2019年3月1日金曜日

2009年3月夕凪亭閑話 

2009年3月1日。日曜日。晴れ。 旧暦2.5. 乙巳(きのと み)六白 赤口 
 3月になりました。太陽の光が明るくて楽しくなります。どこから見ても,春の日射しですね。でも風は冷たかった。
 ドストエフスキー著,小沼文彦訳「クリスマス・ツリーと婚礼 Елка и свадьба」(筑摩版・全集1)。小沼訳のドストエフスキー全集の第一巻は小品集ですが,中編小説のようなものばかりです。一番短いのを読んでみました。クリスマスのパーティで持参金つきの11歳の少女を見そめた名士が,5年後に目論見通り結婚するという話で,クリスマス・ツリーというのは5年前のこと。結婚式がつい最近見たこと,という二本立ての構成が見事ですが,こういうタイプの男というのはカラマーゾフをはじめ,ロシアの小説によくでてきますが,別にロシア人に限った話ではないと思います。ただ,露骨さの点が,あるいはその描き方が国によって違うようです。ヨールカはもみの木のことですね。エリカとは関係ないようですね,スペルが似ていますが。
 
2009年3月2日。月曜日。晴れ。 旧暦2.6. 丙午(ひのえ うま)七赤 先勝 
 さらに暖かくなった。よく晴れていたせいか,夕方は寒かったが。
 B・グリーン著,林一・林大訳「エレガントな宇宙」(草思社)。超ひも理論の話しで,超難しい内容である。しかし,最先端の,正直言ってわけけもわからないような概念を,数式を使わずによくもこれだけ説明しきれたものだと,感心した。そして,次から次へと出てくるたとえ話の見事さ。物理学界のシェイクスピアではないか。その魔法の虹に,一瞬だけではあるが理解したように思わされる。しかし,一歩下がって顧みると,やはり本質のところは,いや入門のところも,分かっていないことに気づく。新しい理論というのはそんなものだろう。量子力学でも,相対論でも,今でこそ何とか道がついているようだが,当初は理解できた人はごくわずかで,大多数の人は半信半疑だったに違いない。超ひも理論にもそんなところがある。後から道ができる。それにしてもエキサイティングでエレガントな本だと思う。
 
2009年3月3日。火曜日。雪後雨。 旧暦2.7. 丁未(ひのと ひつじ)八白 友引 
 朝起きたら雪。時ならぬ春の雪に震えました。午前中ずっと降り続いて,午後になって雨に変わりました。
 寺田寅彦「写生紀行」(全集3)。写生をしに郊外に出掛けたときの印象を記録したもので,画架に留められたなかったことも,文章にして残された。次第に都市化していく街々の最後の光芒ともいうべき風景が記録される。日常の生活圏から飛び出していく理由にはいろいろなものがある。観光などもその一つだろう。しかし、観光や出張というのは,目的地があって,そこをひたすら目指すことが多いの常だろう。それに対して,写生のために適地を捜すというのは,普段とは違った視点で街を眺めることになる。そんな楽しみが存分に書かれた文章による写生である。
 
2009年3月4日。水曜日。晴れ。 旧暦2.8. 戊申(つちのえ さる)九紫 先負 
 晴れて暖かくなった。しかし,夕方になると寒くなる。平年並みか?。
 シェイクスピア作,小津次郎・武井ナヲエ訳「ヘンリー六世 第三部」(筑摩・世界古典文学全集43)。第三部の中心はヨーク公爵側のウォリックである。ヨーク公爵は早い段階で殺され,三人の息子たちの代となる。逆転に逆転を重ね,劇は目まぐるしく展開する。ウォリックはヨーク公爵の長男エドワード(後の四世)の不誠実に怒り,ヘンリー六世側につく。エドワードも囚われの身となるが殺されない。最後は,エドワード側の勝利に終わり,ウォリックもヘンリー六世も殺される。テンポのよい場面展開と個々の登場人物の性格,役柄がはっきりしていて複雑な展開もよくわかる。壮大な抗争がよく書かれている。これで三部作は終わり,次は,ヨーク公爵の三人の息子が話を引き継ぐ。
 
2009年3月5日。木曜日。晴れ,夜雨。 旧暦2.9. 己酉(つちのと とり)一白 仏滅 
  ドストエフスキー著,小沼文彦訳「正直な泥棒 Честный вор」(筑摩版・全集1)。 居候が居候の話をする。その中に,ズボンを取った男の話が出てくる。正直というほどでもないのだが。誠実なというほどの意味ではないかと思う。人間を信じることと疑うということを天秤にかけたら,信じるということのほうへ傾く,傾けるべきだ,というのが作者の主張なのだろうか。
 
 
2009年3月6日。金曜日。雨後雨。 旧暦2.10. 庚戌(かのえ いぬ)二黒 大安 
  昼ごろに雨は止んで,見違えるような好天気になった。吹く風にも春の空気が溢れている。庭のさくらんぼの花が咲き始めた。 
 青柳正則「ローマ帝国」(岩波ジュニア新書)。長いローマの歴史を,短くしたものである。長いものは長いなりに,短いものは短いなりに面白い。この本では,カエサルは少なく,アウグストゥスに最もページがさかれていて,カエサルの目指したところを実現したことがよくわかる。しかし,せっかく作った制度も,後に続く者たちはうまく維持していくことができなかった。すなわち,衰退へむかって車輪は回転を始める。動き出したら,もう止まらない。日本も似たようなものか。
 
 
2009年3月7日。土曜日。晴れ。 旧暦2.11. 辛亥(かのと い)三碧 赤口 
  春らしい素晴らしいお天気であった。明日も続くといい。 
 一海知義編「一海知義の漢詩道場」(岩波書店)。漢詩の作り方の本だと思っていたら,解釈のほうだった。宋の陸遊(さんずい)の詩をゼミ形式で読む会の記録である。一海先生の指摘に各回の担当者がたじたじになるところが,見事に再現されていて,漢詩解釈・鑑賞の要諦が次から次へと伝授されるという,まことに得難い本である。注釈本にない,注釈の秘訣が具体例とともに出てくるのだから,語釈注釈を読むよりもはるかに印象に残る。一回読んだだけでは,とうてい身につかないから,何度読んでも飽きることはないだろう。
 
2009年3月8日。日曜日。晴れ。 旧暦2.12. 壬子(みずのえ ね)四緑 先勝 
  ここに来て,季節のうつろいが加速度的に進んでいるようだが,時間のたつのもまことに速くて,もう3月の8日だから,今年は二月よりも三月のほうが慌ただしく過ぎ去っていくようだ。よいお天気だったので,山茶花を剪定して短くした。ついでに池の掃除を一部した。ヤゴを4~5匹殺した。
 寺田寅彦「亮の追憶」(全集3)というのは,甥の亮という人の思い出を書いたもので,哀感のこもったよい文章である。一族の中でどんどんと夭折していくと,滅びることが宿命であるかのような錯覚に陥りがちだが,当時の医療事情から考えれば,宿命というよりも偶然と考えるほうが科学的なように思われる。
 
2009年3月9日。月曜日。曇り。 旧暦2.13. 癸丑(みずのと うし)五黄 友引
 最高気温が14℃という予報だったので,期待していたのですが,雲ってかなり寒い一日でした。残念でした。 
 寺田寅彦「ある思考実験」(全集3)。「あらゆる日刊新聞を全廃することによって,この世の中がもう少し住みごごちのいいものになるだろうと思っている」が,そういうことは起こらないだろうから,思考実験でやってみようというものである。部分部分においては,かなり詳しく新聞というものについて分析しているので,面白いのではあるが,主題そのものには,意味がないように思う。情報というものは,悪いから無くせよとはじめから押さえつけるものではない。その価値基準そのものが曖昧だから,線引きそのものがむずかしい。選択したり淘汰されたりするのは,あくまでも利用者の判断に求めるべきものである。したがって,新聞がいいか悪いかといったところで,意味がない。勿論,よくしようという意見は必用である。だが,悪いから廃止したら,世の中はもっとよくなる,という考え方はおかしい。殺人や自殺という言葉を使用禁止にしたら,それらが無くなると思うのと大差がない。殺人報道や自殺報道を減らせば,一時的には減るかもしれないが,起こるものは起こるのである。
 新聞についても,他の多くのものと同様,費用対利益,費用対効果の問題で,代金に見合うだけの恩恵が無ければ,購読しなくなる。無くなればもっと快適だと思う人は購読を読めることである。わざわざ思考実験をするほどのことはない。レトリックだと思えば,寅彦の議論に目くじらを立てるほどのこともないが・・・。
 
 
2009年3月10日。火曜日。晴れ。 旧暦2.14. 甲寅(きのえ とら)六白 先負
  よく晴れて,日中の日向は暑いようでした。夜には気温が下がり,満月を眺めつつ足早に家の中に入りました。次の満月の頃はおぼろ月夜になる頃でしょう。
 寺田寅彦「茶わんの湯」(全集3)。有名な文章である。確か,竹内均博士も絶賛しておられた。この文章から多くの教訓を読み取ることができる。一つは,どこにでも細かく観察すれば自然科学の研究にも匹敵するような現象が存在するということである。次ぎに観察の視点への注意である。我々がいかに物をいいかげんに見ているかということを反省させられる。観察と言ってもただ見ているだけの場合が多い。いくらでも観察の視点があるということだ。この場合は湯気,お湯の中,表面と順番に観察するところが示され,さらにその中のどのようなところを見てみなさいと諭される。観察というものは,かくなるものかと教えられる。そしてさらに,観察したことを,大きな自然現象と比較して考察することも意義があることが示される。ざっと挙げただけでも,このような教訓を読みとることができる。さらに,実際に茶わんにお湯を入れて観察しながら,読むと,まことにありがち手引きとなることであろう。このように,ファラデーの「ろうそくの科学」にも似たまことに貴重な文である。
 
 
2009年3月11日。水曜日。晴れ。 旧暦2.15. 乙卯(きのと う)七赤 仏滅
  暑い寒いと言いながら年をとっていくわけであるが,それにしても季節のうつりかわりの多様さに今更ながら驚かされる。まるで遊園地の回転遊具のように暖かくなったり寒くなったりところころと変わっていく。
 シェイクスピア作,大山俊一訳「リチャード三世」(筑摩・世界古典文学全集43)。巧言令色のまことに歯の浮くような台詞の応酬である。主人公リチャードの弁舌の才は,益々冴え渡る。開巻,ヘンリー6世の皇太子未亡人アン夫人との黒を白にさせる技はどうだろうか。夫と息子の下手人の妻となったのが,史実だとしたら,その史実を,作者はたかが5分ほどの弁証法で観客に納得させるのであるから,これはもうマジックである。似たようなことは後半にも繰り返される。
 「ヘンリー六世」の第一部、二部、三部とあわせて四部作となるのだが、その掉尾を飾るのにまことにふさわしい大作である。
 
 
2009年3月12日。木曜日。晴れ。 旧暦2.16. 丙辰(ひのえ たつ)八白 大安
 年度末が慌ただしく過ぎて行っております。「インド式 魔法の暗算術」(PHP文庫)を参考にして,2桁どうしの掛け算を暗算でやる練習をしております。問題のほうは眼の前になくてはできません。これを頭の中だけで,問題も見ずにできるようになれば,いいのでしょうが,それは無理です。せめて計算だけは筆算でせずに頭の中でやりたいと思っております。何度もやっているうちに答えの形がだんだんと頭の中に定着してきます。そのうち答えも定着してくればいいと思います。
 寺田寅彦「塵埃と光」(全集3)。空はなぜ青い? 夕焼けはなぜ赤い? というのは誰もが思う疑問でしょう。そしてその答えが大抵波長と空気中の粒子との関係で,波長の長いものほどよく反射されるので,青が・・ということになり。夕方は今度は角度が・・・というようになりますね。分かったような分からないような気持ちでやり過ごした人が案外多いのではないでしょうか。そんなことを考えさせる文章でした。はじめは塵埃からの反射でもって説明していたのが,空気分子だけでいいということになっているようです。ならば,水蒸気はどうなのでしょうか。やはり塵埃の影響もあるのではないでしょうか,と思ってしまいますね。納得できないものは納得しないでおくのがいいかも知れません。
 
2009年3月13日。金曜日。雨。 旧暦2.17. 丁巳(ひのと み)九紫 赤口
 朝から,雨。寒いですね。でも春の雨と呼びたい。もう十日もすれば,春爛漫ということになるのであろうから。
 寺田寅彦「神田を散歩して」(全集3)。宣伝あるいは広告ということについての文である。以前読んだ新聞についてと同じように,どちらもどんどん増加して,どうしょうもないように成った現在の眼から見れば,いずれも功罪を問うということはとっくに通り越して,いかにつきあうかというのが,現在の課題ではないかと思う。そういう問題の,まだ問題にもならないようなときに,敏感に反応する寅彦の感性に驚く。ジャーナリスティックな感覚も優れていたのであろう。
 
2009年3月14日。土曜日。雨後晴れ。 旧暦2.18. 戊午(つちのえ うま)一白先勝
   昨日から降り続いていた冷たい雨も,昼前に上がった。その後,春の嵐で,暴風が吹きまくっていた。戸外は明るく,気温もかなり高いのに風が冷たい。
 寺田寅彦「秋の歌」と「雑記(Ⅰ)」を読んで,全集3が終わった。身近雑記からは時代の雰囲気が伝わってくる。随分発展してきたと思う。それは一応よしとしよう。さて,これから生活はどう変わるかということだ。生活はよくなるのか,悪くなるのか。もし,生活の程度が悪くなるとしたら,今の社会が,せっかくの工業的発展によって得た恩恵を個人のことに費やし過ぎ,社会の財を蓄積することを怠ったということにはならないだろうか。10年後,20年後に,あの豊かさとは何だったのだろうか,ということにならなければいいが。もっと有効にお金を使っておけばよかったのに,と若い人たちや,これから生まれて来る人たちに言われるのではないかと思う。ローマ帝国の水道橋や神殿に相当するものにもっとお金を費やしてもいいのではないか。
 
 
2009年3月15日。日曜日。晴れ。 旧暦2.19. 己未(つちのと ひつじ)二黒友引
  今日は雨も風も無く,春らしい天気でした。太陽が北に上がってきたためか,東側にある隣家の屋根の上を廻るようになって,部屋の奥まで光が届いておりました。この頃は気温よりも太陽の変化のほうが劇的に変わっているように思います。日の出日の入りの時間や,日没後の薄明の時間など日々夏型へ大きく変わっていっているようです。
 寺田寅彦「浮世絵の曲線」(全集4)。1977年(5刷)(元版は1961)の新書版全集の4卷目に入ります。寅彦の随筆の中でも,絵画に関したものはかなりの数があると思われる。自らも油絵を描いていて,その写生紀行などにも面白いものがあったし,展覧会の評などもあったから,よほど美術が好きだったのではないかと思われる。さて,今回のは浮世絵論のメモ程度のものではあるが,曲線に注目しているところが面白い。その曲線が影響しあうというのだから益々面白い。ひとつだけ例を挙げると,髪の線ができると目の形まで,その線に影響しているというわけである。それにしても浮世絵の誕生と衰退は奇蹟のようなことではないかと思われる。なぜ続かなかったのか,不思議である。
 
 
2009年3月16日。月曜日。晴れ。 旧暦2.20. 庚申(かのえ さる)三碧先負
  暖かくなった。一挙に桜前線が進むのではないか。
 寺田寅彦「言語と道具」(全集4)。人類が進化の過程で,いつ頃,どのようにして言語を獲得したかは,興味ある問題である。しかし,いくら考察しても確かめることはできない。もし,何らかの類推が広く受け入れられるとしたら,そこで展開される理論が,他の領域,例えばチンパンジーの行動などに適用されたりして普遍性を勝ち得たときであろう。このような間接的な証明は物理学の世界でもよくある。相対論も量子論も,直接観測するのではなくて,それを使った理論が,各種の測定値を説明することができることによってその理論の正当性が証されるのである。
 
 
2009年3月17日。火曜日。晴れ。 旧暦2.21. 辛酉(かのと とり)四緑仏滅
  昨日に続いて暖かい。本格的な春である。車の窓を開けて走ると目がかゆい。花粉が溢れているのだろう。
 寺田寅彦「石油ランプ」(全集4)。田舎に秘密の隠れ家を持った。電気を引いていないので,石油ランプを買おうとしたが,いいのがない。地震等が起こって長期に停電したりしたら大変だろうと書く。ちょうど関東大震災前に脱稿したものだということである。当時も今も備えが十分なされていなので憂いが消えることはないのは,同じだ。
 
 
2009年3月18日。水曜日。晴れ。 旧暦2.22. 壬戌(みずのえ いぬ)五黄大安
 素晴らしいお天気でした。でも,黄砂がたくさん降砂しておりました。    
 寺田寅彦「二十四年前」(全集4)。バイオリンを独学で学んでいた頃,あの有名なケーベル博士のところへ一度お話を伺いに行ったという思い出を書いたものである。寅彦が美術だけでなく音楽にも相当な興味をもっていたことがわかるし,当時の西洋音楽へのアクセスの不便な状況がよくわかり,現在の我々がいかに当時の人たちに比べればめぐまれているかというのがよくわかる。さて,ひとつ不思議に思うのは,ケーベル博士というのは漱石も教えを受けた先生である。なぜ漱石を介して交際しなかったのか,そのあたりの事情が書かれていないのが不思議である。
 「言語と道具」の影響で,久しぶりに,「一般言語学講義」と「ソシュールの思想」を出してきました。むずかしいのは同じですが,今ならインターネットで関連の文献も読むことができますから,まとめて読めばおもしろいのでしょうが,残念ながら,燃えませんね。
 
2009年3月19日。木曜日。晴れ。 旧暦2.23. 癸亥(みずのと い)六白赤口
 幸い雨も降らず,春爛漫の気候が続いております。そろそろ桜の開花時期ですね。
 寺田寅彦「解かれた象」(全集4)。これも今から考えると想像できない次元の話である。一回暴れただけで,気が違ったということで,重い鎖が前足に巻かれていた象の鎖が十何年かぶりに解かれたという話である。また,その不幸を生んだ人間と象との確執,といっても人間の偏見と言ったほうが早いが,そういったものに対する寅彦の想像・推定・考察を行ったものである。こういう話を読むと,犬猫に餌をあげるというのには,いまだに馴染まないが,動物へのシンパシーが当時より遙かに進歩したことはよいことだと痛感する。
 
 
2009年3月20日。金曜日。晴れ。 旧暦2.24. 甲子(きのえ ね)七黄先負
 本当に春になりました。メダカが泳ぎだしましたので,ホテイアオイを買ってきました。この地ではホテイアオイは冬を越すことはできません。ヒーターを入れておけばもつのですが,電気代よりも,春になって買ったほうが安いと思いますので,この冬はヒーターを入れませんでした。今年は1つ120円でしたので,2つ買ってきました。メダカの産卵にはホテイアオイが一番いいようです。
 今日から四国へ渡る通行料が1000円になったようですね。休日だけに留めておくべきでしょうね。平日にあまり安くすると渋滞しても困りものです。高速の出口の整備が十分でないことを考えてから値下げしてほしいですね。
 寺田寅彦「池」(全集)。多分「三四郎」に出てくる三四郎池のことだと思うのだが,色々な研究に使われ,かなりの文献に載っている池だそうである。しかし,小説などの文献については書かれなかったのが残念である。
 
2009年3月22日。日曜日。雨。 旧暦2.26. 丙寅(ひのえ とら)九紫先負 さんりんぼう
 朝から小雨模様でしたが,気温は高く春の気配濃厚でした。  
 シェイクスピア作,菅泰男訳「リチャード二世」(筑摩・世界古典文学全集43)。悲劇というよりも,史劇として分類されてしかるべき作品であるが,悲しい作品である。本来ならば王位を狙って争うと,最後は武力衝突となり,負けるということは即命を失うということであるが,本作品では,状況として負けたのであるが,表面上は譲ったように展開するから,益々可哀相になる。他の王位簒奪においても同じことであり,ただ作者の視点の相違だけかもしれないが,敗者としてのリチャード二世を描いた作品である。
 
2009年3月23日。月曜日。晴れ。 旧暦2.27. 丁卯(ひのと う)一白仏滅
  夕方公園を散歩してきた。桜が一部の枝に咲いていた。やっとだ。でも例年より早い。
 寺田寅彦「子猫」(全集4)は,以前にも読んだことのある猫を飼ったときの記録の続編のようなものである。以前のは鼠との関係で述べられていたのが,今回は猫主体で寅彦との心の交流が記されている。猫の行動の観察とそれに対する家族の反応の詳細な記述は,いつもの観察家寅彦の才を余すところなく伝えている。三毛の最初のお産の悲劇については,まことに凄惨な図が細かく記されている。夕凪周辺で,何度も猫の出産の後を目にしたから,こんなこともあるのかと驚いた次第だ。
 読みながら,子どもの頃を思い出した。猫でも犬でも,飼うと情が移る。そしてまた別離の悲しみがついてくる。ここ数年は猫とも犬とも一緒に生活していない。しばらくは,そうする。将来のことはわからない。
 
2009年3月24日。火曜日。晴れ。 旧暦2.28. 戊辰(つちのえ たつ)二黒大安
 夕方本日も散歩。桜が一段と進む。
 寺田寅彦「地震雑感」(全集4)。毎年一回は新聞紙上で寺田寅彦の名前を見るが,大抵は地震に関してである。地震のような複雑な現象でかつ社会に与える影響の大きな現象は論点が多数存在する。本稿でも寅彦は多面に渡って論考している。そして予知や対策について書かれているものについては,現在でも理解しやすい。「少なくもある地質学時代においては,起こりうべき地震の強さにはおのずからな最大限が存在するだろう」とか,「百年に一回あるかなしの非常の場合に備えるために,特別な大きな施設を平時に用意するという事が,寿命の短い個人や為政者にとって無意味だと言う人があらば,それはまた全く別の問題になる」(いずれもp.63)というように。
 
2009年3月25日。水曜日。晴れ。 旧暦2.29. 己巳(つちのと み)三碧赤口
 今日は春の嵐です。冷たい風が舞っていましたが,どんどんと桜の花が開き,季節は急激に春模様へと変わっていきます。
 シェイクスピア作,富原芳彰訳「タイタス・アンドロニカス」(筑摩・世界古典文学全集43)。ジャンヌダルクの出てくる「ヘンリー六世」と同様,急激な場面展開にしばしば戸惑う。しかし,ストーリーは単純できわめてわかりやすい。内容は残忍な復讐劇で,当時の観客の好みとはいえ,現代では上演されることがあるのかどうか疑わしい。我が国でも似たような演劇が無きにしもあらずということで,シェイクスピアとて時代の子であったということであろうか。さらに,これから悲劇へと成長するには幾多の洗練と人間心理の探究が要求されるのは,言うまでもない。
 これにて,筑摩版の「シェイクスピアⅢ」が終わりです。途半ばです。  
 
 
2009年3月26日。木曜日。晴れ。 旧暦2.30. 庚午(かのえ うま)四緑先勝
 春になりましたので,今日は旧師を訪ねて広島へ行ってきました。そして県立美術館へ行き,「よみがえる黄金文明展~ブルガリアに眠る古代トラキアの秘宝~」を観てきました。時々ホメロスを繙く小生にとっては大変参考になりました。こういうのが近くへ来たことだけでも感謝。金というものの美しさを改めて認識した次第です。次は静岡と福岡ですかね。追いかけてでも観る価値はあります。
 寺田寅彦「鑢屑」(全集4)は断章です。いずれも,これらの問題を敷衍してくることを寅彦に期待したい気持ちになります。しかし,その問題について考えるのは読者ではなかろうかとも思います。
 
2009年3月27日。金曜日。晴れ。 旧暦3.1. 辛未(かのと ひつじ)五黄先負
 好天気が続きます。梨の花が開きかけています。
 寺田寅彦「流言飛語」(全集4)。関東大震災のときの暴徒が井戸に毒薬を入れるという流言飛語の事件について,科学的常識という立場から考察を加え,警告を発したものである。現在からみればまことに幼稚な取るに足らないような思考法から,とんでもないことがおこったのであるが,現在のようにマスコミが発達してくると,こういうことは回避できる。ならば,科学的常識が浸透したのかというと,必ずしもそうではなくて,また別の次元の妄動は現在でもしばしば見られるということは,言うまでもない。科学的な常識の持ち主だと思う人は常に社会に対して発信してもらいたいものである。と,同時に自らも鍛える必用があることは言うまでもない。
 
 
2009年3月28日。土曜日。晴れ。 旧暦3.2. 壬申(みずのえ さる)六白仏滅
 三月も月末が近づいてまいりました。桜が咲き始めてかなりたつのに,気温が上がらず,大きく開きません。それいで一部は散っていたりして,変な春です。夕凪亭を夏モードに替えようと思うのですが,夜になるとやはり寒いので,しばらくはこのままで行かざるを得ないようです。炬燵も片づけ掛けたのですが,また復活させました。むさ苦しいのですが。
 寺田寅彦「怪異考」(全集4)は,当然といえば当然の仕事ですが,説得力のあるよい仕事だと思います。伝承の中の怪異的現象に物理学者寺田寅彦が能う限りの科学的知識と科学的常識を駆使して,科学的に解釈しその謎を謎でなくそうとする作業です。しかし,ここでは,あくまでも仮説に終始しておりますが,なかなか説得力があります。現時点で見ても,こういう解釈でいいのではないかと思います。本編では,土佐の「孕のジャン」という海上での異常音と不漁の現象。それに「頽馬」「堤馬風」あるいは濃尾地方で「ギバ」と呼ばれる,馬の突然死に関するものです。寅彦は前者を地鳴り,後者を放電現象に関係したものだろうと推定しております。末尾に機会があれば,このような仕事を続けたいと書かれております。続編が楽しみです。
 
 
2009年3月29日。日曜日。晴れ。 旧暦3.3. 癸酉(みずのと とり)七赤大安
 春ののどかな日曜日である。日曜日の大安で,よい日である。だが,気温が予想していたほど上がらないのが残念である。炬燵に入って本を読んでいると老人のようにすぐに寝てしまう。四捨五入すればとっくに老人だから,当然といえば当然であるが。夕方更に気温が下がり,散歩に行こうかと思ったがやめた。ということで三日月も見ておりません。  
 富士川英郎「菅茶山 上」(福武書店)。上巻だけで556ページ。下巻539ページ。上下分売不可のセットで,函に入った内外ともに堅牢豪華な本である。内外というのは,函と本という意味でなく,本の内容と本の体裁のことである。今,やっと上巻を終わって長い徒歩旅行の折り返し点に来たような感想をもつのは,本書が江戸時代の漢詩人菅茶山の交友と旅を能う限りの資料で跡づけたものであるからであるが,漢詩はもとより,書き下し文で書かれた日記や書簡が丹念に引用されており,はなはだ読むのに苦労をしているからに他ならない。まことに丁寧で立派なお仕事に,ただただ感心するとともに,感謝の気持ちで一杯である。廉塾から車で30分くらいのところに住んでいても,多くのことは知らない。詳しいことはわからない。今後,この本以上のものが出るとは思われない。
 
 
2009年3月30日。月曜日。晴れ。 旧暦3.4. 甲戌(きのえ いぬ)八白赤口
  いよいよ今年度も終わりに近づき,今日明日で三月も終わりです。よいお天気とはいうものの暑いというほどの気候ではありませんから,桜にとってはややもの足らない気候ではないかと思います。
 寺田寅彦の「化け物の進化」(全集4)は,前に読んだ「怪異考」に似て,鎌鼬などの解明もあるが,どちらかというと総論的な内容になっていて,タイトル通り不思議な現象が時代とともに解釈が変遷していることを論じながら,科学の普及とともに消失しつつあることを指摘している。ここまでならば,誰しも感じるところであるが,さすがに寅彦の天才的な頭脳は,これが却って科学教育にとってマイナスだと直観する。合理的すぎる教育が果たして真の教育になっているか再考すべき時期に来ているのではないだろうか。
 
 
2009年3月31日。火曜日。晴れ。 旧暦3.5. 乙亥(きのと い)九紫先勝
  花見ということで,昼休みに弁当を買って近くの公園へ行って,桜の下で食べた。昼だというのに冷たい風が吹いて肌寒い。春を迎えているのか,待っているのかわからなくなった年度末だった。
 三島由紀夫「待童」(旧版全集7)。人は時に心に思っていることと反対の行動をとることがある。あるいはよく考えてみると,むしろそのような行動のほうが多いのではないかと思われるほどである。三島さんの男女の心理の機微を描いた作品にはそのような考えが基準になっているのかと思われるほどに,主人公たちは心にもない行動をとる。「待童」は作者の区別によればエンターテイメントの作品で,当時の言葉で言えば純文学作品ではない作品であるが,そのような区別は現在では不要で,良い作品とよくない作品に分ければ済むことである。そして,間違いなく本作品は良い作品であって,モーパッサンの短編等と比べても何ら遜色のない傑作である。