2021年2月14日日曜日

ふるさとの史跡をたずねて 増補版 51-60回

本館 白滝山 いんのしまみち 

第51回 片山家墓地(因島三庄町片山)

 片山家の墓地があるというので訪ねた。

 百梵山の東の山麓に権現池と権現宮(熊野神社)がある。島四国34番種間寺のあるところと言った方がわかりやすいかもしれない。かつてはその近くから天神社への参道があったものと思われるが、見つからなかった。北側から登ると墓地があり、その東の林の中に祠の基台と一対の注連石(しめいし)があった。片山氏が明治35年に官許を得て、大正5年に勧請された太宰府天満宮の分霊祠だとすると、ここが天神山で、百梵山との間の古地名が片山である。

 天満宮よりやや西にある墓地と船奉行片山氏との関係はわからない。墓地からの眺望はよく百梵山との間は広いが草木に覆われていて元の畑の状態もわからない。まして因島村上氏の時代にどのように利用されていたのかも想像できない。しかし、水軍財宝の隠し場所の言い伝えがあったり、片山屋敷と呼ばれているところがあるということだから、西側は第二家老稲井氏が守り、東側を船奉行片山氏が見張っていたのかもしれない。






第52回 天秀庵城跡(因島重井町片山)

 重井町にも片山がある。山の神と伊手樋の間で、やはり船奉行片山数馬の居城跡だと言われている。天秀庵城跡である。島四国74番甲山寺の背後周辺である。子供の頃には丸福公園になっていた。過日訪ねたら竹藪に変じていた。幼稚園の時七夕の笹を流しに来た小川は暗渠になっているし、山の神池は埋め立てられていた。これらを掘の跡と書いてあるものもあるが、他の砦跡に見られない構造なので、後の時代に造成されたものから推定された可能性も否定できない。

 藤井神社のところから馬神城跡の方を見ると、元から陸地だったところと埋め立てられた平地が、高低差からよくわかる。

 いつの頃か馬神島との間は潮が引けば渡れるほどになっていただろう。浅いところの岩伝いに板を渡せば、便利になる。それを小橋と呼んだか小走りと呼んだかは知らないが、やがてその辺を中心に砂浜ができ、 徐々に東西へ陸地が広がっていった。その名残が排水溝の分水嶺で ある。また字別全図では久保の隣が小林(こばし)であり、現在ではその間が砂原と呼ばれている。


第53回 遠見山(因島重井町龍王山)

 重井町片山の天秀庵城跡は「ごんげんさん」(権現山、龍王山)の北麓にある。ごんげんさんは「かんのんさん」(白滝山)と向かい合っているがやや高く、 重井町では一番高い山ということになる。

  その権現山には上坂(かみざこ)からの登山道がよく整備されている。勉強堂の前の案内板に従って坂を5分ほど上がると登山口の案内板がある。みかん畑を抜けて登山道に入ると石仏が少しずつ迎えてくれる。最初のが重井村四国10番切幡寺である。登山口から15分ほど坂道を登ると、周囲に地蔵さんが置かれている大きな岩がある。その付近が「とおみんさん」と呼ばれている遠見山である。

 遠見山という名前は田熊町山伏山の遠見岩、向島の高見山などとともに狼煙(のろし)の見張所であったことを示している。こう書くと、このような中継所と各砦が連携して、狼煙を使った緊密なネットワークができていたような印象を与えるが、江戸時代に船の入港などを知らせるのに利用されたものであろう。



第54回 茶臼山城跡(因島重井町細島)

 因島村上氏六代吉充が向島余崎城から本城を重井の青木城に移した時、近くにある小細島(こぼそじま)と細島(ほそじま)は気になったことだろう。防御の面からは無視できない。細島に砦を置くことは当然だろう。しかし、細島には山伏がいた。常楽院靜金を白滝山観音堂の堂主にするなどして懐柔し、茶臼山に砦を築いた。

 重井西港から出るフェリーに乗れば、15分ほどで細島に着く。桟橋から見て右手の小山が茶臼山城跡である。しかし、すぐには登らず、左手の小山との間をまっすく歩いてみよう。左に浜田神社を見て進み海を見て引き返そう。そこが干拓地であることが感じられるだろう。すなわち茶臼山城は西に小島と小さな水路を持っていたことがわかる。

 さて、茶臼山城跡へ登るには、桟橋から右ななめ前方の坂道を進み、共同墓地の入口で反対方向へ登るのがわかりやすいだろう。頂上には天神さんや石鎚さんなどを祀ってあり、また近くに細島三十三観音もあるが、それよりも、頂上の地形を見ながら西へ北へと歩いてみよう。畑の跡であろうが、砦として考えても良い立地だということがわかる。先ほどの干拓地の方へ降りればそこが船隠しだったことは容易に想像できる。

 茶臼山城を守ったのは弓瀬氏だったと言われている。一方、民話の弓瀬曽十郎は足利尊氏の時代で馬神から弓を射たことになっている。ここの弓瀬氏がモデルで、民話の世界でならその程度の違いはよくあることだと思う。



第55回 南無妙法蓮華経の碑(因島重井町細島)

 何度か細島へ行ったが、「真界山の細島大明神の碑」というのが見当たらなかった。写真ではかなり大きいので、必ずどこかにあるに違いないとは思った。地元の方に尋ねてもわからない。やはりお参りすることを考えたら、集落からあまり遠くない方がよいだろうから、東の端などは後回しにして、茶臼山の周辺を中心に丘らしきところを探した。次は浜田神社の背後にある山へ登らないといけないかなと思いつつ、昨秋の探索は終わった。

 ところが、今春別の目的で茶臼山へ登り、ふと見た樹影の中に白い石のようなものが見えた。回り込んで見ると、一度倒れたと思われる石碑が台石にもたせ掛けてあった。南無妙法蓮華経の碑が、「真界山の細島大明神の碑」として写っている写真と同じだった。近くには「松之古跡」と書かれた石碑や一石五輪塔などもあった。季節が変わると光景も変わるものである。

 わかりやすいように枝を刈っておいたが、ほどなく元のように戻るので、場所を書いておこう。茶臼山城へは共同墓地の入口で反対方向へ登る。おそらく畑の右端に登山道がかつてはあったのだろう。しかし潅木に覆われ通れないので畑の端を通らせてもらう。その畑も上の方では潅木で遮られる。そこで右端から山中の登山道らしきところへ移る。その、現在の畑としての最高部の右端の樹木の中に、これらの石碑はあった。



第56回 荒神社の石塔(因島重井町細島)

 除虫菊祭で見た古い写真のうち、五輪塔や一石五輪塔が除虫菊の間にある写真は印象的だった。撮影場所を尋ねたら、フラワーセンターの近くの丘ですよ、ということだった。心当たりのところへ行ってみたがみつからないので、友人に応援を頼んだ。

 そのつもりで見ると、背景に伊浜の土手があり、その手前の白いところが伊浜新開の潮廻し(タンポ、潮待ち)であろう。水面が上過ぎるが。右端に小細島の端が写っており、その後ろの宿祢島と重なって見える。海面の見え方がやや不自然ではある。左手の丘の向こうには筆影山の特徴ある尾根筋が見え、右手からは三原か糸崎の山の稜線が左へと降りてきている。

 何年も経って畑が山に変わっているところが多い。確証がないと荊棘(い ば ら)の中には入れない。写真を撮っては、右へ寄り過ぎだ、位置が高すぎる・・・と修正しながら移動すると、道を越えて青木城跡近くまできた。でも同じ角度の写真が撮れない。こうして一ヶ月があっという間に過ぎた。

 右の稜線が高すぎるので、灯台あたりまで行って本土の山をみたら、写真のように見えるのは細島しかないという友人のメールには、よく知っている荒神社の石塔の写真が添付されていた。伊浜の土手だと思ったのは、地の雀島近くの干拓地だったのだ。

 細島荒神社は重井村四廃寺の一つ長福寺のあったところである。だからと言ってこれらを因島村上氏の時代のものに限定しなくてもよいだろう。


第57回 細の洲(因島重井町細島)

 笠岡から鞆の辺りが瀬戸内海の中心だから、因島近くでは満ち潮は東進し引き潮は西進する。しかし、島にぶつかれば南北に分かれる。干満の程度において出没する岩礁があれば流れはさらに複雑になる。

 さて、川を下る粘土の微粒子は帯電しており、電気的な反発力で浮遊している。それが海水と出会うと、マグネシウムやナトリウムのイオンで電気的に中和され、反発力を失い集まって堆積する。だから河口付近で三角州ができやすい。

 須波沖を流れる満ち潮は、小佐木島を過ぎると海域が広がるので流速は下がるだろう。さらに東には岩子島があり、その北の尾道水道は狭いので細島の北を東進する満ち潮は大いに難儀するであろう。そして南東へ向かって流れ込んでくる三原の沼田川の流れを受け止めるような形で細島がある。そこにできたのが細の洲である。

 細の洲がいつ頃から知られていたのかはわからないが、『芸藩通志』の重井村図には載っているから、かなり古くから著名なものだったに違いない。

 細の洲は荒神社から見ることができるが、さらに新開の方へ降りればよく見える。地の雀島は潮が引けば渡れるが、その先の細の洲は少し距離がある。首まで浸かれば歩いて渡れる通路がありそうであるが、歩いて渡っている人を見たことはない。私は探検家ではないのでそれ以上は進まない。 ・・もちろん細の洲は史跡ではない。しかし、かつて潮干狩りの名所だったということで、そろそろ史跡の仲間入りをしそうである。


第58回 細島三十三観音(因島重井町細島)

 瀬戸内海の多くの島に、島内や地域で完結する四国八十八カ所霊場のミニチュア版があるが、細島には残念ながらない。しかし西国三十三観音のそれがある。細島三十三観音と呼ばれているものである。

 その一つに安政五年と彫られていたので、江戸末期に設置されたものだと思われる。ひっそりと潮風を受けて佇んでいる姿は美しい。33体あるはずであるが、全ては見つからなかった。気長に探すことにしょう。

 法華経25品によると観音菩薩は33体に姿を変えるので、観自在菩薩とも訳される。般若心経の冒頭がその例である。しかし、西国三十三観音はそれらが一体ずつあるのではなく、やはり人気のある観音様が多い。また手にはいろいろな物を持っておられる。その中で写真右12番千手観音が左手に掲げているようなものを十字架だと思って興奮する人がいるそうだ。

 映画「オーメン」では悪魔の子である主人公は十字状のものが近くにあると興奮する。その時流れる音楽を思い出した。「トンボも蝶も鳥のうち」と言って、 初めから昆虫と鳥類の区別ができる子どもはいない。私も仏具だと思っていたが鉾(ほこ)に似た武具らしい。仏像の持物(じ ぶ つ)の一つである。 

 ・・帰りのフェリーの時間も気になる。名残は尽きないが、残りはまた別の機会にということにしよう


第59回 田島天神山城跡(福山市内海町田島)

 因島村上氏二代の備中入道吉資は、正長元年に田島地頭になったので、翌永享元年(1429)に子息四郎吉則を田島へ住ませた。

 田島村と横島村は昭和26年以来陸橋で結ばれ、昭和30年に合併して沼隈郡内海町となった。その後、平成15年に福山市と合併した。田島は平成元年に完成した内海大橋によって沼隈半島と結ばれている。内海大橋は因島の東側から見える。また、因島に面しているのは横島の大浜海岸である。田島の東部には箱崎漁港がある。因島にも箱崎漁港や大浜町がある。大浜町の神明祭は沼隈半島の能登原とんどとよく似ている。 

 四郎吉則は初め布刈瀬戸を望む229mの大坂山に砦を構えたが、ほどなく海抜50mほどの海に面した小山へ移った。現在、天神社があり天神山と呼ばれている。北側には一段下がった平地があり、向いは百島である。見張所があったのかも知れない。

 天神山は田島の西端近くにあり、その麓には江戸時代中期から明治にかけて繁栄した麻網問屋などの商家が軒を連ねる通りがある。その通りの複雑な鉤の手状の屈折は初期城下町として作られた名残だと考えられている。

 四郎吉則は、15世紀中頃までは塩田を管理していたと思われている。その塩田跡が初期城下町に変わる頃、田島村上氏は因島村上氏から能島村上氏に変わった。


第60回 能島村上氏墓地(福山市内海町常楽院)

 田島の天神山城跡の南に能島村上氏の墓地がある。ただし道は別々である。天神山城跡へは山の西側を歩いて登る。墓地へは山の東側の自動車道を南へ登り常楽院という真言宗寺院を目指す。

 常楽院を訪ねたのは、因島村上氏六代吉充が1569年頃に向島余崎から因島重井の青木に本城を移した時、白滝山観音堂の堂主にしたのが常楽院静金であったので、何か関係があるのかと思ったからである。残念ながら関係はなかった。しかし能島村上氏の墓があった、というわけである。

 村上範和と村上吉高の率いる田島と百島の連合軍が因島大浜の幸崎城を攻めたとき討死した範和の墓もあると言われている。

 この戦いは三者とも因島村上氏の身内だから、お家騒動と呼ばれているが真相はわからない。能島村上氏の家督を争った村上武吉の戦いと関係したものだとすればわかりやすい。しかし、魅惑的な説ほど安易に受け入れがちである。やはり文献的な確証を得るまでは無関係だとしておくのが無難であろう。この幸崎城攻め以降、田島村上氏は能島村上氏に変わった。


 





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