ふるさとの史跡をたずねて(111)
一本松の盃状穴 (因島中庄町金蓮寺)
重井町の一本松の下にあった盃状穴が中庄町金蓮寺の史料館前にある。盃状穴というのは岩に擂(す)り鉢状の穴を開けたもので、祈願やおまじないの民俗学的遺物である。
盃状穴は各地で見られるが、この岩の盃状穴は形が整っていて、他の陰陽石信仰を連想させるものと少し異なるように思われる。
岩に丸い小穴を穿つのは産道を拡張することの象徴的行為で、はじめは安産の祈願であったと私は考える。それが次第に子授け、病気一般の平癒へとご利益が拡大していったのではなかろうか。
そのような貴重な遺物が、一本松付近の道路改修の際道端に捨てられていたのが、心ある人によってここに運ばれ保存されることになったのかも知れない。そうであればそのことには感謝すべきであろう。
しかし、しかしながら、それはそれとしても、まことに失礼な言い方ではあるが、一本松の盃状穴がここにあっても、何の意味もないのである。
すなわち、このような民俗学的遺物の多くは、場所との関係において解明・解釈されるべきものである。近くに山、お寺、神社があるのかないのか。地形に特徴はあるのかないのか。あればあったで、無ければなかったで、なぜここで、このような祈願やおまじないがなされたのか?・・・このような意識のキャッチボールを繰り返すことによって過去の人たちの心が見えてくることもあれば、こないこともある。
史料館前には常夜灯の台石にもあるが、これはどこから持ってきたものであろうか。築造年代の書かれたものの場合は、それ以降に穿たれたことを示す。因北中学校近くの丸池傍の島四国熊谷寺のものなどは、一本松と同様、干拓以降のものであるから、そんなに古いものではないようだ。また、島四国以降のものであるとすると、もっと新しくなる。
ふるさとの史跡をたずねて(112)
土生神社 (因島中庄町奥鹿穴)
金蓮寺の史料館前から北を見ると小高い丘があり、水軍城が建っている。さらにその北側が中庄町鹿穴(ししあな)である。重井町の字別全図にも獅子穴が載っているから、中庄村、重井村の村境が定まる以前からあった名前だと思われる。鹿がいたとしても、ライオンが因島にいたという話は聞かないから、ここは単純にに考えてイノシシのことではないかと思っておこう。
それでは今をときめくイノシシが、そんなに昔からいたのかと思われるかもかもしれない。いた時代もあっただろうが、途中に断絶があった、のだと思う。国史跡の能島城跡の対岸の大島には猪之塚があるし、江戸時代の因島で猟師鉄砲が使われていたから、イノシシを撃ったのだろう。ただし、畑に餌になる農作物は少なく、今ほど繁殖はしなかったと思う。
さて、中庄町のシシアナから重井町のシシアナへ抜ける道は、かつては険しい峠道であったが、今では農道として整備されており、車でも通れる。その峠に指し掛かる途中に土生神社がある。中庄町の干拓の歴史では、土生新開が最初だと言われるから、この神社の下の辺りのことかと思う。深くえぐられた谷が自然のものか人工的なものかは知らないが、その土が海を狭くし、陸地を広げるのに役立ったことは確かだろう。
土生新開は天正元年(一五七三)に完成する。後に土生村に移住し、大土生宮地家清左衛門の祖となった完左衛門の努力による。第二家老稲井氏から宮地家へ養子に行く。その遺児に土生村の稲井屋敷を与えて、稲井氏が因島を去ったのが慶長五年(千六百)であった。だから、土生新開と呼ぶのはよいとして、それを天明元年(一七八一)創建の土生神社の近くとするのは私の憶測である。
土生新開が農地として開発されたとすると、宮地氏が一部の人たちだとしても、海賊業から足を洗う時期としては、少し早いように思うのは私だけであろうか。
ふるさとの史跡をたずねて(113)
廻国供養塔 (因島中庄町寺迫)
中庄町の駐在所から山沿いの道を東へ進むと、切り立った崖があり、かつての海岸線を想像することができる。コンクリートで保護された崖の下に写真のような六十六部廻国供養塔がある。七月豪雨で少し壊れているが。
法華経を六十六部写して、一国一寺で全国六十六箇寺に奉納して廻った修行者を六十六部行者、略して六(りく)部行者、あるいは六部と呼んだ。
現在のお接待にまで続いている布施というのは原始仏教最大の発明で、仏教を世界宗教にした理由の一つだと私は思うのだが、反面危険な毒を内包している。六部行者も布施に助けられて多くなるが、それを悪用する者の多さに、明治四年に政府が禁止して廻国供養の制度そのものも無くなった。
六十六箇国奉納達成の結願記念碑が六十六部廻国供養塔として、これも布施によること大だったと思われるが、各地に建立されて今も残っている。三庄町観音寺には奥山の中腹にかけて三十三観音があるが、その二番のところから左へ入った円福寺跡に一基。田熊町では浄土寺の鐘楼近くの岡野氏先祖碑の向かいにある、マツボックリを供えているツングリ地蔵さんの隣。重井町では善興寺の鐘楼の隣に一基、六地蔵の裏に一基、これは七月豪雨で埋まり、現在掘り出されて下の駐車場にある。また川口大師堂(島四国八十四番屋島寺)の裏に一基。中庄町には山口に一基。近くに六部山がある。釜田の天満屋前の道端に二基。そしてここに二基。私が知っているのは以上十基ということになる。
多くは、中央に「奉納大乗妙典六十六部(日本)廻国供養」脇に「天下泰平 日月清明」、年号、名前などが刻印されている。右側の長方形の塔身の上に地蔵尊の載ったものは中庄町では珍しいが、重井町善興寺の鐘楼横のものと同じタイプである。
周辺にあるのは村四国の御本尊や大師像であろう。
さらに道なりに進むと因島北認定こども園のところに出る。その先のゲートボール場とともに、かつては溜池があり、長い間ひょうたん池というのだろうと思っていたら、信号がついて片刈池と表示されたのには驚いた。片刈の意味は未だにわからない。
ふるさとの史跡をたずねて(114)
馬の背峠の塞の神 (因島中庄町仁井屋)
土生新開ができる前の鹿穴(ししあな)と中庄町中央部の往来を考えてみよう。いや土生新開ができても片刈山の東端、すなわち因島北認定こども園やゲートボール場のあるところに道ができていなければ同じことである。小舟で通う他は、水軍城のある東西に走る尾根を越えて行っていたに違いない。すなわち峠越えである。
峠越えというのは、こちらと向こうを隔てている高い尾根の最も低いところを通っていくことである。その低いところを「たを(たお)」と呼んだ。そして「たおごえ」が「とうげ」に転化し、「峠」「垰」などの漢字が当てられた。だからこれらの漢字が「たお」と読まれても不思議ではない。しかし、苗字として使われる場合、読みやすく「田尾」などと変わったようだ。
さて鹿穴から南への峠越えを考える場合、島四国の遍路道が考えられる。大浜町から大楠山の中腹を越えて着く丸池の熊谷寺からが中庄町に属する。次は西進して鹿穴の九番法輪寺である。その次の十番切幡寺は長福寺の境内にあるので、歩き遍路は片刈山と水軍城の間の峠を越える。しかし、南側がまだ海であれば同じことで、本格的な峠道にはなり得ない。
そうなるともう少し西の方を考えなければならないだろう。鹿穴の南隅。すなわちこれから越えようとする尾根の北麓を西進してみよう。鹿穴谷を奥へ入るのだから当然登り道になる。しかし、かつての山道が残っており、登りきったところに南側に越える切り通しがある。少しでも峠を低くしようとした名残である。その切り通しには塞の神の祠があった。馬の背峠の塞の神であるから、ここが馬の背峠である。
馬の背峠を越えて南に下っていくと蕎麦はなのところに出た。少し歩いたら大川の向こうに松愛堂とJAがある。東に下ると仁井屋集会所があった。ということで鹿穴と仁井屋との往来が馬の背峠を経て行われていたということだろう。
大川に出ず、若八幡神社、隠島神社、菅原神社と山沿いの小道を通れば古い時代の幹線道路に通じるから、獅子穴、鹿穴、馬の背峠、若八幡神社というコースが重井中庄間の最古道の第一候補と考えてよかろう。
ふるさとの史跡をたずねて(115)
大池道路改修碑 (因島重井町大池)
因島には中庄町と三庄町に荘園があった。そのことが現在の町名にまで引き継がれている。中庄には重井浦がくっついていたが、後に重井庄となった。どちらの歴史も短かったせいか、浦も庄も現在の町名に残っていない。
青木茂氏の『因島市史』は大変な労作である。労作であってもすべてを信じているわけではないが、重井の重は「しげみ」で、井は「水路、高くそびえる山」だろうと言う説は信じてもよさそうである。その草木の生い茂った重井浦がどのあたりだっただろうか考えてみたい。中庄の荘園の一部だから、中庄側の人が来てそう呼んだに違いない。
土生新開のできる前だからとうぜん峠越えである。馬の背峠を越えて鹿穴に出る。そして土生神社近くの峠を越えて重井の獅子穴へ抜けるのが第一候補。中庄町権現の隠島神社近くに小さなため池がある。そこから北へ登っていくと重井町との境に高圧鉄塔がある。その下を越えると、今はイノシシしか通わないような小さな谷が北へ下る。これが第二候補。長福寺のある寺迫を北へ越えて鹿穴へ出るのが第三候補。
いずれのルートを通っても、重井町の因島運動公園入口付近に出る。少し北へ下ると、福友自動車の前に写真のような道路改修碑がある(右後ろが、しまなみ海道)。このあたりからサイクリング客を苦しめる登り坂が始まる。すなわちかつては、海岸線がこのあたりまで迫っていたことがわかるだろう。今のようなコンクリートの護岸があるわけではなく、山から流れてきた土砂が海との境をなし、時おり海水が流れ込むような雑草に覆われた荒地もあったことだろう。茂み(繁み)の水路だろう。
しまなみ海道を作った時の残土で地上げされているので、その面影はないが、それ以前は周囲より低い田んぼだった。そのために作られたため池が大池で石碑の南、しまなみ海道の高架橋の下にわずかにその痕跡が残っている。ここと島四国一宮寺との間にある友貞という字名は外浦町にもあり、因島村上家文書の三に出てくる名田である。また、一ノ宮というのも、文字通り最初のお宮があったことを示している。島四国ができる以前から一ノ宮であり、そこに明治の終わりごろ島四国一宮寺を配したわけで、やや不自然な遍路道からその苦労が偲ばれる。また、江戸時代末期に作られた重井村四国がここから始まるのにも、このような歴史を考えた配慮が感じられる。
ということで、池之上小田之浦間の道路改修碑が、重井浦・重井庄の発祥の地を示す目印になっている。
ふるさとの史跡をたずねて(116)
重の井 (因島重井町伊浜)
因島重井町伊浜の八幡神社に重の井という井戸がある。茂み(繁み)の湿地帯をシゲイと呼び、中ノ庄の重井浦から重井庄となった。重井と書いてシゲノイと呼んだのかもしれない。しかし、シゲノイウラ、シゲノイショウでは少々長いので、浦や庄が付いた頃からノは落ちたであろう。
重の井というのは井戸のことだが、井戸ではなく、この辺りも繁の井ということだったのかもしれない。
前にも書いたが、今のようなコンクリート製の護岸などなかった。陸と海の境はグラデーションだ。そのグラデーションの湿地が重井の井だから、伊浜も「井浜」だったに違いない。
さて、ここの重の井は、その昔神功皇后が水を二杯(重ねて)飲まれたという伝承の井戸である。一説に二度も着船され、それぞれ水を飲まれたという。とにかく都合二杯水を飲まれた。その井戸なので重の井と言い、それが重井の語源だと言うのである。なかなかよく出来た地名語源説話で、史実だと思っている人もいるのではなかろうか。
神功皇后のことは『古事記』『日本書紀』に書かれている。神功皇后その人の実在を史実として証明することはできないだろうが、後の世の何らかの史実を反映した伝承だとも考えられるので、神功皇后の実在をここで議論しても仕方がない。しかし、神功皇后が因島へ立ち寄られた頃には、因島にはおそらくそのことがわかる人はいなかっただろうし、そのことを後世に伝える術はなかっただろうから、重の井を含めて因島に伝わる神功皇后伝説は全て後世の創作だと、私は考える。ただ、そのような話がどのように作られたのかを思い巡らすことは有意義であろう。
ふるさとの史跡をたずねて(117)
写真・文 柏原林造
大石遺跡 (因島重井町大石)
しまなみ海道ができた時、その道路新設予定地から遺跡が発見され、昭和54年度に発掘調査された。大石遺跡である。地図で見ると因島北インターと重なり、詳しい場所はわからなかった。幸い発掘風景を写した写真を目にする機会に恵まれた。その背景から想像するに、因島北インターから入って、本線に合流するあたりということになる。(写真)。そこから重井町と大浜町との境までである。因島北インターから大浜パーキングまでの間に、二本の陸橋が本線の上にかかっている。重井側が「重井小道橋」、大浜側が「大浜小道橋」でその中間あたりが町界ということになるので、本線に合流して、あっという間に通過してしまう。
大石遺跡からは、弥生時代中期(推定)の竪穴式住居跡二軒、近世の溝状遺構14本のほか、弥生式土器、石製武器、鉄器、中世の土器、近世の陶磁器など多数が出土しており、少人数で農耕生活をしていたことが推定されている。
古い時代のことは想像すべくもないが、近世の陶磁器に注目してみたい。塩野七生さんの『ローマ亡き後の地中海世界』だったと思うが、海賊横行時代の地中海では、住民は海から離れて住んでおり、海賊が出なくなると再び沿岸部に戻ってくるというようなことが書かれていた。海賊とは言うものの、そのタイプは異なるが、江戸時代になって、因島村上氏が去ってから、沿岸部に出てきたということを示しているのであろうか。あるいは、干拓の進展とともに沿岸部が遠ざかったので移動したということを示しているのだろうか。
さて、大石地区というのは、因島でも有数のマムシ生息地である。そこに住んでいた人たちとマムシとの関係はわからない。白滝山南麓に発する湧水の一部は、その近くを通って、初夏にはホタルの飛び交う、みつばち(レストラン)の裏で、重井川に合流する。特別の年を除いて、年中その水が涸れることはない。だから人間にもマムシにも住みやすい土地であったということだろう。
ふるさとの史跡をたずねて(118)
隠島神社 (因島中庄町権現)
干拓の話から峠道の話になり、迂遠な印象を持たれたことであろう・・。しかし、葬式と結婚式が人生の裏表であるように、特に因島では、干拓と峠道は歴史地理の表裏であるから遠回りをしているわけではない。
民俗学者の柳田国男さんによると、峠道は交通機関の発達とともに、より遠くより低くなった、とのことである。しかし、因島では、荷車や自転車では無理な山越えを避けようとしても、海に阻まれるところが大部分だった。現在の自動車道の大部分が埋立地や干拓地であることを思えば、そのことがよくわかるだろう。
さて、中庄湾の干拓を考えるとき、因北小学校より東側は新開名がたくさんあり、その歴史がよくわかるのだが、そこより西側になるとよくわからない。おそらく中庄湾を囲むようにしてある山の窪地が海と出会うところから土砂が堆積し、荘園時代には、そこに小さな塩田が作られたのではないかと、想像するだけである。そのような位置に多くの神社があるいうことは、人の生活出来るところが、海と山の境目にあるわずかの土地に限られていたということであろうか。
中庄町権現の隠島神社から南を見下ろすと、中庄湾の最深部がよく見える。次第に高くなっていっているのは、長い間にさらにその上に土が積もったということであろう。
ところで、『日本三代実録』の元慶(げんぎょう)二年(八七六)12月15日にある「備後国無位隠島神に従五位下を授く」(原漢文)が文献上最初に登場する因島の名だというのが定説である。もっともそれ以前のものが見つかれば別である。また、この「隠島」が因島のことだと解釈してのことである。これについは、前後に近くの島があり、周辺に「隠島」から連想される地名を探すことができないから、因島のことだと思ってよい。なお、ここから向島のカゲになっている、というのが因島の語源だとする説があるが、同じ音の漢字が混用された時代が長かったことを思えば、重井を重ねて水を飲んだ井戸と解釈するのと同様、妄説にすぎない。
ふるさとの史跡をたずねて(119)
大疫神社 (因島重井町砂原)
怪しげな伝説より、新しくても確実な史実の方が貴重だと私は思うのであるが、曖昧でも古ければ良いという世界がこの世には確実に存在する。その一例が、従五位下を授けられた隠島神社は、実は我が社であると主張する神社が中庄町権現の隠島神社以外にもあるということだ。
そのひとつが地元では祇園さんと呼ばれている重井町砂原の
大疫神社である。海から離れたところなのに砂原と呼ばれるように、大疫神社のあるところは、かつて馬神城跡のある馬神島であった。また、元は陸続きであったのが音戸の瀬戸のように開削されて島となり、その後埋め立てられ今のようになったという話は聞かない。だから、その島にある神社が隠島神社と呼ばれ、対岸の島の名前が隠島になった、ということはちょっと考えにくい。あるいは隠島(どのように読まれたかはともかく)という島の名前が、その隣の島にある神社の名前になっていたなどということも、考えにくい。だから、大疫神社は隠島神社の候補からはずれる。
ついでだから、なぜ大疫神社を祇園さんと呼ぶのか書いておこう。清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢ふ人みなうつくしき(与謝野晶子)の祇園は京都市東山区の八坂神社のあるところである。また有名な祇園祭は八坂神社の夏祭りであるから、答えは八坂神社にある。大疫神社の祭神は須佐男之命、素戔嗚尊(すさのうのみこと)で、その総本社が八坂神社である。ただ、八坂神社という名は明治以降のことで、それまでは祇園社などと呼ばれていた。だから明治より前にできた大疫神社は八坂神社という名とは無縁である。それでは素戔嗚尊と聞きなれない大疫神社との関係はどうであろうか。これは、疫病流行時に行われた御霊会を起源とする祇園祭が10世紀ごろ祇園社の祭礼になったことから、素戔嗚尊や一緒に祭られていた牛頭天王が疫神となったという経緯がある。
これらのことから他の神社でも、疫神、牛頭天王、素戔嗚尊(須佐男之命)を祭っていれば、八坂、祇園などの名が使われていることが理解できるであろう。
ふるさとの史跡をたずねて(120)
住吉神社 (因島外浦町三区)
ところで隠島神社は我が社であると主張する神社が複数存在するということは、授けられた従五位下という栄誉が忘れられ、隠島神社という名誉ある社名までも捨てられていたということであろうか。あるいは贈位の乱発によって、昨今の日本遺産・世界遺産とか各種の何々賞などの例でわかるように、その価値が急速に下落したのであろうか。従五位下の隠島神社がその地にそのままの名で存在していればこんな奇妙なことはおこらなかったはずである。そのおかげで、この史跡巡りも遠回りができるのではあるが・・。
さて、次の隠島神社の候補は外浦町の住吉神社である。ここへは島四国23番薬王寺を目指していけばよい。地蔵院の前の道を南の奥を目指す。住吉神社は航海や港の神だから、創建された頃はこのあたりまで海が迫っていたのだろう。外浦という漢字が示す音がどうであったにせよ、漢字の通り、地理的に見ても中庄の外港であったと考えて大きくは違っていないと思う。
また、住吉神社と地蔵院の間に金蓮寺跡があり、五輪塔やそれらの残欠が畑の隅にある。金蓮寺跡と中庄町の金蓮寺との関係は、今回は触れない。その元金蓮寺が住吉神社やその前身となる神社の神宮寺だったという考えは、神仏習合の時代が長かったことを思えば首肯できる。すなわち、それなりに繁栄した時代があったと考えられる。
その賑わいは港の衰退とともに消えていく。それは南にそびえる奥山に連なる山から流入する土砂の堆積によって、港の機能が低下したことに起因するのか、あるいは船や操船術の進歩によってその役割を終えたのかは、わからない。いずれにせよ、その後埋立や干拓が進み海岸から遠く隔たったところに住吉神社が存在するのである。
近くの堂崎山は南北朝の動乱のころ賑わったのは確かだろう。しかし、それと住吉神社周辺の賑わいとは異なる。地蔵院から堂崎山へ登る道々周囲の谷間の広さは意外であったが、私が初めて住吉神社を訪ねた時は大木は切株が残っているだけで、周囲も次第に山林に復しているような状況であったから、古い時代のことは、ここに書けるほど想像できない。
写真・文 柏原林造