「関係反別五町三反六畝七歩」とあるが、風化して読みにくい。


ふるさとの史跡をたずねて(248)

警鐘台・敷地等寄付碑(尾道市因島中庄町新開)

 私の世代では半鐘台、一世代前の言葉では警鐘台と呼ばれた施設は、地域の安全は地域で守るしかなかった時代を象徴するものであったが、現在は多くの地域で撤去され人々の記憶から遠ざかった。

 因島中庄町浜床の石碑の前から新開の丸池へ向かうと、途中の三叉路の近くに、かつて半鐘台があったことを示す石碑があった。



 右側の石碑には警鐘台、警鐘、敷地の寄付者、世話人の名前が書かれており、大正14年8月に建てられたものである。また「人夫新開組中」とあり、地元の方が設置作業に協力したことがわかる。

 その左の石碑には「消防喞筒一台 喞筒倉庫 敷地」の寄付者、世話人の名前が書かれていて、昭和6年4月に建てられている。「喞筒」の漢字の読める人は多くない。消防ホースの先端のノズルが想像されるが、それだけでは石碑に記すこともあるまい。「喞筒」はポンプのことである。もちろんポンプだけでは消火活動はできない。ホースとノズルのついた一式だったのだろう。

 昭和6年の消防ポンプがどのようなものだったか知らないが、おそらく車輪のついた人力ポンプで荷車の上に載せたような格好をしていたのではないかと想像する。

 それはともかく警鐘台も消防ポンプも中庄村の事業ではなく、地元住民の篤志によって設置されたことがわかる。


ふるさとの史跡をたずねて(249)

ガソリンポンプ等寄付碑(尾道市因島重井町公民館)

 前回の消防喞筒(ポンプ)は人力ポンプだと思うが、昭和4年にはガソリンポンプもあったことがわかる石碑が重井公民館の東側駐車場の入口にある。



 昭和4年12月に建てられたもので、中央に「ガソリン喞筒及警鐘台寄付録」と書かれている。その隣には「一、金千円村費補助」「一、金千七百五十円寄付」とあり、寄付者は百円が12名、五十円が11名で合計金額と合う。石碑にはさらに、消防旗の寄付者一名と世話人6名の名前が記されている。

 昭和4年にガソリンポンプを購入したのは画期的なことであったのだろうが、これは村で唯一のもので、村内のそれぞれの地区には、人力の消防ポンプが設置されていたものだと思う。というのは昭和30年頃に、私はその人力の消防ポンプの一つを見たことがあり、その後ガソリンポンプに変わっていったのか、それが最後だったからである。

 その昭和4年に購入したガソリンポンプは見たことはないが、この時建てられた警鐘台というのは、善興寺参道の東側、現在の東側の駐車場にあって、小学生の頃よく見ていた半鐘台のことだろう。私の記憶では時報や災害時のサイレンが上についていたと思う。多少は補修されたものであろうが、昭和4年に建てられたものだと思っている。が、今は存在しない。

ふるさとの史跡をたずねて(250)

光平線道路改修記念碑(尾道市因島中庄町)

 因島消防署から大山トンネルへ向かう県道120号線の左手に写真のような大きな石碑があるが車を運転していたら見る暇はないと思う。青影山への登山口にある仙境地蔵菩薩堂の県道を隔てて反対側である。



 中央に縦書きで「中庄村光平線道路改修記念碑」と書かれている。登山道が東から西へまっすくに上がって行く。この道路のことであろう。上面には右から「皇儲御成婚記念 大正十三年竣工」と二段にわたって書かれている。「皇儲」というのは、難しい。消防喞筒も苦労したが、今回はさらに難しい。皇太子御成婚記念という意味だろうが、右から2番目の文字は「太子」とは読めない。解読した手続きは長くなるので結論だけ書くと「こうちょ」と読んで天皇のよつぎ、皇嗣、皇太子のことである。

 所在地も光平区か山口区か大江区かわからない。三地区の境界付近であり、地図だけではどちらに属するのかわからない。


   (写真・文 柏原林造)


➡️ブーメランのように(文学散歩)