第91回 黒雲母花崗岩岩脈(因島鏡浦町)
小鏡城跡の北側下にある厳島神社は埋立地の堤防際にあり、海に接していたものであったという原形をよく留めている。その厳島神社の横を通って海岸に出て、ほどよく潮が引いておれば南に向かって歩く。そして右手の崖とその前の岩肌を眺めてみよう。
黒白の縞模様が百メートル以上にわたって続いている。右のほうで黒白の間が広がっている。似た模様が鏡浦港の陸側にもあるようだ。桟橋近くから見ることができる。
さて、その縞模様だが、黒い方が古生層で白く見えるのが古生層に貫入した黒雲母花崗岩である。その白い層を近くから見ると、大小の黒い古生層が取り込まれていたり、様々な隙間(晶洞)があったりして興味は尽きない。
実はここには、小学校5年の遠足で重井町からはるばる歩いてきている。三人の先生に引率された120人ほどの児童が一時間ばかり放し飼いされてから、何事もなく全員無事帰ったのだから、やはり島の子供はすごかったと、今更ながら思う。
ほどよい形の岩の上に立って南を眺めると、椋浦の海岸段丘が見えるし、その背後には備後灘に向かって沈みこむ一ノ城跡の勇姿が印象的だ。その先端である白嶽ノ鼻のはるか向こうには魚島が霞んで見える。そのあたりは、備後灘ではなく燧灘ではあるが。
92 因島八景・第七景(因島椋浦町)
「水軍スカイライン(椋浦峠)から地蔵鼻への眺望」の第七景の石碑は水軍スカイラインから外れて、奥山登山口の方へ少し上がったところにある。そこから見れば地蔵鼻の向こうが県境で、今更ながら因島が広島県の端に位置するのだと実感する。弓削島の左に久司浦、右に上弓削の集落が小さく見える。大人なら家老渡フェリーに乗ればすぐに行けると思うが、童心に帰れば、そこはまさに海の向こうの異国の世界である。目を凝らせば地蔵鼻のこちら側に鼻の地蔵さんが丸く見える。海も美しい。
さて、足元に視線を転じると、すぐ上には因島最高峰奥山(観音山)の登山口、その隣のお堂は島四国番外の長戸庵大師堂である。長戸庵というのは本四国の12番焼山寺への遍路道にある仏堂のことである。島四国を作った時、 ここにあった大師堂と椋浦峠に焼山寺道の難所を
思い出したのであろうか。その名の由来の通り 、椋浦峠
・ ・ ・ ・ あんばい
を歩いて登ってきたら誰でも休むのにちょうどええ塩梅、と思ったに違いない。
少し北へ下ると、一の城跡への登山口、さらに下ると奥山林道(林道天狗山線)の入口などがある。その先は椋浦町に通じるが急な坂だからスリップ注意である。特に雨の日は車で通らない方がよいだろう。
93 一ノ城跡(因島椋浦町)
いきなり、ぶっきらぼうな説明で恐縮ではあるが、地蔵鼻から北を見たら見えるのが一ノ城跡である。
因島最高峰の奥山(観音山)の東にある雄大な山並が左から右へなだらかに下っていって、備後灘へ陥入する。海と接するところの北端が白嶽ノ鼻である。重井町の白滝山と同様、「タキ」は崖を表すから「シラタキの鼻」でいいのだと思う。タケもタキも同義語だから、「シラタケの鼻」と読んでも間違いではなかろうが。
海と接するから、いかにも海賊の城のような印象を受けるが、その傾斜地はかろうじてウバメガシの幹につかまりながら降りることができたから、頻繁に昇り降りするようなところではない。
数段の廓跡や、その間に点在する空堀や土塁などの遺跡の多さでは、文字通り因島一の城跡であると言っていいだろう。また、標高202mの鶴ケ峰にある、本丸跡だと呼ばれている広場から見る地蔵鼻、弓削島や備後灘、燧灘の光景はすばらしい。惜しむらくは登山口が崩壊の危機に瀕していることである。
一ノ城はいわゆる本丸のことで、二ノ城、三ノ城があったのであろう。また後に蒲苅島に移ったので蒲刈小早川氏と呼ばれる人たちの城跡だと伝わっているが、それとは別の小早川氏、すなわち地頭小早川氏の城跡である。
94 小早川氏の墓(因島椋浦町)
うしとら
一ノ城跡の北側、椋浦町内に小早川氏の墓がある。艮神社から西へ少し進むと、道端に説明板があるので、 そ
こから畑の中に入ればよい。
えいいき
五輪塔、一石五輪塔と「蒲刈小早川家先塋域」と書かれた碑がある。館跡もこの近くにあったと言われるが、その位置はわからない。北側の山の方だと思われるが特定できない。
小早川氏が因島に来たのは外浦堂崎山で広沢五郎と大舘右馬亮の連合軍が敗退した後ということになる。それは、興国4年(1343)、北朝の年号では康永2年である。それ以後、地頭職(1351)や三庄領家職(1386)が与えられ、応永34年(1427)頃まで因島を支配下に置いていたようである。これを地頭小早川氏と呼ぼう。
その後、因島村上氏の時代になってから、応仁の乱以降、蒲刈小早川氏が来たことになっているが、村上氏との関係を示すものはなく、よくわからない。椋浦町内の一ノ城や、ここの墓がこれまで語れてきたように地頭小早川氏の遺跡であるのなら、蒲刈小早川氏のものである可能性は少ないと私は思う。
95 小田池(因島中庄町)
椋浦峠から林道天狗山線(奥山林道)を歩いた。
因島最高峰の奥山を反時計回りに巡る。落石や倒木があって、車は通れない状態であった。だから道のどの部分を歩いてもよかった。幅4メートルの道路を車を気にせずに歩くのは爽快であり、ある種の贅沢だ。だいたい因島は道路が狭いのに車が多すぎる、と改めて思った。
右下に椋浦町、鏡浦町、外浦町と順に変わっていく。そして時々、樹間に海が見える。外浦町の上の辺りだと思うところに溜池があった。溜池としては因島ではもっとも高い位置にあると言ってよいと思う。以前に外浦町の上に溜池があって人が住んでいたと聞いたことがあるので、ここのことかと思う。
小屋らしきものは見えないから、人が住んでいたかどうかはわからないが、これだけの水の量があれば田んぼがあった可能性は高い。
昭和34年の「因島市建設計画書」によると、小田池は中庄町に属し、面積694平方メートル、平水量313立方メートル、満水期最大深度3.6メートルとある。
96 千守城跡(因島三庄町千守)
変電所の隣を通って土生町から三庄町方面へ下ると海に突き当たる。その少し手前の左手にある丘が千守城跡である。海岸通りより一つ中の道を歩けば登山口がある。頂上近くの開けたところに公文明神が祀ってある。因島で学習塾でない公文という文字があったら、何らかの形で荘園時代の名残だと思えばよい。荘園管理所を公文所と言ったからだ。荘園管理者の館を兼ねた公文所が近くにあったのだろう。
後には一ノ城と関係ある小早川氏、因島村上氏の時代には大目付篠塚伊賀守の居城だったと伝わっている。場所、高さ(79m)とも立地条件は抜群によい。多くの伝承を裏付けるかのように、複数の石垣や井戸跡などが残っている。
ここでもう一つ有名な伝承を書いておきたい。それは、南北朝時代の篠塚伊賀守の話である。足利尊氏とともに鎌倉幕府を倒した新田義貞の弟、脇屋義助は南朝の勢力挽回を期して伊予に来る。脇屋義助は程なく今治で病死するが、その重鎮、篠塚伊賀守はよく戦うも押されて、ここ千守まで逃げてきた。諸本によって異なるのだが、岩波書店の『太平記』(日本古典文学大系)では陰ノ嶋になっている。(二巻387頁)。
97 篠塚魚港(愛媛県上島町魚島)
前回の『太平記』では陰ノ嶋とは魚島のことで、そこには篠塚伊賀守の墓があると書いてある。このキツネにつままれたような感じを解消するには、魚島に行って見てくるしかあるまい。
魚島は弓削島、佐島、生名島、岩城島などとともに愛媛県越智郡上島町に属している。他の四島がやがて橋で結ばれるのだが、魚島はあまりに遠い。しまなみ海道を尾道側から入ると尾道大橋出口の辺りで向島の山の向こうに三つの山からなる島が見える。因島大橋からも見えるが・・・、これ以上書くと脇見運転を勧めることになるのでやめる。
土生港から出る魚島行きの高速艇に乗った。天気もよく、いつも以上にワクワクする。土生港を出るとまず弓削港へ着く。因島の方を見ると、ここでもまだ青影山が見えている。弓削港を出ると佐島との間にかかっている弓削大橋の下を通って南に向かってから、東へと進路を変える。いつまでも北に弓削島があって因島が見えない。改めて弓削島の大きさを実感した。豊島、高井神島を経て、魚島へ着く。土生港を出ておよそ1時間。着いた港の名前が「篠塚魚港」と言うのには驚いた。
98 誤伝・篠塚伊賀守墓(魚島亀居八幡神社)
魚島に上陸して、右手に進むと山道がある。ここを登れば篠塚公園に向かう。沖島城跡の一角である。さらに進んで亀居八幡神社へ行った。そこに、「篠塚さん」と呼ばれ、篠塚伊賀守の墓と伝わる宝筐印塔があった。だが、隣にある説明板にはそれは間違いであると書いてあった。すなわち、この宝筐印塔は古くから篠塚伊賀守の墓と言い伝えられ、みだりに触ると祟りや罰があり、正面に静止して黙祷するなどの強い信仰心を集めていたものであるが、鎌倉時代のもので篠塚伊賀守の墓と見做すは誤りである、と。
話は振り出しに戻った。しかし、島内唯一のお寺はかつて篠塚寺と呼ばれていたし、中心集落も「篠塚」であり、「篠塚漁港」に加えて、漁業組合の名称も「篠塚漁業組合」と呼ぶとか、因島の法楽踊りと共通する「テンテコ踊り」は伊賀守が軍事訓練をした名残だというように、伊賀守伝承に富んでいる。
こういう所であるから、島内外の伊賀守に関する伝承も多く収集されている。興味深かったのは、因島に先ず来て、外浦の堂崎山の戦いの時、三庄・美可崎城である岬城で七ヶ月戦い、負けて魚島へ逃げてきた。因島での落胤が因島村上氏の時代の千守城主大目付篠塚十郎左衛門貞忠であるというものだった。
また、伊賀守の末裔という方が各地におられ、近くでは因島の篠塚氏、魚島の大林氏が挙げられていた。
99 稲井城跡(今治市吉海町)
南朝の要人が伊予に三度も来ている。まず最初は篠塚伊賀守の主君、脇屋義助の伊予下向で、その後日談が前回までの話。二番目は信濃の村上師清が伊予大島に来て村上義弘の跡を継ぎ、釣島箱崎浦の戦いで今岡通任を破った。いわゆる師清伝説である。この話には師清を北畠顕家の子であるとする別ヴァージョンもある。三度目は南朝の重臣新田義貞、脇屋義助兄弟のそれぞれの遺児義宗、義治が大島に来て師清を頼ったというもの。私などは、いずれか一つは史実だとしても残り二つは長い間に混同されて作られた話ではないかと思うが、どの話も面白いので、今は正否は問わないことにしよう。
さて、今回の主題は三番目の話である。足利尊氏とともに鎌倉幕府を倒したのが新田義貞と弟の脇屋義助であった。尊氏は後醍醐天皇を裏切り武家政権を立てて南北朝の動乱を生む。お家の将来を背負った日和見的な武家衆に反し、終始南朝に尽くしたのが北畠家、楠木家そして新田、脇屋の兄弟家だった。しかし、足利幕府が出来てしまえば敗者の行き場はない。そこで新田義宗、脇屋義治らは家族を連れて伊予大島まで逃げて来た。
師清は罪人である彼らに誠意をもって対応した。蟄居の身となった脇屋義治に対して子らを保護して我が子として養育することを約束し、稲井城を与えた。これに感激した義治は姓を稲井と改めた。 子らは村上家の舎弟として子孫
まで村上家に尽くした。第二家老稲井氏である。なお、新
く い
田義宗の子孫が第一家老救井氏である。
その稲井城は南に武志島が見える火内鼻の近くにあったと言われている。今は来島海峡第一大橋の橋脚が立っている。大島の海岸線を西に進むと渦浦八幡大神神社があり、山上の境内からその辺りを望むことができた。
因島村上氏では第二家老稲井氏が中国貿易を担当していたので、それに類することがあったかもしれない。
100 村上元三詩碑(因島市中庄町金蓮寺)
20年ほど前に刊行された『芭蕉自筆 奥の細道』では原稿の写真の下に「夏艸や兵共か夢の跡」(なつくさや つわものどもがゆめのあと)と活字に直したものがある。この連載の基軸を中世から近世に移すにあたって、金蓮寺の墓地を訪ねたが、書く材料があまりに少ないので、あの有名な俳句を思い出した、と書くことにして資料館の前まで戻った。
そこには「みなみ吹く 村上水軍ぞ あの歌は 因島にて 村上元三」と彫った岩がある。
その因島村上氏が慶長5年(1600)の関ヶ原役に負けた毛利氏にしたがって因島を去ると、因島はただの農村になる。とはいえ、村上氏や武将たちの子孫の人たちを中心に近世農村社会が建設されていく。なかでも干拓と廻船業への進出は特筆に値する。やはり、海は宿命であった。