2021年11月2日火曜日

温故逍遙 ーブーメランのようにー

 はじめに       ーKのためにー

 魂には魂の帰るべき故郷がある。

 温故逍遙と言うのは史跡巡りを象徴するものだが、もう一つ故郷を巡るという意味もあった。その故郷をさすらう私自身とは別に、私の魂にはまた別の、帰るべき故郷があった。 

 前著『温故逍遙 -海の武士団-』は広い範囲を扱っていたせいか、多くの人に好評で迎えられた。しかし、本書は、極めて個人的な趣味を扱ったものだから、多くの人たちに喜んでもらえる自信はない。せめて同じ時代を生きた友に、かつての夢とパッションを思い起こしていただくよすがとなれば、それに過ぎる喜びはない。

 実存主義といい、ニーチェといい、万葉集といい、それらを私一人で読んでいたのではなく、その時代をともに生きた仲間が常に私の心の片隅にいて一緒に読んでいたのであった。読書というのは、そのような時代の空気によって選ばれた出会いであった。

 こんなものをいい歳をして書いていると、進学先を間違った埋め合わせをしているのだろうと思う方がおられるだろうがそうではないのだ。世の中には相思相愛でも別れる人たちがいるそうだが、私も同様で文学などを専攻していたら、やはり嫌になってしまったと思う。遠くで自分の頭の中だけで思い描いていたから、いつまでも飽きずにこんなことが書けているのである。

 せとうちタイムズ紙連載の「ふるさとの史跡を訪ねて」をまとめた『温故逍遙 -海の武士団-』以下のものが遊びの報告書であるとしたら、本書は勉強の報告書です。と書くと、勉強なんかしてないじゃないか、本を読んだというだけじゃないか! と、反論が出そうですが、その通りなのです。そしてそれで間違っていないのです。私は本を読む以外の勉強を知らないので、本を読むことの報告書が勉強の報告書となるわけです。ただ、今回は予定していたものを全て載せることができなかったので、他はPATⅡのために残しておきましょう。


ニーチェ
 ニーチェについて、一言で言えば、孤独である。それは怪物のような孤独ではなく、誰もがもっている孤独であるが、彼の場合は、それが少し違っていた。とはいえ、孤独などというのは、みんな少しずつ違っているのだから、こんなことを書いてもニーチェについて書いたことにならない。それでは、ニーチェの場合はどうだったかと言えば、人外に対する孤独を社会に対する孤独に還元したということでなかろか。

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