2021年2月14日日曜日

ふるさとの史跡をたずねて 増補版 101-110回

 本館 白滝山 いんのしまみち

1回から100回までは『温故逍遙 ー海の武士団ー』としてまとめた。その時目次のように項目を分けたら、そのままの順序で並べても違和感がなかった。いや、それ以上に我ながらよくできた構成だと思った。その構成(目次)は、全く苦労せずに、まるで鉛筆が勝手に動くような感じで、できた。このことは因島に帰っての最初の仕事、「因島城跡物語」のパネルを作ったときの構成を考えた時と全く同じだった。数分でできたものを後から見ても変える必要を感じなかった。要するに努力したのではなく、父母から受け継いだものに身を任せただけであった。

しかし、101回から200回までをまとめるにあたって、その魔法は効かなかった。その理由は最初の100回に比べて、次の100回の執筆時の緊張感が減ったためである。具体的に言えば、読者も慣れてくれたことだろうから、各回の連続性にこだわることを緩めようと思ったのだ。だから、自分の頭の中だけの連想ゲームのような調子で各回を展開した。だから当然のこととして読者の側から見ればテーマが飛んでいるのだ。ここまでわかれば、この冊子の編集方針はすぐに決まった。その間の溝を埋める簡単な解説文を入れることによって、強引な目次(構成)を作る必要はなくなった。

 ただ、元の連載がメインで、間の解説はあくまでも飾りでなければならない。文章の調子、すなわち文体を変えようと思ったが、その魔法もまた効かなかった。結果として、フォントを変えてみた。



 因島村上氏が慶長5年(1600)の関ヶ原役に負けた毛利氏にしたがって因島を去ると、因島はただの農村になる。とはいえ、村上氏や武将たちの子孫の人たちを中心に近世農村社会が建設されていく。なかでも干拓と廻船業への進出は特筆に値する。やはり、海は宿命であった。

 と、第100回で書いて、この連載を村上水軍の時代に一区切りつけて、101回からは、江戸時代を中心に書いていこうと思った。

 村上水軍の時代と江戸時代をつなぐ象徴として大土生宮地家ほど適したものは私の頭にうかばない。


ふるさとの史跡をたずねて(101)

大土生宮地家跡  (因島土生町郷区)


 変電所近くの小丸城跡が因島村上氏第二家老稲井氏の居城で、麓の宝地谷に宝持寺と須佐神社があった。今は石塔群と神社がある。そこよりさらに西へ下がったところに稲井氏の屋敷があった。

 因島南中学校の東側上の辺りである。因島南中学校のあるところは因島高校のあったところである。その東の高いところに図書館があった。窓の外にはみかん畑があって奥へ行くにつれて少しずつ高くなっているようだった。今はグランドの端の校地と境界をなす辺りには駐車場があり見晴らしはよい。しかし、どの辺りにかつて図書館があったのかは、私にはわからない。

 その駐車場の少し上の方に稲井屋敷があった。すなわち第二家老稲井氏はこの辺りを中心に活躍した。のみならず中国貿易で得た莫大な利益で因島村上氏を支えたのであった。

 しかし、因島村上氏の因島退去とともに、稲井氏も因島を去る。稲井本家は六代吉充に従い長門国矢田間(現下関市)へ。一部の者は広島へと。

 関東で新田義貞とともに蜂起して鎌倉幕府を倒した脇屋義助は南朝の重鎮として戦い、その子は敗退して伊予大島へ逃れた。そこで稲井と氏を改め、村上氏に従い因島に来て二百二十五年。

 稲井氏の流浪はまだまだ続くのであるが、話を稲井屋敷に戻すと、江戸時代には庄屋宮地氏が住んだ。大土生宮地家と呼ばれているから、稲井氏の広大な支配地を引きついだと想像しても大きく違うことはあるまい。今は別の方の所有になっているが、基礎の石組みは稲井氏の時代のものだと言われている。




ふるさとの史跡をたずねて(102)

大土生宮地家墓  (因島土生町對潮院)


 對潮院の境内を抜けて、裏の墓地の前の道路に出る。そこから少し右手の大きな樹木の前に大土生宮地家の墓地がある。そこには、初代清左衛門光時、二代久右衛門光宗以下、八代又次右衛門貞久までの墓がある。

 ここに大土生宮地家の墓があるのは偶然ではない。否、ここになければならないのである。對潮院は因島村上氏の時代には第二家老稲井氏の別邸(下屋敷)對潮閣であったところである。稲井氏の領地を第四家老の宮地氏が引き継いだのなら、当然對潮閣も宮地氏のものでなければならない。では、なぜ宮地氏のものになったのか・・・。

 慶長五年の関ヶ原の戦いは、関ヶ原だけでなされたのではない。因島村上氏は小早川氏の配下だったので西軍である。ところが伊予の高橋氏は東軍についたので、因島村上氏は三津浜の松前(まさき)城へ攻めていき大敗を喫した。その時の戦死者の中に重井馬神城主末永景光、中庄大江城主宮地忠明などの名が見える。末永氏は稲井家の分家で母方の姓を名乗った。宮地忠明は稲井氏と書かれてあるから、稲井家から養子に行ったということであろうか。

 因島時代最後の当主稲井治憲にとっては、父家治が負傷し因島へ帰ってから亡くなり、長子重治も失っている。末永景光、宮地忠明も治憲の兄弟かそれに近い関係であっただろうから、まことに痛恨の極みであっただろう。

 治憲は本邸、別邸等を宮地忠明の遺児に譲って因島を去ったと言われている。對潮院は光時が慶長十三年(一六〇八)に開山したということであるから宮地忠明の遺児というのは大土生宮地家初代清左衛門光時のことであろう。






ふるさとの史跡をたずねて(103)

大土生宮地家墓・二  (因島土生町郷区)


 對潮院の大土生霊銘碑には「九代より大土生旧家墓所」と書かれている。この旧家とは前前回に紹介した第二家老稲井家の屋敷跡で、かつての大土生宮地家の屋敷跡ことである。そこから北側へ少し歩くと、右に山の方へ登る小径があるので進み、左手に注意しておればすぐにわかるだろう。

 九代にもなると對潮院と大土生宮地家の関係もほとんど無くなったと思ってよいだろう。新しい墓地を求めず、手っ取り早く敷地の一角を墓所としたのであろうか。

 十九代宮地毅氏から逆算すると、左端にある霊銘碑には十七代から記されている。従って、右に並んでいるのが九代から十六代までの個別の墓である。

 さて、周囲は竹藪である。この周囲がいつ頃から竹藪になったのか知らないし、まして江戸時代の初期のことなど想像もできないが、一部は古くから竹藪だったのではないかと想像した。

 というのは、大土生宮地の分家の一つに竹之内宮地家というのがあって、竹藪の側にあったのでそう呼ぶようになったと言われているからである。その竹之内宮地家は三庄の干拓をして、後に三庄の庄屋となる。第二家老稲井家と第四家老宮地家のハイブリッドが因島で果たした役割は小さくはなかった。その一つがこの付近の竹藪から始まったと、私は思っている。





ふるさとの史跡をたずねて(104)

青木金比羅神社  (因島重井町青木)


 青木城は因島村上氏六代吉充以降三代の居城であった。この話が本当だとしたら、最後の本拠地であったわけであるが、それらしいものは無く、閑散としていて訪れる人は多くない。今はすっかり内陸部になっているが、当時は白滝山に連なる東側を除いて三方が海であった。北と南の入り江を想像したら北の方がこじんまりして、なおかつ浅瀬が多かったと思われる。それに山もなだらかであるので、こちらを表、南側を裏としても悪くはなさそうである。だから、青木側に裏木戸門があったという伝承は信じてもよかろう。

 裏木戸門、略して裏門が今でも人の口端に上がるのは、そのあたりに江戸時代初期に重井村の庄屋をした長右衛門家の屋敷があったからである。今はその痕跡もないであろうから、長右衛門家の話を始めるにあたって、青木の金比羅神社を訪ねることにした。長右衛門が祀られているし、何よりも、大正時代に裏門辺りからここに移したと言われているからである。こう書くと長右衛門屋敷の中にあって、同家の守護神であったような印象を与えるが、因島で金比羅金信仰が盛んになるのは江戸時代後期だから、長右衛門の屋敷があった辺りにあったというだけで長右衛門家と直接関係があったとは、思われない。

 その金比羅神社には金比羅大明神、住吉大明神とともに二代長右衛門氏が祀られている。二代長右衞門宗徹は寛文十年(一六七〇)に七十三歳で亡くなっているので、江戸時代のはじめを生きた人である。




ふるさとの史跡をたずねて(105)

開化橋  (因島重井町青木)

 重井町の中心を流れ、東西に二分する重井川にかかる橋の名を下流から記すと、明治橋、東西橋、大正橋、昭和橋・・と続く。その昭和橋の東、重井村四国55番南光坊の隣に、「開化橋」と書かれた石柱がある。開化という年号はないから、いつの時代かはわからないが橋ができて、昭和になって建て替えられたのだろう。福沢諭吉の『文明論之概略』が明治8年に書かれ、そこで文明開化という言葉が使われたので、明治10年頃に開化橋ができたと推定しておく。

 さて、ここから東へ直線道路が青木道路まで続いている。この直線道路の右側が、長右衛門新開で、左側は、郵便局までが青木沖新開、さらにその沖が本郷沖新開である。

 新しく開発されたところを新開と呼ぶが、海を開くには二通りの方法がある。埋め立てと干拓である。埋め立てに必要な土を確保するためには、山を崩さないといけないので、堤防を築いて水を抜く干拓が多用された。

 二代長右衛門宗徹は多くの干拓事業を行ったが、なぜここだけが長右衛門新開と呼ばれるかは定かではない。ただ言えることは、長右衛門屋敷があった新開ではある。





ふるさとの史跡をたずねて(106)

長右衛門の碑  (因島重井町青木沖)


 青木道路を北へ向かって歩くと重井郵便局に至るが、その少し前、青木城跡の麓に長右衛門の碑と呼ばれる、文字を掘った岩がある。岩というよりも砂の塊のようなものであるから、風化が激しい。かろうじて次のように読める。

「備之後州御調郡因嶋重井村之住 前長右衛門尉法名宗徹□□寛 永万治之間 □全村中田畠□九拾 町□□□□□□テ寛文年中自此 西之三新開田畠拾町余為子孫 十一□□□□公之者也」。(空白は改行、四角は判読不能。)

 やはり、二代長右衛門宗徹のことである。宗徹は元和二年(一六一六)に十八

歳で庄屋になっているので、「元和寛永万治之間」かもしれない。生涯を干拓事業に費やしたことがわかる。

 この石碑より西の三新開というのは、どこのことだろうか。単純に考えて、この石碑のある青木沖新開、上流の長右衛門新開、重井川の西の郷新開ではなかろうか。そうであるならば、寛文十二年(一六七〇)までには重井町の東西橋あたりまでができていたことになる。

 こんなに昔から陸地になっていたのだから、川沿いに住んでいる人を除けば、干拓地であるということを普段は意識しない人の方が多いだろう。「災害は忘れた頃にやって来る」というのは、過去の災害の歴史を言うのであるが、災害の歴史のみならず、自分たちの住んでいる所の歴史という意味もあるように思われる昨今である。




ふるさとの史跡をたずねて(107)

長右衛門の墓  (因島重井町善興寺)


 重井町善興寺に長右衛門の墓がある。本堂裏山の通路沿いで、赤茶けた木製のお堂の中にあり、引き戸を開けると見える。白いペンキで「環應院」(環応院)と書いてあるが、旧漢字の草書で書かれているので、その気になって探さないとわからない。7月豪雨での崩落はかろうじて免れているいるが、現在は近くまで行けない。

 環応院というのは初代長右衛門元照のことで、戒名が「環応院心月元照居士」である。因島割庄屋を勤めた。庄屋というのは百姓身分でありながら、行政組織の末端を勤めた人をいう。東日本では名主と呼ばれた。各村にあったようだが、ある地域の代表を割庄屋と言った。福山藩では大庄屋と呼ばれた。因島割庄屋としては最初の人だったのではないかと思われる。

 二代長右衛門宗徹の墓は近くにあるはずだが、見つけることはできなかった。戒名は「通眼宗徹居士」と言い、夫人は岩城村庄屋白石孫右衛門の娘で、戒名は「金光浄真大姉」である。

 長右衛門家は六代まで庄屋をしたが、因島の割庄屋となったのは初代長右衛門元照と六代長右衛門知義である。




ふるさとの史跡をたずねて(108)

長右衛門の供養像  (因島重井町善興寺)


 重井町善興寺の墓地入口の六地蔵は7月豪雨での崩落で倒壊した。六地蔵の隣に長右衛門を供養する地蔵尊があった。四角な基台に「見岩壽(寿)性信士」と彫ってある。重井村の庄屋、後に因島割庄屋を勤めた六代長右衛門知義の供養像である。

 知義は父と共に伊浜新開を開いた人であるが、安永二年八月二十二日に亡くなっている。二代宗徹からおよそ百年、明治まで百年足らずの一七七三年であるが、以後、長右衞門家は庄屋をやめ、子らは大坂へ移住する。六代知義に何が起こったのであろうか。そのことを伝える資料はない。

 ところで、翌安永三年の村立実録帳がある。そこに「猟師鉄砲持主徳右衛門儀安永二巳八月御仕置被為仰付」とあり、後この鉄砲を望むものがなく村庄屋勘右衛門が預かっている、と書かれている。「徳右衛門」が「長右衞門」の間違いだとしたら、仕置になったということであろう。

 これが人口一三八九人、家四四四軒、牛七二頭、船十七艘の重井村で、前年に起こった「事件」を伝える唯一の資料らしきものである。

 そしてその理由が、長右衛門物語によって説明されてきた。その多くは明治になって学校で教えるために作りなおされたものだろうから、どこまで信じてよいかわからない。





ふるさとの史跡をたずねて(109)

重井八幡神社  (因島重井町伊浜)

 長右衛門家の事業は干拓だけではなかった。寺社の増築維持も庄屋として欠かせない事業であった。重井八幡神社も長右衛門家六代に渡って営々と造営されてきた。棟札に「大旦那 源吉充 永禄十二年九月廿一日」の文字がある。一五六九年に中庄八幡神社から勧請したもので中庄側の史料の写真が『因島市史』に掲載されている。古くは色々な神が祀られていたのだろうが、八幡神社としてはこの年から始まったと考えてよい。

 因島村上氏六代吉充が向島余崎から重井青木に移ったのがこの年であると言われているが、そのことを示す文書は見当たらず、棟札は吉充が遅くともこの時までには重井に居たことを示すから、このことから推定されたものかもしれない。ここから起算すると来年は青木城、馬神城、細島茶臼山城が築城四五〇年ということになる。八幡神社としての創建四五〇年ということでもある。

 八幡神社は九州宇佐氏の氏神であったが、弓削道鏡事件の頃は御神託を伺うほどの重要な神社に昇格していた。菩薩号も与えられ八幡大菩薩と称された。後に武家の氏神、中でも源氏の氏神となり、岩清水八幡宮、鶴岡八幡宮などが有名である。重井八幡宮は村の氏神ととして勧請されたのであろうが、源氏姓の因島村上氏にとっても、またその子孫と称する長右衛門家にとっても自分たちの氏神でもあった。

 重井村上氏は長右衛門家とさらに大元屋(備前屋)、丸本屋の三系統があると理解しているが、それが因島村上氏のどこから分かれたのか釈然としない。宮本常一氏の労作『瀬戸内海の研究1』はその辺の事情を案外うまく説明しているかもしれない。




ふるさとの史跡をたずねて(110)

一本松  (因島重井町一本松)

 干拓地の周辺をを注意して見ると、様々な干拓の名残りを見つけることができる。

  因島村上氏は海賊行為だけでなく経済活動も行なっていたと言われるが、その経済活動の中に干拓や殖産振興が含まれていたのだろうか。そうでないとすると、一本松より南が干拓されたのも江戸時代になってからであろう。その干拓の堤防の上に築かれた土手が写真の松のあるところである。

 松の木の下には小さな川があったが現在は暗渠になっている。その川は白滝山の南西の沢に発し、西下して途中で南に曲がり、ここを西進して重井川に注ぐ、という複雑な構造をしている。

 一本松より北がまだ海の時は、その川は西下してそのまま海に注ぎ、重井川も一本松のところで海に注いでいたはずである。それが二代長右衛門宗徹によって干拓が行われ、川口新開一町田ができた時、この川が南へ迂回し、それが注ぐ重井川も西に曲がって延長された。言うまでもなく新しい干拓地へ不要な水が流入しないようにするためである。

 さて、一本松の下にあった小さな川は、松の根元に接して南側にあった。そして流れは松によって少し曲げられていた。この状況から、松と川のどちらが先かということを考えてみよう。一見、川が後のように見えるが、松にぶつかるように川を作るとは思われない。川があってその北側に松が植えられた。そして松が南へ傾きながら成長するにつれ、今のようなコンクリート製でない川を南へ押した、と私は考える。これ以前に、近くに別の松があったのならばともかく、写真の松を初代と数えるのなら、それは川口新開一町田ができてから後に植えられたものと推定するのが妥当である。(写真は昭和50年頃写したものです)。





写真・文 柏原林造

本館 白滝山 いんのしまみち