2021年11月2日火曜日

尾道新聞寄稿

①  因島図書館の古文書講座


 尾道市立因島図書館では毎月第四木曜日、午前10時15分から12時まで、尾道学古文書担当の半田堅二さんを講師に古文書講座・古文書で知る因島を開いている(写真)。

 江戸時代に書かれたものを近世文書と呼ぶ。近世文書には大きく分けて武家文書と村方文書がある。村方文書は庄屋文書とも呼ばれ、行政文書を書き写しては次に廻すというような時代だったので、その控えが全国に多数残っている。

 因島では割庄屋を長く勤めた竹之内宮地家の文書が残っていて、毎回解読・解説されている。ある地方を代表する庄屋を広島藩では割庄屋というが、福山藩では大庄屋といった。

 村上水軍時代の第二家老稲井家から第四家老の宮地家に養子に行った子孫が、江戸時代に大土生宮地家となり土生村の庄屋を勤めた。その分家が竹之内宮地家で三庄村で割庄屋となった。稲井家は新田義貞の弟脇屋義助の子孫で新田党である。宮地氏は吉和の鳴滝城の元城主であった。

 このように古文書そのものにも長い長い歴史が込められているが、内容も頗る興味深く、シーボルト事件の発端となった台風の被害を因島の船も受けたとか、伊能忠敬が日本地図作成のために来島したとき、多数の船や人が動員され、重井村と三庄村に宿泊したことなども出てきた。 

 また、2月の講座では因島重井町の白滝山五百羅漢の開祖柏原伝六の思想を伝える観音和讃の写本の一部が、変体仮名の学習用に紹介された。現行のひらがな以外で、ひらがなを表現した字が変体仮名である。向島の古名歌島を変体仮名で宇多之島などと表記してあっても音を表しているに過ぎず、漢字の意味を考えると誤解となることなどが解説された。




②重井中学校の卒業式

 地域の学校を守る25名 15の春



 3月10日(日曜日)因島重井町の市立重井中学校(中尾和彦校長)で第72回卒業式があった。男子13名、女子12名の25名が「みどり濃き白滝の根に そそりたつ われらが母校」と校歌で歌った母校を巣立った。

 現在の公立中学校は昭和22年に新しく義務教育校として、3学年揃って全国一斉に始まった。地域によって設立時期の違う初期の小学校とは異なる点である。しかし、校舎よりも制度が先にでき、おまけに以前より義務教育が1年延長されたので、多くの中学校が小学校の空教室や粗末な仮設教室でスタートした。

 重井中学校でも最初の1年生が卒業間近になって、現在の地に完成した新校舎へ移った。433名の全生徒が自分の机と椅子をもって引越しをした。長い列が現在重井小学校のあるところから、中学校へと続いた。昭和25年2月15日のことである。その時の生徒は、のちに「あの時のうれしさは、とうてい忘れることが出来ないのです」と記している。

 その後の歴史を孫の世代が受け継いで、2代目となる校舎を守っている。しかも、全国を吹き荒れる統廃合の嵐の中で。因島では6校でスタートしたが、現在はその半分になっている。

 現在の学校の統廃合は子供がいないのではなく、行かないことによる。小学校を選ぶのは、おそらく保護者であろう。それに対して中学校を選ぶのは生徒本人である。だから、子供が減った現在では、中学校の存亡の鍵は生徒一人一人が握っているという事実と、その責任の重さは以前の比ではない。

 そしてまた在学中は、学校の魅力と自分たちの満足度を、後輩となるべき小学生にアピールし続けなければならないという大役も背負っている。とはいえ昼間はそれぞれ別のところで、別々の学校生活を送っているのであるから、その機会は限られている。まさに「日頃の成果」を瞬時に発揮しなければならない。そのためにはまた、「日頃の研鑽」がいかに大切であるかはいうまでもない。

 重井中学校の卒業生25名は、このような現代における中学生の「社会的役割」を自覚し、成し遂げたという自信に満ちた表情で、3年間過ごした学び舎を後にした。そして、それぞれの進路に向かって歩き始めた早春である。



③耕三寺桜まつり 

 過去への旅と未来の心


 瀬戸田町の耕三寺博物館で3月27日(水)から4月7日(日)まで桜まつりがある。

 あの、西の日光耕三寺である。小さいころ何度か行ったが、最近はご無沙汰・・・という方が多いことだと思う。そして、今はどうなっているのだろうかと、思っている方も。そういう方は是非この機会に訪ね、過去の記憶と対面してみてはいかかだろうか。

 どこかのお寺(実は室生寺)を摸した五重塔、日光陽明門の複製である孝養門など、本物は見たことがなかったが、極彩色の建物は大きく、中央の池を泳ぐ錦鯉やきれいに掃き清められた境内は、極楽というのはこのようなものかと、幼心に思ったものである。

 それらの建築群の色が少し褪せているのは、それだけこちらも齢を重ねたということだろう。またあの頃より少し小さく見えたのは、やはりこちらが大きくなったのだから仕方がない。

 そして訪ねるたびに新しいものができ、たえず進化していたあの頃を懐かしく思い出した。千仏洞地獄狭と呼ばれる地下道は、そんなものの一つである。だから、今もあるかなと一番期待したのはそこだった。・・ほとんどそのまま残っているのが驚きだった。

 その千仏洞を出たところで、大きな観音様を回ると「未来心の丘」(写真)がある。世羅郡甲山町(現世羅町)ご出身の杭谷一東さんの大作で、あの頃にはなかった。現代の耕三寺の顔だ。総重量三千トンの大理石の原産地は、杭谷さんのアトリエのあるイタリア・カッラーラで、古代から著名な白大理石の産地である。瀬戸内の陽光に輝く白亜の大理石を見ていると、瀬戸内の光が地中海の光のように思われる。

 明治以降の日本人が憧れ、追いつき追い越せと目標にしてきた西洋文化の根底には、つねに地中海文明への追憶と憧憬があった。そんな歴史とつながる大理石が東洋の小島に運ばれ、「未来心の丘」と名づけられた。私たちがこの世から去っても、これらの大理石は残り、悠久の時の中で、作者の思いを語り続ける。そして今の私たちは、そんな未来を想像する。また、大理石の性質を知り尽くした作者の思いを感じることができる。

 抹茶の振る舞いなどの催し物。また会期中の土曜日には夜桜開園。入館料(大人1400円、大学生1000円、高校生800円、65歳以上1200円)、中学生以下無料。



④いんのしまさくら祭 

 巨大な鯖大師の前で


 因島土生町のホテルいんのしま前広場で、4月7日(日)午前10時から15時まで「いんのしまさくら祭」が行われる。ひまりや因島水軍太鼓などのステージイベントの他フードブースもある。

 桜だけでなく風景も素晴らしい。さらに、そこの巨大な弘法大師像もこの機会に是非見ていただきたい。

 さて過日の、逃走犯が全国一周の自転車旅行者に扮していたということは、今ではそういう人たちが大して珍しくなくなったことを示している。義経・弁慶の逃避行が勧進聖に扮したという有名な勧進帳の話も、同様に勧進聖の関所越えが珍しくなかったことを示す。なお、弁慶が白紙の勧進帳を読む見せ場は創作だと思うが、もし史実だとすれば、弁慶の前歴を暗示していると考えるのも自然だ。

 高野山を本拠とする勧進聖を特に高野聖と呼んだ。しかし、彼らは身分的には低く都から参詣する貴人たちの応対もできず、真言密教僧らと共に住むこともなく、谷間のお堂などに住んだ。そこがやがてお寺となり、現在の宿坊になっているものもある。

 彼らが自分たちの地位を上げる方法は二つあった。一つは名家の出身である聖を頭領にすることであり、もう一つは自分たちの本拠地である高野山の素晴らしさ、すなわち空海の偉大さを喧伝をすることであった。

 高野聖の歴史は長い。彼らは宗教だけでなく芸能や文芸などにも大きな影響を与えた多才な集団であったから、鉱山関係の才能をもった者もいた。地形から水脈を見つけるのも容易だっただろう。弘法大師の生まれ変わりだと称し、怪しげな呪文を唱え、杖で叩いところを掘らせば水が湧いた。・・こうして全国に弘法清水だの井戸ができた。空海とは縁のない地で。

 そのような高野聖か遊行僧が因島の近島にも立ち寄って伝えたのか、鯖大師伝説が残っている。鯖を乞われて断わり、後で見ると腐っていたという新訳聖書にも出てくるような話で、昔話の典型であろう。

 さて、その鯖大師の話が有名なものだから私も巨大な弘法大師像を鯖大師と呼んで、ブログにもそう書いて喜んでいた。ところが、弘法大師像と鯖大師像は違うというのである。たしかに鯖大師像はお堂の中にあり、鯖を掲げている。

 でも遍路姿の大師も鯖大師も、広告や包装にある「写真はイメージです」のイメージだから、どちらでもいいのではなかろうか。また鯖大師といえば弘法大師しかいないのだから、弘法大師を鯖大師と呼んでも悪くはない。

 せっかくだから、この大きな大師像とご対面してみるのもよいだろう。さらに時間が許せば、少し登って海が見えるところまで行ってみるのもよい。西側の生名島との間が県境である。午後の陽を反射する海面が刻々と変わる。さらに潮が引くと海底の色がさざ波の間に見え隠れする。また、ときおり定期船が通過すると白い波の尾をひき、やがて消えていく。いつまでも飽きない光景に時の経つのも忘れるだろう。



⑤『尾道向島島内 学舎のあゆみ』を読んで

 有道小学校と昭和の青春


 3月23日の本紙で紹介された住田紀恵さんの『尾道向島島内 学舎のあゆみ』を早速3冊求めた。それには以下のような訳がある。

 母親の父、すなわち祖父が有道小学校の校長をしたということは、小さい頃から聞いていた。しかし後年、地図を探してもどこにもなかった。

 祖父と母と、母の兄が向島に住み、母は尾道高等女学校(現・尾道東高等学校)、母の兄は尾道中学校(現・尾道北高等学校)へ通っていた。

 女学校へ因島から船で通っていたとき、帰りは尾道桟橋から乗るが、(おそらくおしゃべりに夢中になったりして)乗り遅れたら駅前桟橋まで走って追いかけたそうである。船が待っていてくれたと言っていたが、出航時刻にゆとりがあったのであろう。その後、祖父の有道小学校への赴任とともに、向島から通った。その時は、母の弟、妹、それに母の母は因島に残っていた。

 数年前、自転車で向島の神社等を訪ねた時、小学校の跡地らしきものに「有道ふれあいセンター」と表札が掲げてあるのを見つけた。残っていた建物の一部や石碑などから、ここが有道小学校の跡地だとわかった。

 少し経って、母と母の弟妹の3人をそこへ案内した。高齢の母は、あまりに変わっているので、どこに住んでいたのかは思い出せない、近所の農家の方がよく野菜などを持ってきてくれた、女学校を卒業して少しだけだが岩子島の小学校へ勤めた時、近所のお婆さんが船で送り迎えしてくれた、と断片的な記憶を語るだけだった。その乗り場も覚えていない。・・・母の若い頃のことを聞きだそうと思ったのが遅すぎたようだ。

 祖父は農家の子弟のための昼間定時制の青年学校を作るために、定年を待たずしてやめた。おそらく有道小学校を最後に。母もその後教職に就くことはなかった。時代は大きく変わろうとしていた。 

 期待したとおり『尾道向島島内 学舎のあゆみ』には二つの小学校のことも取り上げられており、祖父と母のあるいた道を垣間見ることができた。

 さらにまた、その精緻な年表は-それこそがこの本の本領だと思うが-明治以来実に多くの学校が統廃合を続けてきたが、それらを示す優れた方法であることを示していた。これは学校のみならず町村合併史にも使えそうだ。かつて生口島の町村合併を文章で書くのに苦労したが、このように書けばよいのだと思った。これは因島の町村合併でも同様である。

 もうひとつ、閉校・廃校後の学校史を書くのは十日の菊で、味気ないものだが、このようにある地域をまとめて記すとなると、俄然興味が湧いてくることに気づかされた。

 本書に記された各校の歴史は、多くの人たちの記憶を呼び戻し、過去への邂逅を誘発したことだろう。同時に、地域の歴史を記録に留めようとする者には、個人的な感慨のみならず、多くの示唆を与える貴重な労作である。増補、続編を期待したい。



⑥重井小学校の入学式

 伝統校と統廃合


 おりしも島中が満開の桜で彩られていた4月9日(火曜日)、因島重井町の市立重井小学校(植木雅子校長)で第73回入学式があった。男子4名、女子2名の6名の児童が入学し、在校生から熱烈に歓迎された。式後の歓迎のつどいでは、五六年生による第54代トランペット鼓隊57名が校歌などを披露した(写真)。入学児童の減少が懸念される昨今であるだけに、地域住民も安堵したことだろう。

 さて、我が国の近代公教育は「邑(むら)に不学の戸なく家に不学の人なからしめん事を期す」という有名な言葉で象徴される、明治4年8月の「学制」から始まった。それに従い、因島では明治6年4月に重井村善興寺と田熊村浄土寺にそれぞれ、振徳舎、研機舎が設置された。以来、校名は時代とともに変わったが、各町村に学校は建てられ、地域の中心として、また町村民のよリどころとして、文化や生活の発展を牽引してきた。

 御調郡重井村でも小学校は村の中央にあり、児童数の増加とともに、校舎の増改築が行われた。当時の写真を見ると、瀬戸内の一寒村でよくこのように立派な校舎が建てられたものだと驚く。それはそのまま村民の教育に対する熱意の高さを示すものだった。

 そのことは戦後の現在まで連綿と続いている。昭和28年の因島市制の発足により、御調郡重井村から因島市重井町に、さらに最近の尾道市との合併により、尾道市因島重井町になっても変わらない。

 それに応えるかのように、若き教職員を中心に先生方も熱心な教育実践を積み重ねた。例えば、白滝市活動とトランペット鼓隊は、教職員の異動を超えて長く継続されたことを見ても、真に児童のための活動だったことがわかる。

 白滝市活動は昭和28年に因島市が誕生した時、子供たちに市というものを身近に感じてもらおうと、児童会を地元の山の名にちなんで白滝市と名付けて行った一連の児童会活動である。会長を市長、副会長を助役、以下収入役などと称した。また、郵便局、図書館、保健所、科学館、博物館、映画館などのクラブ活動を専門部と称し、専門部と学級の代表から市議会を構成した。

 まことにユニークな活動で、全国誌で取り上げられたり、ラジオや出始めたテレビの取材も多かった。特に児童会長を選ぶ市長選挙は、選挙管理委員会が決めた立会演説会や選挙運動、投票などの日程に沿って行われ、何度もテレビで報道された。

 白滝市活動が始まって十数年して鼓笛隊が創設され、ほどなくトランペットが加わわり、トランペット鼓隊と名を変えた。校内行事はもとより、町内行事等への参加も多く、現在もその活動は続いている。 

 白滝市活動で育った世代はすでに老境に達し、トランペット鼓隊は親子孫と3代が経験した家庭もある。このように学校の伝統が地域の歴史とともに歩んできたことは素晴らしいことであった。

 しかし、これらの素晴らしい伝統が少子化に伴う学校の統廃合にブレーキをかけているのも事実であろう。

 かつて地域から小学校が無くなることを望んだ住民はどこにもいなかったし、これからもどこにもいないであろう。しかし、社会構造の変化は、全国の至るところで多くの町村から小学校を無くし、小学校の学区と町内会が一致していたという幸福な時代は、多くの地域で終焉した。また、過疎先進地でささやかれる「小学校が無くなることは地域から明かりが消えるようなものです」という言葉にも誇張は無いと思う。

 瀬戸内の陽光の下には、いささかの暗雲も見えないが、しかし過疎化は確実に進行している。一部の観光地は活況を呈しているが、そこから少し外れてみれば、野山の荒廃ぶりはもとより、おびただしい空家・廃屋、閉店した商店の剥げかかった看板などが、いやがおうでも目に入る。それらはその島が架橋で結ばれていようといまいと、多少の時期に差があるだけで、やがて訪れる島嶼部の現実である。

 統廃合の問題に戻せば、人口増で学校が狭くなれば、「多くの友達の中で鍛えられてよい」と言い、空き教室が目立つようになれば「ひとりひとりに丁寧な指導ができる」などと言って、問題から目を覆うような態度はやめにしなければならない。そして、子供にとってどうあるのが最もよいのかが議論されなければならない。

 戦後教育で学んだ概念に、民主主義と自由があった。民主主義の方はともかく、自由は家庭の隅々まであまねく浸透した。学校選択も、統廃合までも自由だという。しかし、当事者は自由という名の不自由に直面しているように思えてならない。



⑦因島八十八ケ所のお接待

 甦った平成版村四国の隣で  


 因島だけではなく、しまなみ海道の各島にはいたるところに小さなお寺があって◯番〇〇寺と書いてある。書いてないところもあるが同じ規模のものは、その仲間だと思えばよいだろう。そしてその◯番〇〇寺というのが四国八十八ケ所札所と同名のものもあれば、異なるところもある。またお寺の規模も千差万別である。

 これだけでも相当複雑なことであるので、話を因島に限定しよう。

 これらを区別するために、因島では四国4県を巡るものを「本四国」、島内で完結するものを「島四国」、町内で完結するものを、江戸時代の村の時代に作られたので「村四国」と呼んで区別している。

 一口に言って大師信仰と言うのであろうが、「お大師さん」と言うのは人によって、あるいは会話の相手によって様々な意味で使い分けれらているようだ。例えば弘法大師空海その人を指す場合もあれば、上記の各寺の一つを意味する場合もある。あるいはその全体を言っていることもある。その時は「本四国」か「島四国」か「村四国」か聞き分けないといけない。それらが混線している会話には、参加せずに話題が尽きるのを待つほかない。

 因島の島四国、すなわち因島四国八十八ケ所札所の創建は他の島ほど古くはない。『ふるさと三庄』には、「明治四十五年(一九一二)因島重井の大師講連中の発起で島内八十八ケ所に堂宇を設立し、大師入寂の旧三月二十一日を期して巡拝を始めたのが始まりである」と記されている。

 その「大師講連中」というのが、今となってはどのような団体であったのかは不明であるが、村四国が既にあり何らかの関係があったと考えられなくもない。

 島内では重井村、中庄村、外浦村、田熊村に村四国八十八ケ所札所があり、土生村にもあったと考えられるが実態は不明である。江戸時代に作られたものであり、記録は無く文字も風化しており、また道路改修等で移転されたり撤去されたりして人々の記録から消えかけていたが、各町の文化財協会等によって調査されている。

 因島重井町では文化財協会によって各札所に「重井村四国 ◯番〇〇寺」と書いた石板の設置が完了し、いわば平成版村四国として甦った。また、由来を記した石碑を県道沿の島四国82番根香寺の隣にある村四国4番大日寺の隣に設置した(写真)。

 まもなく、「旧三月二十一日」がやってくる。その4月25日(木)を中心に、島四国札所でお接待が予定されている。町によってはその前日のところもある。開催日のお問い合わせは、(一社)因島観光協会 電話0845-26-6111 まで。



⑧尾道石工と十字架観音像

 白滝山観音まいりに寄せて


 玉抱き狛犬等で知られる尾道石工は、卓越した職人集団であるが、私は芸術家集団だったと思う。芸術家と職人の違いは、アイデンティティ(自己識別)とオリジナリティ(独創性)である。たとえば我々が日々使う茶碗を芸術作品とは呼ばない。しかしそれが少し変わった形をして、作者の名前が記されていれば、人は芸術作品として愛でる。前者は職人、後者は芸術家が製作したものということになる。

 狛犬や鳥居などに「尾道石工◯◯」、「尾道住石工◯◯」等と彫られていれば、尾道石工の作品であることがわかる。それらに個性や独創性が無いわけではない。しかし残念ながら、作者の個性にまで研究が進んでいないのが現状であり、今後の進展が望まれる。

 因島重井町の白滝山五百羅漢は、文政10年(一八二七)から3年3ヶ月かかって650体以上の大小様々な石仏が作られたが、常時約10人の尾道石工が携わっていた。さらに無名の助手・見習い職人もいたことだろう。彼らの指導のもとに素人寄進者によって彫られたと推定される石仏も多い。作善(さぜん)・万人講の考え方であろう。

 芸術的な完成度の高い大作から素人の作った素朴な石仏群が渾然一体として海抜226メートルの山上で、瀬戸内の潮風を受けて200年近くの時を超えて佇んでいる姿は壮観である。

 その中で「十字架観音像」と言われている磨崖仏(写真)は、作者銘(写真右下)は風化して読めないが、尾道石工の作品と考えて間違いはなかろう。

 この観音菩薩が左手に掲げている十字状のものを十字架と考えるためには、背後にキリスト教信仰の存在を確認する必要がある。

 道徳的傾向の強い白滝山五百羅漢の開祖・柏原伝六が当時禁じられていたキリスト教を受容することの矛盾をいかに解決したのか、あるいは仏教的愛(慈愛)、儒教的愛(仁)と、キリスト教的愛(アガペー)をどのように折衷したのか、というような論考もなされておらず、伝六の著作にキリスト教の影響を指摘する人もいない。また、伝六や関係者の遺物に聖書やロザリオなどキリスト教と関連づけられるものは現時点では発見されていない。さらに地元には隠れ切支丹の伝承もない。

 キリスト教文化史学の流儀に従えば、このような状況で「十字架観音像」と呼ぶことは難しい。

 そこで別の可能性として、作者である尾道石工の中にキリスト教関係者がいたという確証が得られれば、十字状のものを十字架と考えることはできるであろう。 

 新緑の瀬戸内の島々は美しい。八合目駐車場から徒歩10分で登ることができる。

 なお、因島白滝公園保勝会主催の白滝山観音まいりが29日(月・祝日)に行われる。9時から山頂で抽選券を受け取り、11時までに山麓の因島フラワーセンターで応募する。重井小学校トランペット鼓隊のアトラクションの後、11時30分から抽選会が行われる。



後記:

これらは「尾道新聞」に掲載されたものです。