2019年11月22日金曜日

ふるさとの史跡をたずねて   第151-160回

ふるさとの史跡をたずねて(151)

粟島神社(因島田熊町八幡神社)

 三庄町から因島モールへの近道が妙泰越えで、對潮院の墓地横に妙泰神社がある。女性の願いごとならなんでも叶うというご利益が妙泰神社にはあると以前に書いたし、また三庄町地蔵鼻の鼻の地蔵さんにも同じようなご利益があるということも既に書いた。妙泰夫人は、因島村上氏来島前の釣島箱崎浦の戦いで死んだ。鼻の地蔵さんにまつわる話には、吉充の名前が見え隠れするから、因島村上氏の時代の終わり頃のことである。ならば、鼻の地蔵さんが、妙泰神社にあやかったのかというと、そのご利益がいつごろから言われだしたものか、わからないから、どちらが先だとか言うことはできない。

 妙泰神社も鼻の地蔵さんも因島独自のものだから、二つを並べてみるだけでは議論は進まない。そこで全国的なもので似たようなものがないかと探していると、人形供養で有名な粟島神社があった。そこのご利益の一つに、女性の悩み事ならなんでも解決してもらえるというのがあった。こういう話は進化変貌するものだから、同種のご利益と考えて、因島にも粟島神社があるのか、と探した。『ふるさと三庄』には「三庄の神さまと仏さま」の項に「粟島さん(淡島)」と書いているが、場所は書いていない。知人に尋ねると、知らないが地蔵鼻のことでは、という答えが返ってきた。

 現在は福山市になっている沼隈町の『沼隈町誌』に、昭和30年代までは、子安講で春と秋に因島の新四国の子安さんに参っていたとある。子安講は四国の香園寺の発明品であるから、島四国では田熊浄土寺にある61番香園寺のことであろうが、番外札所「鼻地蔵」も子安さんと呼ばれていたそうである。ということで女性のことなら何でも鼻の地蔵さんに頼むのなら、あえて粟島さんを祀る必要はないだろうと言いたくなるが、そこが庶民信仰の不思議なところである。

 また大雨のたびにお参りできなくなるのであれば、リスク分散は必要で、田熊町八幡神社に粟島さんが祀られているのはそれなりに意味があるだろう。






ふるさとの史跡をたずねて(152)

           写真・文 柏原林造

高良社(因島重井町伊浜八幡神社)


 あの有名な『徒然草』の中でも特に有名な52段は「仁和寺(にんなじ)にある法師、年よるまで石清水(いはしみず)を拝まざりければ、心うく覚えて、ある時思ひたちて、ただひとり、徒歩(かち)よりまうでけり。極楽寺、高良(かうら)などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。」・・という話である。すなわち、男山の石清水八幡宮に参るつもりで、その付属のお寺・神社だけを拝んで、ありがたがって帰ったという滑稽譚である。

 仁和寺というのは、多くの方が毎朝血圧を測っている電子血圧計のオムロンでおなじみの御室御所のことである。そこの坊主の失敗談を書いたものであるから、時代によっては不敬罪に問われかねない話である。蛇足ながら、しだれ桜でも有名であり、また四国霊場にも散見する真言宗御室派の総本山でもある。そういう有名な権威あるお寺にも、こんな間抜けな坊主もいるよ、というのがこの話の面白さである。

 さて、この高良、すなわち高良神社であるが、重井町の八幡神社の境内にもあった。本殿南側の境内神社のうち、本殿に一番近い小祠である。高良社と呼んでおり、武内宿禰を祀っている。武内宿禰は神功皇后の功臣であるから、神功皇后を祀っている八幡神社に高良社があるのは当然だし、神々の体系もよくできていると感心させられる。

 それでは男山の石清水八幡宮についで有名な鎌倉の鶴岡八幡宮ではどうなのだろうかと思って調べてみると、こちらには武内社というのがある。しかし、これは同じものだろうと想像できるから良いとしよう。だが、中には高良社と武内社の両方を祀っている神社があるのには驚いた。伝承が伝播する間に混線が起こったのだろうか。

 さて、このような武内宿禰とはどのような人なのであろうか。武内宿禰は第12代から第16代まで5代の各天皇(景行・成務・仲哀・応神・仁徳)に仕えたというから、なかなかの長命であった。神話の世界ならありうることだろう。



ふるさとの史跡をたずねて(153)

           写真・文 柏原林造

松尾神社(因島田熊町八幡神社)


 重井八幡神社の境内神社を一つずつ書いていく予定であった。そして次は松尾神社の予定で、そのつもりで時々要点を頭の中で数えていたとき、突然田熊町の亀甲山八幡神社にも松尾神社があったことを思い出した。どちらを書いても違いがないようなので、今回は田熊町の写真を揚げる。しかし、前回書いたような次第で八幡神社に高良神社があるのはわかるのだが、ともに松尾神社があるわけは、今の私の知識ではわからない。

 境内神社ができる理由には次のようなパターンがあると思う。ひとつめは、本社を勧請したとき、摂社なり末社も一緒に勧請した場合。次は、近くに面倒を見る人がいなくなったお宮があって、そのお世話をしているうちにいっそうのこと引き取って、手厚く祀ったという場合。三つめは、氏子の側から、幾らかの祭祀料をつけて奉納される場合。このタイプが多いのではなかろうか。松尾神社もこれに属すると思う。そして最後は、祭祀料も払わず勝手に祀られてしまう場合。これは、管理を持て余して捨てられた場合と結果としては同じことである。

 さて、三つめの場合は、さらに二つに分類できる。ひとつは自分たちだけがご利益にあずかるもの。もうひとつは、他の人たちもご利益にあずかることもねがっているもの。ほとんどが後者である。

 では、酒の神様である松尾神社の場合はどう考えればよいのであろうか。おそらく酒造業者らによって奉納されたものであろう。そして、それ以外の人には関係ないと思う。そういえば、この連載の初めの頃紹介した鍛冶神社というのがあった。このように職能集団の守り神の場合は、門外漢にはご利益はなさそうである。ところが根源を大地の神に還元すると、そこから豊饒・多産、ひいては子授け・家内繁盛とご利益は拡大解釈できるのである。

 ここまで書いてきて神社の成り立ちも猫の運命と似ているのに気がついた。ひとつめは、親猫を拾ってきたら、子猫がついてきた。次は捨て猫を拾ってくる。三つ目は持参金付きで子猫をいただいた。最後は、捨て猫をほうりこまれた、という具合だ。神もペットも本来主体である人間が、その従属物として誂えたものが、やがて人間と同等あるいはそれ以上の価値を持ち出したところも似ている。

 さて、松尾神社の起源は、穀物神で稲荷神社の祭神でもある宇賀之魂とともに、渡来人の秦氏が守護神として祀ったものだった。それらは故国の神ではなく在地の神であったところが秦氏のすごいところだ。いずれも秦氏の繁栄とともに庶民にも広まった。





ふるさとの史跡をたずねて(154)

           写真・文 柏原林造

生眼八幡宮(因島重井町八幡神社)

 重井町伊浜の八幡神社の境内神社の一つに生眼八幡宮という珍しい名前の小祠がある。生眼は活眼のことで、眼病平癒のご利益があることはいうまでもない。眼病平癒といえば、西国三十三観音の6番壺阪寺(南法華寺)が有名だ。

 壺阪寺は桜で名高い吉野町に近いから、近鉄吉野線の壺阪山駅からタクシーで行った。そこでタクシーには待っていてもらい、次の7番岡寺に向かえば明日香村だから、後はレンタサイクルが利用できる。

 壺阪寺には谷から飛び降りたら目が見えるようになったという「壷坂霊験記」があり、そこの観音様は眼病に霊験あらたかなそうである。

 壺阪寺が遠いと思われたら、こちらがおすすめだ。白滝山の釈迦三尊像の前、西側に、パンフレットには千手観音としか書いていないが、山城国揚谷観音様が安置されている。揚谷観音様のご利益に加えて、伝六さんをはじめとする多くの石仏のご加護がありそうである。それに、輝くばかりの瀬戸の陽光がたのもしい。特に青葉の頃が最高だ。信仰心のない私でも、目が良くなったような気持ちになる。

 このようなことを延々と書いていると、加持祈祷、願掛け、ご利益などは迷信だと笑われる方も多いと思う。私もそう思う。しかし、そのようなものが、それぞれの時代における病者から苦痛を取り除く最大の方法であり、最大の治療法であり、また予防法であったという視点を忘れたら、歴史は見えてこない。

 それと江戸時代というのは、このような様々な庶民信仰の泡粒が小さな渦となった時代であった。その小さな渦が集まって白滝山の石造物になるのである。神道、仏教、儒教にキリスト教を加えて一観教を作ったなどと、いつまでも訳のわからないことを言っていても埒はあかない。

 路傍の小さな石仏や、神社の樹下にひっそりと佇む境内神社は庶民信仰の証人に他ならない。

 さて、生眼八幡宮の祭神は品陀和気命(ほんだわけのみこと)(応神天皇)ということであるから、本社・八幡神社の祭神と一致する。





ふるさとの史跡をたずねて(155)

           写真・文 柏原林造

白滝龍王社(因島重井町八幡神社)


 前回の生眼八幡宮の写真の左上に写っているのが白滝龍王社である。重井町の伊浜八幡神社の境内神社は本殿の左右に拝殿と同じ西向きに建っているのに、この白滝龍王社のみが南東を向いている。これは白滝山の方角であり、白滝山に棲む龍王の方を向いているということであろうか。

 しかし白滝山には、龍王さまはいらっしゃらない。何故ならば白滝山には滝はないからだ。白滝山とは言うが、この滝の字から水の流れる滝を連想するのは間違いである。タキという音を表すに過ぎない。タキは御嶽さんのタケの西日本バージョンであり、崖をあらわす。椋浦町に白嶽の鼻(しらたきのはな)があることは、以前にも書いた。

 四国霊場の21番太龍寺は、弘法大師が修行されたところで「阿国大瀧嶽」と書かれているが、大瀧だけですでに大きな嶽(タケ、タキ、ガケ)を表しているのではないかと、ロープウエイで、狼の置物を置いている険しい崖を見ながら思った。全貌を知らないのでそう思うだけである。大きな山だから滝の一つぐらいはあるかもしれないが。

 重井町でも大雨が降ったとき岩の上を白い滝のように水が流れるから白滝山と呼ぶのだと思っている人は多い。しかし、誰一人として、そんなものを見た人はいない。昨年の7月豪雨の時も、見られなかった。もし、そのようなものが見られる時は、山頂が石仏ごと崩壊して二度と再建はできないだろう。

 ということで、ここに白滝龍王社があるのは、白滝山のタキを水の流れる滝だと解する誤解に基づくものだと思われるが、白滝山でも雨乞いがなされたことがあるので、雨乞いのために八大龍王を祀ってあると考えれば、問題はない。

 八大龍王といえば、鎌倉幕府3代将軍の右大臣実朝歌集「金槐和歌集」に、時により過ぐれば民のなげきなり 八大龍王雨やめたまへという有名な歌が歌集の最後にある。

 雨乞いの機会は減った。大雨の方が多い昨今だから、万葉集が好きだった悲劇の将軍にならって、八大龍王雨やめたまへ、と大雨の時には祈るのがよいだろう。





ふるさとの史跡をたずねて(156)         
金神社(因島重井町八幡神社)
 金神社については前から知っていた。多くの解説書が難しい神でおろそかにすると祟りがあると書いていたので、高知県の犬神信仰のようなものだと思っていた。
 白滝山と柏原伝六について考える上で、ほぼ同じ時期で地域的にも近い岡山県の黒住教と金光教の成立は無視できない。黒住教を始めた黒住宗忠は、伝六と年齢的に近いが神官の家に生まれ武士階級であったから条件が異なる。一方、金光教は伝六より少し後になるが農村で発生しているところは、条件的には似ている。
 その金光教が金神(こんじん)信仰が元になっていることは、驚きだった。金神社は土生町や中庄町にあったが、重井町の八幡神社の境内にもあったのを知った時は更に驚いた。

 金神は方位神で、干支によって決まる避けるべき方位を守らなければ、この神の激怒に触れ一家7人が殺され、不足の時は近隣に及ぶというものであった。だから、金神社はその神の怒りを鎮めるために祀ったものであろうか。
 方位に関する迷信と呼ばれるようなものであるが、今でも家を建てる時など、色々方位のことを言う人がいる。金神信仰の名残であろう。だから平安時代の「方違え」だけでなく、生活の多くに方位信仰は広く知られて、一部は堅く守られていたのではなかろうか。現に金光教が誕生したとき、そのような旧来の考えを除き、欲心を去って家業に励み、神に信心すれば神も味方すると説いた時、山伏などから抵抗されたという。このように、金光教は合理的な宗教で政治とも一線を引いていたが、周知のように信教の自由が保障されるのは戦後の日本国憲法以降のことであるから、それまでに数々の変容があったに違いない。
 そう考えると伝六の説いたことが宗教として継続されていたとしても、そのままでは存続できたとは思われない。 


ふるさとの史跡をたずねて(157)

           写真・文 柏原林造

島四国碑(因島田熊町浄土寺)

 さて、次は大師信仰について考えたい。これは現在も続いていると考えてよいだろうから、時代的には少し後になるが島四国から話を始めるのがわかりやすいだろう。一頃のにぎわいはないものの、島四国八十八ケ所は地域の人たちによって守られており、現在の大師信仰の中心になっている。その島四国は明治の末年に設置されたが、それ以前から大師信仰は広く行われており、また弘法大師伝説も存在する。

 弘法大師伝説はその歴史の追跡は簡単ではないが大師信仰は具体例を挙げることができるだろう。

 三庄老青会連合会発行の『ふるさと三庄』(昭和59年)には「明治45年(1912)因島重井の大師講連中の発起で島内八十八ケ所に堂宇を設立し、大師入寂の旧3月21日を期して巡拝を始めたのが始まりである」と記されているが、それを具体的に進めたのは田熊の岡野重兵衛氏である。そのことを示すように田熊町浄土寺に島四国八十八ケ所の開設記念碑がある。

 その一つに賛助員を書いた碑がある。(写真)再下段の右端に重井村として最初に「末廣講中」と記されている。このことは上記引用の「大師講連中」の具体名が末広講だったことを表している。

 すなわち「大師講」という言葉は、ある特定の大師講を表す固有名詞の場合と、末広講とか鶴亀講などの名称をもつ大師信仰を基にした講一般を表す場合がある。ここでいう大師信仰は言うまでもなく弘法大師信仰で四国八十八ケ所に関する講である。

 その大師講にも四国八十八ケ所巡拝を目的としたものもあれば、そうでないものもある。前者にも、講の全員で参拝する総参講と代表者が参拝する代参講がある。

 四国八十八ケ所の巡拝はしないものの、年に一度会食をしておれば、講と考えてよいだろう。これらもかつては参拝はしていたが、現在は年に一度の会食だけというパターンもあって、簡単にパターン分けできないものもある。


 




ふるさとの史跡をたずねて(158)

           写真・文 柏原林造

末広講の碑(因島重井町善興寺)

 重井町の善興寺の中には善通寺があった。これは、子供にとっては不思議なことだった。島内の各寺院の多くにもそれぞれ島四国の札所があるから事情は似たようなものであろう。境内神社の場合は神様がいろいろおられるのだろうと思えば、不思議はないが、お寺の中にお寺があるというのは、やはり子供の常識では理解できないことであろう。

 その善通寺の境内に末広講の石碑があった。善通寺も石碑も昨年の7月豪雨で倒壊した。写真はそれ以前のものである。石碑には次のように書かれていた。

奉納四國中霊場 當村末廣講五百七人 願主村上貞兵衛 丁弘化四年 未三月吉日」。その他、建立世話方、取締方などの人名もある。また、「昭和七年三月建之 現住 道貫代」とある。このことは何を意味するのであろうか。石碑そのものは昭和7年に建てられたのは間違いない。

 私は、昭和7年に建立世話方の人たちが中心になって、この石碑を新しく建て、その時弘化四年時の設立時の役員名を記したのが、取締方の氏名であると考える。そのように考えると、建立世話方、「昭和七年三月建之 現住 道貫代」以外は、昭和7年に伝わっていた、弘化四年の末廣講の状況が記されたものだと考えてよい。

 よって、末広講は村上貞兵衛氏が発起人となって弘化四年に作られ、講員が五百七人いたということがわかる。弘化四年は1847年である。それから島四国の設立を呼びかけたのが明治末年であるから、明治44年とすると1911年で60年以上後のことになる。第二世代、あるいは第三世代の人もいたかもしれない。

 こういう石碑が島四国善通寺の境内にあったわけである。75番善通寺は周知のように弘法大師空海の生誕の地ということで

別格であり、島四国設置にあたり特にこの地に定め、重井村の大師信仰の中心となっていた。四国遍路姿のブロンズ像2体が墓参者を迎え、多くの人が善通寺にもお参りした。





ふるさとの史跡をたずねて(159)

           写真・文 柏原林造

鶴亀講の碑(因島中庄町金蓮寺)

 末広講に続けて、鶴亀講の話である。こうして並べて書いてみると、プラモデルを作っていた頃を思い出す。調べてみると、瑞鳳とか鳳翔、翔鶴、祥鳳などというのは空母(航空母艦)の名前だったらしい。大和、武蔵などの国の名前から始まって、山や川、それに朝霧、八雲、叢雲などという気象用語まででてくる。何でもない言葉が船の名前になると急にかっこよくなる。それに鳳翔、翔鶴、祥鳳などを使うとさらに楽しい。

 弘化4年(一八四七)に始めた大師講に鶴亀講という名前をつけたのも、悪くない。四国霊場等へお参りすれば家は栄え、幸せがやってくるというようなイメージを与えたことであろう。あるいはそういう願いがこもっていたと考えるべきであろうか。

 こうして見ると昨今の元号や団体名にこういう字が使われないのは欲が無さすぎるように思える。もっとも、画数が多くて手書きには時間がかかって嫌われそうではあるが。

 さて、金蓮寺の山門を入ってすぐに左側を振り返ると、鶴亀講の碑がある。(写真)それには、中庄村の松浦滎吉さんが弘化4年に作り、四百人もの会員がいたことが書かれている。また、寄付金で田畑を買い、それから得られるお金で年に数人ずつ籤(くじ)で選ばれた人が、伊勢神宮、永平寺、四国霊場へお参りしたことも記されている。

 鶴亀講を手本に、すぐに重井村でも同じような講が作られた。それが弘化4年の春というから、中庄村ではもっと早くから動きがあったものと考えられる。

 重井村の講は嘉永4年(一八五一)に末廣講と名称を変えている。それまでは弐(二)百人講と呼んでいたのだろう。二百名を超えたので名称を変え、慶応三年(一八六七)には四百名を超えた。両村とも四百名を超える団体になっているのだから、庶民の要求にあっていたのだろう。そして何よりも村社会が安定していたということがよくわかる。





ふるさとの史跡をたずねて(160)

           写真・文 柏原林造

弘法大師立像(因島重井町白滝山)

 末広講、鶴亀講と書いてきたので、次は当然のこととして弘法大師空海の立像である。場所は重井町の白滝山の一番高い所。

 白滝山の主な石仏はほとんどが北を向いている。例えば、弘法大師空海が中央に座っている三大師坐像も北を向いている。これは向かって左が達磨大師、右が道元承陽大師で地元のお寺の曹洞宗に関したもの。不思議なことであるが、こういうものも含めて白滝山の石仏群は五百羅漢と呼ばれている。

 これらは北から登ってくるので、そちらを正面として設計したからだろう。勿論、釈迦三尊像周辺のように、その周囲に並んでいるものは当然各方面を向いているが、それらはたいてい小さな羅漢さんなどだから、話は別である。そんな中で、弘法大師立像は南を向いている。誰が言い出したのか知らないが、故郷の四国を向いておられるということである。私もそのように思っているのだが、この機会に考えてみると、ちょっとおかしい。

 言うまでもなく弘法大師空海は高野山に真言密教の道場を開いて、そこで入定された。そして「弘法大師は高野の御山にまだおわします」と信じられてきた。だから、同行二人の身近な弘法大師を考えて庶民流に故郷を向いていると考えるのもよいが、やはり宗教界の偉人として尊敬するのであれば、高野山の方を向かせてあげるべきだった、ということになる。

 ということで、結果として故郷の方を向いているだけで、本当の意味は、ここが四国霊場の代わりをする霊場で、当然四国側が正面になっていたということであろう。

 南向きの問題はこれくらいにして、次は台座の文字に移ろう。台座には「天保三年壬辰初夏日 當所摂待講中」と彫られている。天保三年は一八三二年で、白滝山の石仏工事が完成したのは文政13年(一八三〇)であるから、ほぼ同時期である。このことと、その工事期間中に弘法大師坐像を含む三大師坐像も作られているから、白滝山五百羅漢と弘法大師信仰が互いに対立するものではなかったことがわかる。





(写真・文 柏原林造)