潮音石声(7〜 そのⅠ
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和本の『増補繪抄 和字功過自知録』を読んでみよう。
増補繪抄 和字功過自知録 再板 全部 壱冊
和字功過自知録敍
潮音石声(白滝山論)そのⅠ(1〜6) そのⅡ
潮音石声 1
こういう題で白滝山についてエッセー風に書いていきたい。潮の音は既に聞こえている。生まれた時から。石の声はまだ聞こえない。彼らに、すなわち石仏たちに語ってもらおう。それが最終目標である。
はじめに白滝山に関する誤謬について指摘しておきたい。
①白滝山の語源について。
白い滝であるというのは間違いである。タキは崖を表す。白い崖山という意味だ。
②恋し岩伝説について。
伝説ではなく創作民話・説話である。白滝山の語源説話の部分は単なる子どもの創作で、話は逆である。もしそういう相撲取りがいたとしたら山の名前をもらったのである。
③千手観音の持物を十字架と解釈することについて。
全くの誤解である。無知の連鎖である。
④一観教について。
伝六の時代にも、伝六死後も、そして現代も庶民の間で、一観教という言葉が使われたこともなく、またそれを信仰する集団は存在しない。また、一観教とはこんな宗教だと、説明した人もいない。意味もわからずに書き写すのは知性の欠如である。
⑤伝六が毒殺されたということについて。
証拠もなく、全くありえないことである。
これらの問題については既に書いたり話したりしてきたことだが、改めていずれ書いておこう。ただ、通説の否定ばかりでは進歩がないので、白滝山とは何であったのかということを主題にして考えていきたい。
白滝山は五百羅漢ということになっていて諸記録も皆そう書いてある。羅漢信仰とは何だろうか? まずこの辺りから考えていきたい。
まず、宇井伯寿監修『佛教辞典』、大東出版社、昭和44年の中型第4版よりp.284「五百羅漢」。
①仏滅後第一結集の時、来界したる無学果の声聞五百人をいふ。大迦葉これが上首たり。②省略③支那・日本に五百羅漢の崇拝行はるるも根拠なし。
根拠なし、というのは例えば観音信仰なら『法華経』の25品、阿弥陀信仰なら『阿弥陀経』というような仏典がないということであろう。早くも、この問題の難しさが露呈したということである。
次に『岩波 佛教辞典』、岩波書店、1994年の第5刷より、p.15の「阿羅漢」より、要点のみ抜粋。「尊敬・施しを受けるに値する聖者を意味する。インドの宗教一般において尊敬されるべき修行者をさした。原始仏教では修行者の到達し得る最高位を示す。学道を完成し、もはやそれ以上に学ぶ要がないので阿羅漢果を無学位という。」
原始キリスト教というのはイエス没後からキリスト教が誕生するまでの間のこと。紀元後1世紀ごろ様々な宗教が起こり、その中の一つに後にキリスト教になるグループがあった。これらを原始キリスト教という。それに対して原始仏教というのは釈迦の言葉そのものを言う。釈迦入滅後、様々な解釈が行われ、大乗仏教と小乗仏教などと呼ばれた。我が国に伝わったのは大乗仏教である。
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『岩波 佛教辞典』の「阿羅漢」の続きである。元は仏の別称であったが、大乗仏教では弟子(声聞しょうもん)を阿羅漢と呼び、仏と区別した。また「特に禅宗では阿羅漢である摩訶迦葉に釈尊の正法が直伝されたことを重視するので、釈尊の高弟の厳しい修行の姿が理想化され、五百羅漢の図や石像を製作して正法護持の祈願の対象とした。」(p.16)
重井村の宗派は曹洞宗であったから、ここに五百羅漢と伝六や村人の宗教との関係が明らかにされる。すなわち、五百羅漢は曹洞宗と対立するものではない。
また、五百羅漢については次のような説明もある。長崎唐寺の道教的信仰の「その風は黄檗僧・黄檗寺院によって、やや薄められながら全国へ伝搬していくことになる。(中略)さらには十八羅漢や五百羅漢像などいわゆる黄檗様式といわれる異風な仏像彫刻は、儒仏道三教の混在を見る人の視覚に強烈に訴えたに違いない。」中野三敏「都市文化の爛熟」(『岩波講座 日本通史』第14巻近世4、p.273)
白滝山の十六羅漢像や釈迦三尊像の背後(南側)にある個性的な羅漢像が異風で道教的だと言えばわかり易いだろう。しかし、言葉の上で道教と言ってもその実態を知るものは少ない。漢籍の分類では「荘子」「老子」「管子」などを道家と称するが、道家と道教は違うと幸田露伴は言っている。(『露伴全集』18巻、p.256)
「功過格」については後に記すが、そこでも道教の影響が出てくる。すなわち、仏像でも、伝六の教えでも道教の影響を否定できない、と結論を先取りするが記しておく。
なお、善興寺には「元文三戊午 月海湛玉上座 十月十四日」(元文三年は1738年)と書かれた、文字をなぞると字が上手になるとか、頭が良くなるとか言われ、墓参の時はお参りする黄檗僧の像があった。
次に観音信仰について考えてみたい。伝六は母が自分を身ごもったのは西国三十三観音にお参りしたからだと聞かされて、後年自分は観音菩薩の生まれかわりだと信じて、観音
道一観と名乗った。
このことは重要であり、伝六の宗教が観音信仰を基にしていることは間違いなかろう。また地元の呼び名として白滝山よりも観音山(かんのんさん)の方が一般的だった。
すなわち、地元では「かんのんさん」そして向かいの山は「ごんげんさん」が一般的で「白滝山」「龍王山」というのは、いわば「よそゆき言葉」であったということを強調しておきたい。
重井町は昭和28年までは重井村であった。そして村という言葉からイメージされるように村はずれには家はなく、それは隣接する大浜村、中庄村ともその村界に家などなかったのである。そういう閉じた社会では一つしかなければ「山」であり、複数あれば呼び慣れた名前で呼ばれる。それが「かんのんさん」であり「ごんげんさん」であった。
それが人の往来が頻繁になり、特に重井町になった頃から、そしてやがて交通機関の発達によってそれは加速されたわけであった。
人の往来が繁くなれば、他村(町)の人にもわかるように、方言が避けられ標準語を使かおうと努力するように、地図に書かれている「白滝山」「龍王山」が使われるようになった。すなわち、白滝山は、地元民には「五百羅漢」よりも「かんのんさん」として親しまれてきたのである。ただ「かんのんさん」という表現には「観音山」と「観音様」の両用があるが、「観音様(かんのんさん)」と言えば、「伝六さん」と観音像をさすが、おそらく「観音山(かんのんさん)」として多用されたと思う。
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観音信仰についてさらに考えてみたい。観音菩薩については『法華経』の巻八の観世音菩薩普門品第二十五に詳しい。「観世音菩薩は、かくの如きの功徳を成就して、種種の形を以って、諸の国土に遊び、衆生を度脱(すくう)なり」(岩波文庫『法華経』下p.256)というように相手に応じて姿を変える。我が国で『法華経』と言えば、鳩摩羅什の漢訳のものである。また、我が国で読まれる般若心経は、唐の玄奘訳が元になっていて、その冒頭はよく知られている観自在菩薩・・である。すなわち玄奘は、種々の形に変わるということを強調して観自在菩薩と訳したわけである。
いわゆる「観音経」というのは、上記観世音菩薩普門品第二十五の最後にある偈(げ)のことで、般若心経についで人気のあるお経で、多くの宗派の法事葬式等で耳にすることがある。曹洞宗との関係については、以下のような説明が参考になる。
「また、観世音菩薩には三十三応身といって、必要に応じて三十三に変身して衆生を救済する融通無碍の性格があります。このいわば円通自在の心が、禅者にとっては必要なわけで、刻々として移りゆく事象の変化に応ずる心境が要求されるわけです。観音信仰が特に禅宗において重要視されるわけです。」(松下隆章「禅宗の美術」、小学館『原色日本の美術10禅寺と石庭』p.196)
話はそれるが同書に松下氏はまた次のようにも記している。「地蔵菩薩は一所に滞在せず、常に遊行して人びとの霊を救う役割をもっています。禅僧が修行のためあるいは布教のため常に師を求めて江湖を行脚する姿にも似ているわけです。」「この地蔵信仰に関連して禅林でとりあげられたものに十王信仰があります。」「禅宗では特に羅漢の姿を修行の範として尊崇します。五百羅漢や十六羅漢の姿が禅寺に多くみられる所以であります。」と。ここまで書けば、白滝山が一時、曹洞宗善興寺の奥の院になっていたことが不思議ではないということがわかるであろう。そして白滝山五百羅漢が伝六にとっては、曹洞宗からはみ出たものでなかったことがわかる。すなわち、伝六が「観音道一観」と名乗ったからといって、曹洞宗から飛び出したものではないことがわかる。同様に白滝山が曹洞宗に異を唱える聖地を目指そうとしたものではなかったことがわかる。
さて、伝六が自ら観音菩薩の生まれ代わりだと言ったのであるから、さらに観音菩薩とは何かと考えてみたい。それは白滝山の最頂部、展望台の東側にある阿弥陀三尊像を見ればよくわかる。中央が阿弥陀如来、阿弥陀如来の右側が勢至菩薩、左側が観音菩薩である。この位置に阿弥陀三尊像を置くというのが伝六の意志によるのであれば、その観音菩薩は伝六自身でなければならないだろう。観音菩薩の生まれ代りで「観音道一観」と名乗る以上はそうであろう。そうでなければ言行不一致になるではないか。余談ながら、そうであるならば、阿弥陀三尊像より少し下にある一観夫婦像というのは余分である。私は必要ないと思う。ではなぜ、あそこに一観夫婦像があるのか。伝六寄進にはなっているが、伝六の子息の寄進ではなかろうか。そして、親の心子知らずで、頂上の観音菩薩が伝六であるという認識に達していなかったのだと思う。
「無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経」を合わせて「浄土三部経」というのは法然がこの三経でいいと言ったからそう呼ばれるのである。死後の極楽浄土のことはこれらに描かれている。「観無量寿経」に、観世音菩薩は「この宝手をもって、衆生を、接引(しょういん)したまう」と書かれている。(『浄土三部経(下)』、岩波文庫、p.63)
同書p.104の註によると、接引とは、「親しく仏が衆生を浄土に導き迎えとること」である。このことを伝六が知らなかったとは考えにくい。
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羅漢信仰、観音信仰と地元曹洞宗との関係を述べたので、次に伝六の具体的な活動であった、功過格について考えてみよう。これについては、すでに何回か触れたが再度考えてみたい。
これは伝六の教えを弟子の好善法師が筆写した教本の中にあり、本会資料第21回p.9 Vol.3(2018)以下で紹介したものである。宇根家文書01CU03『観音和讃その他』(好善法師本)。また柏原舒延氏の「霊峰白滝山の沿革」でも何度も解説強調されたものである。筆写本からわかるように雲棲寺の袾宏が書いた『増補繪抄 和字功過自知録叙抄』を写したものである。その原本を伝六が所持していたものを好善法師が写したのか、あるいは、伝六は現物を持ってなく伝録自身が写していたものを、さらに好善法師が写したのかどうかは、わからない。
さてこの功過自知録とは何かというと、一言で言えば道徳の点数化である。具体的にはそれぞれの項目に点数が割り当てられており、それを実施したら加算するというもので1日ごとに集計し、さらに月、さらに年間にわたって集計して自分の実践の反省をするものである。これは現在の中学生高校生あたりで、生活の記録として毎日、学習時間、テレビ視聴の時間・・と記録し勉強時間が少ないことを自覚させる取り組みとよく似ている。
青木茂氏の労作『因島市史』では「彼の書いたものをみると、心学的道徳的なものの概念が、かなり深いようである」(p.913)とあり、また本書宇根家文書01CU03『観音和讃その他』(好善法師本)の項目の紹介があり、「仏、儒、神道など道徳教的な具体語意を多く収録す」(p.915)と記されているが、功過格については、特段の注意が払われてはいない。
この功過格の流行について67回で引用した羅漢の黄檗様式に儒仏道三教の混在がみられるという説明の次にように指摘されている。以下中野三敏「都市文化の爛熟」(『岩波講座 日本通史』第14巻近世4、p.273-274)「そのような素地の上に、知識人の間にはさらに王学左派的な学問・思想が新知識として与えられ、次第に林兆恩や袁了凡の伝や著者にも接し『太上感応篇』や『功過格』『隠隲文(いんしつぶん)』などといった善書の類も次々と刊行されて(中略)身近に用いられるような風潮が生じてきた」。また、「『功過格』などはその後は我が儒生の間にすっかり根づいて、有名なところでは日田(ひた)の淡窓塾の例の如く、日常徳目の成績表として普段に用いられるに至る。ともあれ一八世紀中葉のかかる道教的思想・学問の風の瀰漫は、これまた明儒の、それも王学左派的三教一致思想の波及するところであったことは確言できるように思う。」
さらに興味深いのは、「明儒の学の流行は、(中略)また新しい庶民倫理としての石門心学を生む」とあり、青木茂氏の「心学的道徳的なものの概念」というのも「功過格」の影響と考えていいだろう。
日田(ひた)の淡窓塾というのは現在の大分県日田市にあった広瀬淡窓の桂林荘・咸宜園のことである。桂林荘雑詠諸生に示すという漢詩があるのでその一部・休道を記しておく。
休道他郷多苦辛 いうことやめよ他郷苦辛多しと
同袍有友自相親 同袍友あり自ら相親しむ
柴扉暁出霜如雪 柴扉暁に出づれば霜雪の如し
君汲川流我拾薪 君は川流を汲め我は薪を拾はん
広瀬淡窓自身も万善簿というのをつけていた。良いことをしたら白丸1つ、悪いことをしたら黒丸1つをつけ白丸から黒丸を引いて1万になるのに何日かかるか記録したものである。1度だけ1847年、67歳で達成したということである。(享年75歳)。
これは江戸時代の話であるが、現代の話を書いておこう。三好信浩『私の万時簿–広島大学最終講義–』(風間書房、平成8年)に載っている。三好信浩氏は日田市の小学校の時、校長が「淡窓の実践した万善簿を、われわれ小学生に習慣づけようと努力された。一日一善、その善行の内容を簡単に記すだけのことであるが、毎日つけるのはかなり苦痛だったことを覚えている」(p.6)という経験から、研究者になってから研究に費やした時間数が何年何か月で1万時間に達するか万時簿として記録されたということである。
ここで主題にしている「功過格」と「万時簿」はなかなか結びつけるのは容易でなかったが、伝六思想の一つの柱である(と私が思う) 「功過格」の背景は江戸時代の流行にあり、その一つが豊後日田の広瀬淡窓の桂林荘・咸宜園であり、淡窓が自ら行った「万善簿」が戦前の地元の小学校に伝わり、戦後、教育史の研究者である三好氏によって「万時簿」として実践されていたというのは、誠に興味深い。しかし、伝六の「功過格」は地元因島では伝承されたという記録は、まだ見つかっていない。
さて、形式としては現在まで継続性は見ることができるが、その考え方の背景については『隠隲文(いんしつぶん)』について見るのが良いだろう。
石川梅次郎氏は『陰隲録(いんしつろく)』(明徳出版社)のあとがきで、述べている。「昔は大変よく読まれたが、今日はあまり読まれない本がある。陰隲録もそのひとつである」と。この本は明の学者袁了凡(えん りょうぼん)が書いたもので、ふつう「善書」と呼ばれる。「善書」「袁了凡」『陰隲録』と言っても、極めて限られた人しか聞いたことがない言葉であろうから、身近なところから記しておこう。「今日はあまり読まれない」どころか、「全く読まれない」と書いても、2022年の今ならおかしくはない。
いろいろ探してみたら、安岡正篤氏の『立命の書「陰隲録」を読む』(竹井出版、平成2年)というのがあった。年末に細木数子さんの訃報に接して安岡正篤氏の名前を思い出した方もおられるかもしれない。また、以前話題になった『菜根譚』の著者洪自誠は袁了凡の弟子であったと言われているので、こんなところにも、その考え方は現在にまで引き継がれているのかもしれない。
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伝六の行為でわかりやすい功過格の普及の思想的背景を考えるためには袁了凡の『陰隲録』から考察するのがよいだろう。安岡正篤氏の『立命の書「陰隲録」を読む』(竹井出版、平成2年)のp.17に「了凡は王陽明の高弟王龍渓について学んでおることもわかりました。龍渓の学問には随分私も厄介になったわけですが、陽明の直弟子の中では最も天才的な人であります」とある。ここで陽明学がでてきたので島田虔次『朱子学と陽明学』(岩波新書)を見てみよう。その「第3章 二 陽明学の展開、とくに左派」(p.146~)に
王龍渓がでてくる。色々書いてあって、「このような良知説が容易に『儒・仏・道」三教
の一致という主張にすすむであろうことは、ただちに想像できる」とあり、まことに興味深いが「このような良知説」がよくわからないので、『岩波 哲学・思想事典』を観ることにします。「気一元の天地万物一体観をもち、良知は宇宙と人間とを貫流する霊的性格をもつ究極的実在だとする。彼のいう性、良知は、道徳的本性を説く程朱学とは異なり、生理的欲求を含む点で、後世の人間論に継承発展する契機をもっている。ただ、人間の生理的欲望、聞見知識をそのまま天則自然として容認するのではなく、こうした日常意識を徹底して無化した『無欲』『無我』の境位において良知が真に発揮され、万物一体が実現するという。日常意識の虚無虚弱化へ向かうのがその倫理論の主題であった。」(p.182)
やはり、抽象的すぎてよくわからないが、これが弟子の袁了凡になると、より具体的になるのである。
その前に、こちらの流れは王陽明から王龍渓、そして袁了凡、それから広瀬淡窓らへと繋がるのであるが、もう一つの我が国への陽明学の伝わり方がある。それは王陽明から中江藤樹、熊沢蕃山、そして大塩中斎、佐藤一斎へと続く。その後へ吉田松陰と西郷隆盛、三島由紀夫を入れるかどうかは難しい。表面的にはそうであろうが、それぞれが少しずつ違う。違うと言えば、みんなそれぞれ違うのだから、並べていてもよいかもしれない。
大塩中斎と佐藤一斎は交流があった。西郷隆盛は佐藤一斎の『言志四録』を抜粋し「南洲遺訓」を作った。三島由紀夫は「革命哲学としての陽明学」(旧版全集34巻)で西郷隆盛に次いで吉田松陰を取り上げ、「陽明学は良知が到達した果ての太虚、言ひ替へればニヒリズムをテコにして、そこから能動性のジャンプを使ってしゃにむに行動へ帰って来るための帰り道であるといへよう」(p.475)と書いている。
佐藤一斎は『言志四録』を書き、袁了凡の弟子の洪自誠が『菜根譚』を書く。袁了凡の『陰隲録』は今では読む人はいないが『言志四録』と『菜根譚』は心ある人たちに今でも読まれている。
王龍渓から生まれた双子が『陰隲録』と「功過自知録(功過格)」であった。そしてこの両者は磁石のN極とS極のように引き合い、合本となって我が国では出版された。『陰隲録』と「功過格」の概要は本会資料24回p.51、25回p.69 Vo.3(2018)に記したが再度掲載してみよう。
「功過格」について。『大漢和辞典巻二』、昭和51年による。
日記のやうに一冊を三百六十五日に分け、各日に功・過の二欄を設け、更に行為の項目に細別し、日日、善行と悪行とを記して善に進む手段とするもの。宋時代に既に范文正公・蘇眉山及び張魏公にこの風があり、明代には袁了凡の功過格がある。又、道教信者間には、其の行為の善悪大小軽重によって、鬼神が禍福を下すといふ信仰があり、功過格は其の経典で、人の日常の行為を善(功)・悪(過)に二大別し、夫々の行為に対して点数をつけて其の善悪の程度を示す。信奉者は夜間、自己の一日の行為を省みて其の功過の数を調べ、其の点数を計算して之を記入して、月末には一月間、年末には一年間の点数を総計して、若し過が多ければ之が改革に努め、功が多ければ益々励んで、福を多く受けることに努める。(以上p.1447)
次に「功過格」について『岩波哲学・思想事典』は次のように書いている。
中国の明・清時代に流行した善書の一種。その思想は、禍福は本人が行なった善悪の行為に照らして天が決定するという応報の思想に基づく。古くは『易経』文言伝に善悪の行為が子孫の禍福につながるといい、晋の葛洪の『抱朴子』内編「対俗」「微旨」には善悪の行為がその人の寿命に結びつくという。仏教、道教の因果応報の思想とも関わる。宋代から善書が流行すると、この考え方が強調されるようになり、人の行為・思考は日夜、諸神に監視され、天に報告されて、その記録の評価に基づき、禍福・寿夭など運命の変更・決定がなされるとされた。だから幸福・長寿を求めるならば、善事に励み、悪事を避けなければならない。そのための善悪の行為とその善悪の程度を示したのが〈功過格〉という書である。 この書には、行為が「功(善)格」と「過格」とに二分して具体的に列挙された。それぞれの格(項目の意)に功(または善)・過、つまりプラス・マイナスの点数が付与されている。「死刑を免れしめると、1人につき100功」「妊娠中絶1回につき20過」というぐあいである。功過格の末尾に1年分の点数記入表(格図・格目之図という)が付けられていて、毎日、就寝前にその日の行為をふりかえって、功過それぞれの点数を記入し、月末に小計し、年末に総計する。明の袁了凡は3000善を行って子宝を授かった。
功過格の最も古いのは、1171年に道士の又玄子が夢のなかで授けられたといわれる『太微仙君功過格』であるが、明末清初には『雲谷禅師授袁了凡功過格』と雲棲袾宏の『自知録』などが著され、とくに流行した。『太微仙君功過格』には道教、『自知録』には仏教の色彩が強いが、多くの場合は、社会生活上の一般的な倫理・道徳が説かれている。わが国には江戸時代にもたらされ、和刻本や翻訳書が各種刊行されて流行した。(以上p.484)
類似の説明が「善書」の項p.956にもある。また、p.106の「陰騭録」の項は、興味深い。『陰騭録』には明の伯仕宋のものと。明の袁了凡のものの2種があり、前者は雲棲袾宏の「自知録」「功過格」を収め、後者には雲谷禅師伝の「功過格款」を収めている。袁了凡の『陰騭録』はわが国では袾宏『自知録』と1冊に収められて元禄14年(1701)に和刻本が出版された。(『岩波哲学・思想事典』p.566)
袁了凡は三教一致論者であり、雲棲袾宏は浄土宗の高僧でありながら禅宗と浄土宗の両者の兼修を説いた。また、儒教と仏教の融合を説いた。
同じ頃に書かれた書物に洪応明の『菜根譚』がある。「作者の伝記は不詳であるが、袁了凡に師事して道教を学んだ隠者的教養人の一人であったようである。洪氏の立場は、儒教を中核として道教と仏教の三教合一を説くもので、『菜根譚』は三教合一の真理を抽象的哲理としてではなく、自身の生活経験に照らして平明直截に述べた一種の教養書である。」(『岩波哲学・思想事典』p.566)
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いよいよ伝六が元にした「功過格」と「陰隲録」に入っていきたい。本来ならば、思想的背景となる「陰隲録」を先に紹介すべきであるが、まず「功過格」から見ていこう。
ここに『増補繪抄 和字功過自知録』という和本がある。これが重井町で発見されたものならば、伝六が見た本ということになるのだが、残念ながらそうではなく、私が古書店で求めたものである。
表紙 22.5cm 15.5cm
奥付には、安永五年丙申二月原刻 寛政十二年庚申九月再刻 とある。安永五年は1776年、寛政十二年は1800年であり、伝六(1781-1828)生存中に刊行されている。
巻末に4頁に渡って「格目之圖」として、集計表の見本がついている。右上に「年号干支」を書く。最終頁の晦日(30日)の次に「月の終に相くらふ(ぶ)、善、過」として1列に月ごとの合計を書く。さらにその次に「毎月あまる所の純善」として1列がある。これは善から過を差し引いた数を書く。最後の列の上半分は「一年総くらぶ善合過合」とあるから一年間の善、過の合計を書く。下半分には「あまる所純善凡得」ということだから
上に記した善の数から過の数を差し引いた数字を書く。
最後の3列は書き方の説明である。「受持乃人毎晩其日の下に善悪の数を記し卅(30)日に算用して余る所の善悪を記し、一年の総合差引し、我身の福(さいわい)又は罪をも知るべき也。善の数五百、一千乃至(ないし)一万に至らば必ず願成り満足するなり。」
26 西鶴
井原西鶴は多作な作家である。もっともっと読まれていいはずだが、代表作が『好色一代男』などと好色とつくので、好色文学と見られてあまり歓迎さレないのではなかろうか。これは日本人にとって大きな損失である。
吉行淳之介現代語訳『好色一代男』、河出書房新社
吉行淳之介現代語訳『好色一代女』、河出書房新社
27 サルトル
サルトルはノーベル文学賞の受賞を拒否した。その理由は知らないが、それだけでも私が生きた時代の最大の思想家・作家であったと思う。だから、サルトルはこんなところでなく、1番に書かなければならないのだが、そうするとどの作品をあげるか迷う。
『実存主義とは何か?』は期待したものの、「実存主義は共産主義である」と言う結論にはいささか失望した。・・別に失望しなくても良いのであるが。彼の思い描く共産主義が実存主義的であったと思えば良いのであろう。実存主義の哲学が汎神論の哲学からの脱却であったとしたら、共産主義もまた汎神論の哲学の否定であるのだから、兄弟のようなものか。
サルトルには『嘔吐』と言う20世紀を代表する作品があるではないか、と言う人もあろう。残念ながら、私には『嘔吐』の面白さも意味もわからない。
28 チェーホフ
そろそろチェーホフについても書いておきたい。小説でも戯曲でも、登場人物が意外なことを言う。たとえば「犬を連れた婦人」では男は登場した時から最後に至るまで意外な行動をとり、女は女でまた意外である。
29 ヘミングウェイ
ペンギンで「老人と海」とモームのSumming Up を見た時、高校英語に近いモームの文体がわかりやすく、それから遠くへだたった老人と海はとっつきにくかった。しかし、すぐに逆転した。
21 徳川家康
山岡荘八『徳川家康』、講談社文庫
この長い小説は高校の頃完結し、会社経営にも通じるとか言われて、騎乗人にも人気がありベストセラーになった。その後文庫版も出版された。ドイルと同じように大学院の勉強をしていた大学4年の頃、夕食を食べにでたついでに竹屋町の小さな書店で1冊求めたのが病みつきになった。
22 聖書
世界の名著。これはダイジェストながらよくまとまっていて。初心者には最適である。
後に新訳の方は国際ギデオン協会のもので読んだ。
23 小林秀雄『私の人生観』
小林秀雄『私の人生観』角川文庫は、浪人時代夕食後の散歩で立ち寄った旭町の小さな書店で買った。それまで小林秀雄は模擬テストで平家物語の一文を読んでだけであったが、この一冊ですっかり魅了された。
次はtクマ文学大系の1冊。これには代表作がほとんど含まれており魅了された。
『本居宣長』は出版された頃、は知恵の方を途中まで図書館で借りて読んだのではなかろうか。最後まで読んだのは全集を買ってからである。
24 『一握の砂』『悲しき玩具』
これは高校1年の時。中央公論社の日本の詩歌。これは親見やすくてよかった。
25 百人一首
高橋竹堂『竹堂かな書』、野ばら社
これは、かな書道の本である。変体仮名を覚えるために写す。万葉集は全て収められている。
井上宗雄・村松友視、『百人一首』、新潮古典文学アルバム
16 リア王
シェイクスピアのまだ読んでないものを皆読んでみようと思った時、どの翻訳全集がいいだろうかと考えた。結局、筑摩世界古典文学全集の6巻本が良いのではないかと思った。この文学全集は50巻で50数巻の古典全集であるが、私が持っているのはそのうちの35巻を選んでセットにしたものでホルプが販売していた。教員になりたての頃、これを学生協で75000で買ってあった。併し、この中にシェイクスピアの6巻はなかったので古本屋でシェイクスピアの6冊を求めた。ついでに千一夜物語4冊も求めた。これで40巻になった。足らないのは荘司、韓愈、セルバンテス、ゲーテ、三国志あたりか。
舞台は江守徹さんの「ハムレット」と仲代達也さんの「ジュリアス・シーザー」の地方公演しか見ていないが、舞台上演を目的にして書かれた作品であるから、いくら想像力を働かせても原作の醍醐味から大きく隔たっていると思う。
ところで私が外国人についてどうしてもわからないのは、あれだけ愛と平和を至上の価値のように言う彼らが、『ヴェニスの商人』はユダヤ人差別を煽る作品だから上演禁止にしようなどと言わないことだ。不勉強な私が推定するのは彼らの愛や平和がキリスト教的愛であり平和であると言うことだろう。それを人類普遍原理などと思っている日本人はやはり地球の片隅の少数人種に過ぎない。
17 「背教者ユリアヌス」
辻邦生さんの長編小説に陶酔するほと素晴らしい時間はない。『春の戴冠』『フーシェ革命暦』と読んでいくと他の作家のものが物足りなくなってくる。
18 天狗争乱
戦艦武蔵 以来吉村昭さんの小説は随分たくさん読んできた。中でも忘れられないのは天狗争乱で、この苦闘の旅路に同行したような気持ちになった。
19 モーパッサン短編集
どう言うわけかは自分でもよくわからないが、ふと手にしたモーパッサンの短編に魅了され、続けて新潮文庫の3冊を皆読んでしまったのは不思議な体験であった。
セーヌ河畔沿いの話は庶民の暮らしぶりの一端がよく現れているので好きだが、ごく普通の短編小説にも優れたものがある。La Parure (装身具)は首輪の話であるが、見えが引き起こす悲劇の結末がとんでもない安物であったというのは作者の手腕の見事さというほかないが、人生における悲劇の大部分はこんなもんだと
20 コナン・ドイル
シャーロック・ホームズシリーズを新潮文庫で読んだのは大学院の入試準備をしている大学4年の夏だった。これまたやめられなくなり新潮文庫で全て読んでしまった。その時合わせて読んだのが山岡荘八の『徳川家康』であった。
11 陰騭録
命(めい)は命(いのち)である。命(めい)について述べるのが道学である。
天命とは先天的に扶余されたものである。
後天的に変えられるから運命となる。
それを否定するのが非運命すなわち宿命ということである。
宿命論にとどまるのではなく、積善によって変えられる、すなわち「運命」を自ら切り開くことを説いたのが袁了凡の「陰騭録」である。
西澤嘉朗著『陰騭録の研究』(八雲書店)の安岡正篤の序文より
袁了凡「陰騭録」 石川梅次郎注解 明徳出版、中が奥古典新書
西澤嘉朗著、安岡正篤序、『陰騭録の研究』、八雲書店
の安岡正篤、『立命の書「陰騭録」を読む』、竹井出版
12 史記
通して読むには、明治書院の「新釈漢文大系」が良い。併し、福山市立図書館のものを利用したので、手元には全てはない。現文だけならweb上にある。
入門書としては、武田泰淳氏の『司馬遷 史記の世界」(講談社文庫)が我々の世代には定番だと思うが、私は高校に入ってすぐに読んでいた中島敦『李陵・山月記』(旺文社文庫)が、やはりよかったと思う。
13 天皇の世紀
大佛次郎さんの『天皇の世紀」は私が高校のとき朝日新聞に連載されていた。それも普通の連載小説とは違い字数も多かったように思う。しかし、私には歯がたたなかった。歴史小説を読むという経験が足らなかったということである。
これも福山市の図書館のもので読んだ。最後の2巻がなかったので広島県立図書館から取り寄せてもらって、最後まで読めたのは幸いであった。
14 ローマ帝国衰亡史
中野好夫さんの最後の大仕事であるが、途中で亡くなり協力者、そして息子さんが跡をついで完結された。筑摩書房の単行本である。勤務校の図書館には何冊かはあったが、揃ってなかったので、結局1巻から購入した。勤務校の図書館にはついでだから揃えておくようにと頼み、そうなった。トインビーが教会は文明の墓場か、文明の揺り籠か、と書いている。こちらは墓場の方だろう。キリスト教がローマ帝国を滅ぼした。確かにそうだろう。しかし、それゆえヨーロッパというものが生まれる元となった。今に至る工業化文明はキリスト教とともに生まれたのである。その現在の方向が人類にとって正しかったか間違っていたかは誰にも話からない。しかし、この工業化社会、温暖化をはじめ各種の誤りで我々の住む地球そのものを痛め続けている現代の流れは間違っているが、誰にも変えられない。その厳選はキリスト教文明にあった。しかし、キリスト教もそれを変えることはできない。だから教会は文明の揺り籠であったとともに破滅への乗り合い列車でもある。
15 平家物語
岩波から緑色の新日本古典文学大系が発刊された時、全目録を見てあまり感心はしなかったが、岩波教の私としては千載一遇のチャンスであるので、広大生協で予約して購入した。5%引きだったと思う。それで、平家物語は発刊とともに読み始めた。上巻が終わった頃には下巻も発行されていたので、間を開けずに引き続き読めたのは良かった。
6 源氏物語
源氏物語は原文はもちろん現代語訳でも難しい。俗に「須磨源氏」と言われるように「須磨」の巻きまで済まないのか、そのあたりまででやめる人が大部分だという意味だろう。
7 春の雪
三島由紀夫でもし1冊を選ぶとすると『春の雪』である。もちろん4巻本の1冊だから、これ1冊で話は終わるわけではないが・・・、
三島さんのライフワークということで、全体のタイトルは『豊饒の海』という。月の地図上の名前である。月だからもちろん海などない。窪地のようなところを海と呼んだ。多くのミネラルでもあるかも知れないという期待を込めたのかも知れないが、実際には不毛の地であろう。そういう意味をかけたタイトルである。これはまた生涯の全作品を意味していると思っても良い。実に見事なきらびやかな作品群は豊饒というにふさわしい。しかし、覚めた目で見ると所詮文字で書いたあだばなであるという認識を忘れてはいないぞ、という自己批評に他ならない。
文芸雑誌「新潮」に連載されていて、1巻「春の雪」、2巻「奔馬」が全巻の途中ながら新潮社から単行本として刊行された。昭和44年の1月に発売されている。高校2年から3年である。新聞で書評を見てすぐに注文した。続いて「奔馬」も同様である。『潮騒』を読んだのが高校1年か。つまらないと思った。1年ほどして新著日本文学という1作家1巻という日本文学全集が出た。図書館にあった。すごいなと思ってファンになった。そのあとの『春の雪』であったから、たちまち陶酔・・・。高校2年から3年。
そして、翌年4月から私は広島の予備校の寮暮らし。寮の隣に銭湯があった。3時ごろ開く。暇な時は開店と同時に行く。11月25日銭湯のテレビで三島事件のことを知った。憧れの作家が自殺したからと言っても、こちらはそれに同行する義理もロマンもない。ただ、こちらの世界を生きていくしかないだけであった。雑誌や週刊誌の特集があれば買っておくように弟に指示しただけである。
8 カラマーゾフの兄弟
この偉大な小説は何度読んでもわからない。いやたったの2度だけなのだが、もう何度も読んているような気持ちがする。そしてその都度それは私から遠ざかったいく。活字と生きている以上、それでもつきあっていかないといけないような圧迫感で迫ってくる。世界文学全集や文庫本にあるドストエフスキーのの作品はあらかた読んだ。ほどよく面白く、ほどよく感動し、ほどよく打ちのめされ、そろそろ卒業したと思ったら、にょきにょきと頭を持ち上げてくるのだ。まるで悪夢のように。人はカラマーゾフが最高だと言うが、私には悪霊や罪と罰の方が悪夢のように迫ってきた。
米川正夫訳、岩波文庫、全集。
9 『氷点』『続・氷点』
中学生の頃話題になった。テレビで少しだけ見たのだろうか? ともかくこれは買わねばならぬと、買った。期待に違わずぐんぐんと物語の中に引き込まれていった。1箇所だけ涙がでたところがあった。それから何年かして、広島の下宿が朝日新聞をとってくれており、チラチラと見たが通しては読んでない。それからはるか何年か経って、読まずに死ぬわけにいかぬと言う気持ちになった買って読んだ。朝日の懸賞小説でトップ入賞しドラマ化されて見事に完結しているのに、こんなに豊饒な続編があったと言うことの方が驚きだった。
『続・氷点』の圧巻は不義の子・陽子の出生を認める実母の夫・三井の論理と倫理である。
10 『ローマ人の物語』
昔、子どのころ、それはテレビの出始めの頃の話である。もちろん白黒の14インチでの話であるが、NHKの番組に空飛ぶジュータンの乗って全国の小学校を回っていくと言う番組だった、塩野七生さんの作品を読んでいると、その空飛ぶジュータンに乗って世界中の国に行っているような錯覚と酩酊感に襲われる。
塩野七生さんの著作は力作ぞろいであるが、特に『ローマ人の物語』は格別である。これは新潮文庫になれば読もうと決めていたので、そうした。息子も読んでいると言うので2巻以降を送った。卒業時に本が帰ってくるかと思ったら1枚のCDになって帰ってきた。そう言うことが流行っている時だった。『ローマなき地中海世界」『十字軍』『皇帝フリードリッヒ二世の生涯』などが続々と出版されたので、『ローマ人の物語』を再読の時間はなかったが・・、
1-5
1 般若心経
『般若心経・金剛般若経』、岩波文庫
短いながらも究極の本である。
朝夕とにかく眺めることである。
暗記していたので見ずに唱えていたが、やはり、漢字そのものを目で追うことによって、その意味を目で追い、考えながら唱えるのが良い。
色即是空 空即是色 をどう解釈するかということだ。
これは釈迦の言葉ではなく観音菩薩の言葉ということになっているが、これこそ釈迦の達した境地、すなわち「悟り」ではないかと私は思う。
中村元・紀野一義訳注『般若心経・金剛般若経』、岩波文庫
松原泰道『般若心経入門』、祥伝社
テキストはいくらでもあるのであろうが、まず岩波文庫。新しく求める方はワイド版が良いだろう。
考えてみれば、これほどわかりやすく、これほどわかりにくいこともなかろう。おそらく理解できてもすぐに去っていくのではなかろうか。
ということで多くの方の考えを聞いてみるのも悪くはない。
『「般若心経」を読む』(講談社現代新書)の著者・紀野一義さんのは上記岩波文庫の著者である。しかし、これも、やはり肝心なところはうなぎのように、わかったつもりでもスルリと逃げてしまう。でも、それでいいのだ。この本も繰り返して読もう。
また、紀野一義さんには『地蔵菩薩 大地の愛』(集英社)という本もある。
2 論語
名著である。古典である。人類の遺産である。・・・ それでは何の本なのか。哲学? 歴史? 道徳? 倫理? 文学? ・・・どれも遠いところでは、そうに違いない。でもそれだけではないような。
こちらが歳を重ねると、それなりに新しい発見があるのも、古典の古典たる所以だろう。テキストによっては少しずつ読みに違いがある。これはこれで楽しいので、手にした本の読みに従って声を出すのも良いのではなかろうか。師のたまわくと読んでいる本は少なくなったようであるが、岩波文庫が「のたまわく」である。かつての寺子屋や藩校などの心と細い糸で繋がっているように感じられる。
岩波文庫はワイド版があるが、まだ持っていないので機会があればワイド版も買って見たい。
世界の名著、並びに中公文庫は貝塚茂樹氏。朝日文庫や筑摩世界古典文学の吉川幸次郎氏。まずこれらが定番か。
明治書院の新釈漢文大系は吉田賢抗氏。これには安井息軒氏の説も紹介される。あの鴎外の「安井夫人」、あるいは吉村昭さんの『ポーツマスの旗』に出てくる(小村寿太郎の師)宮崎の儒者安井息軒氏である。
研究書として。
和辻哲郎、『孔子』、新潮文庫、あるいは和辻哲郎全集
物語的には、
下村湖人、『論語物語』
井上靖、『孔子』
宮城谷昌光、『孔丘』
なども読む価値はある。
渋沢栄一、『論語と算盤(そろばん)』、角川文庫、も捨て難い。
3 観世音菩薩普門品(法華経)
要するに「觀音経」のことである。般若心経についで人気のあるのが觀音経である。これは法華経の第25章のことで、観世音菩薩普門品第二十五のことである。わかりやすく言えば法華経の第25章のことである。実は他の章と同様に25章も散文と韻文が併記されている。韻文の方が観世音菩薩普門品偈と呼ばれ、觀音経と言えば普通こちらを指す。五言で苦ちょも良いし、短い(短いといっても般若心経に比べれば長い)ので庶民にはこちらが多用される。もちろん25章全体を唱えても悪くはない。
テキストや解説本は『法華経』と重なる。
松原泰道『観音経入門』、祥伝社
坂本幸男・岩本裕訳注『法華経』上、中、下、岩波文庫
大角修『全品現代語訳法華経』、角川ソフィア文庫
蒲田茂雄『法華経を読む』、講談社学術文庫
4 ニーチェ
高校2年から読み始めて、結局卒業できなかった。当たり前と言えば当たり前の話ではあるが。
因島高校は島の南側にある。北側に育った私には大いに刺激的だった。教員養成高校と生徒が呼んでいたごとく、新採用教員がどんどん配置されるので、生徒のみならず、教員の方 も若さに溢れていた。
高校2年のとき二人の友人が個別にニーチェを読め!というのであった。一人は世界の名著の夜の詩のところを私に示してすごいのだというわけである。
それで、世界の名著を買った。これは素晴らしい本であった。手塚富雄氏の翻訳と注が素晴らしかった。本文の翻訳はまさに詩であった。あわせて訳されている『悲劇の誕生』は、西尾幹二氏のデビュー作である。この時から私の西尾氏への傾倒が始まる。余談ながら、ずっと後にニーチェ全集の解説で知ったのだが、初めは「アンチクリスト」でそれも出来上がっていたのが途中で社の方針が変わったとのことである。さもあらん。世界の名著の第1回の配本にアンチクリストは世界宗教に対する敬意の上からでも不適当である。『アンチクリスト』はしばらくして潮出版社から発行され、後に全集に収載された。
5 万葉集
高校2年でニーチェ、3年で「春の雪」、浪人中に「私の人生観」、そして翌年が大学1年。広島での2年目。
昭和46年春。昨秋、三島さんが亡くなってからまだ1年も経っていない。居は予備校の寮があった広島市南大河町から、理学部に近い広島市宝町へ移していた。目の前に東広島警察署、その隣に歯科医師会館、下宿の少し裏手に専売公社など。青春時代の始まりであった。
当時は教養課程というのがあって必須科目や単位数が決まっていた。人文科目で何単位、自然科学で何単位という具合に。その人文系の中に国文学というのがあって、万葉集と源氏物語というのが4単位で同時開講であった。
ふるさとの史跡を訪ねて 増補版 の番外編である。
本について ー私の心のふるさとの史跡を訪ねてー
番外編1ー5
番外編6-10
番外編11ー15
番外編16ー20
番外編21ー25
番外編26ー30
番外編1ー5
1 般若心経
2 論語
3 観世音菩薩普門品(法華経)
4 ニーチェ
5 万葉集
番外編6-10
6 源氏物語
7 春の雪
8 カラマーゾフの兄弟
9 氷点 続・氷点
10 ローマ人の物語
番外編11ー15
11 陰騭録
12 史記
13 天皇の世紀
14 ローマ帝国衰亡史
15 平家物語
番外編16ー20
16 リア王
17 「背教者ユリアヌス」
18 天狗争乱
19 モーパッサン短編集
20 コナン・ドイル
番外編21ー25
21 徳川家康
22 聖書
23 小林秀雄『私の人生観』
24 『一握の砂』『悲しき玩具』
25 百人一首
番外編26ー30
26 西鶴
2025年7月1日。火曜日。晴れ。2822歩。71.8kg。朝、草取り。窓拭き。瀬戸内タイムズ原稿昼間書き夜送る。
セミも鳴かずに夏はくる
梅雨明けというがごときの日射熱
残り日が減って行くのに何がめでたい誕生日
年ごとに猛暑の夏を送りしに棚子山にて煙となりぬ
2025年7月2日。水曜日。晴れ。3651歩。72.3kg。
朝窓拭き。今日は次の冊子の原稿(写真)整理。
林芙美子「愛情」を青空文庫で読む。
露伴、淡島観月氏、淡島観月氏のこと、を青空文庫で読む。
露伴の「五重塔」の朗読を少し聞く。
2025年7月3日。木曜日。晴れ。2974歩。72.4kg。
日に日に暑くなる。
5時から草取り。朝食後窓拭き。
昨夜は1階の母が寝ていた部屋で寝る。
露伴の「五重塔」の朗読を少し聞く。
2025年7月4日。金曜日。晴れ。。3158歩。71.9kg。
朝、草取り。朝食後窓拭き。露伴の「五重塔」の朗読を聞く。
2025年7月5日。土曜日。晴れ。2831歩。kg。
4時に起きて5時から草取り。朝食後窓拭きをして8時。
2025年7月6日。日曜日。晴れ。2485歩。72.6kg。
5時から草取り。すぐに暑くなる。朝食後昼寝。午後も。
2025年7月7日。月曜日。晴れ。2276歩。71.8kg。
2025年7月8日。火曜日。晴れ。3802歩。72.1kg。
夜、雨。久しぶり。午後、尾道市民病院。帰ってから公民館で文化財協会役員会。秋旅行決定。
2025年7月9日。水曜日。晴れ。2903歩。72kg。
晴天1日目。昨日の雨で草取りやりやすし。朝、買い物。午後論語の会。四人。
2025年7月10日。木曜日。晴れ。1831歩。72kg。
晴天2日目。朝、草取り。古文書。
2025年7月11日。金曜日。晴れ。2786歩。72kg。
朝、草取り。9時に出て福山へ。10時からダスキン、床下点検。庭の草を刈っていたら蜂に刺された。4箇所か5箇所。青葉台クリニックに行く。注射、薬。午後古文書学習会。晴天3日目。
2025年7月12日。土曜日。晴れ。3606歩。72.3kg。
5時から草取り。朝、藤井医院へ。高血圧の薬を出してものう。今日も暑い日。晴天4日目。
2025年7月13日。日曜日。晴れ。3808歩。71.8kg。朝も夕方も草取り。朝買い物。選挙。晴天5日目。
2025年7月14日。月曜日。雨時々曇り。6027歩。72.1kg。弓削遍路1回目11人。33番まで。雨に降られる。
2025年7月15日。火曜日。晴れ。2650歩。72.6kg。朝、草取り。9時から公民館定例会。12名。午後昼寝と原稿書き。夜、送信するも不調。
2025年7月16日。水曜日。晴れ。2706歩。72.5kg。朝、草取り。図書館で因島文学散歩。5人。のち買い物。古文書学習会資料作る。
2025年7月17日。木曜日。晴れ夕方から雨。4495歩。73.1kg。朝、草取り。猛暑というほどではない。夜、雨。かなりの大降。1箇所蜂に刺される。右手人差し指。朝6時ごろ。1週間に2回も刺されるとは・・。田舎育ちの自分としては不甲斐ないの一言に尽きる。
2025年7月18日。金曜日。雨のち晴れ。3988歩。72.6kg。5時に起きる。草は濡れているので草取りはやめておく。間も無く小雨。井原の墓参。午後、福山城。古文書学習会。
2025年7月19日。土曜日。晴れ。2723歩。72.4kg。5時から墓参。帰って朝食。草取り。古文書解読文入力。
2025年7月20日。日曜日。晴れ。2605歩。72.1kg。
5時から草取り。朝食後も草取り。古文書入力。終わる。送る。
2025年7月21日。月曜日。晴れ。2529歩。71.3kg。
5時から草取り。朝食後も草取り。午後義兄を医師会病院に見舞う。
2025年7月22日。火曜日。晴れ。歩。71.3kg。5時半から草取り。朝食後も8時半まで草取り。昼寝。午後、せとうちタイムズ原稿。7時過ぎに送る。
ふるさとの史跡をたずねて(411)
伝六⑪袁了凡その1
伝六が広めたと思われる『功過自知録』は中国・明代の袁了凡が書いた『陰騭録』の付録として出版されたものであり、翻訳本の複雑な出版事情は以前書いた。伝六が『陰騭録』の本編の方を読んだかどうかは検証できないが、好善法師が写したその付録の附録に袁了凡の名前が出てくるのだから、次は袁了凡と『陰騭録』について考えたい。
ところで、袁了凡の『陰騭録』は知らなくても『菜根譚』は聞いたことがある読者は多いと思う。多くの文庫本が発行されており、その人気が伺われる。写真はそのうちの2書。(岩波文庫、講談社学術文庫)
最良の処世訓として著名人の愛読書として話題になったこともある。著者の洪自誠は儒仏道の三教に通じ、前半で交際術、後半で隠居術を述べたようだが、間違ってならないのは果報は寝て待て式に座っていれば良いのではなく、それ相応の努力を慫慂しているのは、他の啓発書と同じである。そして驚くべきことに洪自誠は袁了凡に師事した。すなわち洪自誠は袁了凡の弟子であった。だから、『菜根譚』を読まれたことのある人にとってはこれまでくどくどと述べてきた『功過自知録』の話に既視感のようなものを持たれたことだと思う。と言っても『功過自知録』は具体例、『菜根譚』はやや抽象的に書かれているが目標は同じである。あえて言えば向上への意欲の喚起であろう。
さらに慧眼な読者にとっては、何も『功過自知録』など出さなくても、江戸時代以来、多くの日本人にとって神仏を拝み、儒教道徳に従うのは当たり前ではないか、と思われているに違いない。まったくその通りである。伝六がそれらを熱心に説いたからと言って新しくも何でもない。それを新しい宗教を作ったなどと言う誤解を書き写す人がいるだけである。その誤解の原因が『功過自知録』の珍しい表現にあったと私は思う。
さて、『菜根譚』の洪自誠の先生であった袁了凡に話を戻そう。一言で言うと中国明代の陽明学者で陽明学左派に属する。左派と言うのは、より過激な人たちで後に禅宗に変わる人たちもいた。また、袁了凡が儒教、仏教、道教を修めた三教主義者だった。すなわち、大雑把に言えば、中国の伝統宗教である儒教と、外来宗教である仏教に加えて後発民俗宗教である道教をも学んだ人である。洪自誠がその袁了凡から道教を学んだようである。
ふるさとの史跡をたずねて(412)
伝六⑫袁了凡その2
袁了凡の『陰騭録』の翻訳本は伝六の時代のみならず、明治、
熱心な観音信仰の信者であった伝六が注目したのは、
袁了凡は自分の運命は決まっているという消極的な運命論者であっ
結論を言えば、
ここで私はアメリカのB.フランクリンを思い出す。
伝六が広めたこの運動は、
間違ってならないのは、
さて、石川梅次郎氏が「あとがき」で「昔は大変よく読まれたが、
ふるさとの史跡をたずねて(413)
伝六⑬三教主義か神儒仏折衷か
伝六の教えとも言える好善法師本で功過自知録を見れば儒仏道の三教主義が現れ、他の部分では神儒仏の折衷主義が窺われる。これではまるで鏡の中のカレイがヒラメに見えるのと同じで甚だ理解に苦しむ。
(儒仏道:儒教、仏教、道教、神儒仏:神道、儒教、仏教)
しかし、それが日本思想史の典型で、儒仏道の三教主義は伝わらず、かすかに功過自知録を通して伝わったに過ぎない。一方、神儒仏の折衷主義は石田梅岩の石門心学から二宮尊徳まで多くの知識人は元より庶民まで、我が国の風土と言っても良いほどに定着した。
それは日本の国民宗教だと言っても良いほどだ。専門宗教者を除いてごく当たり前のことになっている。専門宗教者も立場上他教の礼賛はしないものの、それらのことを知らずして日本文化を論ずることはできないだろう。
生後一ヶ月にお宮参りをし、七五三があり、結婚式はチャペルでして葬式は仏式でするという、現代の流儀は、一つも珍しくも異様でもなく、ごく当たり前のことだと思う国民は多い。
これは現代の見方であり、伝六の生きた200年ほど前の江戸時代はどうであったのだろうか。キリスト教は禁じられており、朱子学による儒教道徳は幕府の各種の施策の基本方針であり、神仏習合の時代であった。だから、伝六が神儒仏を唱えたからと言って珍しいことではなかった。ただ、寺子屋があったかどうかわからないようなところで、庶民に説いたことは、熱心な観音信仰に基づくとは言え、特別なことであったに違いない。
358回で述べたように、明治以降の神仏分離政策で移動させられた仁王像を、柏原林蔵らが白滝山石仏工事完成の勢いで八幡神社へ寄進したことは特別なことではなく当たり前のことであった。
それでは、なぜ後世、伝六が神儒仏から新しい宗教を作ったと言われたのかと言えば、儒仏道の三教主義に基づく功過自知録の目新しさに幻惑されたからに違いない。そしてそれはこれまで述べてきたように、伝六のオリジナルな著作ではなく市販本の転載に過ぎなかった。
また、伝六が石田梅岩の石門心学を学んだというのも根拠のない誤解に近いことが明らかである。
(図は好善法師本の一部)
ふるさとの史跡をたずねて(414)
伝六⑭伝六百回忌
さて、ここで時代は変わって伝六死後のことを記そう。それも昭和2年の伝六百回忌の記録を見てみよう。伝六命日の旧暦3月15日に伝六百回忌は盛大に行われた。
その来賓名簿を見よう。和尚7人。これは地元重井村2人、中庄村3人、大浜村1人、外浦1人で、いずれも曹洞宗である。役場10人.村長以下職員だろう。村会議員12人。組長9人。尋常・高等小学校長、郵便局長、宮司、巡査、分団長、医師、前村長など。また稚児6人、花持6人などを入れて総勢89人であった。
当日は、小学校は午後から休みになり、まさに村を挙げての大行事であった。
そこで注意すべきは因北6ヶ寺の僧侶が招待され参集していることである。各寺の宗派はいずれも重井村と同じ曹洞宗である。このことを単純に解釈すれば、伝六については熱心な曹洞宗の在家信者であり、曹洞宗から外れて新しい宗教を起こした人であるという認識はなかったと思われる。
次に村を挙げての盛大な行事を行っていることから、伝六の考え方・行動が広く村人の間に浸透し、賛同されかつ尊敬されていたものだと考えられる。そのことはまた、重井村尋常小学校・高等小学校の教育理念に反するものでなかったということを表している。
死後100年経っても伝六の人気は衰えなかった。伝六が他の宗教家と一番大きく違うところは功過自知録を実践指導したことである。
写真・文 柏原林造